Japanese Literature

今日も少々ハード。ですが、何とか早起きできたので朝のうちに更新します。コルンゴルトを聴きながら、ですけれど。本当はやらないと行けない仕事があるのですが、少々逃避していますかね。そちらは25日に片付ける心づもりなのですが、さて、どうなるか。

昨日、ローマ人の物語第三巻「勝者の混迷」を入手しました。予定ではまだ第二巻を読んでいるはずでしたので、こちらの進捗はすこぶる順調。その功績はすべて塩野七生さんにあるのは間違いないです。

一次文献をよまねば、みたいなことを先日書きましたが、昨日はギボンの「ローマ帝国衰亡記」の抄訳を読んでいました。まあ一応原典をにあたっていると言うことで。先日読んだ「マンガローマの歴史」がいい予習になって良かったです。

さて、「勝者の混迷」も面白いといいのですが、グラックス兄弟の改革など少々残念な史実を読まねばならないというところでしょうか。先日の「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」でも高みの上り詰めようとするまではこちらもワクワクしながら読みますが、ローマはすでに覇権国家になっています。ここからはローマの爛熟した世相とか、暗愚な皇帝とか、すこし残念な歴史を読まねばなりません。そのあたりをどのように塩野七生さんが調理なさっているのか、楽しみではあります。

辻先生の本も読まないとなあ。いろいろ課題やタスクがありますが、出来るところから打ち崩していきましょう。余り焦るとろくなことはありません。

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ふぅ、意外とハードな一日。午後から所用で都心に出たのですが、待ち時間が長すぎて、予定を2時間弱超過。ところが、その隙間時間のおかげで、「ハンニバル戦記」読了してしまいました。うーむ、久々に歯ごたえのある歴史物語に没頭できました。この感じ、5年ほど前に永井路子さんの全集を貪り読んだときに似ている。もう、先が気になって仕方がない仕方がないという感じなのです。

それにしても、現世的な戒めにたくさんであったなあ。

  1. リーダーは、なぜか明朗快活な場合が多い。ハンニバルに勝利した、スピキオ・アフリカヌスもその一例にもれない。
  2. リーダーは、その権力によるよりもむしろ互恵的関係によって部下を統率したほうが良い。すなわち、率いられる人々に、じぶんがいなくてはこのリーダーは成り立たない、とも思わせることに成功したリーダーが、優れたリーダーである。一方的な権力の押しつけであってはならない(2008/05/25追記)
  3. 敗軍の将はその責を問われることはない。なぜなら、敗北すること自体により、自尊心を失うという罰を与えられているのだし、敗北によって学んだことを、次の勝利へと結びつけることができるからである。
  4. 成功が人を頑固にする。成功体験によって得た自信が、抜本的改革に対するブレーキとなるのである。成功した人=年輩者が保守的傾向となるのはそのためである(2008/05/25追記)。

などなど。

仕事でプロジェクトマネージャとして、プロジェクトメンバを統率しなければならない局面が多々あるわけですが、塩野さんがおっしゃるようなマネージャになるのは難しい。プロジェクトがシステム不具合を発生させたら、くだんのプロジェクトのマネージャさんはいっせいに袋だたたきにあうのです。会社の人はもっとローマ人を見習ってほしいと思います。などなど。

ポエニ戦争は三度にわたって発生するわけですが、第二次ポエニ戦争におけるローマとハンニバルの死闘を知らないで人生を終えるのはもったいないです。これほど人智を結集した戦争はなかなかないでしょうね。戦争の勝利の鍵が兵力数から機動力に移った戦争だったわけですね。それはハンニバルが騎兵を活用してローマの強力な重装歩兵を打ち破るのですが、こんどはスキピオが騎兵ばかりでなく、歩兵をも高起動化させて、ハンニバルを打ち破るあたり、すごいですね。しかも、機動力を活用した戦術が、時を経ずしてローマの部隊司令官にまで浸透していくあたりも、ローマの組織力の強靭さを物語っているのです。

最近の米軍が情報化を推し進めと高機動化しているというのも、考え方の発端としては、ハンニバルや(その戦術的師であった)アレキサンダー大王にも関係があるのだな、というわけで、実に興味深いです。

