NNTT:新国立劇場

はじめに

今日は、早帰りをあえてして、新国立劇場で「バレエ・リュス ストラヴィンスキー・イブニング」を見てきました。
ストラヴィンスキーの《火の鳥》、《アポロ》、《結婚》の三演目。3時間たっぷりかかりました。
photo
実はストラヴィンスキーは普段はあまり聞きません。理由はわかりません。特に苦手意識もないのですけれど。もちろん三大バレエは知っています。ですので、今回はとてもいい勉強なりました。

演目の感想

《火の鳥》、初めて見ましたが、意外にオーソドックスなんですね。もっと過激なものをイメージしていました。というのも、バルトークの《中国の不思議な役人》ばかり聴いていたので。あれぐらい激しくないともうダメかも。なんちゃって。でもほんといい曲です。
《アポロ》(あるいは《ミューズを率いるアポロ》)は、《プルチネッラ》のような新古典主義。均衡と崩壊の間を縫うように進んでいくのがスリリングでした。だまし絵のような感じです。試作、演劇、舞踏を司る三人のミューズが象徴的に振り付けられていて、解釈が楽しかったです。
それにしてもバレエダンサーの筋力体力は想像を絶しましね。あの動きをして息を乱さないなんて。バレエはあまり見ないので、そんなことが気になります。
《結婚》は、《春の祭典》といった原始主義の系統でした。ですが、オケは使いません。ピアノ四台、打楽器、合唱からなるアンサンブルという特異な編成で、不思議なサウンドでした。やっぱり若い頃のストラヴィンスキーは本当にぶっ飛んでたんですね。それにしても、きっと実演に触れることは難しいはずです。

《結婚》関連について少し考えてみる。

ちなみに、ダンサーたちがあまりに無表情に踊っていたのが象徴的でした。ロボットのように踊っているのですから。
で、ここは少し考えてみました。
この《結婚》はロシアにおける結婚儀礼がテーマなのですが、その儀礼が持つ形式性を象徴しているのかもしれません。あるいは、そうした儀礼がある種の自然力として人間を抑圧しているとかもしれません。というのも、結婚前の娘は挽歌を歌うというのですから。嫁入りというのは、未知の世界へいくということ。それまでの娘時代から、一度死ぬのと同じぐらいの断絶で、悲しみを伴うものだったようです。思い通りの結婚なんてできるわけもなく、であるからしてあたかもロボットのように振る舞わないとみんなやっていられない、そういうことを象徴しているように思いました。
やはりバレエが主なので、テンポは動かせないのですね。ダイナミズムもあまりつけないように思います。当たり前ですが、それが何か新鮮でした。
今日、バルトークの弦楽四重奏曲全集が届きました。いや、これも凄いっすよ。また勉強を始めないと。
では、みなさま、グーテナハト。

Opera


ラモーの《優雅なインドの国々》の最終幕とアンコールと思われる映像。ウィリアム・クリスティ指揮ですね。この強力無比なパトリシア・プティボン。
アンコールのところ、ほんと、心洗われます。こういうふうに盛り上がれるのは幸せだとおもいますよ。
今週は明日で終わり。音楽聴きに行きたいけれど、どうでしょうか?
ではグーテナハト。

Miscellaneous

某原稿の校正をしました。何とか完了。日付切り替え後ですが、この記事は日付内に補正します。すいません。
IMG_0044.JPG
自分の原稿の校正をきちんと出来るということは、ある意味多重人格者ということなのではないか、と思います。あるいは、記憶を断絶できる、ということですかね。まあ、自分の原稿の校正を行うことが論理的に不可能だからこそ、校正者がいるのだと思いますが。と日々悶々と過ごしています。
やっと、バルトークのヴァイオリン協奏曲がちゃんと染みこんできました。第一番の美しさは格別。こちらもちゃんと研究を進めないと。
ではまた明日。グーテナハト。

Béla Bartók,Concerto

短いエントリー。毎日バルトークばかり。困ったもんです。

今日のバルトークの言葉

バルトークは、ヨーロッパにおけるナチスドイツの台頭に聴きを抱き、1940年にアメリカに亡命します。ですが、バルトークは、経済的な問題を抱えてしまったのです。印税はイギリスとアメリカで二重課税され、ほとんどが税務当局に吸い上げられました。白血病にかかり、ピアニストとしての活動も行えませんでした。
第一次世界大戦は金を蓄えることの無意味さを教えてくれた。第二次世界大戦は何も蓄えるべきでないと教えてくれた。つまり、日々生きるのに必要以上に働く価値はないということだ。
せっかく収集した資料が戦争で破壊されたり、貨幣価値が下落したり。二つの大戦はそうした価値の破壊をもたらしたのです。
今日の世界においても同じなのではないか、という澱んだ不安に苛まれました。

