Tsuji Kunio

2002年に訪れたデカルト街37番地。辻邦生が住んだ部屋です。

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建物を見上げる。いまはプレートが付いているはずですが、当時はありませんでした。

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通りの様子。隣の中華料理店の建物には、ヘミングウェイが住んでいた部屋があります。

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自宅にあるこちらを読んでいまして写真を載せることにしました。

たえず書く人

Japanese Literature

今日も東京地方は涼しい一日だったようです。一日中仕事場に居ました。今年の東京地方は残暑がないですね。日本全国同じでしょうか。ようやくセミの声も聞こえなくなってきた用に思います。

先日、モンマルトル日記の一節を書きました。小説家など芸術家が思う生と死が一つのテーマだと思いましたが、岡本かの子の「鶴は病みき」のワンシーンを思い出しました。

「鶴は病みき」は、芥川龍之介がモデルの麻川という文士と主人公が対話する小説で、10年以上前に読みました。ただ鮮明に覚えているのは、生死の問題でした。

麻川=芥川は、「たった一つ残す自分の仕事によって、死後の自分と、現在との聯絡はとれるものだと思ってますな」というのですが、葉子=岡本かの子は「死後に全々消失する個性的な自己というものに、なんの関係もありはしない……あると思うのは、あとのこの世に残った人達の観察に過ぎないんでしょう……」とかなり即物的なことを言います。で、麻川=芥川は、ずいぶん寂しいことをいいますね、と半ば呆れながら、葉子=岡本かの子と皮肉合戦を繰り広げるというシーン。

そんなことを思い出しました。芸術家というのは、おそらくは自分の生きた痕跡を残したいのだと思いますが、それは誰しもあることなんですが。ですが、冷静に考えると岡本かの子の言うとおりなんですよね。死後の自分を語ることはできない。語りえぬものを語ってはならない。

それにしても、いま少しばかり目を通した「鶴は病みき」。怖ろしい小説です。ほとんど実話なのだと思いますが、これが本来的な日本文学なのでしょう。

それではおやすみなさい。

Tsuji Kunio

はじめに

曇り空の一日。

どうやら最近働き過ぎのようですので、休息日としましたが、キーボードを叩くのが辛く(肩こりで)、ひいひいいいながら一日過ごしました。痛み止めを飲んで、長風呂につかって、という感じ。夜になって少し落ち着きました。辛いのはキーボードもそうですが、ペンを持つのも辛いですし、本を持つのも辛いということです。なんだか、ちょっとどうにかなりませんかね、と思います。

モンマルトル日記

ですが、一日家で過ごしたおかげで、いろいろと読みなおすことが出来ました。限られてはいますが、今日読んだのがこちら。
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辻邦生歴史小説集成第十二巻に収められた「モンマルトル日記」のなかから、おそらくは有名な部分。1968年11月30日のところ。

このところ、ずっと自分が死んで、いなくなることを考える。信じられぬようなことだが、それは必ずくる。そのときになってあわてず、自分の生をいきることだ。今まで自分の好きなように、思いのまま、力いっぱいの仕事をしてきた。これからも同じように全力を尽くして、人間と、芸術について考えぬくことだ。真に考えぬき、真実に生きたことだけが人間をうち、人間をうったものだけが人間の遺産となる。自分の仕事を完全に成熟させるための距離と、自由をつねにもつこと。

辻先生が43歳の時の言葉ですね。ちょうど「嵯峨野明月記」を書きつつ、「背教者ユリアヌス」の構想が始まる頃のことです。この後「背教者ユリアヌス」が書かれ、「春の戴冠」が書かれ、「ある生涯の七つの場所」が書かれ、「西行花伝」が書かれるわけです。

なんというか、言葉が見当たらないです。まあ、これは誰もが思わなければならないことであり、かつ誰もが思いたくないことで、私もそんなことは思わないです。いつもは。

ですが、昨今はこういうことが心に響くようになりました。人の一生を様々なかたちで見ようとしているからなのだと思います。

今日の一枚。

レヴァインの《パルジファル》。来月開幕の新国立劇場の《パルジファル》もリハが始まっている頃と思います。私もチケットを取りましたが、所用のため行けるかどうかわかりませんが、とにかく聴かないと、ということで。

