Japanese Literature

はじめに──久々に日本文学を。

最近の日本文学がどうなっているのか、正直あまりおさえていませんでした。ですが、最近また文学ブームになっているようで、私もブームに乗り遅れないようにしないといけませんので(?)ちょっと読んでみることのしました。

上村亮平「みずうみのほうへ」

とても重く、切なく、心に残る小説でした。

まずは、なんとも「読みにくさ」を感じました。なぜ読みにくいのか。それは、あまりに情感に訴えられるものだから、です。ここまで心が乱されるようなせつなさを読まされるというもは、かなりの苦痛を感じるのです。

ですが、文学というものが、こころを動かすものだとすれば、この作品にには、あまりにも感情が揺さぶられるがゆえに、あまりに文学的だ、といえると考えています。

父親と二人暮らしだった私にとって、その父親というのは、なにか不思議な魅力を持つ人物で、いつもでっち上げとも言えるような楽しい話をいくつも聴かせてくれるのだけれど、とある日にフェリーに乗った夜、船内で消息をたってしまうという物語の最初から、父親の存在と、それが海へと消えていったというイメージからして、なにか心をかき乱されるのです。

港町で働く私、サイモンという男、隣の家に住んでいた少女との思い出、アイスホッケー場で見かけた女、その夫、それからサイモンが面倒を見ていた移民の男の子という登場人物は、いずれも関係があるわけですが、明示的な記載は少なく、論理整合性というようなものがあまりありません。

たゆたうようでいて幻想的とも象徴的とも言える幾つかの印象的な場面があり、読者の解釈の自由が多く残されているように思います。

どうもオペラをこの10年観ていたということもあって、テクストの解釈とか、テクストをどう表現するのか、というようなことを考える習慣のようなものができてしまいました。この「みずうみのほうへ」は、素材としての文学が、読者においていかにして昇華していくのか、ということが問われているように思います。

とにかく、読むのが辛い小説なのですが、それはあらゆる悲劇と同じなのでしょう。もちろん、この作品の最期はハッピーエンドにもとれますが、ですが、それを許さない世界の重さをも感じるものであったと考えています。

今日の一枚

セルジオ・メンデスって、2011年の東京JAZZに登場しましたね。懐かしくてApple Musicで聴いてしまいました。
リー・リトナーも、かつてセルジオ・メンデスのバンドに傘下していたようで、リトナーのブラジリアンテイストの源流がセルジオ・メンデスにあることをあらためて認識しました。なんだか夏らしい曲で、散歩しながら聴いたのですが、なかなか楽しい体験でした。

それではまた。グーテナハトです。

Book

なんとも寂しい限り。

はじめに──PC、スマホ、活字を断つ

今週、夏休みです。夏休みに是非やりたかったことが二つありました。一つは、一日でもよいので、PCやスマホを全く使わない日を作る、ということです。もう一つも同じく、一日でも良いので、活字を絶対に読まない日を作るということです。

今週の火曜日、水曜日と、PCもスマホも使わず、活字を読みませんでした。やってみて思ったことは、いつもと違うアンテナが強くなるということです。どうしても、ウェブの情報を多かったのですが、PCもスマホも活字も断つと、情報はテレビやラジオとなってしまいます。

おかげで、テレビの良さを少し見なおしたりしました。結構ETV(教育テレビ)が面白いです。「100分de名著」という番組では、小泉八雲「日本の面影」特集をやっていて、明治期の失われた日本文化のようなものを垣間見たりしました。

それから映画の大切さもあらためて痛感しました。120分という凝縮された時間のなかにストーリーを埋め込むという作業は驚異的ですね、などと。映画も観ないとなあ、とあらためて。

リブロよさらば──リブロ池袋店の閉店

昨日から、ようやく活字を読み始めました。もう少し新鮮味を感じたりするはずでしたが、淡々と新聞を読み始めたり、本屋に行ったりしました。

その本屋というのが、リブロです。リブロの池袋店は、セゾン文化発信の場として有名でした。人文思想系の品揃えが素晴らしく、というのが決まり文句のようですが、確かに、一階の一等地に思想書が沢山並んでいたのをつい最近も驚いたものです。また、地下の文学関連や文庫の品揃えも素晴らしかったです。採算に合うのか、本当に心配に思ってしまう程です。

