Tsuji Kunio

フーシェ革命暦で描かれるフランス革命前夜の情勢は、今の日本と共通する部分があります。

ニュースでは、2009年度の日本の予算は、歳出が88兆円、歳入が46兆円で、足りない部分は国債で補います。また歳出のうち20兆円は国債の利払いに当てられるとのことです。

一方、フランスではどうだったか。「フーシェ革命暦」においては、やはり国債の利払いに相当な割合の歳出を割いていると言うことが書かれています。原因は、貴族の免税特権による歳入不足や、干ばつによる小麦の不作で、定めらた税が納められないという点だとされています。

当時のフランスも、現代の日本も、国債に多くを負っているという点では一致しています。原因も似ているかもしれません。徴税がしっかり出来ていないという点。当時のフランスでは大貴族は免税特権を持っていたのです。

こう見ると、何とも日本も革命前夜に似ているのかもしれない、と思うようになりました。衆議院議員選挙は延期となりましたが、来秋までには実施されるに違いありませんので、そこで何が起きるか、だと思います。

違うのは、市民の温度でしょうか。フランスでは煮えたぎっていましたが、日本ではどれだけ煮えたぎっているのか。あるいはこれから煮えたぎるのか。

ともかく、「フーシェ革命暦」に、アクチュアルな意味を感じずにはおられません。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

二週間ほど前から読み始めていた未完の大作「フーシェ革命暦」の第一部を読了しました。久々の辻邦生長編の世界に身を浸しきって、実に幸福な経験でした。

感想はともかく、少し輪郭について考えてみたいと思います。

ジョゼフ・フーシェという人は、フランス革命時の政治家です。当初はオラトリオ修道会学校で教師をしているのですが、フランス革命勃発とともに政治界に入り、国民公会の議員となる。ルイ16世裁判で死刑に賛成しました。その後テルミドールの反乱に参加。ブリューメル18日のクーデターではナポレオンを助け、執政政府の警視総監に就任。その後オトラント公となりますが、タレーランとの策謀が皇帝の不興を買います。ナポレオン退位後、ルイ18世治下で警察大臣となりますが、1816年に国王殺害のかどで追放されます。実に波乱に富んだ人生です。

「フーシェ革命暦」は第一部、第二部がフランス革命200周年の1989年に単行本として出版されます。元々は「文學界」に1978年1月号から1989年4月まで11年間にわたって連載されたものです。第三部については別冊文藝春秋1991年秋号から1993年夏号まで7回連載されましたが、そこで残念ながら筆が止まり、未完に終わるわけです。

どうして未完なのでしょうか?

 月報の奥様の回想によると、同時に執筆されていた「西行花伝」の執筆が1993年夏に終了したところで、疲労のせいか、急性リュウマチにかかられたのだそうです。その時点で、「全く別の境地に達して」しまい、「二冊で完結したのだ」とおっしゃるようになったのだそうです。

とはいえ、この「別の境地」という点についてはもう少し考えてみても良いと思います。 とある方は、「われわれの時代自体が変わってしまったので、書き告げなくなったのだ」、とおっしゃっていました。私が第一部を読み終わって思ったのは、1991年のソヴィエト社会主義の崩壊がひとつの原因ではなかったかと考えています。

というのも、フランス革命の急進的な落とし子こそが、社会主義革命であったわけです。私は、辻邦生師がそうした社会主義思想にある種の共鳴を抱いていたのではないか、ということを、「ある生涯の七つの場所」を読みながら感じていました。そのことが、辻邦生全集第11巻の月報にかいてありまして(「近くの左翼集会に行こうとして」という記述、「マルクスの芸術論」など)、ようやく糸口が見つかったと思ったのです。

ただ、察するに、ソヴィエト社会主義に対しては厳しい見方をしていたのではないか、と想像するのです。それは辻邦生文学に底流するテーマだと考えている「性急な改革への警鐘」が物語っています。

