Book

久々にいいプロットが読めた気がします。学生時代の記憶がなにか蘇った気分。

カズオ・イシグロ「夜想曲集」

夜想曲集 ハヤカワepi文庫
早川書房 (2012-08-01)
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かつて、辻邦生の「ある生涯の七つの場所」を一年かけて読んだ年がありました。1992年に中公文庫から二ヶ月に一度7冊にわけて刊行されたんですが、学校の行き帰りに一篇ずつ読んだものです。不思議と一篇以上読むことはできなかったわけで、なぜなら、小説世界を瞬断することができなかったから。さすがに濃密なプロットをいくつもいくつも急激に変えることはできないわけで。

ですので、今日もやはり一篇しか読めませんが、なんだかすごかったなあ。冒頭の「老歌手」。

2011年に随分売れたと帯にはあります。たしかにウケるプロットなんですが、まあ、なんというか巧いんですね。

舞台がヴェネツィア。栄光を失い、それを取り戻そうとする老歌手。本当の愛情と方法論の愛情。こういう世界があってもおかしくはない、というリアリティ。愛情の形でいうと映画「髪結いの亭主」における愛情の形にもにた少しうがった愛情の形なんだろう、と思います。

詳しくは是非お読みください。硬派な日本文学がお好きな方には物足らないのかもしれませんが、辻邦生の短篇がお好きな方にはいいかもしれません。

続編は家事をしながら、あるいは昼休みに少しずつ読めそうです。楽しみが増えたなあ。っつうか、楽しみばかり(少しウソですが、それぐらいの気概が大切)。


カズオ・イシグロは「日の名残り」を10年ほど前に読みましたが、あれから読んでなかったです。この本もたまたま入った大型書店で、「新品の本を買う」という贅沢をした結果です。それから1年ほど積ん読だったんですが、昨日家事の合間にたまたま手にとってみたというわけ。この感覚は、図書館の本では味わえないです。

でも、よく考えると高校時代は文庫を買うのが日常茶飯事だったのに。今はなんだかそれも憚れるようになってしまいました。場所がないとか、古本が簡単に変えるようになったとか、Kindleがあるとか、いろいろ理由はあります。でも久々に紙の本を新刊を読むという贅沢を味わいました。そういう意味でもなにか学生時代を思い出した感覚です。

なんだか、読書家失格な発言ですね。。反省します。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

その基本に、もう一度人間を人間らしい展望の中に取り戻す仕事をしようとしているんだという姿勢を取り返していただきたいと思います。

辻邦生「言葉の箱」新潮文庫 45ページ

言葉の箱―小説を書くということ (中公文庫)
辻 邦生
中央公論新社
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久々に、自宅で風呂に浸かりました。ずいぶん寒くなりましたので、湯温を上げてゆったりと。静かな夜でした。

湯船に浸かりながら本を読むのが楽しみなのですが、この「言葉の箱」の文庫本をパラパラとめくりながらしばし体を休めました。どうせ多忙なので、まとまった時間本を読むことなんて出来やしません。ですので10分の読書を何回もやればいいのである、そう思いました。

で、冒頭の一節。

人間らしいとはなにか、という問題はありますが、それは学術的な問題なのでしょう。文学はテーゼを述べてもよいのかもしれず、そうだとすると、ここで言っている人間らしさ、というものが何なのか、というものは自ずとわかってくるはずです。

そうだとすると、思い浮かぶのは、中世ヨーロッパの手工業者の市民的生活でしょうか。辻邦生作品にもなんどかモティーフが現れていたと思います。仕事をしながらも歌を愛するマイスタージンガーのような人物なのかもしれません。あるいは、同じく「言葉の箱」にでてくる、会社の社長をやりながらも、登山に明け暮れる人物のこととか。

最近、ヒューマニズムだけは、人間である以上原理原則になりうる、ということを考えていたこともあって、この文章が眼に入ってきたようです。

明日も早起きの予定です。みなさまも体調にお気をつけて。おやすみなさい。

Book,Proust

買ってしまった…。

ああ、買ってしまいましたよ。まったく。この歳になって、「失われた時を求めて」なんて読めるわけないのに、と思いながらも。読書の秋。でも食欲の秋。どちらの欲で買ったのかはわかりません。

