Tsuji Kunio

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またウィークデーが始まりました。

それにしても、小説を読んでいると、自分の中で、小説の舞台を創り上げていくことになるわけでして、私の場合だと、本当に行ったことはなくとも、サラマンカなんかは、辻邦生の「サラマンカにて」を何度も何度も読みましたので、勝手にサラマンカの風景のようなものが軽背されてしまっています。

それは、どうも脂っこい揚げ物の匂いが立ち込める狭い路地があるような街で、あの、主人公二人が泊まったホテルが、白熱灯に照らされて、静かに佇んでいるような感じ、に思えます。夕食どきなのに人がいない閑散とした街並み。でも、街は、煌々と白熱灯の琥珀色の光に照らされていて、あのホテル<エル・アルコ>のレストランは、アイロンのかかった白いテーブルクロスがかけられたテーブルがいくつも並んでいる。天井にはシーリングファンがゆったりと回っている。そんな感じです。

これはもう、本当のサラマンカでもなく、辻作品の中に出てくるサラマンカでもなく、勝手に私が作り上げた「サラマンカ」であるに過ぎず、そうした「サラマンカ」が、きっと読み手の数だけあるに違いない、と思うわけです。小説は、そこに生じる形あるものはないだけに、読者側の努力のようなものも必要とされます。そういう交感の芸術であるということは、まあ言うまでもありません。多分、これは、音楽と近いものがあるのかもしれませんが、音楽の方がより演奏者からのベクトルは強いので、単純に同じとも言えそうになく…、なんてことを考えるには少し夜遅くなっているようですのでこの辺りでやめます。

で、この実在する町の名前なんだけれども全く違うイメージというのは、これもみなさまにも経験があるかもしれませんが、夢の中では、実在の街が、全く違う街になって現れることが私の場合よくあります。池袋、高田馬場、あるいは、中学生の頃住んでいた高槻などという街が、まったく違う街となって、夢に現れるのですが、それは夢の中では正しく、池袋であり、高田馬場であり、高槻である、という具合です。

私が数年前に見た池袋は、屋外に巨大なエスカレータを要する大きなデパートのような商業施設がある、実に洒落た街になってました。実在の池袋も面白い街ですが、それとは全く違うものでしたから。

それもこれも、こちらの小説から生まれたのかも。このリンク先の新潮文庫は私は持ってないですね。。と思って本棚に行ったら、いやいや、持っていました。1992年の春に大阪駅近くの古本屋で購入したはず。たくさん付箋が付いていましたので、ずいぶん読み込んだようです。これも夢か?

サラマンカの手帖から (新潮文庫)
辻 邦生
新潮社
売り上げランキング: 589,225

ではみなさま、よい夢を。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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虚空にそびえる大木。幹が白く、白樺?と安易に思ってしまいましたが、きっと違うのでしょう。日没間際の太陽の光に照らされて黄金色に輝いていて、ちょっと我を忘れました。

それにしても、紅葉が美しい季節です。ところが、実際にはもう12月に入っていて、冬になってしまっています。冬なんですが、晩秋の風情を楽しめている感じです。仕事場近くの並木も太陽に輝いて、最後の黄葉が街並みを飾っていたりしていて、幸せな気分になります。

今日は、本当にオフな1日でした。仕事場で勤務しているメンバーもいて、少々心苦しさは残りますが、来週に備えて、ということで。

今日もこちらを少しずつ読んでいます。

西行花伝 (新潮文庫)
西行花伝 (新潮文庫)

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辻 邦生
新潮社
売り上げランキング: 110,143

辻邦生の書く女性はみんながみんな魅力的ですね。なんというか、ゲーテのファウストで語られる「永遠の女性なるもの」のような、イデーアールなものに昇華された女性像になっているように思います。

「西行花伝」の冒頭に登場する西行の母親であるみゆき御前(と書けばいいのでしょうか)の人物造形も実に魅力的で、「ある生涯の7つの場所」のエマニュエルや、あるいは「嵯峨野明月記」に登場する、本阿弥光悦の妻のような、屈託のない魅力のようなものを感じます。

