American Literature,Tsuji Kunio

「老人と海」。高校三年の読書感想文の課題でした。あの時は、半世紀前の翻訳が家にあったので、そちらを読んだのですが、ずいぶん苦労したおぼえがあります。

で、こちら。先月、Kindle版の半額セールをやっていたので買っていたのでした。

老人と海 (光文社古典新訳文庫)
光文社 (2014-09-19)
売り上げランキング: 3,725

読み始めると、これがもうなんだか本当に面白いのですね。

まだ半分ほどしか読んでいませんが、本当に巨大な小説だということがわかりました。

辻邦生の「ある生涯の七つの場所」で、主人公の私とその恋人のエマニュエルの会話が実に素敵なんですが、たしかそれはヘミングウェイの影響だということを読んだことがあります。「老人と海」でも、冒頭で、老人と少年の掛け合いがありますが、これも本当に素敵です。

それから、こればっかりは、書くと陳腐になってしまうのですが、自然と人間の関係というものがあらゆる意味ですごくよくわかります。おそらく、この「感じ」を表すためには、読み手も一つ小説を書かなければならない、とすら思いました。

また、今のところ、ですが、この「老人と海」すら辻邦生の「ある生涯の七つの場所」の一つの短編であるかのような気がします。

そうか。

「ある生涯の七つの場所」はスペイン戦争が一つのモチーフですが、あれはヘミングウェイへのオマージュだったということなんだなあ、と。

当たり前すぎて、今まで書くことすらなかったことかもしれないです。あるいは、今初めて気がついたのか。記憶はうつろいゆくものですから、どっちなのかはわかりません。

「仕事」の合間の隙間時間で、iPhoneを開いてKindleで読んでいますが、こういう読書習慣はこの数年のものなんだろうなあ、と思いました。

それでは、みなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

西行花伝 (新潮文庫)
西行花伝 (新潮文庫)

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辻 邦生
新潮社
売り上げランキング: 8,345

幻の作品「浮舟」については、先日も書いたように、「地の霊土地の霊」という文章においてその構想が語られています。その中で、源実朝が、中国へ向けて船を作るが、頓挫する、というエピソードに触れられていて、この船を作るという行為の捉え方として「存在が持つ形ならぬものへの憧れ、同一化への狂おしいまでの思い」がゆえに、船を作って中国に渡そうとしたのだ、というものでした。

船が何か彼岸へ通じる道のように捉えられていたのだと思います。

先日も取り上げた、辻佐保子さんの「辻邦生のために」においては、「浮舟」の題名の由来が、とある屏風絵にあったという話が載っています。「浮舟」というのは源氏物語の巻の名前ですが、その場面を取り上げた屏風絵だったそうです。これを見て、「浮舟」の構想が固まったのではないかとされています。

また、ここでは、辻文学における船として、「真晝の海への旅」であるとか「夏の砦」で主人王たちはヨットに乗ったまま消息を立つ、といった背景が指摘されていました。

それで、今日読んだ西行花伝の冒頭部分に、この「船」が出てくるのでした。

「好きというのはな、船なのじゃ。無明長夜を越えてゆく荒海の船なのじゃ」

53ページ

これは、西行の祖父にあたる源清経が話す言葉です。清経は風流人として描かれています。宴席で今様に打ち込む心意気を語るその最後に語る言葉です。

まさに、この今様=芸術に打ち込むということが、存在への憧れであり、それはすなわち船に喩えられるような、儚く、もろく、不安定でありながらも、未知への期待をもたらすような営為なのだ、ということなのだ、と思います。

それにしても、「西行花伝」の素晴らしさはもちろんですが、世にでることのなかった「浮舟」を読んでみたかった、と思います。あるいは、「浮舟」という作品自体が世に出なかったということは、源実朝の唐船が完成しなかったことが暗示していた、ということなのだとしたら、それはそれで一つの何か完成した物語を見ているようにも思えます。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

写真 1 - 2015-12-25

辻邦生全集を本棚の最前面の近いところに持ってきました。10年ほど経っていて、前の家の湿度の高い部屋に置いていたということもあり、残念ながら少し痛めてしまったのですが、中身は宝の山です。

まあ、本は読んでなんぼで、飾っておくものではありません。とはいえ、あるだけで意味のある本のようなものもあるとも思います。

辻邦生全集の目録はこちら。

辻邦生全集目録(私家版)

なんだか部屋の雰囲気も変わったような気がします。明るくなったというか、重くなったというか。

今日は「西行花伝」を読みながら会社へ。昔のように、速度を速めて読めなくなってしまいました。まるで哲学書を読むように少しずつ読むような、あるいは考古学者が土を少しずつ削りながら発掘するような、そんな読み方になってしまい、ちっとも前に進みません。