光文社古典新訳文庫でも出ているんですが、まずはこちらから。

そういえば、「失われた時を求めて」を読み終わったら、それが一つのステータスと成り、名刺に書いても良いのである、という話がありますね。

で、最近はなかなか読む時間がない状況ですが、時間があるときにつまみ読みするだけでも癒やされる感じ。しばらくそばにおいておきます。

これ、全部読まないと辻邦生に行き着かない気がしてきました。このまえ「風越峠」をプルーストが、なんて書いてしまいましたので。

ではみなさまも秋の夜長を満喫ください。おやすみなさい。グーテナハト。

Literature

ボルヘスの「伝奇集」。このなかから「バベルの図書館」を読みました。

吐き気というかめまいというか。

無限の図書館に収められた知識の集合ですか。もう気が遠くなる悪夢の世界です。

もっとも、これは悪夢の世界ではなく現実の世界なのですが。大量に増幅拡散する多様な情報と価値観が統御不能になったイメージ。

このブログもそうした膨張する情報の一つなわけで心苦しさもありますが、もはやそれをまとめるものなどなく、エントロピーが大きくなるように、世界は崩壊していく。もっとも、その崩壊は人間にとってであって、全体認識が可能な主体=神のようなものがあるとすれば、それも統御された法則の中名のかもしれない、などと。

現代は「バベルの図書館」はネット上に展開しています。パブリックなものもあればプライベート(とされている)ものもあります。だれも全貌は掴み得ない。それでいいのですが、想像すらできないそうした情報は、おそらくはGoogleが機械的に整理しているのでしょうが、ヒタヒタと水位を上げ、いつか氾濫する大河のような不気味さをたたえています。

そうした過程を冷徹にとらえているものと、と読んでしまいました。

我が家の本も統御不能かも、などと。なんとかしないと。。

それでは、みなさまおやすみなさい。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

岡本かの子って、凄いです。

仏教人生読本
仏教人生読本

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(2014-06-11)

こちら、著作権切れで無料でKindle版が配布されている岡本かの子の「仏教人生読本」まだ読み始めですが、なかなかわかりやすいです。岡本かの子が苦しんだ末に辿り着いた境地だからと思います。

憂鬱のときは、兎に角笑ってみましょう。笑えなくとも勇気を出して笑ってみましょう。
形に心はついて来ます。笑って、笑って、笑ううちに、笑いについて憂鬱がとけて来ます。一種の生理的作用でもあります。

昔も今も変わらないです。

もっとも、実際には誰が書いたものなのか。。

この仏教人生読本はちくま文庫の全集には入っていないようです。中公文庫で出版されたものが青空文庫に収録されたようです。

岡本かの子は、本当に奔放な人生を送った方です。自分の夫、子どもと、自分の愛人と5人で一緒に暮らしたりと、通常の常識を逸脱した生活のようです。まあなにか通常なのか、という問題は有りますが。そうした苦しみのなかで仏教に傾倒したそうです。

とにかく、文章が緊密で、よく磨かれ光り輝いています。短歌をながく歌っていたからでしょうかね。短い文章を繊細に書くことができるからこそ、長編が緊密になるということでしょうか。前から書いていますが結構好きで、短篇はずいぶん読みました。すでに著作権切れていますので、青空文庫で読めます。ただ、長編は未読。まだ到達していないですね。。

今日の一枚

今日の一枚。今日も聴いてしまったレイフ・ヴォーン=ウィリアムズ。ゆったりと時間を書けて聴きたいですが、そんな時間はあるわけもなく。とにかくイングランドってこういう感じではないか、という真実在がここにあるように思います。もしかするとそういうイングランドは実際にはないのかもしれません。ただ、曲としては現前としています。これはこれで一つのイングランド。実際のイングランドと異なっていてもいいのでしょう。

イギリスと書けないのは、最近のスコットランド独立の話題があったから。でも、イギリスって結局イングランドを日本語読みしただけだから、意味ないですね。。イギリスではなく、ブリティッシュとか、ブリテンとか言うべきなんですかね、などと。

Vaughan Williams: THE COMPLETE SYMPHONIES
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風邪ひきました。急に寒くなって体温調整が全く出来ておりません。。薬飲んで寝ます。みなさまに「体に起きをつけて」と申していましたが、結局私ができておりませんでした。。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

本日辻邦生先生の誕生日です。あのお別れの会も15年前の今日ということに成りました。あの日と同じく今日の東京地方は雨模様でした。 

昨日も、「のちの思いに」や「風越峠」をよみながら思いましたが、あの戦中戦後の空気と言うものとの決定的な断絶がそろそろ迫っているのでしょう。

同じ狂気の時代としても、なかなか伝わらないことも多いはず。こうして、時代の記憶は歴史へと姿を変えていくのだと思います。

先日も触れましたが、文学にアクチュアリティを見出すのが良き読み手なわけですが、そうしたものをどうやって普遍化して行くのか。それが課題なのだと思います。

時代は流れますが、人間は変わりません。だからこそ、何千年も命脈を保つ思想というものがあります。思想の享受者である人間は変わらず、欲望を持ち殺戮を繰り返す。それでいてなお、自由と不自由の間を行き来します。現代社会は進んでいるようでいて、実際には回帰しているに過ぎないと思うこともあります。

