2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Oboe

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落日。日はまた昇るのでしょうか。
先日から読んでいるこちらの本。

城・ある告別―辻邦生初期短篇集 (講談社文芸文庫)
辻 邦生
講談社
売り上げランキング: 337,645

辻邦生作品の中でも特に大好きな作品の一つである「ある告別」が収められています。ここで、辻邦生が初めてアテネに行った時にパルテノン神殿を観た感動が記されています。ですが、ここにおいてはまだ明示的にそのパルテノン体験が語られているわけではありません。

言葉の箱 小説を書くということ (中公文庫)
中央公論新社 (2012-12-19)
売り上げランキング: 20,928

「言葉の箱」とよばれる講演集の中で、そのパルテノン神殿を観た感動を文学的にどのように解釈したのかが平易に語られています。つまり、芸術によって秩序をもたらすという視点が取り上げられます。美が世界を支えるというものです。
これほどの芸術至上主義が一言で受けいられるわけはないかもしれません。私も腹の底から理解するのに何年もかかってしまいました。
ですが、今回の《死の都》の舞台を観た途端、ああ、これが人間の底力で、世界を支えているのはこういう舞台なのだ、と直感したのです。
舞台両側面の棚には所狭しにマリーの思い出の品が並べられ、床にも沢山の箱が置いてあり、一つ一つに写真がはられているという豪華さです。
その舞台の様子は昨日もだした以下の写真で垣間見ることができると思います。
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この舞台を見て、あっけに取られない人ははずですし、みながみな美しく絢爛だ、と思うのではないかと想像します。幕が開いた途端、輝く舞台におののいてしまったのです。
ですが、先に進もうとする私を後ろから引っ張る力があって、引き止められてしまったのでした。
常にさいなまれる聴衆とはなにか、という問題と、西欧芸術の至極を日本文化がどう咀嚼できるのか、という問題。
両方の観点において私はアウトサイダーです。正規の音楽教育を受けておらず、日本人として日本文化の中で育ったということ。そうした人間が、この舞台を本当に理解できるのか。それは量的な不足ではなく、乗り越えられない質的な差異ではないのか。
この問題は非常に有名な問題でこれまでも語られ続けていますから、個人的にどのように考えるのかは、これから整理する必要がありそうです。そんなことを考えていると、その他のこともあいまって、やること考えることが多すぎて頭がおかしくなりそうです。すこし冷却しないと。
なんてことを考えましたが、涙なしには視られない舞台であり、感動し続けたことは間違いないのですが。
まだ続きそうです。グーテナハトです。

2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Oboe

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《死の都》第二回。妄想が膨らみ続けています。
私の大学時代の先輩も見にいらしていて、FBで少しだけやりとりをしました。
そんな中で思ったのは、マリーの挙措自体が男性が作り上げた幻想なんだろうということ。いわゆる永遠の愛を信じる男の身勝手さというものです。
これまでも、オペラにおいて、男によって作られたヒロインたちの姿を見続けました。新国立劇場の今年の演目である《カルメン》も《蝶々夫人}もそうでした。
奔放なカルメンも、貞節な蝶々さんも、永遠に生きるマリーも、華やかで自由なマリエッタも、みんな男が作ったものです。
そこにいくばくかの真実はあるのでしょう。芸術に昇華されたものとも言えるのかもしれません。ですが、どこかにねじれを感じるのです。
そのねじれは、今回のマリー においてまさに現れたのでしょう。
演出意図としては最高で、パウルの描くマリーをよく表現していました。本当に素晴らしい物でした。
ですが、それは男が勝手に作ったものでした。パウルがマリエッタと懇意になると、マリーは顔を覆います。これは、もう、パウル=男の身勝手でしょう。本当にそうなんですかね。パウルの思い上がりではないですか、などと思ったりします。
原作とは異なり、マリエッタですら、パウルの夢の中で勝手に作られたものになっています。まるでサロメのダンスを彷彿とさせるマリエッタのセクシャルな踊りもパウルが作り出したものにすぎません。パウルの妄想です。
それを作り出したのが、パウル・ショットことユリウス・コルンゴルトなのです。ウィーンの法律家にして音楽評論家。体制側にくみした保守的な男が作り上げる女性は、男の欲望や幻想を投影したものに過ぎないと捉えられても仕方がない面もあるような気がするのです。
マリエッタが「これは女の闘い」といいますが、それもパウル=男=ユリウスの幻想ですので、よく考えると滑稽にも思えるのです。
ですが、これには続きがあるはず。ここから先は私の妄想ですが。
今日の仕事はいつもとは違うお仕事でした。刺激的。
ではグーテナハト。

