Alban Berg,Classical,Concert

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会社帰りにサントリーホールに行けるという僥倖。私の夢でしたが、ありがたいことにこれも叶ってしまいました。仕事たまってますが、月曜日に早出しますので許してください。
曲目は以下の通りです。
* ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
* モーツァルト;交響曲第31番「パリ」
* ベルク:ルル組曲
* ラヴェル:ラ・ヴァルス
うーん、この組み合わせは、少し不思議なんですが、私的には垂涎ものでした。これはオールパリプログラムなのだそうです。「ルル」の全曲盤初演がパリだから、ということだそうです。ブーレーズが振ったあのCDのこと。。そうか、なるほど。。
指揮者は、1979年生まれの俊英、山田和樹氏です。もちろん初めて聴くのですが、経歴をみるとすごいことになっています。東京芸大でコバケンと松尾葉子に師事し、2009年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝してしまう。その後BBC交響楽団とかパリ管弦楽団を振って、再演を決めてしまう。N響の副指揮者。で、32歳ですか。。

ビゼー&モーツァルト:二つのハ長調交響曲
山田和樹
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前半のドビュッシーに泣いた。。

山田さん、最初のフルートソロで、手をほとんど動かさなかったです。最初をほとんどフルートに任せてしまった感じ。その後も、オケにクリックを正確に与えるようなことはなく、ダイナミズムとクリティカルなタイミングを指示するのみ。大時代的な杓子定規なものはないかんじです。その指揮ぶりは、なんだか天から振ってくる音を拾い上げて、オケに伝えていると思えるぐらいです。
実は、半年ほど前にも日フィルの「牧神の午後への前奏曲」を聴いているんですが、今回は落涙度二倍ぐらいでした。弦のうねりが美しすぎて。癒されました。

ルル組曲で震えた。

ルル組曲、さすがにこの曲は難曲です。さすがの第一楽章の冒頭は、いろいろな音のパーツがあちこちで錯綜しているような感じでした。しかし、中盤に向かっては徐々にオケも暖まってきた感じで、充実した響きを見せてくれたように思います。
数ある見せ場では、私のイメージを超えたカッコよさににんまりしながら聞いていました。弦楽器がうねり歌うところとか、トランペットが泣き叫ぶところとか、サックスの媚態のような音なんかが入り乱れて、忘我状態でした。
複雑で混乱にも聞こえるリズムと音程の中に通底する危険な抒情性に心が揺さぶられ、苦しくもあり快くもありました。十二音技法を使った危険で魅惑的な旋律群が幾重にも繰り出されてくるあたりは、ベルクもすごいですが、指揮者もオケの皆さんも本当にすごいです。それから、曲のダイナミクスレンジをきちんと聴かせる演奏でした。最高潮の部分、何度ものけぞりました。そうしたオケの機能性を十二分に楽しむことが出来ました。
ルルのアリアを歌うのは林正子さんでした。残念ながら私の席からは十分にその声質を確認することが出来ませんでした。座席は、P席の横、打楽器を目の前にしたような席で、林さんの背中を観ながら声を聴いていたような状況でしたので。ですが、ピッチの狂いもなく、膨らみのある豊かな声だったのではないか、と推しています。
このとき既に、私は座席を間違ったことに気づきました。S席にしておけば良かった、と。というか、最前列、全然空いていました。休憩時間に移れば良かった。。。(ウソ)。
この曲の最終楽章ですが、切り裂きジャックにルルが喉を掻き切られる場面があります。ブーレーズが振っているCDでは、ここでソプラノの強烈な悲鳴が録音されていて、ホラー映画のように死ぬほど怖いんですが、さすがにそれはありませんでした。ちょっと期待したんですが。それにしても、この場面でベルクが描くルルの断末魔は実に写実的で身震いするほどでした。首から血が噴き出し、大きく数回痙攣し、力を失い倒れていくルルの最後の姿が目に浮かびます。
個人的には、サックス奏者の端くれとして、サックスパートがとても気になりました。アルトでしたが、メチャいい音です。もちろん、マウスピースはラバーですので、ジャズのよなギラギラした感じや、ざらついた感じは全くないです。艶やかで滑らか、それでいてエッジを感じる音でした。心が洗われました。私には絶対に出せない音です。
ルルについては、こんな文章を書きましたので、よろしければどうぞ。
“<参考>「ルル」を巡る不思議なエピソード":https://museum.projectmnh.com/2011/12/09235959.php

