辻邦生生誕95年
辻先生が生まれて95年。昨年は生誕94年のエントリーを書きましたが、世界はどんどん変わっていくように思います。
最近、新しいことを追うことのむなしさを感じ始めています。確かにデジタル化の世の中にあって(私は、DXとか、デジタルとか、昨今デジタルという言葉を使うことにすら違和感を覚えますが)、そのデジタル化は数万年の人類の歴史においてたかだか10年や20年の変化であるようにしか思えないのです。もちろん、加速度的な技術の進歩を否定するものではありません。ただ、人類の歴史、あるいは生物の歴史、あるいは宇宙の歴史において、このデジタル革命といわれるものが果たす意味になにか疑問符をつけざるを得ない心境に陥っているのです。
それは、なにかをきっかけとしたものでもあるのかもしれませんが、ともかく、この一年間のなかで私の身に起こってしまったことです。
かつては常につけていたAppleWatchもつけることをやめてしまいました。AppleWatchをつけると、手首や腕に違和感を感じるようになってしまったからです。AppleWatchを外した腕は実に軽やかで、なにか清らかな世界に立ち戻った感覚さえ覚えました。数ヶ月後に、もう一度AppleWatchをつけることが亜rかもしれませんが、今の私にはこの軽やかで清々しい腕の感覚が実に新鮮なのです。
辻文学において語られるのは、人類の普遍的な価値である、と考えています。それはパルテノン体験において語られる、人間と世界の研ぎ澄まされた関係であったり、人間が人間として生きる尊さのようなものを、物語世界に受肉させたからです。
この「受肉」という生々しい表現は、もちろんキリスト教用語ですが、私が大学時代に、辻邦生の「背教者ユリアヌス」で、当時の初期キリスト教会が人間性と乖離する形で描かれていることについて、レポートでまとめたところ、指導教官に、だからこそキリスト教においては「受肉」という形で、彼岸と此岸がつながったのだ、という指摘を受けたことに由来します。
それ以降、なにかこの「受肉」という言葉が、文学的理念を物語世界へと橋渡しする行為であるように思えてならないのです。
辻文学における普遍的価値が受肉された物語に触れることは、数万年に渡って人類を支えた普遍的価値に触れているようにも思え、そうだとしたときに、なにかこの十数年の物理的な記憶の中に遺る事物が矮小化してしまうのです。これは現代に生きる身にとっては実に危機的な状況であると思います。
人類を支えた普遍的価値とは、実のところ、質料をそぎ落とした形相によるものであるように思えるのですが、そうだとしても、その形相に質料を受肉させ、長大な物語群を作られた辻文学の壮麗な仕事が、今の私にはより価値のあるものであるように思えるわけです。それは個人個人への働き方を通しておそらくは世界を変化させうるものではないかとも思うわけです。字義通りに……。
ともかく、今に集中して、できることを考える、です。長くなってしまいましたが、また明日から力を尽くします。
おやすみなさい。グーテナハトです。
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