この「性急な改革への警鐘」は、「ある生涯の七つの場所」においてはスペイン人民戦線の内紛劇をとって現れますし、「廻廊にて」では、マーシャの第一の転換=大地への恭順というテーマが、結局放棄されてしまう、といったところに示唆されています。あるいは、「光の大地」における新興宗教への指弾や、「背教者ユリアヌス」における、ユリアヌスの東方遠征の失敗などもそれに当たるかもしれません。また「春の戴冠」におけるサヴォナローラの改革が失敗に終わるというエピソードもそれに当たることは明白です(あそこは、文化大革命がモデルになっているように思えてなりません)。

ト社会主義の存立自体が、「性急な改革への警鐘」の対象だったわけですが、そのソヴィエト社会主義が崩壊することによって、指弾の対象が消失してしまいました。つまり、「フーシェ革命暦」に内在する「ソヴィエト社会主義」への警鐘がアクチュアルな意味を失ってしまったのではないか、ということなのです。

少々我田引水な部分もありますが、第一部を読み終わったところの感想は上記の通りです。

Japanese Literature,Literature,Tsuji Kunio

今朝は5時半過ぎに起床。最近は通勤ラッシュがいやなので、早めに会社に行っています。6時15分頃に家を出て会社に着くのが7時40分ごろ。まだ誰もきていませんし、始業時間は8時ですので、20分間はネットで新聞を読んだりします。朝の電車ではほぼ確実に座ることができますので、楽なのですが、睡魔に勝てず寝てしまうことも。ですが、今日は大丈夫でした。

今朝読んだのは辻邦生師の「光の大地」です。これは毎日新聞に連載された新聞小説です。昨日の帰りの電車であったいい事というのは、この小説を読めたということでした。

この作品は辻作品の中でもいろいろな意味で際立っています。たとえば、同性愛的要素が取り入れられていること。主人公のあぐりと、日本とフランスの混血の美貌の持ち主ジュゼは友情を超えた絆を持つことになります。このあたりが、この作品に対する評価に影を落としている向きもあるようですが、私にしてみれば、多少違和感は感じるにしても、受容できるのです。これは辻邦生師の女性賛美の結晶だと思うのです。

思い返せば、こうした女性同士の友情あるいは友情を超えた絆は、「廻廊にて」、「夏の砦」、「雲の宴」でも描かれていて、私は「光の大地」のあぐりとジュゼの関係もその延長線上にあると捉えています。

一方で、辻邦生師は、男女の愛もちゃんと描いています。たとえば「ある生涯の七つの場所」では、主人公とエマニュエルの深い結びつきを、今にも壊れそうなガラス細工のような美しさで描ききっていますし、同じ新聞小説の「時の扉」もやはり男女の愛を描いています。

ちょっと変わっているのは、年上の女性への追慕のような関係も見て取ることができて、これは「背教者ユリアヌス」で見られるユリアヌスとエウセビアの関係とか、「春の戴冠」で見られるサンドロ(ボッティチェルリ)がカッターオネの奥方に抱く憧憬の念などがそれにあたります。

それにしても、「光の大地」ではちりばめられたイデアールな言葉にある種の面映さも感じます。ですが、その先にあるものを汲み取ってこそ辻邦生師の良い読者であらんすとするのに必要なものです。「生命よりも大切なものがある」 「生活に黄金の時間を取り戻す」 といった記述は、それ自体でなにかくすぐったい気分になりますが、正面から向き合うと難しい問題で、日ごろのわれわれがそこから逃げ回っているのだ、ということを改めて痛感するのです。

仮に私が小説家だとしたら、辻邦生師のように書くことはできないでしょう。その理由は二つあります。ひとつは、新たに書くものが辻邦生師の焼き直しであってはならないから、という理由に過ぎないのですが、もうひとつは、私にはまだそこまで語ることができるほど世の中に向かっていないから、という理由です。願わくば後者の理由は克服していきたいと思うのですが。

それにしても描かれるタヒチの美しさといったら言葉がありません。実際に辻邦生師はタヒチへ旅行されていますので、そのときの体験が生かされているはずです。私もいつかは行ってみたいと思いますが、まだ当分は先のことになりそうです。