単なる歴史物語であればこんなに面白いわけはない。歴史は繰り返すことは決してありませんが、現代に適用できる価値、アクチュアルな価値が読み取れる歴史物語だからこそこんなに面白い。

辻邦生先生の歴史物語が、人間の生き方自体とか、生とは何か?という内面へ向かうものであるのに対して、塩野七生さんの歴史物語は、いかに生きるか、という、実践的な外へ向かったものである、と感じています。そして、そのどちらもアクチュアルな価値が豊潤に含まれているのです。

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今 朝は激しい雨に見舞われました。昔は山の頂であっただろうところに住んでおりまして、十数メートルぐらいの坂道をおりた谷あいに最寄り駅がある感じ。もち ろん、住宅街化されてますので、昔日の面影はわずかに残った一隅の雑木林のみではあるのですが。 それで、今朝のような大雨になると、道路に水があふれ、激流となって谷あいに流れ込みます。すると、谷あいはもう水浸しになるんですね。

駅 に行くまでに、川の中を歩き、池を越えて、という感じ。足首まで完全に水に浸ってしまい、革靴なのにもう子供の長靴のように、歩けばチャポチャポと音がな る始末。 当然靴下は水に浸ってますので、靴下を脱いで素足で革靴を履く。足元「だけ」が石田純一状態。これで一日仕事ですよ……。取引先とミーティングがあるとい うのに恥ずかしい限り。

そういうわけで、通勤電車も大雨で遅れてしまい、30分遅れで会社に到着。でも定時の30分まえなのでらくらくでし たが。 幸い、通勤電車では座席に座れたので、電車が遅れた分だけ、ゆっくり本を読めました。

今日は塩野七生さんの「愛の年代記」を読みながらいよいよ「ローマ人の物語2 ハンニバル戦記」に突入しました。

ここにいたるまでに、実は、さかもと未明さんの「マンガ ローマ帝国の歴史」三冊を読んでいます。最近なぜかローマづいています。そういうわけで、音楽もロー マ帝国に関係あるものになってしまいまして、シュトラウスの「サロメ」とか、レスピーギ「ローマの祭」などをついつい聞いてしまう感じ。

「マンガ ローマ帝国の歴史」は、ローマ帝国の通史かと思いきや、カエサルからネロ帝までの限られた時代を描いているものでして、カエサル、オクタヴィアヌスと いった名君の偉業をえがきつつも、当時の爛熟した社会風情を奔放に描いている感じ。帝政ローマ以降の内憂外患の端緒となる時代の雰囲気がよく描かれていました。

楽しめましたが、帝政ローマ以降よりも、共和制ローマ時代のほうがなんだか興味深く思っていて、ちょっと肩透かしを食らった感じです。もっとも漫画でロー マのすべてを描けるわけはなく、ローマ帝国の絶頂期でもあるカエサル、オクタヴィアヌス界隈を描くことに注力したのは正解だと思います。ただ、このマンガを最初に読むと、ローマ帝国についてはネガティブなイメージを持ってしまう可能性もありますので、注意が必要ですね。

ともかく、共和制ローマのメルクマールであるポエニ戦役を描いた塩野七生さんの「ハンニバル戦記」がとても楽しみですね。今週はこの本が読み終われば万々歳です。

音楽も聴きますが、本もむさぼるように読みましょう、ということで、がんばります。

 

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久々の天気に恵まれた木曜日。後二日でウィークデーは終わります。週末は週末でやらねばならないことがありまして、いまから予定を見直しています。

さて、先日から読んでいるこの本。読了しました。

題名からして面白くて、優雅という言葉と冷酷という言葉のコントラストが効果的です。

内容もやはり面白いのですが、はたと気づいたのは、塩野七生さんが女性であるということ。つまり、チェーザレにたいする共感が、偉大なるタレント(才能)をもつ男性への普遍的な感情に昇華しているのではないかということ。

