Tsuji Kunio

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以前も出した写真ですが、「光」の写真だとするとこんな感じなのかも、などと。

引き続き西欧の光。なんだか、ちょっと抹香臭い響きですけれど。

西欧の優れている点は、それ自身の思想ではなく、現実と戦い、人間を救い出し、そこから普遍を汲み上げようとするそのベクトルにあるのではないでしょうか。それは、自らが普遍でないことを暴く自己批判の精神を持ち、自らを鍛えうるものなのです、

私がこのことに気づいたのは、昨日紹介したのが、30年前に書かれた「はじめての構造主義」という入門書でした。

このなかで、著書の橋爪大三郎さんが西欧思想の仕組みを語るところがあります。西欧思想システムの重要な要素が、テキスト、主体、真理なのです。ですが、西欧思想は、それらを壊したわけです。

テキストではなく意味へ、主体ではなく無意識へ、真理から制度へ。

こうして、自壊してしまうほど極端に「真理」へと進むというのは、常に「混沌」とか「自然」などから、よりソフィスティケートされた状態へと進もうとするベクトルがあります。

確かに、西欧は世界を武力で蹂躙しました。だが、そうであってもなおそこに自浄力を備えているわけです。内部にそれに対する免疫か抗体をもっているわけです。ポストモダンこそが、その抗体の存在証明ではないか。

それは、種としての人間の尊厳を重要視するベクトルなのでしょう。

それが、非西欧にとって妥当かどうかは問題なのではないのです。がゆえに、自壊が始まったのです。それでもなお成長しているのではないか。その自己批判能力こそが「西欧の光」なのではないか。そう考えています。

さすがに、世界にでて鍛えられた文明だけあります。その懐の深さを我々は意識しなければならない、ということなのでしょう。

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最近、帰宅前に水泳することが多いです。今日は無心で15分ぐらい泳ぎ続けました。泳ぎながらもいろいろ考えがまとまって有意義です。なんというか、人間というのは、やはり水と親和性のある動物なのですね。水に包まれていると落ち着きを感じます。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

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まるで息継ぎをするように、お昼に建物の外に出ることが多いです。昔読んだ本に「必ず日中一度は外に出よ」と書いてあって、ああ、なるほど、と思い実践している次第。で、出典の本を開いて探しているんですが、見つかりません。幻でしょうかね。。

先日読んだ、「西欧の光の下で」。

私は先日以下の文章を引用しました。

「お前が、どのような動機であれ、よそに、すでに出来上がったものを求めにいったのは、間違ったことだった。精神が、他の精神にふれうるのは、それが生みだしたものを通して、いかにそれが現実と闘い、そのなかから自らの糧を汲みだしたかに注意するときだけだ」

辻邦生全短篇1195ページ

あるいは以下の様な文章。パリの町並みが夕日に照らされた瞬間にこういうことが考えられたのです。

私はそこにただ町の外観のみをみたのではなく、町を形成し、町を支えつづけている精神的な気品、高貴な秩序を目ざす意志、高いものへのぼろうとする人間の魂を、はっきりと見出したのである。そこには、自然発生的な、怠惰な、与えられているものによりかかるという態度はなかった。そこには、何かある冷静な思慮、不屈な意図、注意深い観察とでもいうべきものが、鋭い町の輪郭のなかにひそんでいた。自然の所与を精神に従え、それを人間的にこえようとする意欲があった。

辻邦生全短篇1 194ページ

曲解なのかもしれませんし、辻先生の本当に言いたかったこととは異なるのかもしれませんが、私は、この「西欧の光の下」を思い出して、次のような考え方を持ったのです。

おそらくは、西欧の精神というのは、このように、秩序=真理を求める無限な営為でした。ヨーロッパには二つの真理がありました。一つは聖書の真理。もう一つはギリシアからの論理による真理。この二つの真理をつかった営為だったというわけです。これで世界の秩序を解き明かそうとしたのです。

さらに、人間というものの発見をしたのも西欧の精神なのでしょう。ルネサンスからのヒューマニズムは、おそらくはフランス革命へと繋がり、基本的人権という現在のグローバル(と思われる)な規範を他のどの文明よりも早く形成したわけです。

おそらく、ここにある「自然の所与を精神に従え」という一節は、その後のエコロジーとの関連で噛みつかれることもあるのかもしれません。私は、ここでいう自然は、いわゆるnatureではなく、混沌Chaosに近いような意味と捉えています。

