Jazz

雨の続く日々。雨は雨で恵みの雨ではありますが、やはり太陽の光が恋しい一日でした。今日はなぜかパット・メセニーを聴いてみたりして。2011年のアルバム「What’s It All About」。

最近のアルバムは全く聴いていませんでしたが、ギター中心のアルバムを聴いてみて、ギタリスト達はこういうギター一本で音楽世界を構築できるという事実に励まされ、あるいは悩まされていたんだろうなあ、と思います。ギタリストではないので、あくまで推測でしかありませんが、まあ、マイケル・ブレッカーがEWIでシンフォニックな世界をひとりで構築しているのを見て、驚嘆と諦観を覚えるのと似ているのでは等と思ったりも。

それにしても、「イパネマの娘」がここまで内省的に描かれてしまうと、そこに物語自体が変容してしまうわけで、ある種の絶対音楽のような感覚すら覚えます。

それにしても音楽を楽器ひとつで構築できるのは、鍵盤楽器か撥弦楽器だけではないか、と思わずにはいられない気分です。これはもうほとんどパイプオルガンと同じぐらいの奔流だったなあ、と。先日触れたブルックナーの逸話を思い出しながらそんなことを考えました。

パット・メセニー、昔は分厚いバンド編成で、すさまじくシンフォニックなサウンドを創りだしていましたが、最近は追いかけていないので、何が起きているのか分かりませんが、なんだか虚無僧のような境地へと到達してしまったのでしょうか。

ということで、週末の東京はやはり雲に包み込まれるようです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Edward William Elgar

最近エルガーを聴いていますが、大曲「ゲロンティアスの夢」をきちんと聴いてないなあ、と思い、そういえばCDがあったはず、とゴソゴソとCD棚を探していたところありました、「ゲロンティアスの夢」。DECCAで買った記憶もありましたが、それはブリテン「戦争レクイエム」で、「ゲロンティアスの夢」はEMIでした。サー・ジョン・バルビローリがハレ交響楽団を1964年に振った古い録音。今はワーナーになっているんですね。

ブルックナーやマーラーほどに聴きこんでいないですが、そうか、この曲、実にドラマティックなオラトリオで、 年老いて死を迎える人物が魂となって天国へ行く課程を描いた作品。

天使の導きと、悪魔の激しい嘲笑と教唆の合唱。悪魔の合唱は歌詞の意味を追わなければ格好の良い合唱なんですが、そこにはやはり何かしらの胡散臭さがつきまとっています。で、歌詞を確認すると、やはりね、、という感じ。巧い話には裏があります。以下の歌詞は、現代社会においてもなにか通用する悪魔のささやきのように思い、少しゾッとします。

地獄の業火の恐れ、
憎しみに満ちた炎、
臆病者の嘆願。
彼の値段を教えてやれ,
聖人だろうが構わない。
抜け目ないセンスで、
賃金のためにあくせく働くだろう、
はは!

オペラ対訳プロジェクトより https://w.atwiki.jp/oper/pages/3304.html#2

繰り返し、かついくつかのバージョンで聴いてみて理解を深めてみる必要があるとともに、詩を作った19世紀の枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンという方もすごい方で、もう少し調べ見ないと行けない、と思った次第です。

さて、また雨の酷い週末になっているようです。最近の雨はこれまでとは違いますのでどうかみなさまお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Strauss

引き続き、緩くトーマス・マン「ファウストゥス博士の成立」を読んでいるのですが、本当にたまたま聴いたCDにリヒャルト・シュトラウスの《メタモルフォーゼン》が入っていて、流れた途端に、これはシンクロニシティだなあ、と思いました。

このアルバムは、ヤノヴィッツが歌う「最後の四つの歌」が聴きたくて購入したものですが、メタモルフォーゼンもなかなかの演奏だと思います。

「ファウストゥス博士の成立」は、戦争末期に米国に亡命していたトーマス・マンが、戦況に触れながら「ファウストゥス博士」をどのように執筆したかの回顧録であり、この《メタモルフォーゼン》は、ドイツ敗戦の直前にシュトラウスがミュンヘンやドレスデンが戦火に崩れたのを悲しみながら書かれたとされています。

