Tsuji Kunio

The statue of the gate in Kanda Myojin.

少しご無沙汰しました。 先日おまいりした神田明神の門の写真です。朱色が美しく春の日差しに映えていました。

お参りのご利益で今年最後の大仕事が無事に終わりました。すでに気分は新年度です。

辻邦生の「夏の光満ちて」。

写真 1 - 2015-03-28

夏の光満ちて―パリの時 (1982年)
辻 邦生
中央公論社
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1980年6月からパリに滞在した時の記録です。以前紹介している「春の風駆けて」が属するシリーズ「パリの時」の一冊目にあたります。

書かれたのはいまから35年前のことです。つい最近のことのように思いますが、本当に別世界のようです。1980年の35年前は1945年です。現代と終戦のちょうど中間地点が1980年、ということですか。

あまりに現代と離れているので、これはもうほとんどフィクションの世界です。それは時代もそうですし、パリという場所が離れているということもありますけれど。おそらくは日記をもとに書かれたものですが、これもおそらくは「のちの思いに」のように、あるいは歴史小説のように、「歴史そのままと歴史はなれ」を体現したものなのかも、と思いました。

とにかく、まだ時間の流れが違っていた時代でした。別に懐古主義というわけではありませんが、郷愁を感じないといえば嘘になります。

石は生きているがセメントは死んでいる

「人間であること」を除いたら、いったい何のために生きているのか。太陽を、河波の反映を、雲を、葡萄酒を、通り過ぎる女たちの微笑を、心から楽しまなくて、どうして生きているといえるのか ──

このような引用は、真実を表しているのでしょうが、現代においては誤っているのでしょうね。こんなことを言ったもんなら、変人扱いされます。

ではグーテナハトです。おやすみなさい。

Tsuji Kunio

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週末に撮った春の空。霞がかかり、冬空にはない、なにか言いたいことがあるような空の色です。黄砂かとも思いましたが気象庁のデータではそうではないみたいです。

 

先週末にも書いた件。

生活の立て直しを進めていて、ようやく先が見えてきた感じがあります。送別会などもほぼほぼ終わり、来年の新しい生活に頭が切り替わってきた気がします。

しかし、生活のための仕事に邁進できるのも、日々、よく食べて、よく飲んで(?)、音楽を聴いて、本を読んで、少なくとも300メートルぐらい泳いで、計画的に、という足腰を鍛える活動を続けているからではないかと思われます。

特に、水泳はいいです。前にも書きましたが、ゆっくりと長めに泳ぐと、規則的な呼吸が禅や瞑想と同じ効果をもたらしている気がします。

うまくいかないことも多々ありますが。特に読書は思うようには進みません。このままでは目標が、危ういかも。

それでこちらを。

春の風駆けて―パリの時
辻 邦生
中央公論社
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なんというか、言葉がないです、

私はまた、辻邦生を理解していない、と強く思いました。もうすこい読み続ける必要を感じています。といいながら、そろそろ読了です。

この「春の風駆けて」の268ページ以降で展開される「小説家は紙と鉛筆があれば、どんなたのしい世界、神秘な世界でも作ることができる」という直感は、常人にはなかなか理解することができないでしょう。

ただその次のこの言葉。

「絶えざるこの世への淡白性、無関心。「夢」にのみ生きて、そこに、ふつうの人が「現実」に感じるのと同じ思い現実感を感じつつ生きる」

という直感は、なにかわかるような気がします。

最近、自分が透明になっていくのを感じていて、それこそがつまり「絶えざるこの世への淡白性、無関心」なのかもしれない、などと思います。

まあ、人に「最近透明になってね」ということをついつい口走ってしまい、ギョッとされるのですが。

以前から書いている「この世を哄笑する」の行き着く先が「透明になる」なのかもしれない、などと思いながら、そうは言っても生活ための仕事は大切ですから、などと思いながら、自宅にて今日も夜更けにアルコールを楽しみながら過ごしました。

ではみなさまもゆっくりお休みください。グーテナハトです。アディオス。

Book,NNTT:新国立劇場

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先日行ったレストランにて。鮮やかな生ハム。

それにしても、才能って、羨ましいです。センスがある方というのは、こんなにトントン拍子に物事が進むものなんですね。

新国立劇場合唱団の指揮をされている三澤洋史さん本を読んでます。音楽できる方って、本当にこういう方なんですよね、という感じ。まあ、こうでなければ、クラシックの道に入ってはいけないのかなあ、なんて思います。