今日読んだ「のちの思いに」。
のちの思いに

いずれもノンフィクションのように思いますが、実際にはフィクションだそうです。なにか、戦後の新しい時代が到来したというワクワクした感じを感じるのは私だけでしょうか。これは、バブルが崩壊した後に、ITバブルへと至る1995年移行の「世界が変わるのではないか?」という気分に似ているような気がしてなりませんでした。実際にはITは、世界を変えはしましたが、逆に世界を統制する装置として機能しつつあります。

いよいよ秋本番。秋分の日も過ぎ、日は短くなるいっぽうですね。日本は冬の闇の世界へと降りていくわけです。早く冬至が過ぎて、また光の世界へ戻って行きたいものです。

季節の変わり目ですので、みなさまもどうかお身体にはお気をつけて。

それではグーテナハトです。おやすみなさい。

Tsuji Kunio

辻邦生「風越峠」。万葉古歌が散りばめられ、戦中の悲壮さと古代史の悲劇を重ねあわせた作品です。

誤植を発見

私が最初に読んだこちら版。中公文庫の「辻邦生全短篇2」。今日、風呂に浸かりながら再読しましたが、なんと誤植を発見。なんで今まで気づかなかったのか。。

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谷村が語り手に、大津皇子の物語を熱く語るシーン。語り手が「日本書紀には何て書いてあるんだい?」と谷村に問いかけるシーンなんですが、そのあと「彼は熱っぽく話す谷村に調子を合わせて訊ねた」と続きます。この「彼は」は「私は」の誤植のはず、と思いました。

で、全集を当たりましたが、「私は熱っぽく話す谷村に調子を合わせて訊ねた」に訂正されていました。良かったです。

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ちなみに、新潮文庫「見知らぬ町にて」に収められているバージョンはこちら。正しいです。
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ちなみにこの「見知らぬ町にて」が私が初めて買った辻邦生本。多分1991年か1992年に買ってますので、そろそろ四半世紀近くになります。
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語り方の素晴らしさ

確かに少し出来過ぎたストーリーなのかもしれませんが、私はこの本を高校時代によんで、なんだか感動してしました。戦争に赴く学徒と、実らぬ恋という恋愛小説。で実らぬ恋に、殉死さえしてしまう一途さったら、これはもう現代では決してありえない純愛小説で、まあ、若者にはキュンと来ます。

ですが、どうも最近読むとそういう面とは違う面がクローズアップされてくるような気がします。自分が情熱をかけたものを、一度諦めるわけですが、埋み火のように胸の底でくすぶり続けていて、あるときそれが噴出してしまう物語。そういう後日談的な興味深さというものがあります。

この小説は、ストーリというより、物語りかたにその真骨頂があるのかもしれないですね。回想と書簡を縦横無尽につかって、時系列に沿わずに物語を語る、という構造。で、それが本当に自然なのです。語り手の回想という意味では、時系列にそっているのですが。

これ、プルーストなんだ、と思いました。あの、プルーストの「失われた時を求めて」的な語り方なんだなあ、と思います。緊密な語り方で名人芸です。

気になること

で、他にもこの小説で気になることがあります。ネタバレ注意ですが。。

谷村が当時愛した女性である麻生志貴子は、実は自分の妹で、それが分かるシーン。自分の母親とあって、事の顛末、つまり恋人=妹が自ら命をたったことを告げられるんですが(そこの語り方も見事なんですが)、その時にこういうわけです。

『あなたがたのことを、あの子も知ったんです』と。

この「あなたがた」を「あの子」が知ったというのがどういうことなのか。

「あの子」は志貴子です。で「あなたがた」とは? 谷村と志貴子のことですかね。志貴子が、谷村と志貴子の関係、つまり異父兄妹であるということをしったということを「あなたがたのこと、あの子も知ったんです」と表現しているということになります。「谷村の志貴子が兄妹であることを、志貴子も知ったんです」ということです。

この表現は、個人的には違和感があります。なにか主語のずれが感じられるんです。「あなたがた」と「あの子
」には、志貴子が含まれますので、ちょっと気になるのです。

この部分は、「私たちのこと、あの子も知ったんです」の誤植ではないか、という気もしていたんですが、全集でもそのままでした。なにか緊密な構造体の中に一つだけ隠された暗号のようなもののように思えます。私のセンスの問題かもしれないですが……。

ただ、よく考えてみると、これでもいいのかもしれないのです。ただ、母親の感情として、谷村も志貴子に対する強い遠慮のようなものがあって、そういう言葉になったのかもしれない。そう思いました。