身近な例で大変申し訳ないのですが、たとえば「のだめ」における千秋真一とか、あさのあつこさんの「バッテリー」におけるピッチャーの原田君とか、その他少女マンガなどで見られるような(といっても僕は少ししか読んだことありませんが)、女性の描く男性像は、ほとんど神業に近い技量を持った天才であることが多いです。

チェーザレ・ボルジアの場合もそうです。武芸に優れ、卓越した政治能力があり、部下を魅了する十二分なカリスマ性に恵まれている。父親がローマ法王であることを十二分に利用できる「血統」を持っている。などなど。 「解説」にも書かれていたことなのですが、加えて、ほとんど恋愛感情的にちかい共感が文章から沸き立ってくるのを感じました。

物語は、チェーザレの父親であるアレッサンドロ六世の即位から物語は始まり、一時は枢機卿の衣をまとうのですが、弟を「殺して」まで(文章では示唆されるだけです)、教会軍の司令官の地位をつかむ。フランス王との駆け引きを繰り広げながら、北部イタリアのロマーニャ地方の法王領内の僭主たちを次々と追い落とし勢力を広げてゆく。その手腕たるややはり神業的で、読んでいて溜飲が下がる思いすら感じます。気分いいですね。

後半部はその輝かしい生き方が暗転するわけですね。そのあたりの転落の筆致もすばらしい。「運命の女神に嫌われた」とチェーザレに語らせるわけですが、前半の「つき」を後半ではまったく失ってしまっている。それを、ユリウス・カエサルがルビコン川を渡ったときのような決断力が、大事なときになかったのだ、という言葉で残念がる塩野さんの文章には寂しささえ感じます。もちろん、チェーザレ自身その時点でマラリヤに侵されていたわけで、正常な判断ができなかったということもあるのですが。だからこそ運命に見放されたということなのでしょうけれど。

終幕部、チェーザレが死に至る場面の淡々とした筆致も見事ですね。雄弁でありながらもあっさりとした語り方でチェーザレの人生の終わりを描いていて、あっけなささえも感じる。どんなに偉大なペルソナも絶対に死には打ち勝てない。死んだら負けなのだ、という思い。惜別の思い。 そんなことを思いながら、一気に読み終えてしまいました。

余談ですが、マキアヴェッリの「君主論」はチェーザレに大きく拠っているのですが、そうした「古典」をほとんど読んでいないことに悔恨の念を覚えました。二次文献、三次文献だけじゃだめですね。一次文献を読まないと……。

今日聞いた曲はフランクのオルガン曲。本の色調によくマッチしています。詳しくは後日。

Tsuji Kunio

今日は一度4時頃起きたのですが、ダウン。5時半に起き上がりました。思ったより疲れているのでしょうか。昔のように早く起き上がれない日が続いています。

というわけで、通勤列車のなかでも本を読むのが難しい状態なのですが、それでも辻邦生氏「言葉の箱」を読んでいるところです。この本は非常にコンパクトで、講演の様子をおこしたものと言うこともあり、非常に読みやすいです。小説家を目指す人々に小説の作法のようなものを辻先生が語りかけるわけですが、それがまた実にわかりやすい。辻先生の小説論と言えば「小説への序章」が思い出されるのですが、哲学的とも言える議論が少々難解だったりしますが、この本ではそんなことはない。夏目漱石の有名な「F+f」の話や、大切なのは、詩、言葉、根本概念である、と喝破するあたりも見事。小説を書かない者にとっては、創作の舞台裏を垣間見る感じです。

文庫版がでたのはもう数年前のことになります。その前に単行本で刊行されたのですが、訳合って二冊も勝ってしまったのでした。文庫版はamazonではまだ入手できるようです。

Tsuji Kunio

昨日は会議だらけの一日でしたが、思ったより早く終わる会議もありまして、自分の仕事のはかどりも悪くはなく、助かりました。今日も夕方に大きい会議がありますね。会議に出るたびに、ああ、アレッサンドロ六世や、ジュリオ二世、レオーネ十世のような外交力があればなあ、と思っていた次第。

