Art,Book

まえまえから読みたいと思っていた木村泰司さんの「名画の言い分」、三分の二ほど読み終わりましたが、もし、西洋美術に少しでも興味があるとしたら、すぐさま読まなければならない本です。個人的にはもう少し早く読んでいたら良かったのに、と悔やみながら読んでいます。まあ、どんなに遅くても読まないよりは読んだ方がましではありますが。

この本で木村泰司さんは「美術は見るものではなく読むものである」というテーゼにそって、西洋の美術を、ギリシア彫刻時代からどんどん解きほぐしていくのですが、ギリシア神話、聖書、西洋政治史、美術史、宗教史を念頭に置いて滑らかな語り口調でこうもわかりやすく説明されると、時が経つのを忘れて読み耽ってしまいます。

あらゆる絵画には意図、メッセージが含まれていて、それはギリシア神話や聖書を念頭においていることや、経験的に分かっていたのですが、改めてこうして平易な言葉で一枚一枚の絵を解説されると、ほとんど痛快なぐらいです。

たとえば、たとえば花束を描いた静物がには春夏秋冬の花が含まれていたり、枯れかかった花が描かれたりすることで、「人生は儚いもの」という意図が隠されていると説明されています。静物画は苦手で苦手で仕方がなくて、いつもきちんと見ることがなかったのですが、そう言うこともなくなりそうです。

 しかし、思うのは、ここまで該博な「教養」を持っていなければ西洋美術を愉しむことは能わないのか、となると、もっともっと勉強しなければならないなあ、ということ。これまで手は打ってきましたが、それじゃあ足りない。うかうかしていられないですね。せめて、ギリシア神話と聖書はこれまで以上に勉強せねばなりませんね。いろいろやるべきことは多いですが、諦めずに頑張りましょう。

Tsuji Kunio

辻邦生師が著した「小説への序章」は、哲学書とは違う意味で歯ごたえがあり、初めて手に取ってから十年経ってもまだまだ楽しむ(苦しむ?)ことができます。小説を書くことを基礎づけるための粘り強い論理と、芸術家的、小説家的な直感による議論が交錯していて、容易に落ちることのない城のような堅牢さです。

ここでは、小説が普遍的な価値を持つためにはどうあるべきか、個人的所産である文学作品がどうしたら人間一般に受け入れられるのか、人々に対する力をもつことができるのかというという議論が展開されています。

個人的体験と、普遍的妥当性、客観的必然性の結節点を探る試みは、例えばルソーの内的展開などを例にとって、「苦悩」によって主観性を突き詰めたところにある意識一般、間主観性のようなものにあるものとしているのです。自省的になるのは決して客観からの逃避などではなく、むしろ主観を深化させたところで、はじめて普遍性や客観性をもちうるのだ、というアクロバティックな議論。ですが、それしか方法がない、という議論でもあり、超越論的とも言えるわけです。

辻邦生師は、若い頃から哲学に親しんでいて、この本においても哲学的な知識を総動員して展開していく議論も、決して容易に読み解けるものなのではないのですが、この本に向き合う度に新たな発見を得て、少しずつ理解が深まっていくのが楽しいわけです。

小説がどうしたら人々に対する力を持ちうるのか、という問いは、ひっくり返せば、どうすれば文学を享受する事ができるのか、という問いにもつながります。書き手の方法論だけではなく、読み手の方法論としての重要性も、この本の議論において見いだせると言えましょう。

 

Japanese Literature,Tsuji Kunio

Tsuji

辻邦生師の文庫版「サラマンカの手帖から」を読んでいます。おそらく手元にある新潮文庫版は絶版です。私も10年ほど前に状態のあまり良くないものを古書店で探し出したのですが、それがまたとても良い作品ばかり収められているのです。

  1. ある告別
  2. 旅の終り
  3. 献身
  4. 洪水の終り
  5. サラマンカの手帖から

この中で一番好きな作品は、もちろん「サラマンカの手帖から」でして、何度となく読み返して、新たな発見に驚くわけですが、今回は「ある告別」の方に取り組んでいます。この作品を以下の七つの部分に分解しながら考えてみました。