いや、それはもう、いままで半世紀を超えて親しんできた街が破壊されるのを見るのは耐えがたいですよね、きっと。これが若者ならまだしも、70歳を超えてこれをやられると相当に厳しいはずです。よく気が狂わなかったな、と思います。まあ、トーマス・マンも同じだとは思います。

手元の資料によれば《メタモルフォーゼン》は、ドイツ敗戦直前の1945年3月に着手され、4月12日に完成。ドイツ敗戦は5月ですが、そのときラジオ放送でベートーヴェン《英雄》第二楽章「葬送行進曲」がながれたそうですが、この《メタモルフォーゼン》の最後もコントラバスが「葬送行進曲」のフレーズを弾いて終わりますので、シュトラウスは未来を予言するかのような曲を書いたと言うことになります。第二次世界大戦のことは、もうしばらくすると記憶が喪われると思われ、名実ともに「歴史」になっていくわけですが、そういう辛さや悲しさは、過去の記録だけではなく、こういった音楽の中にも遺されていくのだろうなあ、と思います。

シュトラウスはゲーテを読んでこの曲の着想に至ったということも手元の資料においては触れられており、これも、なにかトーマス・マンとの親近感を覚えます。「ファウストゥス博士の成立」においては、「ワイマールのロッテ」からの引用がゲーテその人の文章としてニュルンベルク裁判で使われたという逸話がマンによって面白おかしく取り上げられていましたし(「新潮世界文学35 トーマス・マンⅢ『ファウストゥス博士の成立』639ページ)。

「手元の資料」は「作曲家別名曲解説ライブラリー⑨R.シュトラウス」で、四半世紀前に渋谷のタワーレコードで買ったものです。当時、音楽評論家になりたい!と思っていた記憶がよみがえりました。楽理科をうけてみようか、とネットを調べたりしたなあ、と。

それにしても、リヒャルト・シュトラウス、あらためて大好き、と思いました。このウェブログのカテゴリ別の記事数をみると、2021/06/02時点で、ワーグナーが170本、リヒャルト・シュトラウスが161本になっていました。まあ、ワーグナーはさておき、シュトラウスへの愛情はこのあたりの記事数にも表れているのではと思います。魅力は語り尽くせないですが、一言で表せ、と言われれば「洒脱」ですかね……。

それではみなさま、おやすみなさい。

Edward William Elgar

なかなか昼間は落ち着いて音楽を聴けませんが、夜になってようやく時間ができました。AppleMusicでエルガーのプレイリストを見つけてざっと聴いていますが、いやあ、なんだかいいですね、エルガー。これまでも聴いてなかったわけではありませんが、この一ヶ月ほどで急に私の中で存在感を増しつつあります。AppleMusicのプレイリストの注記には「イギリス版ブラームス」と書かれていて、もし、それが妥当な表現だとすれば、昨年の秋からブラームスに助けられてきた身に取っては、エルガーにたどり着いたのは必然だったのでしょう。

しかし、うかつにもヴァイオリン協奏曲は初めて聴いたかもしれないですね。チェロ協奏曲はあまりに有名ですが。ラトルがナイジェル・ケネディと演奏したヴァイリン協奏曲の静謐な美しさと激しい情感の間を揺れ動く波は半端ないです。
どうもエルガーを聴くと、イギリス的でもありながら、北欧の風景を思い出します。大昔に行ったベルゲンや、フィヨルドの中を船で通った時の記憶がなぜかよみがえります。まあ、スカンジナビアのバイキングが作った王朝もありましたからね。英語もたくさんの言葉が混ざってできていますし。

そうそう、期待のAppleMusicの音質向上ですが、日本時間の2021/06/01の21:18現在においては、まだドルビーアトモスもロスレスオーディオも来ていないようです。以下リンク先に「まもなく登場」と記載されていることもあり、もう少し待たないと行けないようですね。6月1日といっても、多義的ですから。

https://www.apple.com/jp/apple-music/

ということで、もう一晩眠りAppleMusicのレベルアップを待ちましょう。
おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