Classical,Tsuji Kunio

チェリビダッケ指揮でバーバーの「弦楽のためのアダージョ」を二回聞いてから、パユのフルートでバッハのブランデンブルク協奏曲第5番を聞いています。バーバーのほうは、昂ぶる気持ちをやわらげてくれますし、バッハのほうは、やわらいだ気持ちに鍬を入れて耕してくれているようなイメージ。不毛な土地に何かが生まれる予感、だといいのですけれど。

今日、久方ぶりに辻邦生師の「パリの手記」を手に取ったのですが、中に入っていけないという悲しみを覚えました。それはそうです。この三ヶ月間、文学からは少々遠ざかり気味でした。確かに読んだ本の数だけでいえば30冊以上は読んだと思いますが、すべて実践的な内容のものばかりでした。それはそれで生きるために有用な知識を得ることができましたので、プラスにはなったのですが。 「パリの手記」のような評論を読む量が絶対的に少ない。それに小説を読んだ数だって絶対的に少なすぎる。今年ベースで言えば、前半に塩野七生さんの「ローマ人の物語」をかなり読破しましたが(「ローマ人の物語」を小説に数えれば、の話ですが)、この三ヶ月は目も当てられないです。

クラシックを能動的に聞けなかったという意味でもこの三ヶ月は悔いが残ります。あるいは年始に目標に掲げた「プルーストの再開」も果たせていません。 読みたい本は山ほどあるのですが、読む時間も体力も足りていないという感じ。まあ、少々厳しい感じの目標ではあったのですが。 とはいえ、まだ残り二ヶ月ありますから、がんばるのですが。

ところがです。帰りの電車で良いことが待っていました。

続きはあした。

 

American Literature

うーむ、切ない。ジュンパ・ラヒリの「その名にちなんで」を読了。アメリカに渡ったインド人夫婦の物語から始まり、その息子ゴーゴリを焦点に物語は進む。いわばゴーゴリのビルドゥングスロマン的物語。家族との別れ、女性との出会いと別れが、淡々とした筆致で描かれていく。 ゴーゴリと世代が同じぐらいと言うこともあって、感情移入してしまう。もちろんゴーゴリのほうが優秀なんですが。

少々ネタバレですので色を変えます.

私がこの物語でもっとも印象的だと思ったのは、描き込まれた幾重もの出会いと別れ。それは女性であったり肉親であったり。人と人とはいつかは必ず別れるものだけれど、それはいつ訪れるのか分からないということ。特に父親の死のシーンはツンとくる。ある種の畏怖を持って接していた父親が突然いなくなる。いや、いなくなるだけならいいのだが、父親の遺体と対面し、父親が単身赴任していた部屋で生活の跡に接するのはあまりにもつらすぎます。

この作品は、三人称一元描写なのですが、描写の主体が章によって変わっていくのがおもしろい。最初は母親のアシモの視点からはじまるのですが、そのうちにゴーゴリの視点が主なものとなり、ゴーゴリの妻モシュミの視点となったり。読者はそうした視点の飛躍をも楽しむことができます。 それから、プロットにおける因果律のうち、結論に当たる部分を語りすぎないところも気に入りました。結論は読者の想像にゆだねられるか、後日談としてさらりと触れられるだけであることが多い。結論まであまり書き込むべきではない、というのはよく言われることだけれど、結論の端折り(はしょり)かたがうまいのです。

しかし、読み終わってなぜか落ち込みました。ほかの理由もあるのですが、感情移入しすぎかもしれませんね。落ち込んだ理由としては、この本だけではなくほかの要因もあるのですが……。

Japanese Literature

諏訪哲史さんの「りすん」を読みました。

芥川賞後初めての小説ということですが、そうそう長くもなくて、一気に読み終わるのですが、まるで蜜蝋を煮詰めたような充実度で驚愕しました。

うまく解釈できたとはいえなくて、今でも考えています。そういう意味では哲学書のように読み応えのある本。会話だけの小説という奇異さ、メタ視点が二重にかかっていると言う面白さ、現実のほうがより小説的であるという達観、奇抜な言葉の乱舞のこと。

