Tsuji Kunio

Haru

辻邦生全集〈9〉小説9
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辻 邦生
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辻邦生全集〈10〉春の戴冠(下)
辻 邦生
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プラトンの生誕祭にあわせて、プラトン・アカデミーでは、「饗宴」をもした哲学を語る宴が開かれるのでした。メディチ家当主ロレンツォはもちろん、フィレンツェの碩学の面々があつまり、語り手フェデリゴはその書記役として饗宴の末席に連なることになったのです。

さまざまな問題が語られるのですが、ロレンツォは、こうした哲学的な議論は、アカデミックな場にとどまるだけであってはならず、たとえば、自分がいま手がけようとしているイモラ領の買収といった高度な政治的駆け引きに於いても哲学的な議論が有用でなければならないのだ、と言うのでした。

それをうけてフィチーノは、まさにその通りなのである、とその議論を引き継ぎます。すなわち、<神的なもの>は、世のあらゆるものに分有されていなければならず、たとえば美しい桜草を見るとき、そこに美しさを見いだすのと同じように、政治活動や経済活動に於いても、神的なものが分有されているはずなのだ、というのです。確かに、桜草を見たときに感じる美しさのほうが強いのは、神的なものが桜草には濃く現れているにはちがいないのですが、桜草以外の現世のあらゆる事象に神的なものを見いだそうとするパースペクティブが重要なのだ、と解くのでした。

これは辻邦生師が行っている、この世を支えているのは美しさなのであるが、その美しさとは決して芸術作品などの美しさなどではないのであって、たとえば、日の光や木々のざわめき、鳥のさえずりと言った自然物から、コンクリートの建築や、日々の雑多な作業などを支えているのは「美」なのである、という考え方が現れている部分だと思います。

これを額面通り受け容れることが出来るかどうか、人それぞれだと思います。しかし、以下の点について留意しなければならないのではないでしょうか。辻先生は、美が現実を支えているという構造を現実に体験していると言うよりも、むしろそうした状況を意志している、ということが言えるのではないでしょうか。ちょうど、カントが純粋理性批判に於いて超越論的演繹法という形で、科学が成立するための諸原理を考えたのと同じように、この世を美が支えていなければ、どうなるのだろうか、というある種の直観的な意志に基づいて語っているような気がしてならないのです。そうでなければ、人間世界は成り立たない、という危機感によるものではないか、とも思います。

次回は「窖」について書いてみたいと思います。


台風が近づいてきています。本当であれば、明日の朝早くに出立して、明日の晩には富士山八合目の山小屋で夕食を食べているはずでした。そして明後日の明け方には、富士山頂にてご来光を仰いでいるはずだったのです。ですが、台風と梅雨前線という自然力には屈服することになりました。明日の登山は当然のことながら中止となりました。ですが、それでも諦めないのがわが友人達。15日の夜から登り初めて、16日朝のご来光を眺めよう! という話になってきています。ですが、台風は思った以上に遅い。遅々とした足取りの台風は、どうやら15日の午後に関東地方に再接近する模様。さて、わが登山隊の隊長の判断や如何に?? 明日の夜ご報告します。 


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Richard Strauss

昨日まで毎日シノポリ氏の9番を聴いていたのですが、なかなか言葉が思い当たりません。テンポが遅め設定ですが、うねるような重厚な響きに圧倒されているのでしょうか。それとも、僕のなかで違和感を感じないほど寄り添ってくれているのでしょうか。もう少し時間をおいて向き合おうかなと思いました。

Capriccio
Capriccio

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Richard Strauss Karl Böhm Bavarian Radio Symphony Orchestra Bayerischen Rundfunkorchester Anton de Ridder Arleen Augér David Thaw Dietrich Fischer-Dieskau Gundula Janowitz Hermann Prey
Deutsche Grammophon (2005/09/13)
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というわけで、今日は久しぶりにシュトラウスの「カプリッチョ」を聴いています。何度も紹介したベームさんの指揮による盤です。今回聴いてみていいなあ、と思ったのは、ディースカウさんがオペラについて歌うところ。22トラック目です。以前にも書きましたが、ここで使われる旋律は原稿の音楽のそれと同じなのです。あの気を失うぐらい美しい旋律にディースカウさんの雄々しく個性的な歌い回しが入ってくるところ、素晴らしいですね。ベーム盤は何回聴いたでしょうか。この9ヶ月ほどでもう何十回と聞いているに違いありません。