最近、短いエントリーが多いです。「たえず書く人」になるのはとても難しいことだ、ということも頭の中に入れておかないと。

ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

辻邦生のために (中公文庫)
中央公論新社 (2012-12-19)
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今日も辻邦生の奥様である辻佐保子さんによる「辻邦生のために」を読みました。当初はKindleで読んでいましたが、最後は手元にある紙の本で読んだわけですが、いや、本当に重い本でした。

一番最後、幻の小説「浮舟」についての部分。本当に示唆的でした。2002年刊行された当時に一度読んだことがあるはずですが、どうもそこまで認識することができなかったのでしょう。13年も経ちましたから、私もずいぶん変容している、ということなのだと思います。

この「浮舟」については、辻邦生が1999年に書いた「地の霊 土地の霊」にその構想が書かれているわけですが、この「辻邦生のために」の「『浮舟』の構想をめぐって」の中で、「地の霊 土地の霊」の内容に加えて、辻邦生自身の様々なエピソードから、「浮舟」の構想が紐解かれています。

私の中では、全体直観のようなもの、西田幾多郎の純粋経験のようなもの、個と普遍のようなものが、辻文学の一つのテーマだと思っていますが、「浮舟」では、「人間の実在は、男と女がそうであるように、存在のこちら側にあるのではないということだ」という直観にまで到達していたということのようです。彼岸と現実をつなぐものを考えること。それが世界認識の絶対直観のようなものだったということなのでしょうか。

もっとも、佐保子さんはこう書いて締めくくっていました。

「浮舟」のような実在と非実在の極限を捉えようとする試みは、おそらく生命のある間は実現不可能だったのかもしれない。

187ページ

ヴィトゲンシュタインの「語りえぬものは語ってはならない」という言葉がありますが、それは単に、科学や哲学の仕事ではないと言っているだけであり、それはまさに文学の仕事である、ということなのだと思いました。

「地の霊 土地の霊」は、辻邦生全集の第17巻に収められています。もちろん、かつて読んだことがあるものではありましたが、もう一度ざっと読んでみたところです。これは後日ここで書かなければならないものです。

辻邦生全集〈第17巻〉エッセー2
辻 邦生
新潮社
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今日の夕食は、一日早いご馳走をいただきました。本当にありがたいことです。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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またウィークデーが始まりました。

それにしても、小説を読んでいると、自分の中で、小説の舞台を創り上げていくことになるわけでして、私の場合だと、本当に行ったことはなくとも、サラマンカなんかは、辻邦生の「サラマンカにて」を何度も何度も読みましたので、勝手にサラマンカの風景のようなものが軽背されてしまっています。

それは、どうも脂っこい揚げ物の匂いが立ち込める狭い路地があるような街で、あの、主人公二人が泊まったホテルが、白熱灯に照らされて、静かに佇んでいるような感じ、に思えます。夕食どきなのに人がいない閑散とした街並み。でも、街は、煌々と白熱灯の琥珀色の光に照らされていて、あのホテル<エル・アルコ>のレストランは、アイロンのかかった白いテーブルクロスがかけられたテーブルがいくつも並んでいる。天井にはシーリングファンがゆったりと回っている。そんな感じです。

これはもう、本当のサラマンカでもなく、辻作品の中に出てくるサラマンカでもなく、勝手に私が作り上げた「サラマンカ」であるに過ぎず、そうした「サラマンカ」が、きっと読み手の数だけあるに違いない、と思うわけです。小説は、そこに生じる形あるものはないだけに、読者側の努力のようなものも必要とされます。そういう交感の芸術であるということは、まあ言うまでもありません。多分、これは、音楽と近いものがあるのかもしれませんが、音楽の方がより演奏者からのベクトルは強いので、単純に同じとも言えそうになく…、なんてことを考えるには少し夜遅くなっているようですのでこの辺りでやめます。

で、この実在する町の名前なんだけれども全く違うイメージというのは、これもみなさまにも経験があるかもしれませんが、夢の中では、実在の街が、全く違う街になって現れることが私の場合よくあります。池袋、高田馬場、あるいは、中学生の頃住んでいた高槻などという街が、まったく違う街となって、夢に現れるのですが、それは夢の中では正しく、池袋であり、高田馬場であり、高槻である、という具合です。

私が数年前に見た池袋は、屋外に巨大なエスカレータを要する大きなデパートのような商業施設がある、実に洒落た街になってました。実在の池袋も面白い街ですが、それとは全く違うものでしたから。

それもこれも、こちらの小説から生まれたのかも。このリンク先の新潮文庫は私は持ってないですね。。と思って本棚に行ったら、いやいや、持っていました。1992年の春に大阪駅近くの古本屋で購入したはず。たくさん付箋が付いていましたので、ずいぶん読み込んだようです。これも夢か?