「西行花伝」はKindleでの発売はまだですので、紙の本を風呂場に持ち込んで、湯船に浸かりながら読むことにしています。なかなかゆっくりと湯船につかる暇がないので、「西行花伝」の方もなかなか進みません。。Kindleでの発売を待ち望みます。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

SF

風邪ひいてしまい、なかなか調子が出ない日。水泳もストップ。仕事で朝から晩まで一人黙々と作りこんで、なんとか形にしたところで終わりました。

今日もこちらを行きの電車で。今日は出張だったので、いつもより読書の時間が少なかった感はあります。

双生児(上) (ハヤカワ文庫FT)
クリストファー・プリースト
早川書房
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それでもやっと上巻を読み終わり。ネタバレですが、パラレルワールド? みたいなイメージです。ホーガンの「プロテウス・オペレーション」を思い出しました。読んだのはもう30年前ですが。同じ第二次世界大戦ものですし。

この「双生児」では、そうしたパラレルワールドの刻印が、まるで《プルチネッラ》に現れる微細な不協和音のように、ところどころに感じられて、もちろん、それは歴史をある程度知らないとわからないものから、明らかにおかしいものまで色々とあるのですが、そういう刻印に気づく楽しみのようなものもあります。

つうか、巧い作品だなあ、とつくづく思います。

やはり、物語というものは、人の人生を何度でも味わうことができるものです。それだけでも生き方に深みが出てきそう、なんてことを思いました。

今日はこちらを。

ライヒ:管楽、鍵盤と弦楽のための変奏曲
ライヒ
ユニバーサル ミュージック クラシック (2003-07-30)
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「双生児」を読んでいたら、なんだかライヒが聴きたくなりました。ライヒの作品も徐々に変化の刻印が出てくるのを見つけるのが楽しいですね。その変化があるときとつぜん質的変化へ変貌するあたりは、まるでエッシャーのだまし絵のようでもあります。

どんどん寒くなります。どうか、風邪など召されないようお気をつけください。おやすみなさい。

Book

すべての写真-3188

先日、大学時代の友人と会った時、私は、これからはネットの時代だから、本もどんどん電子化されていくはずであり、徐々に紙ベースの書籍というものは淘汰されていくのではないか、ということを話しました。それ自体別に珍しくもない言説で、プロである彼にそんなことを力説するのは実際失礼にあったのかもしれないと、後から振り返って反省しました。

私は、iPodが2001年に発表された後の事が頭にあったのでした。iPodまでは、音楽といえばCDでした。ですが、iPodを買ってからは、購入したCDをせっせとPCにインポートして、それをiPodに入れて持ち運ぶ、というスタイルを実践して行ったのだと思います。

その後は、私の感覚では、CD文化は徐々に廃れてきたというふうに思っていて、若い人たちはiTuneなどのストリーミングで音楽を聴くか、ライブで音楽を聴くか、という状況のようです。

ですので、CDというものの形をしている媒体が徐々に意味を失っていった、というのが、iPod発売以降の音楽受容の歴史で、今となっては、iTuneでストリーミングを買う、という行為すら失われ、SpotifyやApple Musicといった定額課金制の音楽サービスが主流になっているのではないか、というのが、私の中での音楽媒体史観です。

その史観を本に持ち込んで考えているのが、先日までの私でした。本もいずれは、デジタル化され、KindleやiBook、あるいはKinoppyといった、電子書籍媒体でやり取りされるようになるだろう、というものでした。

ですが、やはり、それは違うのかも、というのが、この一週間の感想です。

それは、池袋のジュンク堂に行ったからですかね。ジュンク堂は言わずと知れた、大書店で、揃わない本はない、というのが売り文句だったと記憶しています。池袋店が出来たのは20年ほど前でしょうか。当時、図書館にもない本があって、研究している院生だかが、「貸してください」と書店員に頼んだ、というエピソードがあったのを記憶しています。

そのジュンク堂を回ったのですが、いや、これはもう、市営の図書館よりも当然ながら蔵書が充実していて、本当に楽しいのです。図書館の蔵書というのは、得てして古いものが残留しているような状況だったりします。もちろん、ツタヤ図書館のような不適切な蔵書剪定ではないのでしょうけれど、10年も経過した後の蔵書はさすがに何かしらの複雑な思いを抱くことがあります。新刊書が入るスピード感もありません。もちろん、それは公営図書館であるから当然のことではあるのですが、そうは言っても、時代の流れのようなものを感じるには限界はあります。