ラ・ヴァルスで盛り上がった。

最後のラ・ヴァルス。これがすごかった。この曲で盛り上がらない方がおかしいのですが、山田さん、ここでも相当盛り上げました。テンポは早々動かしませんでした。ただ、金管を歌わせるところは少しテンポをあげてアクセントをつけていたように聞こえました。最高潮のところは、全身で大きな振りを見せました。怒濤のフィナーレで、このときばかりは割れる拍手がフライング気味で、ブラボーの絶叫が飛び交いました。演奏後のオケの皆さんの顔も悦びに溢れている感じでした。

反省

今回の座席は、二階席のちょうどオケの左側面に面したところでした。これは完全に失敗でしたorz。オケの音が直接聞こえてくる感じがしません。一度ホール内で反射した音を聞いている感じです。間接音みたいな。最前列で聴いていたら、もっともっと感動したはず。悔やまれます。。

まとめ

山田和樹氏が千秋真一ばりの才能の持ち主であることが分かりました。しかしながら千秋真一よりも腰が低いし、オケにすごく気を遣っているのが分かります。最後なんて、オケの全パート立たせてたしなあ。
それから、今後は、座席選びは(家計も大事だが)悔いのなきようベストを尽くします。
今回の日フィル定期も本当に楽しかったです。
ラ・ヴァルスの感動の余韻に浸りながら、明日は新国に「こうもり」を観に行きます。

Alban Berg

ルルとは?

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「ルル」とは、ベルクの超問題作にして未完のオペラの名前です。ルルというのは、主人公の女性の名前で、オペラ界きっての魔性の女です。幾人もの男をたぶらかしては死に追いやるのですが、それは彼女の必然に基づくものであり善悪の判定をされていない。単純な二元論では割り切れない混沌と非論理の世界が描かれています。
音楽的には十二音音楽が導入されています。シェーンベルクが十二音音楽によって数値理論化してしまった旋律作成の方法論に、今一度調性による抒情性を復活させています。
ルル組曲の中で、ソプラノによって歌われるルルのアリアもそうした十二音音楽の音列に基づいて書かれています。旋律の前半には調性感があえて残されていて、その調性感が後半儚く消え去るあたりがカッコイイのです。

未完オペラ「ルル」の完成

オペラ「ルル」は未完成でしたが、ベルクによって「ルル」の各部分から材料をとって、ルル組曲(あるいはルル交響曲とも呼ばれることがある)としてまとめられ、オペラの完成に先立って発表されたのでした。
ちなみに、ベルクの直接の死因は敗血症(マーラーと一緒)ですが、その根本原因は単なる虫刺されです。虫に刺された腫瘍から細菌が血液に入り死に至ったというわけです。(本当にそうなんでしょうか?、と思うことがあります)
オペラの「ルル」は第二幕まで完成していて、第三幕は一部完成していましたが、スケッチなどが残されているました。やろうと思えば、「トゥーランドット」のようにあとから加筆修正すればそうそう時間がかかることなく完成していたと思われるのですが、ベルクの奥さんのヘレーネは、それを絶対に許しませんでした。
ちなみに、へレーネは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の隠し子と言われています。これも1980年代になって明らかになりました。以下は半年前に書いた記事です。
“ベルク夫人の父親は誰?":https://museum.projectmnh.com/2011/04/20232908.php
だからかどうか分かりませんが、ヘレーネは気位の高い女性だったとか。
実は、この曲を作曲していた当時、ベルクはハンナ・フックスという別の女性と不倫関係にありました。ヘレーネはおそらくはこうした事情を察していて、「ルル」の第三幕の台本を嫌っていたのだそうです。がゆえに、完全版完成を拒んだのではないかと言われています。
ところがです。実は、ヘレーネに伏せられたまま「ルル」の加筆は進んでいました。版権を持っていたウニヴェルザール社が、作曲家フリードリヒ・ツェルハに資料を渡しており、内密にその完成版の制作を依頼していたのでした。
ヘレーネが亡くなったのは1976年ですが、1974年にはツェルハによる加筆は終わっていました。そして、1979年、パリのオペラ座でピエール・ブーレーズの指揮により、完全版の世界初演となったのでした。(だから、日フィル12月サントリー定期の会のテーマは「パリ」と言うことになるわけです)