それにしても、この三週間ぐらいマーラーばかり聴いていましたので、やはり少々疲弊しているようです。マーラーに当たった、とでも表現したらいいのでしょうか。幾ら好きなものでも、三週間も聴き続ければ少し疲れるのは当たり前ですよね。あの美味しい生牡蠣をパリで食べたというのに、夜半にかけて嘔吐し続けたことを思い出しました。美しいもの、美味しいものには気をつけなければなりません。


明日で会社はおしまいです。今週末は14日から15日にかけて富士山に登る予定でしたが、流れました。一つは台風の影響、もう一つは雪解けが遅れていて、登山道が開通していないと言うこと、の二点です。厳密に言えば、山梨県側登山道と御殿場の北よりの登山道は開通しているのですが、予約をした山小屋のある登山道はまだ開通していません。というわけで、15日の夜から開通している登山道から登って、ご来光を頂上で眺めようと思っています。さて、どんな絶景が待っているのでしょうか? 楽しみです。


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Photo

4 個の画像 4 個の画像 今日は梅雨中だというのに、綺麗な夕焼けが見えました。少し早めに帰ってきたので見ることが出来たのです。あわててカメラをもって写真を撮ったのですが、ちょっと失敗。ISO800で撮っていたので、ノイズが乗っています。これからは写真を撮る前にISO感度を確認して、撮ってからもISO100にもどすように習慣づけようと思います。


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Tsuji Kunio

Haru

辻邦生全集〈9〉小説9
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辻 邦生
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辻邦生全集〈10〉春の戴冠(下)
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春の戴冠、上巻も半ばを過ぎてきました。小さかったサンドロ(ボッティチェルリ)も、語り手のフェデリゴももう十二分に大人になりました。サンドロはフィリッポ・リッピの工房から別の親方の工房へ入ったのですが、人気が出てきたこともあって独立した工房を構え、肖像画などを描く仕事をしています。語り手のフェデリゴは、フィチィーノに弟子入りし、師匠の原稿の清書をしたり、後輩のギリシア語の先生になったりしています。フェデリゴは結婚していますので、もう20代も半ばにさしかかったところでしょう。

フィレンツェ(文中では、フィオレンツァ)の情勢はといえば、コシモが死に、息子のピエロが死に、孫のロレンツォがメディチ家の当主となりメディチ銀行をやりくりするだけではなく、フィオレンツァの政治的安定と覇権を確保すべく活躍しています。 フィレンツェの主要産業は毛織物なのですが、毛織物を染色するためには、媒介剤となる明礬が不可欠です。ところが、明礬はオランダでとれたり、教皇領でとれたりという感じで、なかなか安定供給が見込まれない状態。毛織物業者の中にも廃業するものが出てきたのですが、そんな折、フィレンツェ領内で明礬鉱が発見され、大騒ぎになります。ところが、明礬鉱が発見されたヴォルテルラの住民が叛乱を起こし、ロレンツォは完膚なまでにヴォルテルラの住民を虐殺するのでした。

一方、サンドロとは言えば、今そこにある桜草を描くのではなく、この桜草を通じてそこに現れている神的なものもを描き出そうとしています。他の親方は「ものから目をそらすな」といった具合に、現実認識を拡張していくことで、そこに美を求めようとするのですが、それはそれでいつしか破綻を来すのは必定なのです。人間の認識能力は有限ですので、認識すればするほど地平は広がり、認識すべきものの多さと大きさに圧倒されることになるのです。いわば経験論的な世界観とでも言いましょうか。サンドロはそうではない。いまここにあるものの背後にある神的なもの、あるいはイデアールなものをとらえて、それを描き出そうとしている。そう言うやり方なのです。この構造には見覚えがありますね。「嵯峨野名月記」の俵屋宗達のスタンスと同じです。あるいは、「小説への序章」で語られる、神の死後に改めて認識される世の不可知性の問題です。バルザックの頃までは、経験によって全世界を把握しようという試みは可能であったかも知れないけれど、いまやその可能性はないのです。そうなると、芸術家はパースペクティブを変えなければならない。帰納的認識から演繹的な認識へといこうしなければ、無限大に連なる世界を表現することなど能わないのです。辻邦生師のなかに一貫して現れるテーマがここにも当然のように登場していて、それを読むたびになぜか甘美な思いをするのです。