1 パリからブリンディジ港まで(51ページ)

エジプト人と出会いと死の領域についての考察

2 ギリシアの青い海(57ページ)

コルフ島のこと、若い女の子達との出会い、若さを見るときに感じる甘い苦痛、憧れ、羨望、生が滅びへと進んでいくもの

3 現代ギリシアと、パルテノン体験(63ページ)

4 デルフォイ、円形劇場での朗読、二人のギリシア人娘との出会い(66ページ)

ギリシアの美少女達の映像、生に憧れることが、流転や没落をとどめる力である。

5 デルフォイからミケーナイへ(72ページ)

光の被膜、アガメムノン、甘美な眠り

6 アテネへもどり、リュカベットスから早暁のパルテノンを望む(73ページ)

7 アクロポリスの日没(75ページ)

若者達が日没のアクロポリスに佇む。彼らもまた若さの役を終えていく。見事な充実を持って、そのときを過すこと。若さから決意を持って離れること。そのことで、若さを永遠の警鐘として造形できる。ギリシアこそが、人間の歴史の若さを表わしていて、ギリシアだけがこの<<若さ>>を完璧な形で刻みつけている。

考えたこと

辻邦生師のパルテノン体験は、三つの文学的啓示のうち第一の啓示であるわけですが、「ある告別」のテーマこそ、このパルテノン体験に基づくものです。パルテノン体験は、「パリの手記(パリ留学時代の日記を再構成した作品)」に始まり、評論、エッセイ、講演などで繰り返し語られていきますが、時代が下るに連れて熱を帯び、繰り返される毎に純化され抽象化して語られていきます。「ある告別」におけるパルテノン体験は、その原初的なものであると考えられます。

パルテノン体験は、芸術が世界を支えている、美が世界を支えている、という直観を喚起するものでしたが、「ある告別」におけるパルテノン体験は、ギリシアが人間の歴史の「若さ」を完璧な形で歴史に刻みつけたものであるのだ、と言う直観につながっていきます。そして、「若さ」を刻みつけ、そこから雄々しく離れていくことが直観され、以下の引用部分へとつながっていきます。

おそらく大切なことは、もっとも見事な充実をもって、その<<時>>を通り過ぎることだ。<<若さ>>から決定的に、しかも決意を持って、離れることだ。(中略)<<若さ>>から決定的にはなれることができた人だけが、はじめて<<若さ>>を永遠の形象として──すべての人々がそこに来り、そこをすぎてゆく<<若さ>>のイデアとして──造形することが出来るにちがいない。

<<ただ一回の生>>であることに目覚めた人だけが、<<生>>について何かを語る権利を持つ。<<生>>がたとえどのように悲惨なものであろうとも、いや、かえってそのゆえに、<<生>>を<<生>>にふさわしいものにすべく、彼らは、努めることができるにちがいない。

若さの形象(=あるいはそれは美の形象とも捉えることが出来ると思いますが)の永遠さを直覚し、コミットすることによって、一回性の<<生>>への眼差しを獲得し、悲惨なる<<生>>をも充実したものにするべく努められるようになる、ということなのでしょうす。

「若さ」が「美」と重なり、「美」があるからこそ「悲惨な生」を生き継ぐことが出来るのだと言うこと、すなわち、嵯峨野明月記的文脈における「世の背理」を哄笑するという境地が述べられているわけです。

「美」が何を指し示すのかを考えるのは面白くて、個人的には、「美」全般が含まれるように思うのですが、エッセイや講演録には「芸術が世を支えている」という具合に、「芸術」という言葉で限定されることが多いようです。そうしたことを考えていたときに、この「ある告別」においては、「美」が「若さ」と重ね合わされているという発見をしたわけで、実に面白いな、と感じています。

さらに言うなら、若さを失い、死へと進んでいく必然的な滅びの感覚こそが、たとえば「春の戴冠」でフィレンツェの未来がひたひた閉じていくような感覚で、それは辻邦生師がトーマス・マンから受けた影響なのだ、とも考えるのでした。