そうした混沌=現実との闘いこそが西欧である、ということ。実は、それは、余りに現実と闘い、真摯に真理を求めたがゆえに、自壊していったとも言えるわけです。

もう少し書くべきことがあります。続く予定。

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ちなみに、以下の本を電車で読んでいたんですが、これが今回の考えの端緒かもしれません。こちらがそのきっかけとなりました。なぜ、大学当時にこの本を読まなかったのかがわかりません。あの頃は、モダン=近代をもっと勉強しなければ、と思っていたのです(実際は楽器ばかり吹いていたのですが)。フランス近代思想のファッションのようなものに、相容れなさを感じていたのかも。なにか、デリダ、フーコー、アルチュセールという人名がカッコイイ時代でした。

はじめての構造主義 (講談社現代新書)
橋爪 大三郎
講談社
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では、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

昨夜、NHKで「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」という番組をやっていて、その中で三島由紀夫が取り上げられていました。

三島由紀夫は1925年1月14日生まれ。今年で生誕90年です。

一方の辻邦生も、1925年9月24日。

ですので、二人は同い年です。

二人が過ごした時代は同じです。終戦時に価値観がひっくり返ってしまったというのも同じです。

三島由紀夫は、価値観の転倒をうけて、日本古来の伝統へ回帰しようとしたわけで、が故に三島事件を引き起こしたとされています。一言で語るには重いものではありますが。

辻邦生は、パルテノン神殿に向かい、美が世界を支える、という方向に進んだのだと思います。

いずれも、揺れ動く現実を、どこかで繋ぎとめよう、としたのは同じだ、と思います。価値がひっくり返ったことをどうやって処理していくか、ということ。難しい課題です。

我々にとっても、価値がひっくり返るどころか、価値があまた溢れている状態にあって、何が支えになるのか。あるいは支えなんていらない、という方向に行くのか、など考える必要があります。ですので、他人事ではないのです。

明日からまたウィークデーですね。ウィークデーこそが大切です。がんばらないと。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

廻廊にて (新潮文庫 つ 3-2)
辻 邦生
新潮社
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辻邦生がそう思っていたかどうかはわかりませんが、辻文学のテーマの一つとして「性急な改革は失敗する」という物があると思っています。

たとえば、「背教者ユリアヌス」におけるユリアヌスの失敗、「春の戴冠」におけるサヴォナローラの失敗、「光の大地」における教団の失敗、「廻廊にて」におけるマーシャの挫折などなど。あるいは、「サラマンカの手帖から」で、主人公たちが、サラマンカを去るのもそれに当たるかもしれません。

結局は、真実を目指したとしても、それは現実に必ず跳ね返されるわけです。それはどうしようもない真理。なぜなら、現実が、それが道理にあおうがあうまいが、現実界においてはそれが正しいからです。

がゆえに、そうではない粘り強い取組みが必要とされる、というのが、20年以上辻邦生を読んできた結論の一つです。

こうした、正しさと現実との「ずれ」というものが、あらゆる痛ましい出来事の原因になっている。昨今の事件をみて、そう思わざるを得ません。

今日も短く。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

十二の肖像画による十二の物語
辻 邦生
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今日、辻邦生の新しいKindle本などないかなあ、などと見ていたところ、意外にも復刊があることがわかり驚いています。「十二の肖像画による十二の物語」です。明日、1月23日発売だそうです。

12枚の肖像画をモチーフにした12の短篇が収められるはずです。

もともとは、1980年3月から1981年2月まで文藝春秋に連載されたものです。

1992年5月に「風の琴 二十四の絵の物語」が文春文庫から刊行されましたが、そちらにもこの「十二の肖像画による十二の物語」が含まれており、そちらで読んでいました。

どのような装丁の本になるのでしょうか。書店で手に取るのが楽しみですね。

風邪をひいて二週間。喉の痛みは収まりましたが、熱が出たりひいたり。。全く最近の風邪はしつこいです。体を冷やさず、お腹いっぱい食べて寝るのが一番。

ではおやすみなさい。

Tsuji Kunio

写真 1 - 2015-01-21

こちら、Kindleではなく、リアルの「夏の海の色」です。1992年4月に出された文庫版です。23年前。さすがにくたびれています。

で、相変わらず、この「夏の海の色」を読み続けています。というか、季節外れですね。冬なのに。

今日はその中に収められた短篇「彩られた雲」が気に入りました。


舞台は戦前の東京

足の悪い美しい少女に恋心を抱く主人公。で、その少女もやはり主人公と少しばかり親しくなる。その家は金持ちなのだ。

だが、向かいに住むとある兄妹は、その少女を冷たい子で、人を憎み、嫉み、妬いていて、冷たい仕打ちをするのだという。

妹はこういう。

「冷たくなかったら金持ちにはなれません」

「あの人の家は高利貸だからです。あの人の家は冷酷じゃなければお金が入らないようになっているのです」

その後、この美しい少女一家は、主人公が夏休みで帰省している間に引っ越してしまう。人づてに聴くと実に親切そうな両親で、「冷酷」というふうではなかった、と聴く。主人公は、妹の言葉を少し信じてしまったことを後悔する。