サラマンカの手帖から (新潮文庫)
辻 邦生
新潮社
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ではみなさま、よい夢を。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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虚空にそびえる大木。幹が白く、白樺?と安易に思ってしまいましたが、きっと違うのでしょう。日没間際の太陽の光に照らされて黄金色に輝いていて、ちょっと我を忘れました。

それにしても、紅葉が美しい季節です。ところが、実際にはもう12月に入っていて、冬になってしまっています。冬なんですが、晩秋の風情を楽しめている感じです。仕事場近くの並木も太陽に輝いて、最後の黄葉が街並みを飾っていたりしていて、幸せな気分になります。

今日は、本当にオフな1日でした。仕事場で勤務しているメンバーもいて、少々心苦しさは残りますが、来週に備えて、ということで。

今日もこちらを少しずつ読んでいます。

西行花伝 (新潮文庫)
西行花伝 (新潮文庫)

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辻 邦生
新潮社
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辻邦生の書く女性はみんながみんな魅力的ですね。なんというか、ゲーテのファウストで語られる「永遠の女性なるもの」のような、イデーアールなものに昇華された女性像になっているように思います。

「西行花伝」の冒頭に登場する西行の母親であるみゆき御前(と書けばいいのでしょうか)の人物造形も実に魅力的で、「ある生涯の7つの場所」のエマニュエルや、あるいは「嵯峨野明月記」に登場する、本阿弥光悦の妻のような、屈託のない魅力のようなものを感じます。

「西行花伝」はKindleでの発売はまだですので、紙の本を風呂場に持ち込んで、湯船に浸かりながら読むことにしています。なかなかゆっくりと湯船につかる暇がないので、「西行花伝」の方もなかなか進みません。。Kindleでの発売を待ち望みます。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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良い天気の1日でした。夏休みは4日目に突入しました。折り返しというところ。今日は武蔵野丘陵のとある観光地へ出かけました。広葉樹の木々が生い茂っていましたが、幼い頃の思い出を思い出します。

私の通っていた幼稚園は、武蔵野の雑木林を擁していました。ちょうど今頃、秋の風情の中その雑木林の中を散歩したものです。本当か嘘か知りませんが、大きな落とし穴と呼ばれる穴が二つほど空いていて、これは誰が掘ったのか、と聞くと、悪い人が掘ったのだ、という答えが保母さんから帰ってきたのだと思います。私はその時の悪い人のイメージというのが、タツノコプロの「ヤッターマン」に出てくる悪役三人組でしか思えなくて、ああ、そんな人たちが本当にいるのかあ、と不思議な気分になったのを覚えています。

西行花伝 (新潮文庫)
西行花伝 (新潮文庫)

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辻 邦生
新潮社
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それにしても、私がいつも辻邦生を読んでいたあるいは読んでいるので、辻邦生の考え方が体験として身についてしまっているから、ということなのかもしれませんが、辻邦生の文章を読むと、いつも、その時思ったり悩んだりしていることについての言及を見つけることになるわけで、こればかりは、高校生の頃に生意気にも言っていた「キリスト者に聖書があるように、私には辻邦生がある」みたいな考えが、実は本当なんではないか、などと思ったりしてしまう今日この頃です。

これをシンクロニシティ、という言葉で説明するとするならば、これはまた後日触れる可能性もありますが、お世話になった方に譲っていただいたとある本の中から、おそらくはあまり知られていないであろう、辻邦生・佐保子夫妻が参加したという座談会の記録の中に、箴言とも言える辻邦生の実に興味深い言葉を見つけたばかりだったのです。

今日、西行花伝で見つけた言葉はこちらでした。

あなたも何が正しいかで苦しんでおられる。しかしそんなものは初めからないのです。いや、そんなものは棄てたほうがいいのです。正しいことなんかできないと思ったほうがいいかもしれません。そう思い悟ってこの世を見てごらんなさい。花と風と光と雲があなたを迎えてくれる。正しいものを求めるから、正しくないものも生まれてくる。それをまずお棄てなさい

辻邦生「西行花伝」 新潮文庫 37ページ

完全に文学的で直感的な表現ですので、賛否両論があるのはわかっています。またこの言葉だけで世界を動かすことはできません。

この世には人々がいるだけ、それだけ公正な生き方があるのです。すべての人は自分は正しく生きていると思っています。それをどう塩梅し、より広い人たちが安堵を得るかが大事です。羅生門に住む鬼どもでさえそう思っているのではないでしょうか。