たしか、前回読んだときには、サンドロの芸術的信条がもう一二度転回していく、というのを覚えています。これからどのようにサンドロが成長していくのか、そしてフィオレンツァの行く末はいかなるものへとなっていくのか。二度目だというのにわくわくしますね。もちろん、歴史的事実として、このあとサルヴォナーラが登場して、フィオレンツァのルネサンスは小休止を強いられる訳なのですが。

最近、思い立って、フィレンツェの地図をガイドブックからコピーして、読みながら、場所を把握するようになってきました。フィレンツェには行ったことがありませんので、土地勘が全くありません。せめて地図と本でフィレンツェを満喫できればいいな、と思いながら読んでいます。もちろん辻邦生師の文学への理解がいっそう深まることを願っているのは言うまでもありません。

Miscellaneous

今日も日記になってしまいそうです。

本当は、シノポリ氏のマーラーの9番を聴いて感想を書くはずでしたが、少々帰宅後時間がなくなってしまったと言うこともあって、今日も当世風日記です。申し訳ありません。
昨夜は早くに寝たつもりだったのですが、疲れがとれていなくて、朝起きても鈍く光る疲労感に苛まれている感覚。会社で珈琲を伸びながら仕事。そうかくとバルザックのようですが、そんなたいしたものではありません。帰宅途中で登山用品屋に寄って雨具を購入。富士山対策です。そのお店は、お客にあまりものを勧めたりせず、一番安くてリーズナブルなものを勧めてくれるようです。良いですね、こういうスタンスのお店。帰宅してからも少々庶務作業を行っていまして(やむを得ないのです)、時間切れです。
シノポリ氏のマーラー、重厚ですが、無用に重々しいと言うこともなく、流れもきちんとある感じです。一回聴いた感じではあまりテンポは動かしていないなあ、と思いました。

明日こそはシノポリ氏のマーラー9番かな。

Miscellaneous

Mahler;Symphonies 9 + 10 Mahler;Symphonies 9 + 10
Philharmonia Orchestra (1998/11/20)
Deutsche Grammophon

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今日はお休みでした。8時に起きて、9時にいつもの近所のカフェへ。PCを持ち込んだのですが、思ったより電池が持たなかったので、最後の30分ほどは「春の戴冠」を読みました。昼食はそうめんです。美味いですね。昼寝をしてから、少々部屋の片づけ。それから、CDをITUNEに取り込んだり、不用なものを処分したりとちょっとした大掃除を。
今日は、集中的に音楽を聴けませんでしたが、マーラーの9番の聞き比べをしていました。これについてはまた書きたいと思います。今日、死蔵していたシノポリの全集を取り出して聴いてみたのですが、かなり良い感じです。シノポリと言えば、シュトラウスとかプッチーニのイメージがあったのですが、よく考えたら、いまから20年ほど前に来日して復活を演奏していたのを思い出しました。僕の復活体験の一つがこのシノポリさんの指揮でしたね。惜しいことに若くしてなくなってしまいましたが。長生きするのもやはり大事だな、と思わされます。
今日はゆっくり休めましたので、明日へ向けて英気を養うことが出来ました。明日も頑張ります。

Miscellaneous

fighting
さて、水曜日の森麻季さんのリサイタルで起こったこと、ですが、こんな感じです。
アンコールに入って、一曲歌い終わられた森麻季さんに皆さんが拍手しているとき、一階平土間の席で、少し太り気味の中年の男が、係員を呼んで少し前の席を指さしている。なんだか起こっている風情。指さす先では、なんと小柄な中年の男がデジカメで写真を撮っている。あれほど写真や録音はお断りします、とアナウンスがあったのに(というか、日本のホールでは常識でしょうか……?)。それで、女性の係員が、デジカメ男を制止して、いったんはそこで騒ぎは終ったかに見えました。