書店は、当然新刊書を並べますので、そうした時代の流れのようなものをリアルに感じることができますね。ネットでも検索の仕方などでは、そうしたことが可能だとは思いますが、平台に山積みにされた新刊書を見ると、さすがにあの迫力にはかないません。これは、音楽で言えばライブの感覚と似ているのではないか、と思います。

もちろん、ネットの利便性というものは否定できません。iPhoneにKindleを入れて、何冊も本を持ち運んだり、Apple Musicを使って、自分の持っている曲をクラウドに入れて、どこでも聴くことができる、というのは、リアルな書籍、リアルなCDには絶対にできないことでしょう。

ですが、選定となると別なんでしょうね。確かに、Apple Musicでも、プレイリストやアルバムのサジェスチョンで、新たな音楽に会える機会というものはあります。ですが、それは、Apple Music側にその選定の多くを依存してうrわけです。ネットでの検索性や一覧性はまだ不十分で、私はまるで視界の狭いゴーグルをつけて、海を潜っているような錯覚を覚えることがあるほどです。

リアル書店やリアルCDショップは、やはり五感を使って、いろいろな情報を入手できますし、視界は本当に広いです。いろいろな付随情報が視界の中に入ってくると、自ずとそちらに注意が向いて、セレンディピティのようなものを感じられます。時間はかかりますし、書店やCDショップまで足を運ぶという時間もかかりますが、それは、ネットでは得られないものです。

もちろん、音楽においてもタワーレコードやHMVなど、大型のCDショップがあります。そこで、最新の状況などを感じることはできるわけで、何が違うのだ、という話もあります。

書店とCDショップの決定的な違いは、中身が見られるか見られないか、ということに尽きるのではないか、と思います。書店の場合、中身を見て、どのような内容なのかを確認できますが、CDショップではそれはできません。20年ほど前には、試し聞きができるようなマシンが銀座の山野楽器に置いてあった記憶もありますが、当然全曲聞けるわけではなく、一部のみ聞ける、というような状況だったと記憶しています。

書店の場合は、リアルなものに手で触れて、活字を読むことができるというアドバンテージがあります。これは先ほども触れたようにCDショップにはないものです。

セレンディピティのようなものに会えるのは、書店もCDショップも変わらないのかもしれませんが、中身を自由に見てから、購入するかしないかを決められるのは、やはり書店の特権すね。この、中身を自由に見られるか見られないか、という点において、CDと書籍の違いがあります。CDと書籍では、リアウ店舗のアドバンテージが大きく相違するのだと思います。

電子書籍も否定はしませんし、今後も使うと思います。ですが、リアル書店の持つ、五感を使ったセレンディピティの可能性というものを、私の友人は言いたかったのかも、と思います。

もっとも、テクノロジーが進めば、リアル書店とネットの境目はどんどんなくなっていくのかも、とも思います。かつて流行ったSecond Lifeのように、自分がアバターとなって、バーチャルな書店の中に入っていき、バーチャルな書店で電子書籍を買う、というようなことは、あと数年で現実になるのかもしれません。テクノロジーの進歩は、そこにビジネスチャンスあるいは戦いの勝利のきっかけがある場合は、無限に進むものです。

今日も長くなりました。今日はこちらを静かに聞いています。マイケル・ブレッカーの遺作とも言えるアルバムです。悲しみに満ちたアルバムであることには間違いはありません。

聖地への旅
聖地への旅

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マイケル・ブレッカー
ユニバーサル ミュージック クラシック (2007-05-16)
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それではまた、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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良い天気の1日でした。夏休みは4日目に突入しました。折り返しというところ。今日は武蔵野丘陵のとある観光地へ出かけました。広葉樹の木々が生い茂っていましたが、幼い頃の思い出を思い出します。