「ある告別」は講談社文芸文庫にも収められていますね。今ならこちらのほうが入手しやすそうです。辻邦生全集ですと第二巻に収められています。

Tsuji Kunio

春の風駆けて―パリの時
  • 発売元: 中央公論社
  • 発売日: 1986/02
  • 売上ランキング: 1013849

昨年読んだ「春の風 駆けて」のメモがはらりと出てきた。今回で最終回。

辻邦生さんが、小説を書いているときのこと。とにかく、小説を書くこと。それも、いつまでに何枚書く、と言うような功利主義的な書き方ではなく、毎日少しずつ時間を気にせずに書いていき、気づいたらできあがっている、と言うのが理想的なのである、という。

思ったこと。現代は、何でもスケジュール化、タスク化されていて、時間やノルマに追われて仕事をするのだけれど、そうじゃない視点もある。ともかく、作品(仕事でも、小説でも、プログラムでも、ウェブもそうだが)を完成させること。形にすることが第一義的に重要なのだ。才能がある、才能がない、というのは関係ない。ただ、継続して何かを作り続け、完成に導き続けること。これしかない。

Japanese Literature

岡本かの子全集〈2〉
  • 発売元: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/02
  • 売上ランキング: 997025

フランスの海辺の保養地での日本人小田島と、スペインの国際スパイ、イベットの物語。西欧人のしたたかさ、老獪さとが、辻邦生文学とは違う観点で描かれていて面白い。

フランスは、恋愛の国と言う先入観が強いけれど、やはりここで描かれるのも、フランス人における恋愛感情の重要度と、そこに内在する打算的な部分とでもいえる現実主義、リアリズムなのである。そこに異質な人間としての日本人小田島が場に投げ込まれることで、波紋が広がる。小田島の目線を通して、そうしたフランス人の恋愛感情(あえてイデアリズムに分類しよう)と現実主義(リアリズム)のせめぎあいが客観的に描かれるている。

イベットは、 「欧州人というものは理解なしには何事にも肩を入れて呉れない性質の人種よ」「ドーヴィル物語」『岡本かの子全集第2巻」、ちくま文庫、35ページと小田島に語る。小田島は東洋人であるがゆえにそうした性質を持たず、理解なしに自分を受け容れてくれるので、好きになったのだ、と告白するのだった。

イベットに惚れた(かのように振舞う)ドーヴィルの市長は、イベットを連れてカジノに出かけるような男。ほかにもたくさんの男がイベットの虜になっている。イベットはスペインのスパイで、カジノの売り上げを探ることで、フランスの国家財政の状況を推量したところで、スペインへ強制送還となる。これ以上イベットに国家の大事を嗅ぎまわられてはかなわない、と言う判断なのだった。さしもにイベットと遊興にふけっていると思った男たちは、イベットの役割を理解した上で、 遊んでいると言うのだから、恐れ入る。

ドーヴィルの風情は、プルーストにおけるバルベックと似ている。この小説で描かれる爛熟した遊興族は、戦間期のフランスにもまだ残っていたことを物語っている。欧州にとって最後の古きよき時代。だが時代はめぐるのだ。それを知っているわれわれは、そこに寂寥感や無常観をも感じるのである。

Tsuji Kunio

辻邦生全集〈1〉
辻邦生全集〈1〉
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 7,350
  • 発売日: 2004/06

昨日に引き続き今年のまとめ。今回は、今年読んだ辻邦生師の本です。

  • 嵯峨野明月記
  • モンマルトル日記
  • 詩と永遠
  • 小説への序章
  • 江戸切絵図貼交屏風
  • 黄昏の古都物語
  • 言葉の箱
  • 小説への序章
  • サラマンカの手帖から
  • 春の戴冠(上)
  • 春の戴冠(下)
  • 美しい夏の行方
  • サラマンカの手帖から
  • 春の風 駆けて
  • 言葉の箱
  • 夏の光 満ちて
  • 雲の宴(上)
  • 雲の宴(下)
  • 夏の砦(再読中)
  • 樂興の時(再読中)