私は第一幕のアンフォルタスのモノローグが大好きです。あれほど人間らしい慟哭はないのではないか、と思います。このアルバムではジェームス・モリスが歌っています。すこし英雄的なアンフォルタス。

Parsifal
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※パルジファルでググっていたら、あまりに面白い記事がたくさん出るので止まりません。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

先日、哲学科の先輩と話した時のこと。いわゆる倫理というものも、実は相対的なものであり、たとえば、西欧における倫理観と中国やイスラムといった別の文化圏における倫理は違うのではないか。というような話をしました。ですが、先輩は、それは倫理の問題ではなくイデオロギーの問題であり、すり替えてはならない、ということをおっしゃいました。

そのことを最近はずいぶんと考えています。

辻邦生先生の「遥かなる旅への追想」のなかに、バルテノン体験について書かれている場面があります。そのなかで、まさに辻文学のテーゼが書かれています。

遥かなる旅への追想
遥かなる旅への追想

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辻 邦生
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私は、ギリシアの神殿がそこにあるということのなかに、私達の人間が人間であろうとすること、つまり自然放置の状態のままでなく、よりよい状態に人間を導いいていくことが、人間にとって本質的なことなのだ、と思わせる根拠があるに違いないと思えてきたのです。

辻邦生「遙かなる旅への追想」139ページ

だが、これは西欧偏重ではないか、という疑問を思わざるをえないのです。歴史の終わった現代においてなお、ギリシア、ヘレニズムのを典拠とする意味があるのか、という問いです。

ですが、それはやはり、現代の世界の基本思潮となる、フランス革命以来の基本的人権というものが、ひとつの拠り所になるのだ、という気がしています。

パリに行った理由の一つは、我々が考えている自由・正義・愛といった言葉は、日本で考えると、いかにも「観念」にすぎないものに見える。しかしヨーロッパ的風土のなかではぐくまれ、それを我々が継承しているとすれば、本場に行って考えたなら、それは決して単なる「観念」というものではないのではないか。

辻邦生「遙かなる旅への追想」138ページ

うーむ。現代の価値相対主義的時代において、この価値観をどこまで保持できるのか。当初書いた「イデオロギー」の違いだけで解決できるのか。

さしあたりこの問題と、iPhone6を買うべきか否かを考えながら、今日は休もうと思います。

それではおやすみなさい。

Tsuji Kunio

目白駅。辻邦生ゆかりの地です。

先週もですが、今週もまた目白に来ました。目白駅の階段を登りながら、20年前、きっと辻先生もここをのぼりおりしておられたんだろうなあ、と思いました。たしか山手線で福永武彦と文学談義をしていた、というエピソードがあったと思います。一緒にこのホームに立っていたこともあったのでしょうかね。

で、気迷いのころは、この本に必ず戻ってきます。私の座右の書にしてバイブル。嵯峨野明月記。毎度毎度取り上げていて、飽きてしまうこともあると思います。申し訳ないです。

嵯峨野明月記 (中公文庫)
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この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく、正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生れるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。<中略>だが、この世の背理に気づいた者は、その背理を受け入れるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。だが、それは嘲笑でも、憫笑でもない。それは哄笑なのだ。高らかな笑いなのだ。生命が真に自分を自覚したときの笑いなのだ。<中略>おれはまだまだ描きつくすものがある。絵師とは、ただ絵を乾坤の真ん中に据えて、黙々と、激情をそのあかりとして、絵の鉱道を掘りすすむ人間だ。くそっ、こんなところで、おれが足踏みしてたまるか。おれという人間なぞ、どうでもいいのだ。風神雷神の前で、おれなど、いったい、何だろう……おれなど、この俵屋宗達という男などは……。

辻邦生「嵯峨野明月記」

俵屋宗達の最終場面のモノローグです。これまでここで取り上げたのは、この世の背理を哄笑する、という場面だけに着目してそこから先まで取り上げていませんでした。哄笑するだけでは先に進まないこともありますが、ここでは哄笑し、自分を自覚する、とあります。ですが、その最後、自作の風神雷神像の前で自分がなくなっているように思います。つまり、自作のまえで自我が極小かしているわけです。おそらくは風神雷神の中に自我が溶け込んだような境地と言いましょうか。