オペラ座のお仕事――世界最高の舞台をつくる
三澤洋史
早川書房
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詳しくは読了する予定の明日まで。本日は予告編。かなり面白いですよ。

では取り急ぎグーテナハト。

Tsuji Kunio

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以前も出した写真ですが、「光」の写真だとするとこんな感じなのかも、などと。

引き続き西欧の光。なんだか、ちょっと抹香臭い響きですけれど。

西欧の優れている点は、それ自身の思想ではなく、現実と戦い、人間を救い出し、そこから普遍を汲み上げようとするそのベクトルにあるのではないでしょうか。それは、自らが普遍でないことを暴く自己批判の精神を持ち、自らを鍛えうるものなのです、

私がこのことに気づいたのは、昨日紹介したのが、30年前に書かれた「はじめての構造主義」という入門書でした。

このなかで、著書の橋爪大三郎さんが西欧思想の仕組みを語るところがあります。西欧思想システムの重要な要素が、テキスト、主体、真理なのです。ですが、西欧思想は、それらを壊したわけです。

テキストではなく意味へ、主体ではなく無意識へ、真理から制度へ。

こうして、自壊してしまうほど極端に「真理」へと進むというのは、常に「混沌」とか「自然」などから、よりソフィスティケートされた状態へと進もうとするベクトルがあります。

確かに、西欧は世界を武力で蹂躙しました。だが、そうであってもなおそこに自浄力を備えているわけです。内部にそれに対する免疫か抗体をもっているわけです。ポストモダンこそが、その抗体の存在証明ではないか。

それは、種としての人間の尊厳を重要視するベクトルなのでしょう。

それが、非西欧にとって妥当かどうかは問題なのではないのです。がゆえに、自壊が始まったのです。それでもなお成長しているのではないか。その自己批判能力こそが「西欧の光」なのではないか。そう考えています。

さすがに、世界にでて鍛えられた文明だけあります。その懐の深さを我々は意識しなければならない、ということなのでしょう。

===

最近、帰宅前に水泳することが多いです。今日は無心で15分ぐらい泳ぎ続けました。泳ぎながらもいろいろ考えがまとまって有意義です。なんというか、人間というのは、やはり水と親和性のある動物なのですね。水に包まれていると落ち着きを感じます。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

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まるで息継ぎをするように、お昼に建物の外に出ることが多いです。昔読んだ本に「必ず日中一度は外に出よ」と書いてあって、ああ、なるほど、と思い実践している次第。で、出典の本を開いて探しているんですが、見つかりません。幻でしょうかね。。

先日読んだ、「西欧の光の下で」。

私は先日以下の文章を引用しました。

「お前が、どのような動機であれ、よそに、すでに出来上がったものを求めにいったのは、間違ったことだった。精神が、他の精神にふれうるのは、それが生みだしたものを通して、いかにそれが現実と闘い、そのなかから自らの糧を汲みだしたかに注意するときだけだ」

辻邦生全短篇1195ページ

あるいは以下の様な文章。パリの町並みが夕日に照らされた瞬間にこういうことが考えられたのです。

私はそこにただ町の外観のみをみたのではなく、町を形成し、町を支えつづけている精神的な気品、高貴な秩序を目ざす意志、高いものへのぼろうとする人間の魂を、はっきりと見出したのである。そこには、自然発生的な、怠惰な、与えられているものによりかかるという態度はなかった。そこには、何かある冷静な思慮、不屈な意図、注意深い観察とでもいうべきものが、鋭い町の輪郭のなかにひそんでいた。自然の所与を精神に従え、それを人間的にこえようとする意欲があった。

辻邦生全短篇1 194ページ

曲解なのかもしれませんし、辻先生の本当に言いたかったこととは異なるのかもしれませんが、私は、この「西欧の光の下」を思い出して、次のような考え方を持ったのです。

おそらくは、西欧の精神というのは、このように、秩序=真理を求める無限な営為でした。ヨーロッパには二つの真理がありました。一つは聖書の真理。もう一つはギリシアからの論理による真理。この二つの真理をつかった営為だったというわけです。これで世界の秩序を解き明かそうとしたのです。