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新国立劇場のルル

ルルは、日本でも何度か上演されています。二期会によっても10年ほど前に初演されていますが、記憶に新しいのは新国立劇場の2004年2005年シーズンで計画されていた「ルル」の上演です。私もチケットを買っていたのですが、会社の同僚の結婚式に出席せねばならず、あきらめたのでした。
このとき、本来なら三幕完全版で演奏されるはずでしたが、様々な事情があったらしく、オペラとしての演奏は第二幕で打ちきりとなり、第三幕はこのルル組曲から該当する部分を演奏して、代替とする、という事件がありました。詳しくはあえて書きませんが、ネット上ではいろいろな議論があったと思います。
私にとってはこうした様々な不思議なエピソードが絡み合った「ルル」が、本当に興味深くてならないのです。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

すっかり寒くなってしまいました。半月前までは、まだまだ暖かいなあ、と思っていたのに。今日は6時前に家を出ました。真っ暗でしたが、空気は澄んでいて気持ちがよいと思いました。
ルサルカの第二回目です。
演出について書こうと思います。今回の演出はとても素晴らしかったのです。
色彩も、照明も、衣装も、解釈もどれも楽しかったです。
USTREAMで演出のカラン氏のコメントを聴きたいところですが、なぜか観られないのです。。
(→今日の夜時点では観られました。研究を進める予定)
ですので、これは主観的な感想です。

光の美しさ

今回の演出は本当に面白かったし美しかったです。水をモティーフにしているだけあって、舞台には波紋が水底に描くゆらめきが照明によって描きだされていました。
これは、本当にゆらめき、まるで本当に水底にいるかのようにも見えました。これ、当たり前過ぎるほど自然で、うっとりと見入ってしまいました。

人間らしさとは何か?

私が今回の演出でもっとも感銘を受けた部分はここでした。
私がそれを感じたのは、第二幕の結婚式の舞踏会とされている部分でした。
深い赤のドレスに身を包んだ男女が四方の入り口から舞台上に現れてきます。舞踏会の客という設定ですので何十人という大勢です。彼らは一様に目の部分を隠すマスクをつけています。表情はもちろん視線がどこに向いて居るのかも分かりません。
ルサルカは、彼らに話しかけようと近づきます。ルサルカは言葉を発することが出来ませんから、おのずと身振り手振りとなります。ですが、そのたびに、深い赤のドレスの彼らは、身を翻し、あるうはルサルカをよけるようにして、ルサルカのアプローチを拒絶します。それも拒絶していることすら気がつかせないよけ方です。完全に無視を決め込んでいいるわけです。いみじくも花嫁だというのに。まさに、存在を抹消しようとしているようにも見えます。
ここでは、全く違う価値観で動く人間達の中で、拒否されあるいは無視されるルサルカの姿が濃密に現されていたと思うのです。
ルサルカは、水の精の世界から人間界へと向かうのですが、そこで拒絶されてしまうわけです。人間になりたいということで、進んで人間になったはずのルサルカを無視する人間達という構図です。
理由は何か? ルサルカが真の人間になっていないからなのか、あるいは、ルサルカが人間で、人間達が人間ではないのか。
この物語は、人類普遍の問題を描き出しているのでしょう。真の人間性とは何か? という問題です。自分とは異質なものを拒絶するというのは、人間社会において普遍的なものです。それは、第二幕冒頭で給仕達が交わす会話にも現れていました。王子は変な女を森の中から連れてきて、全くどうかしているよ、みたいな感じです。
それから、何も言葉を紡ぎ出すことの出来ないルサルカの姿は、真実を語ることが出来ない、あるいは自らの真性を表出することを許されないという人間のある種のきまりをとらえたメタファーだと考えられます。
この場面は、人間社会の側面を指摘した秀逸な表現だと解釈しました。