5月もおしまい。6月もまた少し状況が変わりつつ、攻める時間を作れそうな一ヶ月になりそうな気配です。

今日は慌ただしく一日が過ぎましあが、さしあたりはレヴィンが振るブラームス交響曲第4番第二楽章を聴きながら走りました。冒頭のホルンが、夕刻の田園風景にぴったり。明日からは近所のプールも再開されることになり、運が良ければランイングと水泳を行けるかもしれないです。

明日からはApple Musicがロスレスとなります。公式にはDACがなければ規格的なロスレス音源を愉しむことはできないようですが、幾ばくかは改善するのか、など試してみようと思っています。

Apple Musicロスレス詳細発表。AirPodsはロスレスで聴けず
https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1326469.html

なにかしら確認する愉しみがありそうです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms,Running

それにしても良い天気の午前中と、夕立のような雷雨に見舞われた午後、という東京地方の今日という日は、夏が大好きな身に取っては、素晴らしい一日だったように思います。

先日からはじめたランニングは、やっと10回目。足が痛くなり、心拍数が上がりっぱなしだったということもあり、土曜日にガラガラの(本当です。。)スポーツ用品店にランニングシューズを買いに行きまして、まあいつまで続くか分からないから安いシューズを買おうか、とセール品を物色していたところ、店員さんに声をかけれ、試し履きしてみたのですが、なんだかキツい感じで、じゃあこれは?と出されたナイキのシューズ(嫌な予感。。。)を履いてみると、これが本当にフィットして、まるで空気を履いているような感じしかなく(やばい。。)、これおいくらです?と聴くと、やはり予算オーバー。「やれましたね、、、」と言うと、店員さんは「すみません。。」と。ただ、歳もとったので、身体を労らないといかん、と勝手に納得し、やむなく(?)購入。

今日、そのナイキのシューズを履いて走ってみると、定量的に改善していて、心拍数の上がり方が本当に違うのです。これまでは130まで上がってしまい、ペースをセーブしながらだらだら走っていた感じですが、今日は120を上回るぐらいで推移していて、数字として変化がでていました。まあ予算オーバーながらも、心臓への負担を減らして走れるのであればそれに越したことはありません。明日以降も検証してみないと。

走りながら聴いたのは、こちら。レヴァインのブラームス。これまで聴く機会がなかったのですが、AppleMusicに進められたので聴いてみましたが、ドラマティックにまとめられているというのがファーストインプレッションです。もう少し繰り返し聴いてみないと。。ちなみに、このミュシャ的なジャケットが素敵です。

村上春樹は洋楽を聴きながら走るようですが、最近の実績で言うとクラシックで、ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスで走っています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Book

Duke Humfrey's Library Interior 6, Bodleian Library, Oxford, UK - Diliff.jpg
By <a href="//commons.wikimedia.org/wiki/User:Diliff" title="User:Diliff">Diliff</a> – <span class="int-own-work" lang="en">Own work</span>, CC BY-SA 3.0, Link

今日は、とある用事のため母校の図書館へ行きました。十年前に卒業生の集い的なイベントにふらりと行って、中を見せてもらった以来で、実質卒業後四半世紀近くほとんど足を踏み入れていなかったのですが、本当に記憶というものは恐ろしくて、全くもって図書館に踏み入れたときに違和感がなく、むしろ帰ってきたのだ、という感覚しかないことに驚きました。

カーペットの踏み心地や空気感、掛けられた絵、エレベータホールのゴミ箱、椅子の装丁、その全てがまるで昨日の記憶であるかのように思えたのです。

特に独特の匂い、それは紙の発するかすかな糊や薬剤やインクの匂いであったり、あるいはカビのような匂いで、古本屋のそれとはまた違う独特の匂いで、この匂いだけで、あっという間に当時の記憶が呼び覚まされた感じがします。