さらに、人間というものの発見をしたのも西欧の精神なのでしょう。ルネサンスからのヒューマニズムは、おそらくはフランス革命へと繋がり、基本的人権という現在のグローバル(と思われる)な規範を他のどの文明よりも早く形成したわけです。

おそらく、ここにある「自然の所与を精神に従え」という一節は、その後のエコロジーとの関連で噛みつかれることもあるのかもしれません。私は、ここでいう自然は、いわゆるnatureではなく、混沌Chaosに近いような意味と捉えています。

そうした混沌=現実との闘いこそが西欧である、ということ。実は、それは、余りに現実と闘い、真摯に真理を求めたがゆえに、自壊していったとも言えるわけです。

もう少し書くべきことがあります。続く予定。

===

ちなみに、以下の本を電車で読んでいたんですが、これが今回の考えの端緒かもしれません。こちらがそのきっかけとなりました。なぜ、大学当時にこの本を読まなかったのかがわかりません。あの頃は、モダン=近代をもっと勉強しなければ、と思っていたのです(実際は楽器ばかり吹いていたのですが)。フランス近代思想のファッションのようなものに、相容れなさを感じていたのかも。なにか、デリダ、フーコー、アルチュセールという人名がカッコイイ時代でした。

はじめての構造主義 (講談社現代新書)
橋爪 大三郎
講談社
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では、おやすみなさい。グーテナハトです。

Book

それにしても、読み終わらないです。意外にも。タッチしているのは11冊。いずれも場所を選びながら読んでいる状況。風呂場ではこの本。電車ではこの本。昼休みはこの本、と言った具合です。もっとガツガツ読まないと。つうか、新書ばかりだ。

主なものをいくつか。

風呂場ではこちら。ジャーナリスト夫妻のハーバード大学留学記。なんだか羨ましいです。大人になって大学で学べて、しかもハーバードですから。アメリカの国力、包容力を感じさせる一冊。リラックスして読めます。ただ、書かれたのは9.11直前です。その後の世界の変貌を織り込んで読むとなお興味深いです。

ハーバードで語られる世界戦略 (光文社新書)
田中 宇 大門 小百合
光文社
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電車ではこちら。先日も紹介した池内恵さんの「現代アラブの社会思想」。イスラム国問題が熱い昨今ですが、その源流を考えるのにちょうどいい一冊。六割ぐらい。

現代アラブの社会思想 (講談社現代新書)
池内 恵
講談社
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同じく電車ではこちら。同じく池内恵さんの「イスラーム国の衝撃」。これ、もう三刷だそうです。売れに売れています。池内恵さんは独文学者の池内紀さん。カミさんは数年前から知っていたそうです。これは今日から少し読み始めました

イスラーム国の衝撃 (文春新書)
文藝春秋 (2015-01-28)
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昼休みはこちら。再読始めたばかりの辻邦生の情緒論。70年代後半に「思想」で連載されたものです。必然的可能性としての死を、言語とその表現するものの関係になぞらえるあたり、凄まじく、驚いています。

Book

Photo

本当に素敵な本です。「オペラティック」。

いろんな切り口でオペラのことを語っています・

でも、ワーグナーには辛口です。やはり、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》や《ローエングリン》などにみられるドイツ国粋主義に嫌気がさしているみたいです。

で、やはり、レリスも、音楽愛好家と音楽家との間の溝に苦しんでいるようで、音楽家でない人間がオペラについて何かを書くということを「ずうずうしい」あるいは「おめでたい」というふうに自虐的に書いています。

まあ、そうなんでしょうね。音楽と語ることは、全く位相の違うものなのですから。そして、音楽を演奏しない者にとって、音楽を演奏するということは、ほとんど秘儀に近いものに見えるのですから。

で、やはりこういう時に思い出してしまうのは、小澤征爾が村上春樹に語ったこととか、岩城宏之が、音楽愛好家を忌避していたエピソードとかですかね。

もっとも、レリスはその後、美学に関心をもつ文学者が何かしらのことを書けば音楽家にとっても有用かもしれない、と書いています。

そうした交感がないと行けない、ということなのでしょう。各々仕事があり、その仕事を全力でやる。仕事の内容は壁を超えてお互いを感化することもある、ということでしょうか。