といった、あらすじ。

ここまでいくと、まあよくある話なんですが、面白いのがこの主人公が、まだ中学生で、思考に浅薄な部分があって、寄宿していた叔父の所得を考えられていないという設定があったり、その美しい少女に舞い上がっている場面がいくつも書かれているわけです。

なので、きっとこの後悔も、まちがった後悔なんでしょうね。

また兄妹の父親が、共産主義者で国外亡命しているという背景も描かれています。そうしたことも考えると一層面白いものが感じられます。

にしても思うことは、理性的なものとか正しいものというのは、現実世界においては、ほとんどの場合役に立たないのではないか。そうしたことをなにか感じさせる挿話でもあります。

というわけで、グーテナハトです。

Tsuji Kunio

夏の海の色 ある生涯の七つの場所2 (中公文庫)
中央公論新社 (2013-06-24)
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最近、毎日辻邦生作品を読むことにしています。本を持ち運ぶのは辛い時もあるのですが、スマホのKindleに入っていますので、その気になれば絶対に読める、というわけです。

で、今日「夏の海の色」を読みました。この短編集そのものではなく、所収されている短篇の「夏の海の色」の方ですが、いや、これは、あまりに見事すぎて、しばし動けないぐらいでした。

もう何度も読んでいるんですが、本当に緊密で見事な美空間で、我を忘れます。

夏の日差しに照らされる城下町と、そこに流れる今とは違う時間。城下町らしい、侍、あるいは軍人といった日本の古い感覚。中学生の淡い思いと、子を亡くした親の哀しみ。

短編映画か単発ドラマになります。絶対に。

どなたかドラマ化しないかな、などと。

こちらにあらすじがかいてあります。

この物語の城下町は松本がモデルだと言われています。また海辺の町は私は勝手に湯河原だと想像しています。
(湯河原だと想像している理由はこちらにも

これは私小説ではありません。が、色濃く辻邦生の体験、おそらくは松本での旧制高校時代の記憶とか、湯河原に疎開した時の記憶などが反映しています。

しばし時間を忘れたひとときでした。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

73年三羽烏という言葉があるそうです。辻邦生、加賀乙彦、小川国夫の三名をさしてこういうのだそうですが、この方々は1973年に純文学界で活躍したということで、辻邦生「背教者ユリアヌス」、加賀乙彦「帰らざる夏」、小川国夫「或る聖書」が話題になったからだそうです。

この言葉はネット上ではウィキペディアに存在するのみ。それ以外ではあまりさしたる情報が出てきません。

もう一つは小谷野敦さんの「現代文学論争」のフォニイ論争の項目において取り上げられています。

現代文学論争 (筑摩選書)
小谷野 敦
筑摩書房
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というわけで、フォニイ論争のことを考えなければなりません。少し気が重いですが、いつかは考えなければなりませんので。

Tsuji Kunio

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相変わらず人参畑。太陽の光がバターのようです。

まいどすいません。「春の風駆けて」を読んでいます。

「真晝の海への旅」って、映画化が計画されていたんですね? 実際にどうなったのか、調べていますが、どうもよくわかりません。「北の岬」が映画化されているのは有名ですが。

黒澤明と仕事をしていたプロデューサの松江陽一氏が映画化しようという話があって、どうやらイタリアの若手監督を起用する、というはなしになっていたようです。そうか、日本語ではない映画化、ですか。もう少し調べてみようと思います。

「真晝の海への旅」、一度読んだきりです。それも20年ほど前に。私の友人がこの本を読んで「これはマンだ!」と言っていたのを記憶しています。

ちょっとこちらも再読しないと。

では取り急ぎ。

Tsuji Kunio

春の風駆けて―パリの時
辻 邦生
中央公論社
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うーむ、本当に赤裸々な感じ。

社会主義が実現するには人間が変質しなければならない。貨幣が鋳直されるように、鋳直される必要がある。それはドストエフスキーの小説の中の人物が願望するような意味で、人間が改造される必要がある。人間が一歩神に近くならなければならないのだ。

辻邦生「春の風駆けて」より

辻邦生は、当時の知識人なら誰しもそうだったように、社会主義へのなにかしらの共感なようなものがあったと思います。それは「ある生涯の七つの場所」において、色濃く現れているように思います。人民戦線の物語となればそうなるでしょう。

ともかく、ここに書いてあることに従うと、社会主義は無理だったということなんでしょうね。

私が読んでいるのは1981年3月のころの様子です。ちょうど、ジスカール=デスタンとミッテランの大統領選挙が行われていた時で、時節柄、政治的な考察も随分と掲載されています。私、テレビで、学生が「ミッテラン」を連呼する映像を見ましたが、いまでもそれを覚えております。

では、グーテナハトです。