神への言及

ルサルカに逃げられた王子は、どうやら色目を使われた外国の公女にも捨てられたらしく、悶々とした生活を送っていて、どうにも我慢ならなくなり、森に分け入りルサルカを探そうとするわけです。誰がどう見てもだらしがない男なんですが、まあ、ルサルカと再会して、もう死んでも良い、ということで死の接吻を受けて王子は死に行くわけです。「愛の死」にしては王子はかっこ悪いです。トリスタンとは大違いだと思います。まったく。。
ところが、その後がとても興味深いのです。ルサルカは神に祈り始めるのです。今日、私が見ていた中で、神についての言及に気づいたのはここだけでした。あまりの唐突感に違和感を覚えました。これは、私がクリスチャンではないからでしょうか。あるいは水の精という「異教的」な存在が突然神へと近寄ったからでしょうか。
結局は祈ることしかできない、あるいは、思考を停止し、行動を停止して、神にゆだねるというのでしょうか?
すごく興味深いのですが、まだ答えは分かりません。芸術には結論はありませんがこの飛躍がなにかとってつけたものに思えました。学者なら、ここに文献持ってこれるんだろうけれど、悔しいです。

終わりに

今日も少し乱暴な妄想でしたが、観ているときにこんなことを考えていたので結構楽しかったのです。
次回は音楽面について書きます。これもまた難しいのですよ。。。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

始めに

行って参りました。ルサルカ@新国立劇場。
色々と考えることの多い三時間でした。生の音楽を聴きながら、色々思いを巡らすというのは本当に恵まれたことです。ありがたいです。
今回も色々と考えることが多かったです。オペラを観ると言うことの一つは考えることである、ということを、とある演出家が話していたのを思い出しました。
(今年の春に新国で上演された「コジ・ファン・トゥッテ」を演出したミキエレット氏の言葉です)
“https://museum.projectmnh.com/2011/05/29221501.php":https://museum.projectmnh.com/2011/05/29221501.php

あらすじ

念のためあらすじを。オリジナルのリブレットにはないであろう今回の演出を含めたあらすじで、かつ私の主観が入っています。

第一幕

(演出上の設定)
娘は子供部屋のベッドに横たわる。窓からは満月の蒼い光が差し込んでいて、娘の顔を照らしている。思い立った娘は鏡の前に向かう。鏡から離れても、娘の姿は鏡の中に残り続ける。驚いた娘は、鏡の中の自分に触れるのだが、途端に鏡の中の自分に手を引っ張られ鏡の中に吸い込まれる。
(ここからは本編)
主人公のルサルカは、森の中に住む水の精のヴォドニクの娘なのだが、いつも湖の畔を訪れる王子に恋をしてしまう。人間になるためには、魔法使いのイェジババの薬を飲む必要があるのだが、人間になるのと引き替えに声を出す能力を奪われてしまうのだった。ルサルカは迷わず薬を飲み、王子の前に姿を現す。王子は、ルサルカの美しさに心奪われ、結婚することとなる。

第二幕

結婚式が開かれることになるのだが、王子とルサルカは心を通わすことが出来ない。言葉を交わすこともできず、思いを伝えることが出来ないのだ。そのすれ違いは早くも王子の心を別の女性へと向かわせる。結婚式に招かれた外国の公女の誘惑に負け、公女へと心を移してしまう。結婚式の舞踏会で全く孤立してしまうルサルカは、恐怖と絶望を抱き、王子の元を離れ森へと戻る。

第三幕

人間の世界にも戻れず、水の精の仲間にも戻ることも出来ず、森の中で孤立するルサルカは、イェジババに助けを求める。ルサルカがこの状況を脱するためには、王子への復讐、つまり王子を死に至らしめなければならない。逡巡するルサルカ。王子は、ルサルカが姿を消して以来、心を失い鬱状態になっている。森へ分け入った王子は、ルサルカと再会する。王子はルサルカの死の接吻を受け死に至り救済される。
(演出上の設定)
ルサルカは娘に戻る。だが、どこか大人びた表情で。ベッドに戻り。蒼い月の光に照らされる。人形(兵士か王子?)を棚に座らせ、物憂げな表情で窓の外を眺め続ける。
h3.人魚姫との類似
カミさんにあらすじを説明したら、「人魚姫と同じじゃん!」といわれました。「人魚姫」のプロットを忘れていたのです。調べてみると、声を喪うというところは同じでした。
小さい頃の記憶では、悲劇であったがゆえに、あまり好きな話ではなかったのです。どうも、こうかわいそうな終わり方には昔から弱くてですね。。だから一回読んだだけだったのだと思います。まだ悲劇を許容できるほど成熟していなかったのだと思います。
確かにそうかも。「人魚姫」は、王子は幸せになり人魚姫だけが悲劇でしたが、「ルサルカ」は王子もろとも悲劇的結末ですね。こっちのほうがまだいいかも、と思いました。このあたり、ひねた見方もあるんですが。。このあたりはこれから書きます。