このあと取り上げられる本阿弥光悦のモノローグにおいて、「太虚」の境地が出てきます。この中では「私」が太陽や空や花と同じものになる、とあります。

つまり、芸術作品のような自己の創造的営為により、まるで禅の悟りのように世界と一体化し、そこには主客がない状態になっている、という風に感じられます。

引用で「お前さん」として登場するのは、又七という絵師です。彼はこの世の不条理を呪詛するがごとく、極彩色の毒々しい絵を書き連ねているわけです。

そうした世の不条理も笑い飛ばせ、というわけです。

これは、この笑いは、もともとはニーチェではないかと考えています。

哄笑する者のこれらの王冠、バラの花を編んだこれらの王冠、これらの王冠を、私の兄弟たちよ、私はあなたがたに投げかける。哄笑をわたしは聖なるものと宣言した。あなたがた、高人たちよ、学べ──哄笑することを。

このあたりは継続調査ですね。

ただ、最近わからないのは、哄笑し続けることで生きることができるのか、ということです。あまりに実践的なといで、同じレベルで考えることができるものではないのはわかっていますが……。なんだかまとまりのないつぶやきのようなエントリーになりました。この間違った世界を笑い飛ばしてそのあとどうする?という疑問の回答は人それぞれで、それは一生かけて答えを出していくものなのだと思います。私にも私なりの答えがあるはずなんですがまだ見つからないです。見つからないのが当たり前です。

すこし時間がかかりました。もうすっかり秋の夜長になってしまいました。もうすぐ9月。名実ともに秋となります。みなさまも良い秋をお過ごしになれれますように。

それではおやすみなさい。

American Literature,Book,Miscellaneous,SF

先週から、ハインラインを二冊読みました。学生時代に読むべき本でした。今更読んで本当に残念。
今回読んだのは「スターファイター」と「銀河市民」です。いずれも、実に古典的な物語構成で、大変勉強になりました。

スターファイター (創元推理文庫)
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「大宇宙の少年」という題名で新訳も出ているようです。

大宇宙の少年 (創元SF文庫 ハ 1-7)
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「スターファイター」は、月旅行に憧れる高校生が懸賞で偶然手に入れた宇宙服を使っていたところ、異星人にさらわれ、異星人の月面基地に監禁されてしまうという物語。脱出、捕縛、救出、どんでん返し、と物語の王道を歩んでいます。ですが、その意外性や、スケールの大きさ、人類一般への深い洞察、科学的技術的に緻密な考察など、本当に物語の喜びが横溢している作品です。

銀河市民 (ハヤカワ名作セレクション ハヤカワ文庫SF)
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「銀河市民」も、奴隷の少年ソービーのビルドゥングス・ロマンであり、貴種流離譚という物語の王道です。乞食に拾われたソービーは自由商人の中で頭角をあらわします。実のところ、彼は世界最大級の大富豪の跡取りで、奴隷制度根絶のために力を注ぐというストーリー。こちらも本当に面白かったですが、本当はもっともっと長い物語のはずで、おそらくは制限などによってかききれなかったか、ハインラインが飽きてしまったかのどちらかだと思いました。あるいは日本語訳が抄訳なのかもしれません。

ちなみに、会社の若い皆さんに「ハインラインしっている?」と聴いたところ、誰も知りませんでした。私の少し上の先輩に聴いてみたところ、ご存知でした。「夏の扉」を読まれたそうです。

もっとも、「スターファイター」も「銀河市民」も両方とも1950年代の作品です。いまや古典だし、読まれることも少ないのですかね。少しさびしいような残念なような。でも「宇宙の戦士」は機動戦士ガンダムの元ネタではないかと言われていますので、現代日本のアニメの源流の一つがハインラインともいえるのですけれどね。

今日は家族通院のため、割当てられた社命公休をいただきました。考えごとをしたり、IT関連の勉強をしたり、書評を書いたりとまあまあ生産的な一日でした。暑い一日でしたが皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか。

それではおやすみなさい。

Tsuji Kunio

なんだか続く暑い毎日。徐々に消耗しています。最近は、上着を着て出かけています。どうも仕事場や地下鉄の空調が強すぎて強すぎて仕方がないのです。早く秋が来ないかな、と。私が生まれたのは秋。秋ラヴ。

天草の雅歌 (新潮文庫 草 68F)
辻 邦生
新潮社
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篠田一士さんが新潮文庫の天草の雅歌の解説を書いておられますが、その中で実に心を打つ言葉がありましたので紹介します。