私の通っていた幼稚園は、武蔵野の雑木林を擁していました。ちょうど今頃、秋の風情の中その雑木林の中を散歩したものです。本当か嘘か知りませんが、大きな落とし穴と呼ばれる穴が二つほど空いていて、これは誰が掘ったのか、と聞くと、悪い人が掘ったのだ、という答えが保母さんから帰ってきたのだと思います。私はその時の悪い人のイメージというのが、タツノコプロの「ヤッターマン」に出てくる悪役三人組でしか思えなくて、ああ、そんな人たちが本当にいるのかあ、と不思議な気分になったのを覚えています。

西行花伝 (新潮文庫)
西行花伝 (新潮文庫)

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辻 邦生
新潮社
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それにしても、私がいつも辻邦生を読んでいたあるいは読んでいるので、辻邦生の考え方が体験として身についてしまっているから、ということなのかもしれませんが、辻邦生の文章を読むと、いつも、その時思ったり悩んだりしていることについての言及を見つけることになるわけで、こればかりは、高校生の頃に生意気にも言っていた「キリスト者に聖書があるように、私には辻邦生がある」みたいな考えが、実は本当なんではないか、などと思ったりしてしまう今日この頃です。

これをシンクロニシティ、という言葉で説明するとするならば、これはまた後日触れる可能性もありますが、お世話になった方に譲っていただいたとある本の中から、おそらくはあまり知られていないであろう、辻邦生・佐保子夫妻が参加したという座談会の記録の中に、箴言とも言える辻邦生の実に興味深い言葉を見つけたばかりだったのです。

今日、西行花伝で見つけた言葉はこちらでした。

あなたも何が正しいかで苦しんでおられる。しかしそんなものは初めからないのです。いや、そんなものは棄てたほうがいいのです。正しいことなんかできないと思ったほうがいいかもしれません。そう思い悟ってこの世を見てごらんなさい。花と風と光と雲があなたを迎えてくれる。正しいものを求めるから、正しくないものも生まれてくる。それをまずお棄てなさい

辻邦生「西行花伝」 新潮文庫 37ページ

完全に文学的で直感的な表現ですので、賛否両論があるのはわかっています。またこの言葉だけで世界を動かすことはできません。

この世には人々がいるだけ、それだけ公正な生き方があるのです。すべての人は自分は正しく生きていると思っています。それをどう塩梅し、より広い人たちが安堵を得るかが大事です。羅生門に住む鬼どもでさえそう思っているのではないでしょうか。

辻邦生「西行花伝」 新潮文庫 37ページ

あたかも価値相対主義とも思えてしまうこの言葉。ですが、誰でも正しいという完全にサジを投げたアナーキーな状況ではありません。結局、正しいものなどはなく、「ほとんど正しければ良い」のでしょう。この「より広い人たちが安堵を得る」という言葉がそれを物語っています。おそらくはそこには論理はありますまい。あるのは善き人間の知恵でしかないのではないか、と思います。

この言葉は、若い語り手が、朝廷による紛争の裁定に不満を持っていたことに対して、西行が語った言葉、という設定になっています。

今もかつても、世界においては、良いとか悪いとか、そういう価値判断を求められることがあって、それは結局は虚しいことで、なんてことをこのご時世に考えるというのも、何か切迫したものを感じたり、いざ自分が巻き込まれた時に何ができるのかということを思ったり、という感じです。

それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。

Book

今日から夏休みに入りました。法定年次休暇です。が、今年はどこにも出かけず、いろいろと諸事をこなすことにしました。

今日はとりあえずは、池袋へ向かい、久々の大型書店へ。ジュンク堂に行ってきました。

7月中旬に、閉店間際の池袋リブロに行ったとき以来なので、4ヶ月ぶりです。

ジュンク堂の所蔵の多さは大変有名ですが、改めてすごいなあ、と思いました。まあ、これだけの本を読むと逆に選ぶことの大切さということを知らされました。

大学時代の先輩の本が置いてあったり、加藤陽子さん書店があったり、なかなか刺激的でした。

仕事関連の本も多く置いてあり、久々にハヤカワ文庫や新潮文庫の棚の前で時間を過ごしたり、新潮クレストブックの棚の前で追憶にふけったり。

楽しいひと時でした。

棚を回った後、喫茶コーナーで少し休憩しました。雲の合間からちょうど日が差してしばしの平和。

IMG 4143

で、こちら。

双生児(上) (ハヤカワ文庫FT)
クリストファー・プリースト
早川書房
売り上げランキング: 322,837

これ、ハヤカワ文庫のNVではなく、FTなんですが、その理由がよくわかりました。恐ろしい本かも。。ネタバレになるので何も書けません。言えるのは、この本は歴史小説ではありません、ということです。舞台は、第二次世界大戦なんですが。思わず、ゲッベルスの経歴を確認して、あ、なるほど、と思ったりしました。