ところが、最後のアンコールの曲を歌い終わったときのことでした。森さんが舞台で挨拶をしていて、前の方には熱狂的な観客が詰めかけて手を振っている。そんなとき、怒声が聞こえたような気がしました。それで平土間を見ると、やっぱりまたあのデジカメ男が写真を撮っている。それを今度は別の中年の男が制止しようとしている。女性係員も駆けつけている。しかし、何を言われようとも、デジカメ男は写真を撮り続けている。とうとう、制止している男が、デジカメ男の後ろから殴るか叩くかしたのが見える。デジカメ男、ようやくカメラをしまう。と思ったら、デジカメ男が、通路に出て、制止する男につかみかかる。逆ギレしたんですね。女性係員が二人を制止するんだが、二人は喧嘩を始めてしまう。まだ、拍手していて、森さんが舞台で挨拶をしているというのに……。二人とも感情的になっているようで、お互いに、追いかけたり、道をふさいだりして、つかみ合っている様子。係員は、なすすべもなく姿を消している。そのうちに二人はドアから外に出て行きました。あの後どうなったのでしょう。つかみ合いの喧嘩でもしているのでしょうか。

それにしても、いい年をした男が喧嘩する場面なんて見たくないですよ、まったく。もう50歳ぐらいになっているというのに。こちらは気持ちよく森さんの歌に感動しているというのに、興ざめだなあ、とおもいつつ。

そもそも、禁止された写真撮影をしているデジカメ男が悪い。でも、制止した男が高潔な精神の持ち主というわけでもなさそう。思ったのですが、制止した男もやっぱり写真を撮りたかったんじゃないでしょうか。でも、禁止されているからそれはできない。そんななかで禁止事項を平気でやぶるデジカメ男が写真を撮り始めた。自分達は我慢しているのに、デジカメ男が抜け駆けをしたんですね。それで、写真を撮るのを我慢している男の怒りが頂点に達した。なんでお前だけ撮るんだよ、みたいな。それでああいう行為に出たんでしょうね。

でも、よく考えると、デジカメ男は、制止男に何の迷惑もかけてない。デジカメ撮っているからって、制止男に影響あるんでしょうか? ないでしょうね。だから放っておいて、係員を呼ぶだけで良いんですよ。後ろからつかみかかって、殴るだか、叩くだなんていう「暴力」行為にでることは全くない。でも、そう言う行為に出ちゃったもんだから、会場内の一部の雰囲気が悪くなったのは確か。そう言う意味では、会場のコンディションを崩した制止男が悪い。TPOをわきまえたマナーがない。まあ、後からだと何でも言えるんですが。

それから、思ったのは、きっとみんな苛々しているんだろうなあ、ということ。このご時世だから、誰もが叩かれる心配を抱えている。社会保険庁もそうだし、銀行も、生保も、損保も、学校の教師も、警察官も、だれもがお互いにたたき合っている。マスコミぐらいじゃないですか、叩かれないのは(まあ、関西テレビのように叩かれる場合もあるけれど)。叩くのはマスコミですからね、自分を叩くことはそうそうはない。叩きすぎて、犠牲者もでているぐらいですから。松岡農林水産大臣など、そういう文脈で捉えると気の毒だなあ、と言う感じもします。そういう世知辛い世の中だから、みんながみんな鬱憤も溜めているんでしょうね。