こうした愛の讃歌のなかに、作者がにがい思いをこめて、ひそかに仕組んでいるのは、われわれの内面を久しいあいだにわたって律してきた鎖国的心性への容赦ない批判であり、

こうした、鎖国的心性というのは、私の理解では、自らの利益を守るために、国を閉じることが得策として、貿易を封鎖し、国を閉じたということです。そこには進取の気鋭のようなものは一ミリもありません。単なる保身と停滞です。その先にあるのは既得権益を十全に用いた支配の構図ということになるでしょう。それがこの「天草の雅歌」において語られていたのだと思っています。そしてそれは今もなおアクチュアルな問題としてあるはずです。混血のコルネリアは、日本と海外の架け橋となるべく働くわけですが、そうした個人的検診というものも国家の巨大な慣性の力には為す術もなかったわけですね。

では、我々に出来たことは何だったのか。主人公の上田与志は、あえて密航を企て、捕縛され、最後は切腹を与えられます。巨大な慣性には個人の死でしか報えないのか。ハンガーストライキのような身を捨てた抗議でしかなしえないのか。それでもなお巨大な慣性はジリジリと動き続けるのでしょうから。

今日は少々考えすぎました。また明日まで、おやすみなさい。

Book,Classical

バーンスタイン: アメリカが生んだ偉大な指揮者 (KAWADE夢ムック 文藝別冊)
河出書房新社 (2014-07-23)
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はじめに

暑い日が続いています。みなさま、体調はいかがでいらっしゃいますか?
私は、昨夜は空調を切って眠りました。お陰で今日は少し体調がよくなりました。今年にはいて、どうも仕事場の空調が強すぎて、昼間はブルブル震えています。そんなせいで体が冷えきっていたようです。暑さの中で寝たことで、新陳代謝がよくなったような感じで、ずいぶん楽になりました。
この夏を空調なしで乗り切るのも難しい状況ですが、そうはいても空調も使い過ぎは禁物ですね。

バーンスタインのムックが出ました。

河出書房新社からバーンスタインのムックが出ました。昨日入手し読み始めています。
バーンスタインのことは知っているようで知らないのかも、と反省しました。ブラームスの交響曲や、あとで触れる《トリスタンとイゾルデ》などでずいぶん感動しましたが、実はマーラーやベートーヴェンをちゃんと追えていないということに気付かされてしまいました。他にもシベリウスなどにも興味ありますね。久々にCDを買おう、と思いました。
コンパクトにバーンスタインのことがまとまっており大変お勧めです。

黒田恭一さんのこと

この本で感動したのは、故人となってしまった岩城宏之さんと黒田恭一さんの文章が載せられているということ。特に黒田恭一さんが1985年にバーンスタインにインタビューをした当時の記事は素晴らしいです。
バーンスタインの人となりが分かりますし、なにより黒田さんのインタビュアーとしての機知と気遣い、そして綿密なデータをもとに解説するプロ意識にただただ脱帽しました。
黒田さんはNHK-FMでの解説で30年以上まえに存じて、本なども何冊か読みました。2008年には新国立劇場のオペラトークに司会で出演されました。
https://museum.projectmnh.com/2008/09/15235830.php
https://museum.projectmnh.com/2008/11/23213311.php
それから、こちらの本。黒田恭一さんの初心者に向けたクラシックの聴き方の本です。私はこの本を中1の時に読み「コンサートの予習は必ずせよ」「コンサートには一時間前に会場入りせよ」という教えを忠実に守っています。

はじめてのクラシック (講談社現代新書)
黒田 恭一
講談社
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バーンスタインのこと

私がバーンスタインといって思い出すのはこちらのアルバムです。
あまりに豊かで潤いのある音楽に仕上がっています。おそらくはかなり遅いぐらいのテンポで動かしています。この速度で、この曲をやられてしまうと、この曲がもつある種の恍惚とした感じとか官能性などが顕になっていくのだと思っています。かつても書いたと思いますが、1980年ごろ、吉田秀和さんがNHK-FMでバーンスタインが振ったベートーヴェン《田園》を「恍惚とした感じ」とおっしゃっていた録音を持っていました。そういう、なにか人間の奥にある情感を思い起こさせる音が、この音源で感じることができるのだと思います。

