飯田橋にて

今日の午後は所用で飯田橋。この街もずいぶん変わりました。左側に写っているオフィスマンションは昔はありませんでしたね。
今日はとある学術機関における所用の中で、西行の言葉を聴きました。ただ、時間のない中でメモを取るままなく、でしたが、いたく感動しました。多分この歌だと思います。
何事(なにごと)のおはしますをば 知らねどもかたじけなさに 涙こぼるる
そのお話の後で、以下のようなお話を聴きました。
空の鳥は飛ぶことで鳥になり、魚は泳ぐことで魚になるが、人間は何によって人間になるのか。人間は祈ってこそ人間となる。どんな賢い動物でも祈ることができない。人間は、価値あるものとなるためには、魂が必要であり、どんなに優秀な人間であっても、心が歪んでいてはどうしようもない。
そういった話を聞きまして、本当にその通りだなぁと思いました。
本当に心が歪んでいては、仕事をどうしようもありません。どんなに優秀で仕事ができる人間で仕事の権力があったとしても、人を尊敬することなく、人を押しやって仕事していたら、短期的には、その仕事はうまくいくのかもしれませんが、中長期的にはうまくいかないのです。それは個人的にもうまくいかないこともありますし、会社としてうまくいかなくなることもあります。そうした例を何度も見てきました。
10年ほど前に、仕事場で本当に悪いことをする人のほうが力を持ちますよねと言う話をしました。なぜなら、秩序にしたがわない方が、やれることが多く、絶対に有利になるからです。それでもなお、自分の正しさを信じて、そばそばを耐えて、その向こう側に、筋の通ったあるべき世界を求めると言うことなのだと思います。確かに、善悪と言うものは相対的と言う考え方もありますが、コミュニケーションをすると言う観点においては、相対的と言うことに過度によりかかるのは意味がないと思います。一定のコミニケーションのルール、仕事のルール、生き方のルールと言うものは同じ社会に来てると言う観点では、尊重しないといけないのでしょう。
そういう意味でも、日本はもちろん西洋における過去の規範と言うものは、科学技術が発展しない中においては、本当に重要なことだったのでしょう。科学技術がない状態では、人間は助け合わなければ生きていけなかったのですから。今は、科学技術が発展し、資本主義が発展したことにより、人間は単独でも一定できるようになりましたが、それでも、科学技術やお金だけでは解決できない悩みや問題があります。そういう観点では、最低限の何かがあって、それが人を支えていると言う前提をおいて、信じなければならない、と思います。それは宗教的な信仰なのではなく、生きると言うことの最低限の決まり、あるいはマナーなのかもしれません。
そんなこと思いながら、今日は話を聞いていました。歳をとると、考え方もなんだか古臭いですが、長く残っているものにこそ価値があると言う考え方もあるようなので、古いからといって、全部捨ててしまうと言う事は意味がないんでしょうね。
ということで、今日はすいません。長くなりましたが、こんなところで。おやすみなさい。

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