初めて読んだ本は「黄昏の古都物語」、「春の風駆けて」「夏の光満ちて」の三冊で、それ以外は全て再読ですが、読む度に新しい発見があって刺激的です。辻邦生さんの文学の大きなテーマに、イデアールとリアルの狭間をいかに埋めるか、というものがあると思うのですが、もちろん答えが出る問題ではなく、考え続けることが重要なわけで、そうした契機や示唆を特に数多く受けた一年間だったと思います。

特に、今年はフィレンツェに旅行に行けたと言うこともあり、「春の戴冠」が最も印象的でした。サンドロ・ボッティチェッリの美を求める飽くなき追求と、ロレンツォ・ディ・メディチの理想と現実の狭間に立つ苦悩に満ちた生涯は、フィクションとノンフィクションの溶け合った歴史小説の中の物語の構成要素と言うだけではなく、アクチュアルな意味を持って立上がってきているのだと思います。

辻邦生さんが亡くなったのは1999年7月29日ですので、亡くなられてもう9年も経つのですね。その間に社会は様々な変化を遂げてきました。9.11以降においては、世界はガラリとその様相を加え、温暖化の影響と思われる天変地異もますます増えてきて、日本の社会も厳しさを増しています。

ただ、いつの時代、どんな時代にあっても、この先、事態を解決するのだ、という強い意志をもって生きる必要があるのは同じです。「春の戴冠」のロレンツォ・ディ・メディチを見習わなければなりません。そう言うことも辻邦生師の文学の中でのテーマの一つであると思います。それを辻邦生師は「戦闘的オプティミズム」と言っておられたと思います。

来年もまた難しい年になりそうですが、「戦闘的オプティミズム」を実践しながら、いろいろ取り組んでいきたいと思っています。

以下のリンク先に、今年読んだ本をまとめておきました。機会があれば是非どうぞ。
辻邦生師の文学

Tsuji Kunio

雲の宴〈上〉
  • 発売元: 朝日新聞社
  • レーベル: 朝日新聞社
  • スタジオ: 朝日新聞社
  • メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1990/01
  • 売上ランキング: 565691
雲の宴〈下〉
  • 発売元: 朝日新聞社
  • レーベル: 朝日新聞社
  • スタジオ: 朝日新聞社
  • メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1990/02
  • 売上ランキング: 671447

かねがね、バルザック、ディケンズ、ドストエフスキーといった小説全盛時代の、作家と読者の熱い関係を、このジャンルの本来的な在り方ではなかろうか、と考えていた。この時期、小説は知的に読まれるものではなく、一喜一憂しながら、主人公と運命を共にしてゆくものだった。小説がこうした本来の一喜一憂性を失ったために、それはいつか認識の道具になり、また文体意識の自閉的存在となっていった。

「『雲の宴』を書き終えて」『永遠の書架にたちて』、新潮社、1990年、195ページ

昨週末に「雲の宴」を読了しました。久々に「おもしろい」冒険小説を読んだな、ということもありますし、より根源的な「生きること」を考える契機にもなりました。

すべて心なのよね、この世の幸不幸を決めるのは。物がいくらあったって、心が不満なら、ぜったいに人間て幸福にならないもの

『雲の宴(上)』、朝日文庫、1990年、177ページ

いくら、CD持っていても、本を抱え込んでいても、なけなしの預金があっても、心が不満じゃあ、幸福にはなれないなあ、と。今の境遇を強制的に満足なものである、と認識を変えていくか、あるいは、今の境遇を捨て去って、思うがままに生きていくか、どちらかしかないなあ、と思うのでした。おそらくは前者の道を取ることになるのでしょうけれど。全ての事象は人間の認識であるが故に、認識を変えれば、境遇も変わるという感じでしょうか。

それにしても、この小説は、辻文学の中にあっては異質な光を放っていると思います。そのあたりのことも「永遠の書架にたちて」に所収されている「『雲の宴』を書き終えて」のなかにヒントが書いてありました。辻邦生さんは、いつもは事前にあらすじが決まっていて、そこに向かって書いていくから、だいたいは事前の意図通りに仕上がることが多いのだそうですが、「雲の宴」に関して言えば、そうではなく、登場人物が勝手に動いていったのだそうです。最初は意図通りに戻そうとしたのですが、途中であきらめて、なすがままに書いていったのだそうです(「『雲の宴』を書き終えて」『永遠の書架にたちて』、新潮社、1990年、194ページ)。そう言うことを、高橋克彦さんのエッセイでも読んだことがあります。高橋克彦さんは、まず登場人物の身上書を書き上げるのだそうです。そうすると自然に登場人物が行動をはじめるのだとか。そういう憑依的な小説の書かれ方というのも、部外者から見ればとても不思議に見えますが、そうそうあり得ないことでもなさそうです。