もっとも、カーテンコールぐらい写真にとっても良いんじゃないかな、と思うのですがだめですかね? 肖像権とかあるんでしょうけれど。僕なんて、もっとひどいことをしている男をドレスデンで見ましたよ。僕らの席の前に座っている英語を話す白人が、カルメン役のソプラノをビデオでずっと写してましたからね。それで幕が下りると、ブラヴァー、ブラヴィーと大声でがなり立てる。でも、品が悪い男ではありませんでした。薄くひげを蓄えたアイルランド人っぽい男で、頭も良さそう。たぶん、カルメン役の歌手の身内なんじゃないかなあ、と思いました。オペラでビデオをとっている男を見て唖然としましたが、誰も止めたりしていませんでした。ドイツ人は、他人に厳しい面があるじゃないですか。だからこういう場面では注意する人とが出てきそうなものだったのですが。まあ、ザクセンの人々はとても優しい気風の持ち主ですので、大目に見たということなのかも知れませんし、あるいはそもそもビデオを撮っても良かったかも知れませんし、観客がたまたま僕らのような観光客で占められていたのかも知れませんし。

というわけで、気持ちよく音楽を聴いていたのに、最後の事件ですこし気分を悪くしたのは確か。困ったものです。もっと品位をもって行動して欲しいですね、デジカメ男も制止男も。それから、怒ったら負けですな。何をされても笑って受け流すぐらいの鈍感力がないと。ちなみに、最近の鈍感力の名人は小泉前首相なのだそうですが。小泉さんは安部首相に「鈍感力をもて」と助言したとかしないとか。


最近CDの感想を書いていない気がしていますが、実は聴いているのですよ。何を聴いているのかと言えば、ブーレズ指揮のマーラー9番。今これにはまりきっています。何度聞いても、この都会的冷徹なマーラーにひかれていくのが分かるのです。早速図書館から、ブーレーズの5番を借りてきました。これについてもまた感想を書けるかな、と思っています。

Tsuji Kunio

Haru

辻邦生全集〈9〉小説9
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辻 邦生
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春の戴冠を読んでいます。ようやく上巻の半分ぐらいまで来ました。前回読んだときよりも読む速度が早まった感じ。おそらくは読書時間が昔より増えたからだと思います。というのも、昔は会社の近くに住んでいましたので、通勤時間に本を読むと言うことができなかったからです。家が近いと、遅くまで仕事をしてしまいがちですし、疲れていると部屋で本を読もうにも、臥せってしまうことが多かったのでした。当時は明け方まで働くこともありましたからね。それに比べれば最近は早く帰らせて貰っています。ともかく、そう言う具合で読み進めているのですが、二回目ということもあって、内容を朧気にも覚えていますし、あるいは、覚えのないエピソードに遭遇して、嬉しくなったりしています。 ちょっとしたことですが、印象的なところ。マルコ・ヴェスプッチとシモネッタの婚礼の場面で、知り合いの親方がフェデリゴに目をつぶって遠くから挨拶をするシーンがあるのですよ。こんなシーンです。

叔父カルロの競争相手の毛織物製造業者ベンボも片眼をつぶって、遠くから私へ挨拶した。

春の戴冠 144頁 ここを読んでため息が出ましたよ。そうそう、そうなんですよ。日本人は目をつぶって挨拶する風習などあまりありませんね。もしそんなことをしたら気障な奴、と言われるに違いないのです。ですが、外国ではありますよね。映画でも観ますし、旅行中も見たことがあるような気がします。日本にはない風習であるからこそ、この一文を書かれたとことで、大きな現実性が付加されるわけですね。

語り手であるフェデリゴは、商人マッテオの息子です。マッテオは、事業に砕身しながらも、夜にはギリシア語で古典を読むという習慣を持っています。マッテオは、商売を営む現実人でありながら、ギリシア古典に親しむ理想的な人文主義者でもあるのです。マッテオのようなスタンスを撮る人間がフィオレンツァには多いのだ、という設定になっています。

現実と理想とのバランスに於いて生きるというスタイルは、「嵯峨野明月記」の角倉素庵の生き方と似ていますね。彼もやはり人文の世界で典籍に親しみながらも、ある時決意して家業に力を注ぐようになる。その二つのバランスを苦しみながらもやり遂げようとする。マッテオ達と同じなのです。その二つの世界は相容れないものではないのだ、とフェデリゴに語るのが、ルネサンス期のプラトン哲学者のフィチーノです。彼は、二つの世界を一つにまとめることが大事なのであって、現実に生きる人間こそ、理想の世界を忘れてはならないし、理想の世界に生きる人間も現実の世界を忘れてはならないのです。現実にぶつかって、株取引でもうけたり、営業成績ナンバーワンいなろうとも、一度、人は死ぬのだという宿命にぶち当たったときに、それを乗り越えるためには、一度理想世界、人文界を見遣らずには居られなくなるのだ、というわけです。