さしあたり

寒い一日でしたが、一ヶ月の新国立劇場は素敵でした。
明日は演奏面などを。その次は、演出や解釈などを書きます。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

Ustream

一昨日のオペラトークの模様、USTREAMで見られますね。
“http://www.ustream.tv/channel/rusalka":http://www.ustream.tv/channel/rusalka
記憶がよみがえりました。

調性のこと。

ルサルカ自体のことではないですが、池辺さんが興に乗って、楽理的なことをピアノを弾きながら説明していたのが、すごく面白かったです。
同じメロディを移調して聴かせてくれて、それぞれの違いを説明してくれました。ルサルカの調性がなぜ変ト長調なのか、を音で説明してくれたというわけです。池辺さんの説明があったからそう聞こえただけかもしれませんが、調性ごとに意味合いや印象があるというのが実感できた感じです。
私がジャズサークルにいた頃はこういう議論はあまり聞かなかった気がします。絶対音感を持っていないので、音程差のみに重きを置いていた節があります。ジャズのシステムがそう言うものということもありますが。

弦楽器奏者はフラットを苦手とする。

それから、弦楽器奏者にとってのフラットの意味合いも興味深かったです。
弦楽器奏者はフラットが多くなるほど辛いらしいです。シャープの方が演奏しやすいらしいのです。がゆえに、フラット系の調性だと、緊張感がでてくるのだとか。
これ、昔、マイケル・ブレッカーがインタビューで言っていたことと重なりました。マイケルは、ギタリストはシャープ系を好むが、管楽器奏者はフラット系を好む、と言っていました。メセニーとアルバムを作っていた頃の発言だったと記憶しています。
昨日会ったギタリストにも聴いてみたのですが、やはりそう言うものらしいです。彼はうまく言葉に出来ないようでしたが、どうも「下がる」というところに抵抗があるらしいです。フレットが有限だから?とも思われます。

池辺晋一郎氏名言集

その1
(ベト3を弾き終わってから)
池辺氏:この曲、ヒデオ(英雄)って言うんですけど。。
新井氏:違います(ピシャリ)
その2
この曲は変ト長調でフラット5つなんです。これ、ふらっとこういう風に書いたわけじゃなくて……
その3
チェコにはちぇこっといったことがあるんですが
そのxx 
つづく。。。。

おわりに

本公演が楽しみです。いま、せっせと予習中です。とりあえず、ルネ・フレミングがバスティーユで歌っているDVDを入手し、チェコ人のヴァーツラフ・ノイマンが振ったスプラフォンの音源も入手しました。
二週間後が楽しみです。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

今日は、わたくしの夢がひとつかないました。
会社帰りに新国立劇場に行くというのが夢でした。会社の引越で、仕事場が都内になりましたので、なんと、定時を一時間過ぎた頃に会社を出ても、今日のオペラトークに間に合うという僥倖。
うれしい。
でも、少し仕事残してしまいましたが。
12月の始めに「ルサルカ」を聴くのですが、その予習をかねて、池辺晋一郎氏が登壇するオペラトークにいってまいったというわけです。
じつは、仕事が忙しくて、行けるかどうか、ぎりぎりまで分かりませんでした。ですので、チケットは買わないままだったのですが、今日の午後になって、なんだか行ける気配だったので、新国立劇場のボックスオフィスに電話をしたのです。
ところが、いつも使っているフリーダイヤルにかけることが出来ません。携帯からはNGなので。
しかたがないので、固定電話にかけたのですが「現在使われておりません」のつめたい電子音声が。。どうやら、10年前の電話番号にかけていたらしいのです。
それで、別の電話にかけると、なんと、新国立劇場の営業部につながってしまいました。ところが、担当の方、すごく親切でした。
私が、①ルサルカのオペラトーク、チケットありますか? ②遅れて入場しても大丈夫ですか? と聴くと、確認して折り返し電話してくださるというのです。マジですか。。。素晴らしすぎる、新国立劇場!
しばらくしてから、電話をかけてくださって、チケットもあるし、遅れて入っても大丈夫とのこと。ですが、チケット残数少ないので、お早めにどうぞ、とのことでしたので、ボックスオフィスの電話番号を教えてもらい、チケット発券してもらいました。
18時に会社をでて、地下鉄を乗り継いで初台へ。中央カウンターでチケットを受け取ってオペラパレスホワイエに。席、ほとんど埋まってるじゃないですか。そして、案内のかたは、「本日は満席の予定です」ですって。
チケット買っておいて良かった!
つづく。
USTREAMで生放送していたようです! -まだアーカイブは見られませんが、これから見られるようになるでしょうね。-
アーカイブ、こちらで見られます。
“http://www.ustream.tv/channel/rusalka":http://www.ustream.tv/channel/rusalka