今週は週末が来るのが早いです。あと一日闘えば「軍人たち」が待っています。ところが、予習用に頼んだCDがまだ来ません。前にも書いたと思いますが、本来なら4月の上旬には手に入っているはず。ところが、発売日が4月30日に延期になり、やきもきしていたわけです。発売日を一週間過ぎた今になっても届かず……。困りましたね。

塩野七生さんの「神の代理人」を読了。最終章で紹介されたレオーネ十世は、ロレンツォ・イル・マニフィカートの息子です。ロレンツォと言えば、辻邦生先生の「春の戴冠」で活躍するあのロレンツォですよね、ということで、早速次の本を読みはじめました。

辻邦生さんのご夫人でいらっしゃる辻佐保子さんが書かれた「「たえず書く人」辻邦生と暮らして」が発売になりまして、早速と読み始めました。というより、全集の月報に連載されていたものが単行本化されたものですので、全集を買ってしまった私にしてみれば、月報を読めばいいじゃないか、という向きもあると思いますが、注釈が付記されていたりしているので、まんざら無意味というわけでもなく、単行本のほうが読みやすいということもあり、購入=コミットする、という意味合いもありますので、買って良かったと思っています。

辻先生の作品にまつわる思い出が書かれている訳ですが、創作の舞台裏を見るようでとても興味深いです。「背教者ユリアヌス」の冒頭部分に実に印象的なコンスタンティノープルの場面がありますよね。霧が徐々に晴れていって、霧の中から城砦が立ち現れてくるという場面だったと思うのですが、あの場面は、辻先生が乗っておられた飛行機が故障のため霧のイスタンブール空港に着陸したところから着想を得ている、というエピソードが印象的です。

昨日半分読み終わったところですので、今日は残り半分を読み終える予定。辻作品の舞台裏を垣間見ることが出来ますので、辻さんのファンにとってはたまらない一冊だと思います。全集をお持ちで月報を持っていらっしゃる方も記念にいかがでしょうか。

音楽で言えば、ブルックナーの9番をジュリーニの指揮で聴いていました。これについてはまた別の機会に書きたいと思います。

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東京地方、昨日からようやく天気が回復したのですが、今日はもう夏かと思う日差しにくらくらしました。関東地方ではGW後半の3日~5日はあまり天気に恵まれませんでしたが、昨日からようやく天気が良くなってきました。初夏といった風情でしょうか。仕事は今日から始まりましたが、明後日はもう金曜日ですから、またお休みが来るなあ、という感じです。まだGWは終わっていない、と思って、あと二日乗り切りましょう。闘いは今日から再開です。

さて、今日の行き帰りでは、塩野七生さんの「神の代理人」を14年ぶりに再読です。ピオ二世、アレンサンドロ六世、ジュリオ二世、レオーネ十世の教皇としての「事業」が描かれているのですが、老獪で権謀術数を巡らす教皇達の政治力といったらすさまじく、聖俗を超越した教皇達の強さに目を見張ります。特にジュリオ二世の意志力といったら。年老いてもなお旺盛な意志の力でイタリア問題に奔走する姿には本当に感服。ドイツ、フランス、スペイン、ヴェネツィアを向こうに外交戦、や実戦を交えるあたり、本当にすごい。たとえそれが高邁な理想に向けてのものだとしても、あるいは単なる権力欲や野心であったとしても、この気力には敬意を表しなければなりませんね。

仕事に闘う気力がわいてきました。そういう意味でもいい本です。偉大なペルソナに感服できるのも読書だからこそ。音楽も好きですが、やっぱり本も好きなんですね。

Japanese Literature

月が変わって五月。若葉が眼に染み渡る季節です。いつもの散歩コースにある竹林では筍がニョキニョキと。雨後の筍ではないですが、上へ上へと伸びてゆく生命力にはほとほと感服します。

仕事はなかなか大変なことに。ですが、何とかなるんですけれどね。

今日も少し早く帰ってきてしまいました。相変わらずワーグナーを。神々の黄昏の最終部を、カラヤン、ショルティ、レヴァインで聞き比べています。やはりカラヤン盤がしっくり来ますが、レヴァイン盤も棄てがたい。うーむ。