私たちもそうですよね。生きるために会社で働かなければならない。利益を上げるためには、ある種のカラクリを使わねばならない。それが善意にもとるものだったとしてもです。それでも、眼差しは本に向いていたり、音楽に向いていたり、哲学に向いていたりする。そのバランスをとることに苦慮する毎日を送っている。そうしたアクチュアルな問題をマッテオの生き様に投影させている。そう言うことなのだと思います。

一介の会社員に過ぎない私などがこういうテーマを読むと、どうしても自分に投影して見ざるを得なくなります。辻邦生師自体、大学院に通いながらも、日産ディーゼルで嘱託として働いていたと言うこともあったり、戦争が終って、文学の力に疑問を持ち、実務的な世界にあこがれていた時代があった、ということもあって、現実と理想のバランスのテーマは頻出していると思います。このテーマを考えてくれているということが、僕が辻邦生師を愛する理由の一つであると思います。

すこし、現実と理想を安易に使用した感もありますが、そんなことを思いながら読んでいます。
今回は、本の読み方も工夫しています。気になるところには付箋を入れていますし、気になるエピソードはなんとか書き出そうとしています。こうした長編を読むのは、勢いで読んでしまいがちなところもあるのですが、あとで全体を把握するためには、備忘録的なものがあった方が良いなあ、と思っています。

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 (PHP文庫)
福田 和也
PHP研究所 (2004/07)
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福田和也さんの「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」では、本に折り目を付けて、あとから書き抜くという方法が紹介されていますが、これも試してみたのですが、私の場合読んでいるときに、すでに関連する物事が沸々と沸き上がってきて、すぐにメモをしないと忘れてしまうのですね。本来なら、本の中に書き込めばいいのですが(現に書き込んでいる本もありますが)、さすがに重厚な単行本に書き込みをする勇気をまだ持てずにいます。本来なら、すぐにでも書き込むべきなのでしょうけれど。あるいは、折り目を付けてしまうのが良いのかもしれませんが。それが無理なので、やむなく付箋を貼りつつ、メモをとりながら本を読むようにしています。もっと言い読み方があればよいのですが、昔から試行錯誤しながらまだ迷いがぬぐえません。

Classical

昨日書きましたように、7月4日(水)のコンサートに行って参りました。オペラシティコンサートホールに行くのは久しぶりです。2年ぶりぐらいでしょうか。コンコースの両脇にはLEDで数字が表示される独特な装飾は相変わらずす。今年で10年目になるようです。昔、ここでアンサンブル・モデルンの圧倒的な公演を聴いたのが思い出されます。もう9年も前のことですね。 Opera City Opera City

曲目のご紹介

前半

  • フォーレ:<レクイエム>より「ピエ・イエズ」
  • バッハ:<マタイ受難曲>より「皆によいことをしてくださったのです〜愛の御心から」
  •  バッハ:<ヨハネ受難曲>より「融けて流れよ、私の心」
  •  ワーグナー(リスト編曲):イゾルデの愛と死(ピアノソロ)
  •  リヒャルト・シュトラウス:解き放たれた心
  •  リヒャルト・シュトラウス:「四つの最後の歌」より「眠りのとき」
  •  リヒャルト・シュトラウス:「四つの最後の歌」より「夕映えのとき」

後半

  • ヨハン・シュトラウス:<こうもり>より「私の公爵様」
  •  ヨハン・シュトラウス:<こうもり>より「田舎娘を演じるときは」
  •  ラフマニノフ:ヴォカリーズ(ピアノソロ) プ
  • ッチーニ:<ジャンニ・スキッキ>より「私のいとしいお父さん」
  •  山田耕筰:曼珠沙華
  •  山田耕筰:からたちの花
  •  ヴェルディ:<椿姫>より「不思議だわ…花から花へ」