ではグーテナハトです。

P.S. ISISの件、今夜が山です。無事を祈っています。

Book

すべての写真-775
昭和39年に出版され、昭和46年に17刷となった講談社現代新書の「現代思想事典」。

大学に入った頃、事典ばかり読んでいて、それでなんとかしないと、と思っていたころに古本屋で250円で買いました。

「シュールレアリスム」について調べていたんですが、その次の項目である「象徴主義」をなんと福永武彦が書いているのですね。驚きました。マラルメ、ランボー、ヴェルレーヌなどの詩人の名前をあげて、その源流がボードレールだと言います。それは「暗示によって映像を喚起する方法」として総括されていて、「詩の中に、超感覚と批評と魂の告白と詩句の音楽性」を育てた、ということになっています。「美が想像力のうちに、いいかえれば仮象的世界の暗示的現前のうちに整理する」とも。

最後に、小説における象徴主義のことが書いてあって、これが実に面白いのです。当たり前の方には当たり前かもしれませんが。

詩は一人でもかけるが、小説は読者なしには作れない。なぜなら、小説は「その世界がなんらかの形で、暗示的、喚起的な映像によって読者の参加を待つ」というのです。これがなければ、小説は「たんなる読み物」で、映画やテレビに太刀打ち出来ない、とあります。

この「読者の参加」インタラクティブ性が、小説の小説たる所以、ということになるのでしょうか。語りすぎず、読者を引きずり込むような小説こそが、真の小説である、ということなのでしょうか。まあ、あまりに「象徴的」過ぎるものもなかなか困りますが。

余談ですが、面白いことに、福永武彦は、昭和39年当時にあって、当時を「小説の衰弱した時代」としています。先日来書いているレリスの「オペラティック」においても、やはり、オペラは常に衰退している、とありました。まあ、長く続く芸術形式というのは、衰退し続ける運命にあるのでしょう。つまりに、人間は不治の病に侵されている。つまりそれは死という病である、というあの手の議論になるのかもしれません。

今晩も鍋を食べました。冬は鍋に限りますね。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

昨夜、NHKで「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」という番組をやっていて、その中で三島由紀夫が取り上げられていました。

三島由紀夫は1925年1月14日生まれ。今年で生誕90年です。

一方の辻邦生も、1925年9月24日。

ですので、二人は同い年です。

二人が過ごした時代は同じです。終戦時に価値観がひっくり返ってしまったというのも同じです。

三島由紀夫は、価値観の転倒をうけて、日本古来の伝統へ回帰しようとしたわけで、が故に三島事件を引き起こしたとされています。一言で語るには重いものではありますが。

辻邦生は、パルテノン神殿に向かい、美が世界を支える、という方向に進んだのだと思います。

いずれも、揺れ動く現実を、どこかで繋ぎとめよう、としたのは同じだ、と思います。価値がひっくり返ったことをどうやって処理していくか、ということ。難しい課題です。

我々にとっても、価値がひっくり返るどころか、価値があまた溢れている状態にあって、何が支えになるのか。あるいは支えなんていらない、という方向に行くのか、など考える必要があります。ですので、他人事ではないのです。

明日からまたウィークデーですね。ウィークデーこそが大切です。がんばらないと。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

廻廊にて (新潮文庫 つ 3-2)
辻 邦生
新潮社
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辻邦生がそう思っていたかどうかはわかりませんが、辻文学のテーマの一つとして「性急な改革は失敗する」という物があると思っています。

たとえば、「背教者ユリアヌス」におけるユリアヌスの失敗、「春の戴冠」におけるサヴォナローラの失敗、「光の大地」における教団の失敗、「廻廊にて」におけるマーシャの挫折などなど。あるいは、「サラマンカの手帖から」で、主人公たちが、サラマンカを去るのもそれに当たるかもしれません。

結局は、真実を目指したとしても、それは現実に必ず跳ね返されるわけです。それはどうしようもない真理。なぜなら、現実が、それが道理にあおうがあうまいが、現実界においてはそれが正しいからです。

がゆえに、そうではない粘り強い取組みが必要とされる、というのが、20年以上辻邦生を読んできた結論の一つです。

こうした、正しさと現実との「ずれ」というものが、あらゆる痛ましい出来事の原因になっている。昨今の事件をみて、そう思わざるを得ません。

今日も短く。グーテナハトです。