今日のバルトークの音楽

今日もヴァイオリン協奏曲。シュテフィ・ゲイエルという女性ヴァイオリニストに献呈されたそうですが、生前はその存在を隠していたようです。ゲイエルの死に際して、パウル・ザッハーに遺贈されたそうで、パウル・ザッハーによって初演されたそうです。
パウル・ザッハーは、バルトークとも親しかった指揮者です。製薬会社令嬢と結婚したことで大金持ちとなり、その資産を活かして音楽家への援助をしました。現在もパウル・ザッハー財団というものが有ります。バルトークもパウル・ザッハーからの委嘱をうけて「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」を作曲しています。
今日は、ショルティ&チョン・キョンファの音源ばかり聴いていました。これはこれで素晴らしいですが、少し硬さがあるかも。

帰宅してからギーレンが南西ドイツ放送交響楽団指揮し、クリスティアン・オステルタークと録音している盤をNMLで見つけました。この音源の叙情性はショルティ盤を上回ります。これは、相当にドライな甘さです。

では、これから楽器練習します。みなさま、グーテナハト。

Béla Bartók,Book

「父バルトーク」の映画化

昨日、「父・バルトーク」を映画化するべき、と書きました。

きっと単館系。もしかしたらあえてモノクロ映画に仕立てられたりして。ニューヨークはモノクロなんだが、バルトークの回想に現れるブダペストの風景だけカラーみたいな。《タンゴ・レッスン》とか《オズの魔法使い》あるいは、《バンカー・パレス・ホテル》みたいな。浅はかですいません。でもだれか撮らないかな。

吉松さんがとらえるバルトーク

いや、でも同じこと考えている人はいるはず、と思い、ググってみると、いらっしゃいました。
その方は畏れ多くも。作曲家の吉松隆さんでした。
“http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/BOOKS/Thesis/bartok01.html":http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/BOOKS/Thesis/bartok01.html
このバルトーク論では、様々な諸相からバルトークを解釈していて、視界が開けた感覚です。
特に、リズムのストラヴィンスキー、無調のシェーンベルク、和声のドビュッシーのいずれもを取り入れていたという解釈は素晴らしくわかりやすかったです。
バルトークのわかりにくさというものは、つかみ所のなく、聴き手をどんどん先回りしているような感覚があります。あ、こういう曲なのか、と掴みかけたところで、ふっと全く違う曲に変貌してしまうというような。
あるいは、この部分、ベルクだなと思うほどの無調の感覚があると思ったら、ラヴェルのような色彩豊かな和声の世界が広がっている。リズミカルなところは、ストラヴィンスキーにそっくりでいながら、リヒャルト・シュトラウスが聞こえてくる、といった感じです。

もう少し突っ込んでみると。

吉松さんのバルトーク論から、以下の箇所が引用してみます。

根底にあるのは祖国ハンガリーの土着の民族音楽なんですけど、それにR=シュトラウスやドビュッシーの近代和声とストラヴィンスキーの原始主義的リズムの味付けが加わり、さらにシェーンベルクの十二音に対抗するかのような知的作曲法がその上にかぶさってる。

 この、まるっきり異質で本来は混じり合いっこない素材3つに固執した挙げ句の個性こそが、バルトークの面白さであり、わけの分からなさなんですよね。

1つめは、民謡の5音音階と西欧の全音音階を組み合わせた新しい旋法と和声の開発。2つめは東欧の民族音楽の舞曲などから導きだされたリズムの素材化。そして3つめはそれらの素材の黄金分割やフィボナッチ数列などによる数学的処理。

なるほど。たしかに。バルトークのつかみ所のなさはこういう全方位的な、あるいは全てを包括する方法論によるのかもしれない、などと思いました。
この延長で吉松さんは、ストラヴィンスキーはロックに、ドビュッシーはジャズに、シェーンベルクは現代音楽や前衛音楽に、と位置づけてます。吉松さんは「独断」といいますが、私は吉松さんに賛成です。
そういう意味ではバルトークは全てを視野に入れていたということですか。これが本当のフュージョンなのかもしれない、などと思います。

おわりに

というわけで、今日も頭のなかはバルトークのことでいっぱいです。
昔、ベルクの弦楽四重奏だけを一週間ずーっと聴いていたことがありました。今は、それぐらい集中して聞いている感じです。そうするといろいろわかってくるはずです。充実してます。
ではみなさまグーテナハト。