ただ、言えることは、この本を読むということは、あまりにもすさまじい頭脳とやり取りをしているのだな、ということ。好奇心がむくむくと湧いてくるのだが、まだうまく扱うことができないというもどかしさ。 そういう意味ではあまりにも大きな刺激をうけて呆然となっているような、状態。さらに反省が必要です。もっと粘り強い思考力を持って対峙していかなければなりません。

このブログは音楽ブログでもありますが、辻邦生さんを中心に、書評のようなものや文学についても書きついでいこうとも思っていました。ですが、クラシックを聴いて書くのが楽しかったということもあって、文学のほうは少々手抜かり気味でしたね。ちょっとこれからはもう少し小説についての感想だけではなく、小説自体を考える、といった方向性もなければならないなあ、、と少々反省。。 といいながら、明日になったらまた音楽のことを書いていそうですけれど。

今週の仕事も残り一日です。トラブルはまだまだ続いていて、土日も出社するメンバーがいるということで、少々気が引けるのですが、まあ仕方がないです。今週末は楽しみな予定もありますので、いい週末になりそう。ただ天気が悪そうですけれど。

Japanese Literature

あまりに忙しい。ここで道を誤ると大変なことになりそうなので、すばやく慎重にことを進めなければならない。自分だけならいいけれど、人が関わるととたんに難しくなるわけですが、まあ仕事というのは、そういうものです。

犬養道子さんの「旧約聖書物語」読み進めています。断片的に知っていた旧約のエピソードが体系化されて徐々に霧が晴れていくような気がします。 それにしても父なる神の厳しさといったら大変なものですね。砂漠の中から生まれた一神教の厳しさ。昔大学の一般教養の授業で、イスラエルの地は砂漠ばかりではないのだから、砂漠の一神教というのは違うのではないか、という話を聞いたことがありますが、この「旧約聖書物語」を読むと、やはり厳しい気候がゆえに育まれたのだなあ、というのが実感です。

しかし、音楽聴くのも、絵画彫刻を見るのも、旧約は外せないですね。サムソンとデリラとか、ダヴィデとゴリアテとか、エピソードを知らないと味わい方も違ってきます。今までの怠惰な自分が許せないですね。これからがんばります。 まあ、旧約の次には、新約があるわけですし、ギリシア神話ももう少し勉強しないといけませんし。

うーむ、やることがたくさんありすぎて楽しくなってきました(半分は本当で、半分はやせ我慢です)。

Tsuji Kunio

何かに罪の意識を感じている男と女がスペインへの列車旅行に向かいます。それも旅行案内書に載らないような旅行をするために。灼熱のスペインの大地を走る気動車。フランコ政権下にあって政治的自由を失っているスペイン人達。線路工事をする兵士。

そうしてサラマンカに到着した二人はやはり旅行案内書に載らないような場末のホテルに部屋をとる。だが旅行案内書に沿わないようにしているはずなのに、いつしか旅行案内書に近付いている。

ホテルの物静かな主人。サラマンカの市場の熱気。揚げ油の匂い。ロマの娘の舞踏の情熱的美しさ。サラマンカの風物にあてられながら、 二人には徐々に生への意志が醸成されていきます。それは男の「僕たちにだって幸せに生きる権利がある」という言葉にも見て取ることができます。しかし、二人はサラマンカを去らなければならない。女は言います。

「それ以上のことをサラマンカに負わせるべきじゃないわ」

最終幕がすばらしいのです。このブログでも何度も紹介したかも知れません。そして個人的に何度となく励まされたことか。泥棒容疑で捕まった踊り子の娘が警察署から裸足で歩いてくる。オレンジを齧りながら。その躍動的な生命感と言ったら! そして、この言葉で小説は閉まります。

「オレンジを囓るんだ。裸足でね、そして何かにむかってゆくのさ」

 