塩野七生さんのローマ人の物語シリーズの第一巻「ローマは一日にして成らず」をば読了。これは二回詠む価値があるなあ、と思います。史実だけではなくフィクションも含まれているのだ、という向きもあるようですが、ここまでの構築美を見せられてしまうとそんなことはどうでも良くて、説得力のあるつよいリアリズム的文体に引き込まれていってしまいます。ローマ建国神話からイタリア半島統一へと向かうローマの歴史が俯瞰することが出来る。ローマの興隆の原因を政体、宗教、開放性という三つの要因であると因数分解していく手際の良さといったら、感服する次第。物語としても良く楽しめました。ローマ人、凄いですねえ。打たれても打たれても立上がる誇り高き男達、いや女達も。

 

ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上)  新潮文庫
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まえまえから読みたいと思っていた木村泰司さんの「名画の言い分」、三分の二ほど読み終わりましたが、もし、西洋美術に少しでも興味があるとしたら、すぐさま読まなければならない本です。個人的にはもう少し早く読んでいたら良かったのに、と悔やみながら読んでいます。まあ、どんなに遅くても読まないよりは読んだ方がましではありますが。

この本で木村泰司さんは「美術は見るものではなく読むものである」というテーゼにそって、西洋の美術を、ギリシア彫刻時代からどんどん解きほぐしていくのですが、ギリシア神話、聖書、西洋政治史、美術史、宗教史を念頭に置いて滑らかな語り口調でこうもわかりやすく説明されると、時が経つのを忘れて読み耽ってしまいます。

あらゆる絵画には意図、メッセージが含まれていて、それはギリシア神話や聖書を念頭においていることや、経験的に分かっていたのですが、改めてこうして平易な言葉で一枚一枚の絵を解説されると、ほとんど痛快なぐらいです。

たとえば、たとえば花束を描いた静物がには春夏秋冬の花が含まれていたり、枯れかかった花が描かれたりすることで、「人生は儚いもの」という意図が隠されていると説明されています。静物画は苦手で苦手で仕方がなくて、いつもきちんと見ることがなかったのですが、そう言うこともなくなりそうです。

 しかし、思うのは、ここまで該博な「教養」を持っていなければ西洋美術を愉しむことは能わないのか、となると、もっともっと勉強しなければならないなあ、ということ。これまで手は打ってきましたが、それじゃあ足りない。うかうかしていられないですね。せめて、ギリシア神話と聖書はこれまで以上に勉強せねばなりませんね。いろいろやるべきことは多いですが、諦めずに頑張りましょう。

Tsuji Kunio

辻邦生師が著した「小説への序章」は、哲学書とは違う意味で歯ごたえがあり、初めて手に取ってから十年経ってもまだまだ楽しむ(苦しむ?)ことができます。小説を書くことを基礎づけるための粘り強い論理と、芸術家的、小説家的な直感による議論が交錯していて、容易に落ちることのない城のような堅牢さです。

ここでは、小説が普遍的な価値を持つためにはどうあるべきか、個人的所産である文学作品がどうしたら人間一般に受け入れられるのか、人々に対する力をもつことができるのかというという議論が展開されています。

個人的体験と、普遍的妥当性、客観的必然性の結節点を探る試みは、例えばルソーの内的展開などを例にとって、「苦悩」によって主観性を突き詰めたところにある意識一般、間主観性のようなものにあるものとしているのです。自省的になるのは決して客観からの逃避などではなく、むしろ主観を深化させたところで、はじめて普遍性や客観性をもちうるのだ、というアクロバティックな議論。ですが、それしか方法がない、という議論でもあり、超越論的とも言えるわけです。

辻邦生師は、若い頃から哲学に親しんでいて、この本においても哲学的な知識を総動員して展開していく議論も、決して容易に読み解けるものなのではないのですが、この本に向き合う度に新たな発見を得て、少しずつ理解が深まっていくのが楽しいわけです。

小説がどうしたら人々に対する力を持ちうるのか、という問いは、ひっくり返せば、どうすれば文学を享受する事ができるのか、という問いにもつながります。書き手の方法論だけではなく、読み手の方法論としての重要性も、この本の議論において見いだせると言えましょう。