数年前までは、家が遠かったこともありあまり利用する機会もありませんでしたが、この数年は池袋に立ち寄る機会が増えたこともあり、良く利用していたところでした。本当に残念です。

報道によれば、リブロの後継は三省堂書店池袋本店となるそうです。なにかリブロのとがったところが好きだったので、そうした路線がなくなることは本当に残念です。特に書籍館1Fの下りエスカレータの前にあったカルトグラフィアコーナーの企画なんて、本当に尖ってましたし、最近もそこでずいぶん勉強させられました。

終わりに

にしても、本読まないと。でも、こうやって「読まないと!」と意気込めば意気込むほど不毛な読書になりがちなので気をつけたいものです。活字断ちは、なにかこうした変な意気込みをデトックスしたかったというのもあるのですが、2日ぐらいでは効果は現れませんでした。つうか、本当は本が嫌いなんじゃないか、と疑ってしまう今日このごろです。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

Book

リトル・ブラザー
リトル・ブラザー

posted with amazlet at 15.06.09
コリイ・ドクトロウ
早川書房
売り上げランキング: 629,093

コリイ・ドクトロウのことを知ったのはこちらの記事でした。

フリーとシェアのために戦うデジタル戦士「コリイ・ドクトロウ」への念願のインタビュー!

私は、このライフハッカーというウェブサイトが大好きで、毎日毎日かかさず読んでします。特に大好きなのがHow I Workというシリーズです。ここで、アメリカのギークうやスタートアップの人々が何を考えてどういうふうに仕事をしているのかを垣間見るのが面白く
そこからいろいろなスキルを盗んでいます。

それで、このHow I Workのインタビューに登場したコリイ・ドクトロウの代表作がこの「リトル・ブラザー」というわけです。

まだ三分の二ほど読んだところですが、本当に興味深く面白いです。

サンフランシスコがテロで大きな被害を受けてから、国家がテロ対策の名目で、市民の権利を徐々に制限していく過程を、高校生の視点から描いています。

と書くと、なんだかお硬い物語に見えてしまいますが、実際には主人公はITに通じたギークな少年で、ネットワークやセキュリティ知識を活かして、国家との知恵比べをはじめる、といった感じの、ジュニア向けともいえる小説になっています。

とはいえ、大人が読んでも実に読み応えがあり、たしかに、ITが発達した今日においては、この小説に描かれるように国家権力によって、情報が読み解かれ、個人の自由やプライバシーはなくなっていくのではないか、という、直面している不安のようなものを言い当てている小説だと思います。

そういえば、戦時中を過ごした年配の方は、インターネットを極度に恐れているように思います。辻邦生の奥さんの佐保子さんもやはりインターネットに恐怖を感じておられた、という話をどこかで読みました。

これは、おそらくは戦時中の情報統制の記憶と、現代のインターネットがもつ危うさがつながっているのではないか、などと思いました。

この本を読むと、私も、コーディングをしたくなります。コーディングは、文章を書くのと同じように、世の中を変える可能性を持つものですから。

それでは取り急ぎグーテナハトです。

Book

昨日から、思うところがあって、鈴木三重吉の「古事記物語」を読んでいます。Kindleで無料で読めます。多分
30年ぶりぐらいです。

古事記物語
古事記物語

posted with amazlet at 15.06.02
(2012-10-01)

古事記物語は、小学生高学年向けの本を何度も何度も読んでいた記憶がありますが、今回の「古事記物語」は、おそらくは当時読んでいた本の元ネタなのではないかと思いました。がゆえに、大人なら分かる激しさのようなものもいくらかあって、なるほどね、という感じです。

いや、本当に神話の世界とはいえ、殺戮の物語に満ちているなあ、というのが印象です。今日読んでいたヤマトタケルノミコトの討伐は、ほとんどだまし討ちのような記述になっていて、したたかだなあ、という印象です。八百万の多様性なんてものはなく、従わないものは有無をいわさず殺戮する、というトーンです。

こういうしたたかさ、というものは、その後の日本では失われていったんでしょうか。おそらくは、江戸時代の鎖国が日本を変えたということになるのだと思いました。

それにしても、ギリシア神話にそっくりなエピソードが幾つかあるのには、あらためて驚きます。イザナミを黄泉の国に迎えに行くのは、オルフェウスの神話とそっくりです。それから、大物主命の正体を突き止めるところでは、糸巻きが登場します。まるでクノッソス宮殿の神話とそっくりです。