何書いているかわかりませんが、ネタバレになるのであえて。。

皆様も良い週末をお過ごしください。

Book

昨日は、フーコー関連の本について書いていながら何なのですが、今日は以下のウェブの記事を読んで、その通り! と思った次第。

フィクションを読むと幸せになる9つの理由

フィクションを読むと以下のような良いことがある、とのことでした。

  • 共感力が身につく
  • ストレス解消
  • よく読む人はよく眠れる
  • 人間関係が改善する
  • 高齢になった時に認知能力が低下するのを防ぐ
  • 寛容になる
  • 語彙が増える
  • 創造性を育てる

私としては、それに加えて、フィクションこそ、物事を得心させる力がある、と思っています。

フィクションは読者に、なにがしかの体験を与えますが、その体験というものは得てして何かしらの学びをも生じるものだと思っています。

確かに、フィクションであるところの辻邦生「嵯峨野明月記」で、どれほどの人生勉強をしたか、本当に枚挙にいとまがありません。

権力の栄枯盛衰といった、現実世界を笑い飛ばすという豪放な生き方の術というものは、この本なくしては覚えられなかったと思います。あの、俵屋宗達の磊落な口調で、「笑うほかないのだ」と語られると、本当にその通り、と思うのです。

これは、おそらくは評論で得心するよりも、随分と生々しく、仮想とはいえ実体験で学べるから、どいうことだと思います。

で、今日はこちらを読んでみました。

双生児(上) (ハヤカワ文庫FT)
クリストファー・プリースト
早川書房
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最初の部分だけで、映画を見ているようで、かっこよくて脱帽でした。謎の出し方なども自然に思えますし、というところ。

主人公がスーパーマンでないというのも、なにか好印です象。ジャック・ライアンシリーズなどは、スーパーマンすぎて、なんだかねえ、と思いましたし

また読み終わったら、書いてみようと思いますが、本日はここまで。

それではまた。お休みなさい。

Book

今日からまた新しい一週間です。

最近、仕事場での勤務時間を減らし気味でしたが、今日はついつい少し残業しました。

で、なんか変な安心感を得てしまい、まったく、と自分に呆れております。

なんですかね、これは。

学校の勉強より、結果がすぐでるアジャイルというか、リーン・スタートアップというか、そういうスタイルは、スピード感持って仕事ができるので、良いのでしょう。

先日、母親が、小学生の頃の私の口癖を教えてくれました。曰く、「思いついたらすぐ実行!」だったそうです。

生きるということは、限られた時間を大切に使うことですが、その時間はもちろん有限で、思いのほか少ないと感じるときはあるようです。

やれることは限られていますから、スピードを持って、かつ、ピヴォット(リーン・スタートアップ用語だそうです。 )しながら、進んでいかないと、と思いました。

勝負はスピードと量です。質は後からついてきますので。

今日は、ヘッドホン忘れて音楽聴けませんでしたので、今日の一枚はありません。

が、今日の一言、を。

たくさんの本を読め 、できるだけたくさんの映画を見よ 、せいいっぱい音楽を聴け 、たくさんの人に会え 、多くの経験を積め 、そして空想の羽ばたきに身をゆだねよ !自由を楽しめ !