Miscellaneous

久々に

転居してから3ヶ月ほど経ちました。だいぶ落ち着いてました。贅沢にも自分の部屋もずいぶん片付いてきて、毎晩三十分ほどでも机に座ると落ち着くようになりました。
以前は、本棚と机が別の部屋にありましたが、ここでは本棚をいつも眺めていられます。
昔読んだ本を手に取ると、また違った味わいがあって、おもしろい。
特に面白かったのは、ホフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」を読んだところ、私の記憶と全く違う色彩を感じたことです。以前は淡いブルーを感じたのですが、今回は夕陽のような暖かみのあるオレンジ色でした。

音楽のこと

さて、音楽も聴いておりますよ。
カラヤンとシントウによる「カプリッチョ」《終幕の場》。月光の音楽というのがあって、いつもいつも、そのことばかり書いていたことがあります。
ようは、伯爵夫人マドレーヌが、求婚する二人の男性のどちらを選ぶか迷ってしまうわ、という場面です。そこには、オペラという形式へのシュトラウスの終わりなき問いかけがあるのですが、音楽的にも、転調に転調を重ねることで、いつまで経っても解決しない旋律になっています。
私も、いつまで経っても解決しない。いや、解決したんだろうなあ、などと。
この録音の悪いところはあまりに美しすぎること。もちょっとおもしろみがあっても。贅沢な悩み。

終わりに

書くことに少し惑いがあるやもしれない、などとおもう今日この頃。
しかしながら、相変わらず音楽も聴いているし、本も読んでいます。
いずこかに書いてあったけれど、良きインプットは常にアウトプットを伴うべきとのこと。
どうにも、書くことに鯱張っているようです。
あるいは、ウェブログというメディアに斜陽を感じているのか。
なにかが違うなあ。
次はオーディオのことを書く予定。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Strauss

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はじめに

引っ越してから2ヶ月が経ちました。通勤にも慣れましたし、ようやく部屋も落ち着いてきたところです。また元のように書き始めないと。私の目標は、ピアニストがピアノを弾くように文章を書こう、と言うものだったのですが、最近日和っておりますゆえ、ここらでもう一度奮起が必要。
さて、前回に続き新国立劇場「サロメ」のご報告です。

新国「サロメ」演出について

さて、演出の方は、エファーディング氏によるもので、私が2003年にはじめて来たときと同じです。
あの、7つのベールの踊り、のところが、記憶違いかもしれません。あんなに際どいところまで歌手は脱いだでしょうか? 最後はほとんど何も身につけておらず、だいぶ心配になりました。さりとて、オペラグラスで覗くわけにも行かず…。
今回気づいたのは、前半部分においては、サロメが天幕の中で踊っていて、シルエットだけが浮かび上がってくるのですが、あそこは他のダンサーが踊っていると思われます。衣装替えに時間がかかるからだと思われます。
前回2008年も気づいたのですが、ヨカナーンが実に人間的に描かれてれていました。サロメの甘い言葉に心と動いているのですが、それを否定するように、サロメをバビロンの娘とか、ソドムの娘などと呼びます。あれは、おそらくサロメを否定すると同時にヨハナーン自身の人間的弱さへの否定なんだなあ、と考えました。