先日、去年の伊勢神宮と出雲大社の遷宮を特集したNHKスペシャルを、レコーダーのなかから引っ張りだしていまさら観たのですが、そのときにあった、大国主命の国譲り神話が、おそらくは国をめぐる激しい攻防を神話にデフォルメしているのだろうなあ、というところは強く思いました。あんなにたんたんと国譲りするわけがないのですから。

先日フーコー関連書を読んだ時に思ったのが、正式文書に真実はない、ということでした。ですが、最近は、そうではなく、正式文書は全てが真実ではないが、いくばくかの真実は含まれている、のだとおもいます。古事記の中にも、失われた歴史がいくばくかは織り込まれているのだろう、などと想像すると面白いです。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

Book,NNTT:新国立劇場

これも、私のタスク台帳にずっと残っていたのが、こちらの本について。

オペラ座のお仕事――世界最高の舞台をつくる
三澤洋史
早川書房
売り上げランキング: 186,811

新国立劇場の合唱指揮をしておられる三澤さんの本です。

オペラの舞台裏が分かる最高な一冊なのですが、私の積年の謎が解けた、と思った部分がありました。

今手元に本がないのですが、たしか「バイロイトの合唱ではなく、ベルカントをめざすことにした。日本人にはそちらのほうがあっている」といった趣旨のことを書いておられたと思います。それが、2011年の夏以降だされていた、と記憶しています。
どうもその辺りに、新国立劇場合唱団のレベルアップの秘密があるのではないか。そう思いました。

一方、私が「新国立劇場の合唱が変わった!」と思ったのが2012年3月の《さまよえるオランダ人》公演でした。あの時の男声合唱の迫力、力強さには身を乗り出して聴き入った記憶があります。

それ以降の合唱の力強さにはいつも感服しています。演技もきっちりやられますし、声もすごく出ていて、スゴイなあ、といつも思っています。

ここ数年、合唱指揮の三澤さんが、指揮者に乞われてカーテンコールに呼ばれるシーンを良く目にするような気がします。それほど素晴らしいということなんだと思います。

明日は運が良ければ《ばらの騎士》です。ハイティンク、ショルティ、ウェルザー=メストで予習しました。どんなパフォーマンスなのか。期待大です。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

先日の喰違見附の記事の出典を探すために読んでいたこちらの本。ついぞ見つからなかったのですが、ついつい読みふけってしまいました。

写真 1 - 2015-05-24

時刻(とき)のなかの肖像

時刻(とき)のなかの肖像

posted with amazlet at 15.05.24
辻 邦生
新潮社
売り上げランキング: 345,807

この本を買ったのはおそらくは1992年だと思います。もう23年前になりますか。当時は古書店に行く習慣もありませんでしたので、駅前デパートの書店で新刊として購入しました。当時1500円ですが、今から思えば安いと思います。いまなら2000円以上はするのではないでしょうか。

このなかに「初日影のなかで」というエッセイが収められています。
ここでは、辻邦生が正月になると「どこかに逃げ出す」ということから始まります。正月は、自分一人で自分流に新年を祝うというわけです。

その後、特に日本的な正月が嫌いなわけではない、というふうに続き、幼い頃の正月の美しい思い出や、パリ留学時代の正月の思い出などが綴られます。

正月は静かに明けてくる朝のすがすがしさがよく、初詣は、大勢の参拝客でごった返すようなものではなく、「霜の暁闇の震源な気分」や「太古の清浄感」などとあります。

しかし、ある時期それを棄てた、といいます。その理由は、「戦前の古い生活形態や戦争中のいまわしい記憶が、そこにまつわりついていたから」であり、「古い亡霊までよびだすのでは、なんともやり切れない。だれだって、戦後三十年をムダに暮らしたわけではない。亡霊はもういなくなったと思って古い部屋の鍵をあけたら、またそれのとりこになる、では、戦後が何のためにあったのか、わからなくなる」と書いています。

やはり戦争中を体験した方にはこうした共通意識があるのだなあ、と思いました。今年は戦後70年にあたりますが、1978年がすでに40年近く前となっていて、と思うと、当時は、ついこの間戦争をしていた、という気分だったのだろう、などと想像すると、なにか辻邦生の感覚が理解できるような気がします。