Tristan Und Isolde
Tristan Und Isolde

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Wagner Behrens Bernstein
Polygram Records (1990-10-25)
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ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

文章を書くというのは、ワープロを打っても同じですけれども、自分の体のなかからリズムになって、文章のかたちで出てくるというふうにしないといけない。そのためには絶えず書く。そして、書いたことに絶望したり、おれは駄目だと、そんななまやさしい、甘っちょろい考えを絶対起こしてはいけない。たった一回きりの人生をひたすら生きている。これは書く喜びで生きているのだから、だれにも文句は言わせない。だれかにこてんぱんにやられたって、全然平気。書く喜びがあれば耐えられる。

辻邦生「言葉の箱」
今日は命日ですね。15年目にあたります。新聞記事の切り抜きも時代を感じさせるぐらい変色してきてしまいました。
この文章は、「言葉の箱」という死後出版された講演録からの引用です。CWSという小説家を目指す方の講座があるのですが、そちらに講師として招かれてなんどか講演をされたようで、その模様がこの本に収められています。何度か紹介もしています。

言葉の箱―小説を書くということ (中公文庫)
辻 邦生
中央公論新社
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通常、辻先生の講演は、ご自分で書き直しをされてから出版されることが多いのですが、この本は書き直しがありませんので臨場感あります。特にこの最後の部分ですが、逆に言うと、こういうご苦労があった、というふうにもとれるわけです。どこかで読んだのですが、最晩年の頃、なかなかいろいろな場面で取り上げられず、辛い思いをされていたようです。たとえ、そうであっても「絶望」したり「オレは駄目だ」などというような「なまやさしい」「あまっちょろい」考えを起こしてはならない、という強い意志が現れているのだ、と思っています。
たった一回きりの人生を、諦めずに喜びにあふれたものにしないといけないですね。小説を書かない人間にとっても励まされるような気分になる言葉です。
ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

小説への序章

「われわれの意識、われわれの認識、われわれの真理感覚が今日のような状況にあるとき、(外見を目的とするような)遊びがなお許され、まだ精神的に可能で、真剣に取り上げられるべきかどうか。自足的、調和的にまとまった作品そのものが、われわれの社会情勢の不安定さと問題性と不調和とに対して、なお何らかの正当な関係を有しているか」

辻邦生(1976)「小説への序章」河出文藝選書 245ページ
これも辻邦生「小説への序章」にかかれていた、悲痛なまでの芸術的真摯です。倫理と美学の相克に悩んだ辻邦生が昭和36年から昭和41年、つまり1961年から66年にかけて、書いていたことです。歳で言うと36歳から41歳にあたります。
芸術が、社会と如何に関わりを持ち続けるか。乖離してしまうことなく、あるいはあまりに接近することなく、正当に関係を持ち続けることができるか、ということです。
音楽や文学を「社会におけるデザートのようなもの」と評することもあるようです。なくても大丈夫、みたいな。ですが、そうとも一概にはいえないのだ、ということは直感的には分かるのですが、それを述べること自体に抵抗を覚える、あるいは、述べたところで屁理屈にしかならないのではないかというおそれを抱く、などなど難しい問題であるはず。エチカとエステティックの問題です。新カント学派なら「真善美は一致する。だからいいじゃない」というと思いますが。
この本、一昨日から引っ張り出してきて読んでいます。おそらくこれまで一読はしていますが、一読では済まない本だと思ってます。20世紀中盤までのの哲学状況を抑えておかないときちんと読むことができないわけで、ニーチェ、実存、ハイデガーなどが必要です。今となってはこの本で描かれる「現代思想」のあとがあるわけなんですが(構造主義など)、当時の空気を想像しながら読むと楽しいものです。
中身は、楽しいなんて行っていられないぐらいスリリングなんですけどね。
疲労困憊です。暑い一日でした。いつもは昼休みには散歩に出かけますが今日はそれどころではありませんでした。一日中会社にこもってました。
最近眼があまりに疲れます。メガネ屋に行ったら、「老眼ですよ。度を下げましょう」と言われますし。それも恐縮したような感じで言われるもんだから、余計に腹立たしいことこの上ありません。
というか、眼を使いすぎ。スマホで兵器で30分ぐらいはKindle読んでますので、眼が悪くなるに決まっているのです。老眼というより眼精疲労かな、とも思います。そろそろ生活を変えたいものです。
ではグーテナハトです。