歌手の方々

サロメのエリカ・ズンネカルド、やはりこういう方がサロメを歌わなければ。華奢な体でよくもここまで均一な声を出し続けられるのでしょうか。最終部では、さすがに疲れが見えましたが、最後まで張りのある声で、強靱に歌い続けていたと思います。
ヨカナーンを歌ったジョン・ヴェーグナー氏。この方は、2008年の公演でもヨカナーンを歌っておられましたが、あの時も鋭角な声に感動したのでした。今回もやはりすごかったです。波打ち震える銀箔のような声です。サロメの誘惑に心を乱されながらもひたすらに強く拒絶する姿は、ヨカナーンが乗り移っていたかのようです。
ナラボートを歌われた望月哲也氏。実は氏の歌うシュトラウスを今年の初夏に府中市交響楽団定期演奏会で聞いておりました。あのとき、えらくうまくてピッチのいい方だなあ、だなあと感動したのでした。今回もピッチは勿論声の質も充実しているように思いました。今後も愉しみです。
ヘロディアスを歌ったのは、ハンナ・シュヴァルツでした。先日も少し書きましたが、ベルリンフィル・ディジタルコンサートホールで見ることのできる演奏会形式のサロメでもヘロディアスを歌っていましたが、今回のパフォーマンスの中で突出した存在感でした。

ちなみに

今回の新国のパンフレットではヨハナーンと表記されていますが、ヨカナーンと表記されることもあります。で、パンフレットの綴りはJohanaanと書いてあります。9ページのヴェーグナー氏の紹介部分ですが。この綴りだと、ヨハナーンとか発音できない。私がこれまで「ヨカナーン」と書いてきたのは、大いなる勘違いであったのか、としばし疑ったのです。
ところが、私の持っているDover社のスコアではJochanaanと書いてあります。この綴りなら、ヨカナーンと発音してもOKです。
というわけで、私には、ヨカナーンのほうがしっくり来ますので、ここではヨカナーンと書いておきます。

最後に

今回もシュトラウスサウンドを満喫しました。さすがに落涙するようなオペラではなかったのですが、やはり私はシュトラウスが大好きなのでした。理由は何かなあ、と考えてみると、やはり和声なのでしょう。調性と無調の狭間を行ったり来たりしたり、不協和音であったり、旋律がテンションにヒットしたりするたびにゾクゾクしてきます。
それが、先日聞いたヴェルディのオペラと決定的に違うことだと思われます。
そう思うと、自分のジャズフレーズのついての問題点がわかったりするのでした。
このあたりはまた今度。
それでは。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Strauss