辻邦生「西行花伝」 新潮文庫 37ページ

あたかも価値相対主義とも思えてしまうこの言葉。ですが、誰でも正しいという完全にサジを投げたアナーキーな状況ではありません。結局、正しいものなどはなく、「ほとんど正しければ良い」のでしょう。この「より広い人たちが安堵を得る」という言葉がそれを物語っています。おそらくはそこには論理はありますまい。あるのは善き人間の知恵でしかないのではないか、と思います。

この言葉は、若い語り手が、朝廷による紛争の裁定に不満を持っていたことに対して、西行が語った言葉、という設定になっています。

今もかつても、世界においては、良いとか悪いとか、そういう価値判断を求められることがあって、それは結局は虚しいことで、なんてことをこのご時世に考えるというのも、何か切迫したものを感じたり、いざ自分が巻き込まれた時に何ができるのかということを思ったり、という感じです。

それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

P+D BOOKS 廻廊にて
P+D BOOKS 廻廊にて

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小学館 (2015-07-24)
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午前中、なぜかTOEIC試験を受け、なんだかゲーム感覚で刺激を味わいつつ、午後は会議三昧。帰宅時に、先日買ってしまった「廻廊にて」をKindleで読みました。

最初のカタカナの独白の部分、あれ、わざと読みにくくしているともとれますね。

文学の手法だと思いますが、さらさら読むより、わざと読みにくくすると、いっそう意味が深まる、ということだと思いました。

もっとも、戦前は、カタカナ交じりの文が多かったと思います。大岡昇平「レイテ戦記」に出てくる漢文調のカタカナ混じりの作戦司令文を思い出しました。「戦闘状態ニ入レリ」みたいな。

あるいは、「魔の山」に出てくるフランス語部分とか。。あれも、ドイツ語のなかに突然フランス語が出てきて、たしか和訳ではカタカナ文になっていたと思います。

カタカナ混じり文は、きっと「魔の山」の影響なのかなあ、なんて想像しています。あるいは、辻先生の戦中の記憶があって、とか。

言語のなかに異物を入れることで、意味を高めていく、ということなのか、と思いました。

それにしても、Kindleで「廻廊にて」はかなり違和感がありました。あの黄ばんだ古い文庫本で読んでいたので、隔世の感ありです。

今日は短くグーテナハトです。おやすみなさい。

Tsuji Kunio

写真 1 - 2015-09-24

今日は辻邦生の誕生日です。9月24日生まれなので、くにお、と名付けられたということだそうです。そして、今年は生誕90年の節目にもあたります。

それにしても、時代はどんどん変わります。世界も変わりますし、私も変わります。辻先生も人生において変転を重ねたものと思います。

ただ、変わらないのは、人間が人間であることを守る、ということぐらいでしょう。辻先生的に言うと、「美が世界を支える」ということだと思います(これも出典が怪しくなってきています)。

これは、実に難しいことです。実践することは果てしなく困難で、ほとんど徒労感に近いものがあります。ある意味、時代おくれとも思えます。

フランス革命で成し遂げたものの大きさは、とてつもないものでしたが、それすら瓦解していくのでしょうか。

賛否はあるにせよ、それは、先日のシリア難民の子供が溺れたシーンすら風刺してしまうということと関係があるでしょう。つまり、これは、ユークリッド幾何学や形式論理などを乗り越えたことで、自らをも疑う西欧の姿なのだと思います。

あるいは、多元世界において、西欧の言う人間という概念すら揺らいでいる、ということもあるでしょう。これもまたポスト・モダンの議論です。

我々は、西欧の外から、こうした事案を見ています。あるいは、西欧を借りて、自ら当事者となって歴史を生きてきました。が故に、さらに事態は複雑なのではないか、と思うのです。

西欧は不変ではなく、少しずつ姿を変えています。西欧をとりまく世界も変わります。

それでもなお西欧の光を浴びることができるのでしょうか。それが、今もなお最善であることは信じることはできるのですが、それがなお世界で生き続けるにはどうすればよいのでしょうか。