「時代を生きたということ」と、「歴史として知っているだけ」ということのあいだには、決して乗り越えることのできない壁のような大きな断絶があるのでしょう。それを乗り越えようとしても乗り越えられないのでしょうから、乗り越えられないと思えば、壁の向こうにあるだけで、耳をそばだてても、目を凝らしても、ただそこにあるのは、無機質な未知でしかない、ということになるのだと思いました。

一方で、辻邦生は、正月があってくれたほうがいい、と言ってエッセイを締めくくります。自分流に深く正月気分を味わうために、正月から逃げ出すのだ、ということなのだそうです。

初出は1978年1月1日。読売新聞に掲載されたものだそうです。そうした事実もまた味わい深いものがあります。

では、おやすみなさい。グーテナハトです。

Book

最近興味を持って読んでいるこれらの本。

ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル: 時代に埋もれた女性作曲家の生涯
ウテ ビュヒター=レーマー
春風社
売り上げランキング: 410,879

ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルという方の伝記二冊です。この方、フェリクス・メンデルスゾーン=バルトルディの姉に当たる方です。みなさまはご存知でいらっしゃいましたか? 私は最近まで存じませんでした。

ファニーは、80年代以降、見直されつつあるようで、日本語の文献はこちらの二冊があり、フェリクス・メンデルスゾーンの伝記の随所にも登場しているようです。

今日、5月14日は、ファニーのご命日です。ファニーは1847年に41歳の若さで亡くなりました。

じつは、このファニーという方は作曲やピアノに秀でた方で、フェリクスがライバル視していたほどだったようです。

メンデルスゾーンがヴィクトリア女王と謁見したときに、女王が選んだメンデルスゾーンのお気に入りの歌曲は、実は、フェリクスの作ではなく、ファニーが作ったものをフェリクスの曲として出版したものだったとか。(ゴーストライター?)

また、フェリクスの業績として知られるマタイ受難曲の復活公演においてもファニーは重要な役割を果たしたそうです。

噂では、グノーの「アヴェ・マリア」もファニーが作ったという説があるらしいです。。

才能ある女性でしたが、因襲に縛られ、家庭を守る良き主婦としての役割を全うすることを一義として、演奏や作曲で活躍したというわけではありませんでした。19世紀前半で、革命後とはいえ、やはりこうしたモラルがまだあった時代なのですね。

ウテ・ビュヒター=レーマーさんの「ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル:時代に埋もれた女性作曲家の生涯」は、女性からの視点で、女性であるがゆえに、音楽家として活躍できなかったファニーの無念さのようなものが実感できる快作でした。まあ、こうした性別に拠る役割というのは、女性が故に、ということもあるでしょうが、男性故に、ということもあるでしょうから、どなたが読まれてもなにか感じることがあります。

山下剛さんの「もう一人のメンデルスゾーン─ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルの生涯」は、実にしっかりとした伝記という感じです。編年の記述は実に理性的で、歴史的事実としてのファニーの生涯を俯瞰できる素晴らしい書籍でした。というか、あのグノーが《ファウスト》を書いたのは、ファニーの影響なんですね、なんてことも実に鮮やかに描かれていました。

二冊を読んで、19世紀前半のドイツの空気が少しかいまみえたような気分です。ウィーン会議後の反動のヨーロッパにおいて、失われた理想のようなものを懐かしむようなシーンもあって、なにか胸に迫るものがありました。

楽曲もNMLでいくらか聴けます。あのトリスタン和音を、《トリスタンとイゾルデ》より前に使っていたという話もあり、なかなか興味深いです。

ではグーテナハトです。おやすみなさい。

Tsuji Kunio

The statue of the gate in Kanda Myojin.