初出:1972年文學界
辻邦生全集第8巻に所収
文庫:新潮文庫「サラマンカの手帖から」、講談社文芸文庫「城・ある告別」

Tsuji Kunio

ここのところ、塩野七生さんや犬飼道子さんの本を読んでばかりで、辻先生の本をあまり読めていません。それでも、先日は「モンマルトル日記」を散漫に読んで、自分を鼓舞してみたりしていましたが。 そこで、何冊か辻先生の本を紹介してみようかな、と思い立ちました。初めて辻先生の本をお読みになろうか、という方々をターゲットにして、何冊か紹介してみようと思います。

まずは、「ランデルスにて」という短篇から。この短篇は、私が読んだ二つ目の辻作品です。一つ目は「樂興の時 桃」でしたが、学校の図書館にあった短編集の中からランデルスにて、を読んだのがはじまり。これを読んでから、すっかり辻文學の虜になってしまい、今に至るわけです。

美しい北欧の女性と知り合う主人公。女性の気の毒な身の上話を聞かされ、同じホテルの隣同士に止まるのだが、そこに現れたのは……。

まず始まりがすばらしい。列車が北欧の駅を通過していく様子が、駅名の羅列で表される。これがもうなんとも異国情緒を書き立てるだけではなく、重苦しい北欧の冬の空気が本から流れ出してくるのですね。そうして一気に物語世界に飛び込んでいくわけです。 そして最後に突きつけられる宿屋の主人の言葉。この言葉にぐさりと来たのは、主人公だけではない。読み手の我々も匕首を突きつけられたような気分になります。そして終幕部もやはり、北欧の駅名の羅列……。くぐもった声で発音される北欧語が陰鬱な空気を醸成します。

この話、読み終わってからもズシンと何かが来るのですよ。人間とは、人の間でしか生きられないというのに、とかく自分のことだけを考えるもの。それも都合の良い解釈で。

  • 初出 1975年「風景」
  • 辻邦生全集第二巻
  • 辻邦生全短篇(2)

Japanese Literature

ローマ人の物語、「賢帝の世紀」に入っていますが、これがどうしてなかなか進まない。理由は、寝不足でしょうか。暑くなったからかもしれませんが、最近明け方に目を覚ますことが多いです。日が長くなったというのも理由でしょうか。暑くなって睡眠の質が悪くなっているのかも知れません。

ともかく、早く起きて、本を読んだり書き物をしたり。家を出るのは7時前ですので、ゆったりとした明け方です。ところが、やっぱり寝不足らしくて、通勤電車で本を集中して読むことができずにいて困っています。仕事も結構忙しいですからね、最近は……。

ともあれ、微速前進ながらも読んでいます。トライアヌスが死に、ハドリアヌスの治世となり、ダキアの攻略もなる。ハドリアヌスは休むことなく帝国内を視察して回っています。

トライアヌスは初の属州出身皇帝でしたが、ハドリアヌスも同じく属州出身皇帝。トライアヌスはハドリアヌスの後見人といった立場だったのですね。このあたりのハドリアヌスの皇帝継嗣も少しく不可解なことがあったようなのですよ。

普通なら生前にトライアヌスを養子にして後嗣として扱うものですが、そうではなかったらしい。トライアヌスが死の床で養子にしたといわれているようなのです。トライアヌスの死の床には、数人の供回りと后のプロティアしかいなかったというのですから。だから不透明感はあった。しかもプロティアとハドリアヌスはプラトニックなものであるにしても互いに意識しあう仲だったということも言われているらしいですし。 もっとも、元老院もやはり推すならハドリアヌスという意見でもあったようです。経歴的にも十分だし、年齢も40歳過ぎだった、ということもありますし。結果として、良かったのではないでしょうか。ハドリアヌスもやはり賢帝の一人に数えられていますから。

こういう人間くさいエピソードは実に面白いですね。こういう部分をすかし彫りのようにじわりと表現するのがうまいと思います。決して情感的な表現ではなく、研究者かあるいは旅行者のような目線で描いていくわけで、真実味もあり情感もあり、ということになりましょうか。