Tsuji Kunio

春の風駆けて―パリの時
辻 邦生
中央公論社
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いや、この「春の風駆けて」は、赤裸々、ということを昨日書きましたが、以下の様な文章も、あの辻先生をして、と思わせる切迫感があります。

ぼくは才能の存在など信じないと行った。「それが好きかどうかということだけじゃありませんか?好きだったら、朝から晩までそれをやるんです。それも一日二日ではなく、毎日毎日、生きている限り、二十年も三十年も。現代のような時代にものを創るということは、それについて何を言われようと、何を考えようと、自分の意見にすら摑まらずにその一歩先を走ることじゃありませんか」

ぼくはJ子さんを慰めるというより、明らかに自分を弁護している。だが、これ以外に何を言えよう。

辻邦生「春の風駆けて」73ページ

いやまあ、もうこういうことを仰るのですが、これは別に小説家に限ったことではないのでしょうね。一般的な物書きだろうが、プログラマだろうが、スポーツ選手だろうが、ピアニストだろうが、こういうことなんでしょう。才能なんてものはなく、ただひたすら続けるんですか、という感じ。

そういえば、辻邦生の言葉「ピアニストがピアノを弾くように文章を書け」という言葉をさらに思い出します。

この引用した部分、10年以上前に読みました、当時も線を引いてあって、栞まで挟んでありました。さすがに印象的な場所です。

というわけで、今日もグーテナハトです。

Tsuji Kunio

パリのデモ行進のこと

パリで起きた、テロ事件の件。風刺週刊誌「シャルリ・エブド」の襲撃事件。それを受けたデモが日曜日にありました。フランス全土で370万人が参加したとのことです。

このデモの映像を検索してみたところ、以下のリンク先の画像が出てきました。

http://www.jpost.com/Operation-Protective-Edge/New-anti-israeli-demo-in-Paris-despite-government-ban-368992

振られている旗が、パレスチナの旗で、あれれ、と思ったのですが、記事を読んでみると、昨年7月の反イスラエルのデモ行進でした。日曜日のデモと同じく共和国広場からバスティーユへ向けて行進したそうで、警官隊と衝突がおこり70名が逮捕されたとのことです。

エルサレム・ポストの記事ですので、なにかしらのバイアスがかかっている可能性もありますけれど。

で、思ったのは、性格が異なるデモが同じ所で発生する、というところに、なにかフランスの奥行きのようなものを感じました。

ちょうど、昨日から手に取った辻邦生「春の風駆けて」の中に、1980年にミッテラン大統領が当選した時の様子が書かれています。これは「雲の宴」の冒頭にも取り入れられているものです。革命の国フランスらしいものだと思います。

フランス国内での捉えられかた

さて、今回の「シャルリ・エブド」への襲撃事件がフランス国内でどのように捉えられているのかは、以下のリンク先が参考になりました。

フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について

シャルリ・エブドは、左翼系の風刺雑誌で、もともとは「アラキリ」という名前だったそうです。これ、「腹切」で、切腹のことだそうです。

どうやら、リンク先の解説によれば、過激な風刺画であったとしても、それをあえてやっていて、これまでもなんども襲撃されたりしているわけです。ですが、そうした風刺画は「表現の自由」を守るためにあえてやっている、ということのようです。他国では許されないような表現の自由を守ってきたのがフランスと言う国である、ということのようです。

辻邦生がフランス語の授業で語ったこと

これを読んで、辻邦生がフランス語の一般教養授業で言ったという言葉を思い出しました。これは、私の仕事場の先輩から聞いた話で、出典は不明ですが、一応紹介します。

フランスは自由の国です。ですから、この授業において何をしようと構いません。ただ、他の人をじゃまをするのはやめてください。

このような趣旨のことをおっしゃっていたそうです。

そうだとすると、冒頭に触れた、反イスラエルのデモも、こういう文脈の中で捉えると、先に触れたように「奥行き」のようなものをよく理解できると思います。

ここまで成熟した社会を作れるのは、フランスが革命の国だからでしょうか。自由を血で勝ち取った国だからでしょうか。

 

こちらの本。「春の風駆けて」。1980年に辻邦生がパリ大学で教鞭をとっていたときの記録です。辻邦生の、かなり「赤裸々」な心情が沢山つめ込まれていて、本当に刺激的な一冊なのです。

春の風駆けて―パリの時
春の風駆けて―パリの時

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辻 邦生
中央公論社
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ではおやすみなさい。

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先日初詣に向かう途中でとった写真。季節外れですが、余りにさわやかな風景でした。