新国立劇場で「サロメ」を聞いてきました。時を忘れた100分でした。まったく、天才たちが集まると、こうも素晴らしいことになっちゃうのですね。
今日は、指揮者のヴァイケルト氏のことを。長くなってしまいました。それほど面白かったのです。
演奏の開始は、いつもと少し違いました。
場内が暗くなり、明るくなったとたんに音楽が始まりました。いつもなら指揮者の登場を拍手で迎えてスタートなので、かたすかしをくらった気分でした。もちろん、以前にもこう言うことはありましたが、今日はなぜか違和感があったのです。
どうしてなのか、考えて見たのですが、どうやらそれは指揮者のラルフ・ヴァイケルト氏の姿をみたかったから、と言うことだったようです。
今回の公演は本当ならば芸術監督の尾高さんが振るはずだつたのですが、キャンセルとなり、急遽の代役だったのです。新国立劇場のウェブサイトでリハーサルの状況が紹介されていましたが、オケの心を一瞬でつかんだとのことで、どんな方なのか興味深かったのです。
最初はどうにも大人しい感じのサウンドで、何か音がくぐもっているような印象でした。どうしてそこでもっと鳴らしてくれないのか、というもどかしさのようなものがありました。
その理由の一つは、おそらくは私が座っていたのは二階席四列目だったので、響きが今ひとつのではあった、ということにあるでしょう。
それだけが原因なのか、と断じる気にもなれず、しばらく棒の振り方をみていたのですが、実に抑制された枯淡の境地のような振り方でした。
私が思い出したのは、10年ほど前に見たサヴァリッシュの指揮でした。最小限の棒の動きでN響を操っていた姿は名人そのものでした。ヴァイケルト氏の指揮の振り方はあのときと同じように、あるいは、他の老巨匠の姿と同じものだったのです。
そうした抑制美を聞き取る方向に考えが向かってからは、徐々に演奏になじむことができるようになりました。
テンポ感は、どちらかというと淡々としたもので、大げさにテンポを動かしたりしません。また音量も大げさにならず、抑制されたダイナミクスですが、それがまた絶妙なのです。ペーター・シュナイダーのそれより抑制されていると思います。ゲネラル・パウゼもそんなに引っ張らない感じです。シノポリよりも抑制されていたかと。しかし、それがとても良かった。媚びることのない美意識、声高に叫ばない主張、そういう感じです。
オケの音がいつもと全く違う響きだったのが驚きでした。私の印象では、弦の響きに透明感が加わっていて、実によくまとまったきめ細かい響きだったのです。この響きは、私にはペーター・シュナイダーのそれとよく似ていると思いました。
次第に、ラルフ・ヴァイケルト氏の語法がわかってきた感じで、最終幕に向かうにつれ徐々に演奏に心がフィットしていくのを感じました。私の感情も、最終部に向かうにつれ高まってきたようで、最終部、サロメの独唱の部分の昂揚感は凄まじいものがありました。指揮棒はそんなに大仰なものではないのですが、オケがちゃんとなっているのですね。
今日のオケは東京フィルハーモニー交響楽団でしたので、前々週に行ってきたトロヴァトーレと同じです。トロヴァトーレのときは、オケの縦線が全く合わない部分があり、歯がゆさも感じたのですが、今日の東フィルは何か違っていました。先ほど触れた弦楽器の緻密さもそうでしたが、縦線がかみ合っているのを感じたのです。いつもはそろわないこともある金管も今日はそろっていたように思います。なにか、マエストロの静かな気迫にこたえているかのようでした。
やはり、リーダーたるもの、メンバーを自主的に従わせるようでないとダメなのですね。首根っこを捕まえるのとは別の方法論がそこにはあるのではないか、と。あ、これは今日の演奏を聴いたからというより、今日の演奏を聴いて思いだした教訓です。
明日は演出や歌手の方々のことを書きます。

2011/2012シーズン

すっかり秋めいてきましたが、皆様お元気でしょうか?
私の方は社命の試験が終わり、日々の仕事にくわえて、これも社命にて行っているお勉強に精を出さねばならないという今日この頃です。
そんな中でも、音楽聴いております。本当はEWIやSAXの練習をしたいところですが。今週末はきっと練習できるでしょう。
さて、オペラの法は、最近ですとシュトラウスの「サロメ」を聴いています。2009年2月にネトレプコの同窓生であるウシャコワの妖艶なサロメを見ましたが、サロメ再演が早くも新国立劇場に、というところですね。
その予習ということで。ベルリンフィルのディジタル・コンサートホールとカラヤン盤をよく聴いています。
ベルリンフィルのオンデマンドでは、ラトル指揮による演奏会形式の「サロメ」を観ることが出来るんですが、これが本当に素晴らしい。特にサロメを歌うエミリー・マギー。この方は、2010年5月の新国立劇場「影のない女」で皇后を歌われた方です。あのときもすごくパワフルな皇后で、さすがにバラクの妻を歌ったステファニー・フリーデにすこし食われた感じもありましたが、私的には本当に印象深い皇后だったのです。
エミリー・マギーは、新国ではただお美しい方だなあ、という印象があったのですが、ベルリンフィルの映像で見ると、美しい方というわけではなく、その後ろに燃えさかるものがあって、これはいわゆるブリュンヒルデ的なすごみというべきものなのでしょう。フレミングやデセイにはない凄みとでもいいましょうか。テオリン姐さんとまではいきませんが(テオリン姐さんは別格だと思う)、烈女的な魅力を兼ね備えているんですね。
 サロメの聞き所って、色々あると思うのですが、私が一つ楽しみにしているのは、ユダヤ人の博士達が、すごい六重奏を聴かせるところ。あそこはいつ聴いてもすごいと思います。これは、カプリッチョの後半に登場する六重奏的なスリリングさです。今回の新国においても期待できます。今週末、たのしみ。