などということを考えながらも、それでもなお、やはり辻文学を読み続けるということなのだと思いました。

辻邦生の言葉のなかから、一つ選んでみました。

平和とは美の創造と同じなのだ。そこに新しい見方、考え方を地上につくることであり、ただ戦力を使わないことではないのだから。

辻邦生 千手堂の消失と心の荒廃 辻邦生がみた20世紀末 信濃毎日新聞社 391

この引用だけだと、解釈が難しく、あたかも戦力を使うことを肯定しているだけのようにも思えます。

ですが、そうではないでしょう。

この前後で論じられているのが、フランス、インド、パキスタンの核実験についての論評で、それ自体については否定的であるにはせよ、そこにはリアリズムへの眼差しがあって、「世界戦略の難しさ、奇妙さ」という言葉が綴られているのですから。

戦力を持つとか戦力を持たないとか、そういう議論をさらに飛び越えたものを想定しているということなのだと思いました。

それは、今年の1月に引用した「春の風駆けて」の一文にも通じるような気がします。

https://museum.projectmnh.com/2015/01/15235917.php

私は、別にそれは、ある一定の主義を肯定するようなものではないと解釈しています。

ここで思い出すのが、ワーグナー《ジークフリート》で英雄ジークフリートがとった行動です。ミーメが鍛えられなかったノートゥングを、ジークフリートは一度溶かして鋳直したのですから。そういう創造的進化のような質的変化が必要ということなのだと理解しています。

今日の一枚。

Richard Strauss: Die Liebe der Danae
CPO (2004-02-01)
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来週末に《ダナエの愛》を観に行けるかもしれなくなりました。予習しないと。

しかし、私ももっと頑張らないとなあ、と思います。常に先のことは考えていますが、緩慢過ぎるのかもしれない、などと。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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先日書いた、フォニイ論争の件。辻邦生を始めとした4名の作家を「フォニイ」とした論争だったようです。

ですが、なにか違う位相で、辻文学は現実と戦っていたのだと私は思うのですがどうでしょうか。

私は文学史はあまり興味がありませんでしたが、すこし調べてみると私小説とは、リアリズムの極地とされているようです。反対に、歴史小説は、現代の現実に則したものではないので、通俗小説と取られるということでしょうか。

よく言及されるトーマス・マンのように現実の市民生活を維持しながら芸術作品を産み出すという立場は、現実と乖離しない立場だと思います。社会的生活を維持しながら芸術を生成するという主人公は、例えば「雲の宴」にでてくる詩人の郡司などがそれにあたりそうです。普通の市民生活を維持しながら芸術を生成するというのは、逆に言うと極めて厳しい道のように思います。

フォニイ論争があった1973年のちょうど同じ頃に発刊された學燈社の「國文學」が辻邦生特集ということで、20年ほど前に古本屋で手に入れました。この中に、フォニイ論争の当事者の一人となった平岡篤頼氏による「辻邦生における異国の意味」という論文があります。

その中に、「生きることと書くこと」の対立という議論が登場します。「生きることは書くことよりも早く経過し、書くことは生きる時間をいちじるしく削減する」とあり、この矛盾が「あらゆる文学の根底に横たわる重大問題」とされます。大概は、生きることか書くことかどちらかを選択することになるのだが、辻邦生は「この二つが対立するものではなく、相関的かつ相補的な関係にある」といいます。

書くこと=芸術活動と、生きること=現実の活動を一つにまとめようとした文学ではなかったか、と思うのです。

また、辻邦生はトーマス・マンの市民的生活を模範として、破滅的な生活ではなく、規則正しい市民生活を送りながら活動をしていたはずです。

そうした意味からも、文学活動の源として、現実世界と向きあうということを課していたのではないか。が故に、大学で教え、サークル活動で学生と交流したのではないか、と思うのです。

(こうした記憶は、20年も前にいずれかのエッセイで読んだものですが、さすがに歳月の流れには抗えず、出典を探すのに苦労します。当時からノートをつけたりカードに記録していればよかったのですが、さすがにそこまではできておらず、というところです。)

先日、NHKの番組で、藤子不二雄Fのドキュメンタリーを見ました。そこでは、常に市民と同じ目線を忘れない、ということをモットーにしているということが語られていました。もしかすると、辻文学もそうした現実世界との密接な関わりを忘れないようなとっかかりが常にあったのではないか、などと思うのです。

辻文学は決して、現実と一切乖離したロマンではなく、現実と対峙するリアリズムなのだ、と私は思っています。

明日からまたウィークデーの始まり。お盆休みの皆様も多いかと思います。きっと、朝の電車は空いていると思います。読むべき本が多いのですが、最近は時事問題もかなり重要で、ついつい電車の中で新聞などを読んでしまいます。まあ、先日も書いたように、大事な時期ですので、そうした新聞を読むことも大切なのですが、通常の読書が進みにくく、難儀です。

それではおやすみなさい。グーテナハト。