思い起こすと、入学式当日に学科の先輩が学内見学に連れて行ってくれたのですが、図書館に入ったときに、おそらくはそこに納められた「無限」に近いと思われる書籍群にこれから4年という長い間(当時はまだ4年という時間は永遠に思えたのです)触れる権利を得たのである、という昂揚と期待があって、その感覚がまざまざと思い出されたと言うわけでした。

確認すると、どうやら卒業生であれば年間いくらか納めることで、図書館を利用できるらしいということで、手続をすることにしました。維持すればこれから何年にもわたってこの「無限」に近い書籍にアクセスできるのか、と言う昂揚と期待をもう一度感じたように思います。確かにウェブ上の情報もやはり無限ですが、書籍の情報の全てがウェブ上に上がっているというわけではないな、ということも、静まりかえった薄暗い書庫のを歩きまわりながら感じました。無限の知識を全て得ることはできませんが、その膨大さに実感として触れたときに、なにか諦念と謙虚さを覚えつつも、そのなかで有限の生きるという時間のなかでなにをすべきか、と言うことを考えるんだろうなあ、と言ったことを思いました。

そんなことを思いながら30分ほど図書館の中をさまよい続け、疲れ切って閲覧席に座り込むとなにか甘い微熱のようなものに包まれている気がしました。興奮と疲労でおそらく身体が熱を帯びたのではないか、と思います。

この記事のタイトルを考えていたら、「ユリシーズの帰還」というオペラのことを思い出しました。ユリシーズは10年かかって帰ってきたそうですが、私は四半世紀かかって帰ってきたということになるのかもしれないですし、これからきちんと使えれば、「図書館への帰還」と言うことに名実ともになるわけで、そうなるといいな、と思います。

ということで、明日も引き続きさまざま頑張ろうかと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Edward William Elgar

緊急事態宣言が延長となり、またまた水泳が遠ざかってしまいそうです。

もちろん、こんな呑気なことしか書かないのも意味があることなのでお察しください。

さしあたり一週間が終わり、さまざまなことを整えながら過ごしております。

こういうときに音楽があるのは本当に助かります。

今日聴きたいなあ、と心から思ったのはこちら。エルガーの交響曲第2番です。

日本では、ドイツ系音楽中心に受容が進んだこともあり、イギリス音楽はいくばくか違った路線感を醸し出しているわけで、ドイツ系のきっちりした形式張った音楽ばかりきいていると、この曲の旋律感や構成感になにか違和感とは言わないまでも新鮮味を感じまして、それは初めて聴いたときもそうですし、繰り返し聞いたあとであっても、やはり小学校の授業で取り上げられるようなドイツ系音楽とは違う感じに酔うような気がいたします。ミュンヘンに行ったときに「イギリス風庭園」なる庭園が公園にありまして、たしかそれは形式のない自然の感じを残した庭園だったと記憶していますが、大陸的なシンメトリーではなく、もう少し自然で複雑な(複雑系的な)音楽形式を持っているのでは、と思います。

私は、いつもこの曲はシノポリの演奏で聴くのですが、今日はサー・コリン・ディヴィスの指揮で。少し話がずれるかもしれないですが、私はドイツ系音楽をイタリア系指揮者が振る演奏が大変好きです。もしかするとシノポリが指揮するエルガーも同じくイタリア系指揮者によるものなので好んでいたのではないか、と思います。形式張った感じではなく、形式のなかで歌わせる感覚がイタリア系指揮者には少なからずあるような気がします。サー・コリン・ディヴィスの指揮は、イギリス人であるというバイアスにとらわれていますので、安易に「イギリス的な指揮」などと書いてしまいそうですが、昔聴いた記憶ではずいぶんと角張った指揮だなあ、と思った記憶があります。つまりあまり良い印象は持たなかったというkとことです。しかしながら、いま改めてもう一度聴いてみると、そんなことはあまり思えず、幾分かドラマチックな情感のこもった演奏である、という印象です。そういえば、昔聴いたサー・コリン・ディヴィスが振った魔笛もやはり激しい演奏だったなあ、と言う記憶が(テノールがペーター・シュライアーで、情感激しい歌だったから、ということかもしれないですが)。