Béla Bartók,Book

「父・バルトーク」
IMG_0037.JPG

以前から紹介しているこちらの本。映画化したほうが良いのではないでしょうか。それぐらい美しい父と子の物語です。
この本では、バルトークの写真が多数紹介されています。私はその写真群に目を奪われてしまいました。そのどれもが笑っていません。その点についてもすこし言及されています。バルトークは愛想よく笑ったりするようなことはなかったそうです。愛想笑いといった不誠実なことはしたくなかったということのようです。ですがそれ意外にも理由があるのではないか、と感じています。
また、愛想のない顔つきでありながら、その眼差しの中になにかしらのシニカルな目線を感じます。世界を斜めから見つめ、本質を見出そうとし、あるいは世界の虚飾を見破り、笑い飛ばしているかのように見えます。
この本の表紙でも、幼い息子を真剣に見つめる姿を見ることができます。これが本気なのかユーモアなのか。
====
さてと。明日からはまた社会復帰をしなければ。
それではグーテナハト。

Saxophone

今日は尊敬するバルトークの教えに従いました。つまり、下手でもよいから、音楽を聴くだけではなく演奏せよ、です。
photo
というわけで、通勤途中の街のジャズバーのジャムセッションで、何曲か吹きました。多分10年ぶり。

Autumn leaves
Days of wine and roses
Candy
All the things you are
There will be another you
Stella by starlight

今日の午後、セッションの予習のためにカラオケボックスで2時間ばかり練習しました。スケール練習ののち、セッション定番曲を一通りさらったのです。使ったのはもちろんiRealbook。

おかげでなんとか吹けましたよ。音の方は高音域はかなり伸びのある音になってきていますが、低音域が今ひとつ。フラジオ音域は少し不安定です。

事前のカラオケでの練習で、なんだか興に乗りすぎて吹きまくっていたら、リードダメにしたしまったようで、言うことをきくはずのリードがまったく言うことを効かなくなりました。二曲目でリードを変えましたが、終盤にむけてよく鳴るようになりました。危ない危ない。ちなみに、使っているのはバンドレンV16の2番。昔は2半だったのですが、アンブシェアが落ちたので今では2番です。すこし薄いと感じる局面がありましたので、もう少し戻ってきたら2半に戻す予定です

やっと楽器ができるぐらいになったということなのでしょう。感慨深いものがあります。精神的にも肉体的にも演奏が重要であることがわかりました。最近随分楽になりましたので。というわけで今後も引き続き参加することにします。

では、みなさまグーテナハト。

Miscellaneous

久々にカルロス・クライバーの《運命》を聴いて、自分ならこうする、と想像してみると、結構楽しかった。ほんと、音楽のこと勉強しないと。
今日、会社の人と話せて楽しかったですが、申し訳ない思いも。頑張らないとね。

では、グーテナハト。

Béla Bartók

先日から読んでいる「父・バルトーク」。

二度目を読みながら色々考えています。
この本に通底するテーマというのは、もしかすると、戦後のアメリカナイズされた物質主義への抵抗の物語なのではないか、と考えました。
私は、当時の歴史を読むにつけて、あらゆる面で、1945年8月で世界が断絶したように思っています。
それは、例えばロマン主義の鬼っ子であるナチスドイツが崩壊し、19世紀的帝国主義に遅れてしまい、富国強兵に失敗した明治政府の終焉した、ということなのでしょう。19世紀的なもの終焉。それ以前と以後では世界が全く違う色に染まったのが1945年であるように思えるのです。
バルトークはもちろんそれ以前の人間です。大量生産品を嫌悪し、手作りの品を慈しむ姿は、ティピカルな19世紀人とも言えますが、それが今の私には実に魅力的に思えます。
バルトークが生涯をかけて失われつつある民謡を収集したのと同じように、19世紀的ロマン主義も失われました。そしてそのバルトークも、戦後すぐ、1945年9月にはその生涯を終えるのです。
もっとも、こうした見方もひとつの可能性に過ぎません。もう少し考える必要がありますけれど。
それからもう一つ。私がまだできていないのは、バルトークの音楽からまだ「物語」を読み取るということなのです。それにはもう少し時間がかかるような気がします。
というわけで、今日も《カンタータ・プロファーナ》と《かかし王子》を聴きました。ブーレーズ版ですよ。
ちなみに、オーボエリードケースを買いました。次はマンドレルを買うか?
明日も午後出張。ではグーテナハト。

Miscellaneous

3日も空くと一般仕事もなかなか新鮮です。ですが、気持ちは一日中バルトークでした。「父・バルトーク」は読了していますが、今週もう一回読む予定。二回目は味わいがまた違い格別。本当は3回読みたいところですが。
昨日作った東京オペラオケ事情ですが、あまりに選択肢が多くて迷ってしまいます。アジア一番の音楽都市であるに違いありません。贅沢過ぎる。ウィーンフィルとベルリンフィルとコンセルトヘボウを日替わりで聴けるのですから。時間が許せばですが。
今日もオーボエ運指練習に勤しみました。ヒンケは良くできた教本ですさすが。
ではグーテナハト。