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今日も所用に明け暮れ。悩み多き一日。
あ、オーボエのレッスンが刺激的でした。音楽は生きるのに必要。演ることも聴くことも。
明日はお仕事です。グーテナハト。

 

2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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はじめに

新国立劇場《死の都》に行ってまいりました。
いや、もう身も心もボロボロになりました。衝撃強すぎです。
最近、厳しい日々を過ごしているということもあり、今日も行けるかどうか微妙な状況でしたが、なんとかスケジュールの合間を縫っていくことが出来ました。実は無理やり行ったんですが。なので、チケット持たないで玄関をでて慌てて戻りましたし。

黙役の存在

今回の演出において最も画期的だったのは、死んだ妻マリーを黙役が演じたことです。
この件に関しては賛否両論あるようですが、私は賛成に回ります
主人公パウルは死んだ妻マリーを忘れられないわけで、そのマリーが舞台上に現れるという仕掛けになっています。物語の進行に合わせてマリーは表情を変え行動を変えます。マリーとの思い出に思いを馳せるパウル、マリエッタへの欲情に溺れるパウル。そのたびにマリーは喜び悲しみます。
ですが、マリーは亡霊ではないのです。マリーはパウルが作り上げた幻影であり、パウルの思いによってその表情を変えるだけなのです。
それは、もしかすると、語りすぎる演出であるといえるかもしれません。つまり、観客が想像すべきこと、考えるべきことを、演出が提示してしまっているということになるかもしれないのです。
ですが、パウルが追憶と欲望に引き裂かれる厳しい心情が直接的に伝わってきたことは事実です。それはリブレットを超えた表現だったはずです。
私は相当に心を揺さぶられ、終幕時にはもうヘトヘトでした。

Tsuji Kunio

嵯峨野明月記 (中公文庫)
辻 邦生
中央公論社
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辻邦生作品の最高峰の一つとも言える「嵯峨野明月記」を手にとっています。最近、仕事で、演繹法的手法をとって巧く行かず、帰納法的手法をとってなんとか進みだしたという経験をしました。
私のこの演繹法的手法を取りたがるという傾向は、どうもこの作品に影響されているように思います。
この「嵯峨野明月記」の中に狩野光徳という画家が登場します。光徳は世の中のものを全て描かなければならないという強迫観念ともいえる欲求を持ちながら若くして病に倒れることになります。
ですが、世界はそうした形で認識することはできないのです。
この辺りの世界認識の方法論については「小説への序章」においても語られていたはずです。世界そのものと一体化するという、西田幾多郎の純粋経験とでも言えるような文学的境地においてのみ世界認識に到達できる、という道筋でした。
これは、辻邦生の3つの原初体験の一つである、ポン・デ・ザールの直観と通じるはずです。辻邦生がパリ留学中にポン・デ・ザールでセーヌを眺めていたときに、このセーヌやパリ自体が自分のものである、という直観を得た、というものです。あのとき、世界と辻は合一していたわけで、そうした原初において相通じるところから、世界認識が開かれていく、そうした直観だったはずです。
ただ、それは芸術的文学的なものであり、実践的なものに適用することは難しいわけで、まあ、少し遠回りをしてしまいました。
昨今ジャズばかり。本当は週末に《死の都》へ行く予定なのですが、仕事で行けないかもしれません。残念無念。
では久々のグーテナハト。

Jazz

ゆえあって、この一週間はジャズを聴いていました。ジャズ史もひと通りまとめて、いろいろ再発見をしました。本職の方は全然進みませんけれど。
そんななかであらためて思い出したのがウェイン・ショーターの素晴らしさでした。ウェザーリポートのサックス奏者としても有名ですが、
まずはこちら。

Speak No Evil
Speak No Evil

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Blue Note Records (1999-03-11)
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twitterでも書きましたが、フュージョンやらクラシックを聴いていた大学時代に会って、意外にも60年代のショーターは集めていました。なぜなのか全くわかりません。何に惹かれたのかすらわかりません。
このアルバム、ピアノはハービー・ハンコックなんですが、今日聴いて感じたのは、どうやらハービーが作る空気感とショーターのアウトした無骨なサックスのコントラストがいいんじゃないかな、と。
たとえば、Infant Eyesのソロ部分で、ショーターのけだるいソロの間を、ハンコックが埋めていくあたりは、スリリングでもあります。この絶妙なやりとり、交感こそが醍醐味です。
冷たい雨の一日でした。濡れたアスファルトにヘッドライトが反射するのが見えます。
ではグーテナハト。