さまざまな苦悩が溢れる世の中ではありますが、せめて音楽を聴くことで、何かが善くなるのかもしれない、というテーゼを措定してさらにそれを信じたい、そんな気分です。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Anton Bruckner

昨日からブルックナーへの関心が急激に高まりまして、もう二十年は手に取っていなかったであろうブルックナーの伝記を取り出しました。1988年の初版本で昭和の本ということになります。古本屋で買った形跡もないので、おそらくは新刊書店で買ったんだと思います。
早速以下のような箇所を読んで、ブルックナーのインプロバイザーとしての力量を思い出したのでした。

ブルックナーは聞き手が試し弾きかと訝るような単純な音型で始め、次第に高揚感を増して巨大な頂点で終えた。聴衆はオルガンという楽器の本当の威力をこの時初めて知ったに違いなかった。熱狂的な喝采のため、後に控えた演奏者はもはや出番を喪ってしまった。

111ページ

この年のドイツ帝国成立を祝って開かれた八月二十一日の演奏会では、特に求められてドイツ愛国歌『ラインの守り』に基づく即興を行った。熱狂した聴衆は、終演後ブルックナーを肩にかつきあげて場内を練り歩いた。

111ページ

ブルックナーは、1871年にロンドンに演奏旅行をしていますが、そのときの模様が描かれていました。こうしたエピソードも解釈された歴史です。事実と解釈は違う可能性はあるでしょうけれど、ともかく、純朴なブルックナーが聴衆の喝采を受けるシーンを想像するだけで、なにか昂揚を覚えます。

今でいえばだれなんですかね。クイーンかだれかが熱狂の中で演奏するという状況でしょうか。私はそういったコンサートにはあまり行かないので映像や伝聞からでしかわかりませんが。

ただ、一つ目の引用「単純な音型」をもとに楽曲を即興で組み立て、巨大な頂点で迎える、というのは何かよく分かる気がします。ジャズのミュージシャンが、実に愛らしいディズニーのテーマをもとに、あざやかにそして激しく昂揚するインプロバイズを見せることがあります。私も、数分間の自分の持ち場をストーリー感を持って組み立てることを試みたことがあり、聴く側としても、演奏する側としても、その感動や面白さはよく分かります。ブルックナーは交響曲作家ですが、その作品群を踏まえて、どんな即興だったのだろうか想像するのも愉しいものです。

今日の東京は雨の一日。明日からは天気が回復するとのこと。楽しみです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

 

今日は皆既月食。本来なら真っ赤な月が見えるはずでしたが、残念ながら東京地方からは見ることができませんでした。とはいえ、きっと天上ではなにかしらの素晴らしいことが起きているのでしょう。

私も、今日はひとついいことがありました。AppleMusicからレコメンドされたカラヤンが振るブルックナー交響曲全集に巡り会ったことです。たしか、カラヤンの最後の録音はブルックナーだったはず。調べると、やはり交響曲第7番でした、カラヤンとブルックナーの組み合わせはあまりピンと来るものがありませんでしたが、今回あらためて聴いてみると、特に緩徐楽章の歌い方が素晴らしく、ゆったりとした速度で恍惚とした表情を浮かべながら巡航する感じは、あまりにも甘美です。

そんなことを思っていると、さきほどから、急に無性に第6番のアダージョが聴きたくなり、今聴いていますが、いやあこれは本当に素晴らしく、磁器のようなきめこまかさは、ずっと側に置いておきたくなるようです。この楽章、今日聴いたはずもないのに、なぜか頭に流れてきて、あ、聴かないと、と思ったのでした。未来の記憶をあらかじめ見ていたように思います。

さて、皆既月食は見られませんでしたが、きっとなにかいいことが起きるでしょう。

ということで、今日は少し早めに。

おやすみなさい。グーテナハトです。