少しご無沙汰しました。 先日おまいりした神田明神の門の写真です。朱色が美しく春の日差しに映えていました。

お参りのご利益で今年最後の大仕事が無事に終わりました。すでに気分は新年度です。

辻邦生の「夏の光満ちて」。

写真 1 - 2015-03-28

夏の光満ちて―パリの時 (1982年)
辻 邦生
中央公論社
売り上げランキング: 967,798

1980年6月からパリに滞在した時の記録です。以前紹介している「春の風駆けて」が属するシリーズ「パリの時」の一冊目にあたります。

書かれたのはいまから35年前のことです。つい最近のことのように思いますが、本当に別世界のようです。1980年の35年前は1945年です。現代と終戦のちょうど中間地点が1980年、ということですか。

あまりに現代と離れているので、これはもうほとんどフィクションの世界です。それは時代もそうですし、パリという場所が離れているということもありますけれど。おそらくは日記をもとに書かれたものですが、これもおそらくは「のちの思いに」のように、あるいは歴史小説のように、「歴史そのままと歴史はなれ」を体現したものなのかも、と思いました。

とにかく、まだ時間の流れが違っていた時代でした。別に懐古主義というわけではありませんが、郷愁を感じないといえば嘘になります。

石は生きているがセメントは死んでいる

「人間であること」を除いたら、いったい何のために生きているのか。太陽を、河波の反映を、雲を、葡萄酒を、通り過ぎる女たちの微笑を、心から楽しまなくて、どうして生きているといえるのか ──

このような引用は、真実を表しているのでしょうが、現代においては誤っているのでしょうね。こんなことを言ったもんなら、変人扱いされます。

ではグーテナハトです。おやすみなさい。

Tsuji Kunio

Photo

週末に撮った春の空。霞がかかり、冬空にはない、なにか言いたいことがあるような空の色です。黄砂かとも思いましたが気象庁のデータではそうではないみたいです。

 

先週末にも書いた件。

生活の立て直しを進めていて、ようやく先が見えてきた感じがあります。送別会などもほぼほぼ終わり、来年の新しい生活に頭が切り替わってきた気がします。

しかし、生活のための仕事に邁進できるのも、日々、よく食べて、よく飲んで(?)、音楽を聴いて、本を読んで、少なくとも300メートルぐらい泳いで、計画的に、という足腰を鍛える活動を続けているからではないかと思われます。

特に、水泳はいいです。前にも書きましたが、ゆっくりと長めに泳ぐと、規則的な呼吸が禅や瞑想と同じ効果をもたらしている気がします。

うまくいかないことも多々ありますが。特に読書は思うようには進みません。このままでは目標が、危ういかも。

それでこちらを。

春の風駆けて―パリの時
辻 邦生
中央公論社
売り上げランキング: 901,825

なんというか、言葉がないです、

私はまた、辻邦生を理解していない、と強く思いました。もうすこい読み続ける必要を感じています。といいながら、そろそろ読了です。

この「春の風駆けて」の268ページ以降で展開される「小説家は紙と鉛筆があれば、どんなたのしい世界、神秘な世界でも作ることができる」という直感は、常人にはなかなか理解することができないでしょう。

ただその次のこの言葉。

「絶えざるこの世への淡白性、無関心。「夢」にのみ生きて、そこに、ふつうの人が「現実」に感じるのと同じ思い現実感を感じつつ生きる」

という直感は、なにかわかるような気がします。

最近、自分が透明になっていくのを感じていて、それこそがつまり「絶えざるこの世への淡白性、無関心」なのかもしれない、などと思います。

まあ、人に「最近透明になってね」ということをついつい口走ってしまい、ギョッとされるのですが。

以前から書いている「この世を哄笑する」の行き着く先が「透明になる」なのかもしれない、などと思いながら、そうは言っても生活ための仕事は大切ですから、などと思いながら、自宅にて今日も夜更けにアルコールを楽しみながら過ごしました。

ではみなさまもゆっくりお休みください。グーテナハトです。アディオス。

Book,NNTT:新国立劇場

Photo

先日行ったレストランにて。鮮やかな生ハム。

それにしても、才能って、羨ましいです。センスがある方というのは、こんなにトントン拍子に物事が進むものなんですね。

新国立劇場合唱団の指揮をされている三澤洋史さん本を読んでます。音楽できる方って、本当にこういう方なんですよね、という感じ。まあ、こうでなければ、クラシックの道に入ってはいけないのかなあ、なんて思います。

オペラ座のお仕事――世界最高の舞台をつくる
三澤洋史
早川書房
売り上げランキング: 112,027

詳しくは読了する予定の明日まで。本日は予告編。かなり面白いですよ。

では取り急ぎグーテナハト。