Jazz

Biting the Apple
Biting the Apple

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Dexter Gordon
Steeplechase (1994-07-29)
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デクスター・ゴードンは、たしかマイケル・ブレッカーが敬愛するテナー奏者だったはず。マイケル・ブレッカーのように艶のあるエッジの聞いた音です。
以前、銀座のCD屋で、ちょうどそのお店でバイトをしていた私の友人がデクスター・ゴードンをBGMにかけていたんですが、マイケル・ブレッカーの演奏家と勘違いしたことがありました。
このアルバムは、有名な曲が多く収録されています。マイケル・ブレッカーも録音しているSkylarkがいいですね。
あとは、セッション曲のBlue Bossaも。この曲は私らが吹くと、演歌のようになってしまいがちですが、以下のとおり。黒いですが、洗練されていて、妙にシャクったりもたらせ過ぎることはありません。絶妙なバランスで歌っていると思います。

1976年のアルバム。ドラマーはアル・フォスターですね。
ではグーテナハト。

Béla Bartók

バルトーク:オーケストラのための協奏曲/ヤナーチェク:シンフォニエッタ
セル(ジョージ)
SMJ (2012-12-05)
売り上げランキング: 5,188

なんか、少しジメジメしたたこと書きましたが、この曲聞いて元気が出ました。
緊張感が半端ないですね。
鮮烈・ビビッド。テンポコントロールの絶妙さというのもあるのでしょうけれど。
こういう楽しみもまだ残されているのですが、まだ十分に咀嚼できていないのです。どうすればいいのか。どのように語ればいいのか。まだまだ考えないと。
あらためてグーテナハト。

Miscellaneous

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先日行った熱海の海。美しい光景ですが、なにか引っかかります。このような景色をこの際未来も見ることができるのでしょうか。
この一週間は、音楽から遠ざかり気味でした。といっても、音楽は聴いてまして、あの例のT-SQUAREというバンドの昔の音源を聴いて懐かしんでいました。ただ、どうにも西欧音楽は聴けず、という感じでした。
少し最近の立ち位置を確認しなければなりません。
どうもあの偽ベートーヴェン事件で、音楽にしらけてしまってですね。いや、あの事件でしらけるなんて、そこまで音楽が好きじゃなかったのでは、と思われるかもしれませんが。
正直、偽ベートーヴェンについては、かなり「無理」をしてよく書いた記憶があります。ですが、CDを聴き、コンサートに行きましたので、そうした事実は記録すべきと考え書きました。が、そこに、なにか「長いものにはまかれろ」といったベクトルが作用していたのではないか、と反省する部分もあるのです。あんなにいいと言われているのに、自分だけがわかっていないのではないか、という疑念を感じたからでしょう。もちろんそこに「全聾の」とか「絶対音感」という雑音も含まれていたのでしょう。
私のモットーとして、批判はするまい、というのがあります。専門の音楽教育を受けていませんので、そこまで言っていいのか、という、少し引き気味のスタンスで臨んでいます。それが理由で、ブレというか、キレのなさというものが生じたはず。そういう意味では徹底できなかったという悔いがあります。
ただなあ。あそこまで、評価していたマスコミやブログを見ると、音楽を語るということの責任性というものを強く感じます。かつて、大学に居た時に、教授と大学院生が、音楽評論の妥当性について熱く語っていたことを思い出しました。評論についての妥当性が問われないままという状況に疑問を呈する議論だったと記憶しています。
言論は歴史を創るものであり、事実を変えることさえも可能です。昨年何度か書いたヴェルディがイタリア統一に果たした役割が後世に作られたものであるということや、昨今の歴史問題などもそうしたものにあたるのでしょう。言論に対する飽くなき妥当性の追求を可能な限り行う、ということの難しさは、この20年間のインターネットの時代にあって、問われ続けながらも解決されていないことなのでしょう。
そういう意味では、ブログであろうとも、言論活動の一環ですので、そこに妥当性を常に求め続けることは必要です。経済活動を伴わないものである以上、そこには常に妥当性を求める必要はあります。ただ、妥当という言葉はあまりに絶大なもので、求めることはできても実現できないものなのです。妥当という言葉は、ブレンターノに依っていたはずです。それほど重い意味を持つものはず。
なんだか絶筆宣言のようになってますが、絶筆はしないです。妥当というものは求めるものであり、実現できないものである以上、絶筆すると止まるので。
今日は新国立劇場でオペラトークを聴いてきました。そちらの報告は明日から。それにしても手を広げすぎていて、すこし戦線を整理しなければなりません。。
ではグーテナハト。