確かに、他の辻文学のような堅牢強固な石造りの建造物のような堅さはありませんが、奔放に動き回る登場人物と一緒にパリからルーマニアへいたり、地中海を縦断して西アフリカへと向かう喜びを味わうことができるのです。

Tsuji Kunio

雲の宴〈上〉
  • 発売元: 朝日新聞社
  • レーベル: 朝日新聞社
  • スタジオ: 朝日新聞社
  • メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1990/01
  • 売上ランキング: 565691

辻邦生師「雲の宴」は下巻に突入しています。この本は、ミッテラン当選の夜のパリの狂騒から話が始まりますが、辻先生がインスピレーションを受けられたのは、その夜にマリ共和国の黒人の男を見かけたことが契機になっているのだそうです。アフリカの描写がすばらしく、実際に取材にいらっしゃったのかと思い、全集についている年譜を見てみたのですが、どうやら西アフリカへの取材旅行は行っていらっしゃらないのです。そうか、あのアフリカの描写は全て現地での印象ではなく、想像力と調査のたまものなのか、と驚いてしまいます。歴史小説のように自分では行けない場所について書くことの難しさは相当なものではないかと思うのです。

下巻も中盤にさしかかると、物語も俄然緊迫してきます。この本でもやはり性急な改革は失敗するのだ、という鉛のような諦観が感じられ、そうは言っても世の中は「背理」なのであって、それを笑い飛ばさねばならぬ、という「嵯峨野明月記」の主題に戻っていくのでした。ちなみに、この「背理である世の中を笑い飛ばす」というのは、シラーが着想になっている(「人間の背理を笑う高みに立つ」『辻邦生全集第20巻』新潮社、2006年)のだ、ということを全集第20巻の年譜を読んでいて気づきました

Tsuji Kunio

春の風駆けて―パリの時
  • 発売元: 中央公論社
  • レーベル: 中央公論社
  • スタジオ: 中央公論社
  • メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1986/02
  • 売上ランキング: 976173

人間は生きているからには愉しむ義務があるのである。辻邦生師のおっしゃるフランス人とは、楽しく生きることを義務としている人のこと。落ち込もうが、非難されようが、意志の力でそうしたマイナス要因をはねのけ、あくまで生きることに打ちこみ愉しむという強靱な精神を持っている人たちであり、それを阻害しようとする者に対して激しい敵意を持つと言うこと。ただただ嫌なことがあったからといって、落ち込んだり怒ったりしないこと。大切に生きること。

Tsuji Kunio

春の風駆けて―パリの時
  • 発売元: 中央公論社
  • レーベル: 中央公論社
  • スタジオ: 中央公論社
  • メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1986/02
  • 売上ランキング: 976173

しばらく前に読み終えた「春の風 駆けて」。示唆的な文章が多くて、今の自分にとって大切に思えるところがたくさんあった。畏怖すべき偶然と運命の溶解である。これから2,3回、この本について言及していこうと思う。

意外なほどフランス大統領選挙に関する言及が多い。フランソワ・ミッテランが勝利する1981年の大統領選挙のことで、ちょうどパリ大学で教鞭を執っていた辻邦生師は、新聞報道などを通じて、フランス国民の大統領選挙に対する意識などを分析したりしている。この手法、まるで「春の戴冠」で、語り手フェデリゴが叔父マルコとフィレンツェを巡る政治に思慮を巡らせるのと同じタッチ。なるほど、これぐらい現実政治に対してアクチュアルに関わらなければならないのだな、と反省する。最近は、そうした現実世界のニュースからは距離を置いていたけれど、これからはもう少し関わっていこう、と考えた。

続く