フーコーの解説書である「知の教科書 フーコー」の最後で、著者の桜井哲夫さんが書いている呼びかけです。

知の教科書 フーコー (講談社選書メチエ)
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前にも書いたかもしれませんが、学生時代は、フランス現代思想を忌避している感覚がありました。もっと原理的な哲学に関心があったのです。ですが、この歳になると、世界は原理だけではなく、現実でも動いているように思うわけです。

フーコーは、監獄の考察など、現実の考察から、世界を暴こうとしているように思えます。帰納法的なアプローチなのかもしれません。ですが、そうした方法の方が、なにか「うまくいく」ことが多いのです。「うまくいく」のは、すべてではありません。「ほとんどうまくいく」と言った感じです。ですが、世界はこの「ほとんど」でいいのではないか、とも思うのです。

世界は均一ではなく、全体主義でもなく、ですから。

ですので、まずは、現実をもっともっと知るべし、なのではないか、ということなんでしょう。

もちろん、現実をすべて知ることはできません、ほとんど知るべし、なのです。ほとんど、と言えるためには、量から質の転換が生じる瞬間まで頑張らなければなりません。

がゆえに、そこまでいくには、本を読み、映画を見て、音楽を聴いて、人に会う。そういうことなんだろうなあ、と、思います

もちろん、知りすぎもよくありません。よく生きるために必要なだけ、知れば良いのですとも思います。

でも、この言葉、若い人には本当に、まるで砂漠で飲む水のような効果があるんだろうなあ、と思います。もっとも、若いという言葉は相対的な概念に過ぎませんけれど。

いろいろ書きすぎましたが、また明日。

お休みなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

P+D BOOKS 廻廊にて
P+D BOOKS 廻廊にて

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午前中、なぜかTOEIC試験を受け、なんだかゲーム感覚で刺激を味わいつつ、午後は会議三昧。帰宅時に、先日買ってしまった「廻廊にて」をKindleで読みました。

最初のカタカナの独白の部分、あれ、わざと読みにくくしているともとれますね。

文学の手法だと思いますが、さらさら読むより、わざと読みにくくすると、いっそう意味が深まる、ということだと思いました。

もっとも、戦前は、カタカナ交じりの文が多かったと思います。大岡昇平「レイテ戦記」に出てくる漢文調のカタカナ混じりの作戦司令文を思い出しました。「戦闘状態ニ入レリ」みたいな。

あるいは、「魔の山」に出てくるフランス語部分とか。。あれも、ドイツ語のなかに突然フランス語が出てきて、たしか和訳ではカタカナ文になっていたと思います。

カタカナ混じり文は、きっと「魔の山」の影響なのかなあ、なんて想像しています。あるいは、辻先生の戦中の記憶があって、とか。

言語のなかに異物を入れることで、意味を高めていく、ということなのか、と思いました。

それにしても、Kindleで「廻廊にて」はかなり違和感がありました。あの黄ばんだ古い文庫本で読んでいたので、隔世の感ありです。

今日は短くグーテナハトです。おやすみなさい。

Book

星の王子さま
星の王子さま

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ゴマブックス株式会社 (2013-02-25)
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先日、Kindleで「星の王子さま」を買いました。

どうやら、サン=テグジュペリの著作権が切れたたということで、各社から様々なバージョンが出版されているようで、このKindle版もその中の一つのようで、100円ということで、結構安かったので、ポチッとしてしまいました。

この本、かつて母親が「面白いから!」と薦めてくれましたが、小学生6年生には正直良くわからなかったのです。

挿絵や設定が、極度に抽象化され、あるいはシュールにすぎるので、さすがに小学生低学年のころには「6年生になったら読もう!」と言われていました。

ですが、6年になっても分からずじまい。で、そのままでした。

Kindleで買って、たまたまiPhoneを開いて目に入ったので、何十年ぶりかに読んだのですが、いやあ、これは、小学生には分からないですね。。

大学生とか社会人が読むといいのでしょう。

もっとも、その時分に読むと、厭世観に苛まれ、逆効果かもしれませんので、お気をつけて。社会は、ヒドイところですから。なーんちゃって。

こんな一文、どうでしょう?

星の王子さまは、六年前に、ヒツジといっしょに自分の星に帰ってしまいました。ぼくがこのお話を書いているのは、彼のことを忘れたくないからです。誰でも本当の友だちを持てるわけではありません。それに、ぼくだって、そのうち、数字にしか興味のない大人になってしまうかもしれません。

先日まさに「情報と効率の世界で生きている」と言いましたが、この「数字にしか興味のない大人」になってしまったということになるんでしょうかね。。大勢の一部になるというのは、麻薬のようなものですから。。

それでは、みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。