参考

風越峠については、こちらも。昔、地名について調べていました。

「風越峠にて」の土地の名 一考

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

2002年に訪れたデカルト街37番地。辻邦生が住んだ部屋です。

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建物を見上げる。いまはプレートが付いているはずですが、当時はありませんでした。

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通りの様子。隣の中華料理店の建物には、ヘミングウェイが住んでいた部屋があります。

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自宅にあるこちらを読んでいまして写真を載せることにしました。

たえず書く人

Japanese Literature

今日も東京地方は涼しい一日だったようです。一日中仕事場に居ました。今年の東京地方は残暑がないですね。日本全国同じでしょうか。ようやくセミの声も聞こえなくなってきた用に思います。

先日、モンマルトル日記の一節を書きました。小説家など芸術家が思う生と死が一つのテーマだと思いましたが、岡本かの子の「鶴は病みき」のワンシーンを思い出しました。

「鶴は病みき」は、芥川龍之介がモデルの麻川という文士と主人公が対話する小説で、10年以上前に読みました。ただ鮮明に覚えているのは、生死の問題でした。

麻川=芥川は、「たった一つ残す自分の仕事によって、死後の自分と、現在との聯絡はとれるものだと思ってますな」というのですが、葉子=岡本かの子は「死後に全々消失する個性的な自己というものに、なんの関係もありはしない……あると思うのは、あとのこの世に残った人達の観察に過ぎないんでしょう……」とかなり即物的なことを言います。で、麻川=芥川は、ずいぶん寂しいことをいいますね、と半ば呆れながら、葉子=岡本かの子と皮肉合戦を繰り広げるというシーン。

そんなことを思い出しました。芸術家というのは、おそらくは自分の生きた痕跡を残したいのだと思いますが、それは誰しもあることなんですが。ですが、冷静に考えると岡本かの子の言うとおりなんですよね。死後の自分を語ることはできない。語りえぬものを語ってはならない。

それにしても、いま少しばかり目を通した「鶴は病みき」。怖ろしい小説です。ほとんど実話なのだと思いますが、これが本来的な日本文学なのでしょう。

それではおやすみなさい。

Tsuji Kunio

はじめに

曇り空の一日。

どうやら最近働き過ぎのようですので、休息日としましたが、キーボードを叩くのが辛く(肩こりで)、ひいひいいいながら一日過ごしました。痛み止めを飲んで、長風呂につかって、という感じ。夜になって少し落ち着きました。辛いのはキーボードもそうですが、ペンを持つのも辛いですし、本を持つのも辛いということです。なんだか、ちょっとどうにかなりませんかね、と思います。

モンマルトル日記

ですが、一日家で過ごしたおかげで、いろいろと読みなおすことが出来ました。限られてはいますが、今日読んだのがこちら。
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辻邦生歴史小説集成第十二巻に収められた「モンマルトル日記」のなかから、おそらくは有名な部分。1968年11月30日のところ。

このところ、ずっと自分が死んで、いなくなることを考える。信じられぬようなことだが、それは必ずくる。そのときになってあわてず、自分の生をいきることだ。今まで自分の好きなように、思いのまま、力いっぱいの仕事をしてきた。これからも同じように全力を尽くして、人間と、芸術について考えぬくことだ。真に考えぬき、真実に生きたことだけが人間をうち、人間をうったものだけが人間の遺産となる。自分の仕事を完全に成熟させるための距離と、自由をつねにもつこと。

辻先生が43歳の時の言葉ですね。ちょうど「嵯峨野明月記」を書きつつ、「背教者ユリアヌス」の構想が始まる頃のことです。この後「背教者ユリアヌス」が書かれ、「春の戴冠」が書かれ、「ある生涯の七つの場所」が書かれ、「西行花伝」が書かれるわけです。

なんというか、言葉が見当たらないです。まあ、これは誰もが思わなければならないことであり、かつ誰もが思いたくないことで、私もそんなことは思わないです。いつもは。

ですが、昨今はこういうことが心に響くようになりました。人の一生を様々なかたちで見ようとしているからなのだと思います。

今日の一枚。

レヴァインの《パルジファル》。来月開幕の新国立劇場の《パルジファル》もリハが始まっている頃と思います。私もチケットを取りましたが、所用のため行けるかどうかわかりませんが、とにかく聴かないと、ということで。

私は第一幕のアンフォルタスのモノローグが大好きです。あれほど人間らしい慟哭はないのではないか、と思います。このアルバムではジェームス・モリスが歌っています。すこし英雄的なアンフォルタス。

Parsifal
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Deutsche Grammophon (1994-08-16)
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※パルジファルでググっていたら、あまりに面白い記事がたくさん出るので止まりません。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。