アンコール

  • グノー:アヴェ・マリア
  •  成田為三:浜辺の歌
  •  プッチーニ:<ボエーム>より ムゼッタのワルツ
  •  ドニゼッティ:<シャモニーのリンダ>より「私の心の光」

前半は、少々堅めの曲が並びましたが、冒頭のフォーレで、その高音の美しさに圧倒されました。森麻季さんの声も美しいのですが、ホールの残響音も素晴らしくて、石造りの教会のなかで聴いているような感じを受けました。高音の倍音も豊かに聞こえました。陶磁器のような美しさですね。低い音程もふくよかで素晴らしい。

それにしても、本当に絶妙で巧みなピッチコントロールだと思います。僕は、管楽器をやっているので、少々ピッチの狂いは分かる方だと勝手に思っていますが、ピッチが不安定になったな、と思ったのは一回だけだったように思います。

一番感動したのは、「私の公爵様」ですね。この曲、恥ずかしながら20年ぶりぐらいに聴いたのですが、いやあ、幼い頃を思い出して、少々涙ぐむ感じです。ウィーンの洒脱な感じを身体全体で表現しながら歌っておられました。

昨日も書きましたが、山田耕筰「曼珠沙華」の哀切な歌唱は絶品でした。こんなにも暗い情念に溢れた歌をも自家薬籠中にされておられる森麻季さんに感服したのでありました。


昨日、「信じられないこと」云々を書きましたが、それは明日にしましょう。今日書くのは少々気が引けますので。


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Classical

愛しい友よ~イタリア・オペラ・アリア集 愛しい友よ~イタリア・オペラ・アリア集
森麻季 (2006/10/25)
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ

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こんばんは。
今日は少し遅い時間に更新していますので、今日こそは短めに終らせようと思います。

というのも、本日は、オペラシティコンサートホールで開催された森麻季さんのリサイタルに行って参りました。詳しい話は明日書きたいと思いますが、二時間満喫してきました。プログラムですが、前半は、フォーレやバッハの宗教曲と、シュトラウスの歌曲で厳粛な趣、後半はヨハン・シュトラウスの「こうもり」や、「ジャンニ・スキッキ」、山田耕筰、ヴェルディといった、親しみやすい曲、華やかな曲で構成されていました。

後半の「こうもり」は本当に巧かったですね。それから、山田耕筰の「曼珠沙華」の哀切でいながら刃物を突きつけられたような異様な迫力も凄かったです。新境地かもしれません。

アンコールは4曲。同じみのグノーの「アヴェマリア」、ムゼッタのワルツ、浜辺の歌、ドニゼッティでした。

今日聴いて思ったこと。

  1. 予習は、計画的にきちんとしましょう。まあ、今回はプログラムが急に変わったりしたので、限界はあったのかもしれませんし、歌曲を網羅して予習するのも少々難しいかもしれませんが。
  2. 無理をしてでも良い席を取った方が良いかもしれませんね。今日の席は身を乗り出さないと見られない席でしたので、聴く姿勢が少し難しかったです。
  3. オペラグラス、双眼鏡は、オペラではないときも持って行った方が良いですね。歌っている表情などを見るのも、生演奏ならではですし、特に歌曲のリサイタルなどでは、歌手の方がある種の憑依状態になっていますので、感動も深まると思います。
  4. それから常識ですが、開演時間の少し前には、会場に到着しておくこと。これだけはきちんと守っています。大急ぎで会場にはいって席に着くと、周りにも迷惑ですし、すぐに音楽世界に入っていけないと思います。ある程度余裕を持って(遅くとも30分前)、会場の席について、音楽が始まる前の余韻を楽しみ、聴く準備をしていくべきでしょう。音楽の善し悪しは、演奏家だけに依存するわけではありません。聴く手がどうコンディションを作り上げていくか、にもかかっているのです。

なんてことに、これからは(これからも)気をつけていこうと思います。

それから、今日はほとんど信じられないことが終盤に起こりました。演奏家の方々のことではありません。観客のことです。明日は、もう少しつっこんだ感想を書くのと、その「信じられないこと」について書いてみたいと思います。

今日は短めですが、これで失礼します。お休みなさい。