先日の展示会では、「春の戴冠」のタイトル案が書かれたメモが目にとまりました。ここには、幾つかのタイトル案がかかれていました。私の記憶違いでなければ「暗い春」という題名候補が書いてあったように思います。
「偽ボッティチェルリ伝」が題名候補だったということは記憶にありましたが、「暗い春」という題名が候補だったということは記憶にありませんでした。もしかするとどこかに記載があるのかもしれません。
確かに、春の戴冠は、最後にはサボナラーラの、暗い事件で幕を閉じます。焚書坑儒のように、文物が焼かれるシーンも出てきます。どこかで読んだのですが、こうした記述には文化大革命の影響もあったのではないか、とされているはずです。現在も世界が苦しむ原理主義とポピュリズムの問題を考えずにはいられません。
その後のフィレンツェについては、塩野七生の「わが友マキアヴェッリ」を読んでしまうとそのままなのですが、徐々に成熟した街へと変貌していくイメージです。トスカナ大公国として、都市国家から大陸国家へと変貌するのも、なにかヴェネツィアと似ています。
やはり、「ヴィーナスの統治」と「ヴィーナスの誕生」のシーンが、絶頂です。ですが、その後の暗さというものは、まさに「美と滅びの感覚」の「滅び」の部分を強く感じます。だから「暗い春」となるのでしょうか。ただ、そうすると、おそらくはタイトル的に暗すぎるわけで、絶頂の部分を指す「春の戴冠」という、タイトルになったというわけなのか、と思いを巡らせました。
この「春」という言葉は、ボッティチェリ作品を指すと同時に、 フィレンツェの街自体を示しているのでしょう。23日講演会「辻邦生のボッティチェリ観をめぐって―小説と歴史のあいだで」で小佐野重利先生がおっしゃっていたように、フィレンツェという街の名前の語源の中には、花=フローラという意味が含まれていますので。
ただ、春の次には、夏が来て、秋が来て、冬が来ます。それは、全てにおいて。そうした諦念が、滲み出ているのだ、という思いでした。
本日の一枚。それもやはり、過ぎ行く春の美しさに満ちた曲。元帥夫人の諦念は、まさに、美と滅びの感覚です。老いを自覚し恋人を諦めるというもの。バーンスタインの演奏は濃密。初めて聴きましたが、あまりに濃密。
Strauss: Der Rosenkavalier (Complete)
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