城・ある告別―辻邦生初期短篇集 (講談社文芸文庫)
辻 邦生
講談社
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辻邦生「西欧の光の下で」を今日も読んでいますが、その中で、文学が有効な表現形式であるかどうかを考えることが極めて難しく、それ自体が文学的主題となりうる、というようなことが書いてありました。

昭和30年代のことです。戦後の頃といえば、まだまだ文学に力があった時代で、文学をやるなんていうことは普通に出来た時代と思っていたんですが、そうではないということですね。この様なことを辻邦生が考えていたということは前から知っていましたが先日ボエームの記事を書いたあとだっただけに、なにか少し気になるものを感じました。

辻邦生は「小説が書けない」という状況を突破するのに苦労したとのことなのですが、それは辻邦生個人の問題として捉えていました。終戦によって価値が転換してしまったことで、根底から価値観が変わってしまったという状況が、辻邦生にとって文学を難しくしてしまった、ということです。ですが、当時にあっても、文学形式が時代遅れ、というような空気もあったのではないか、と思ったのです。

文学なんてもう時代遅れで、これからは映画やテレビの時代だ、というような空気。

それは今とあまり変わっていないのではないか、という感じです。

最も、今は映画やテレビにくわえて、SNSやゲームが競合です。とくに若い世代にとってはゲームが必需品となっています。ゲームには、物語性もビジュアル性もあれば、さらにそこにインタラクティブな要素もあります。

そんな中にあって、辻文学に限らず、文学全体が時代遅れ、という言い方もできるかもしれません。もっとも、先に書いたように、今も昔も時代遅れなのかも。

ただ、結局は先鋭的な意見は誤っている、ということなのでしょう。時代遅れと言いながら何十年も残っているのが文学であり、音楽であり、映画であり、という言い方もできます。時代遅れ、という価値評価自体が時代遅れなのかも、などと思います。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

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城・ある告別―辻邦生初期短篇集 (講談社文芸文庫)
辻 邦生
講談社
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この文庫ですが、講談社からの出版です。講談社からの辻邦生の出版本はほとんどありません。この「城・ある告別」、それから「黄金の時刻の滴り」、安土往還記の英訳版 “The Signore"です。

2003年に出版されたこの文庫は、辻邦生初期短編のうち重要なものが網羅されており、今でも持ち歩いてよく読んでいます。「ある告別」「サラマンカの手帖から」「見知らぬ町にて」などは、どれも素晴らしい初期短編だと思います。

今回は「西欧の光の下で」という短篇。非常に短いものですが、重要なテーマが収められています。パリに留学したのだが、パリの形式的で冷たい風情に辟易していた主人公が、ある日、夕日に染まるパリをみて、西欧の光を感じた、という内容。ストーリではなく、おそらくはエッセイに近い短篇です。

この夕日に染まるパリを見る場面は、ある種の至高体験のようなものです。辻邦生の至高体験は3つあることはなんどかここでも取り上げています。パルテノン体験、リルケの薔薇体験、ポン・デ・ザール体験です。これは「言葉の箱」においても取り上げられているのが有名です。(別のエッセイでも取り上げられていたはず)。

ですが、この西欧の光を感じた至高体験は、それを遡るもののようです。ここで感じた、西欧文明が現実と戦った結果として、秩序において生きている、ということの源流を探るために、ギリシアに旅立つ、というのですから。

ここでの体験の結果のモノローグは以下のとおりです。

お前が、どのような動機であれ、よそに、すでに出来上がったものを求めにいったのは、間違ったことだった。精神が、他の精神にふれうるのは、それが生みだしたものを通して、いかにそれが現実と闘い、そのなかから自らの糧を汲みだしたかに注意するときだけだ。

この現実と闘い、という「現実」こそが、辻文学の主人公たちが戦っていたものなのだなあ、と思います。例えば、あの俵屋宗達が「この世は全て背理である」といったときの「この世」こそが、ここでいう「現実」なのだろうなあ、と思います。

参考情報。22年前に買った中公文庫の辻邦生全短篇1です。「西欧の光の下で」はこちらにも当然所収されています。

写真 1 - 2015-01-07

このように、壊れてしまいました。分厚い本で無理して装丁したのでしょうから、何度も読めば仕方ないですね。この本を受験帰りの新幹線東京駅ホームで読んでいたのを思い出しました。幸福な読書の記憶です。

写真 2 - 2015-01-07

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

その基本に、もう一度人間を人間らしい展望の中に取り戻す仕事をしようとしているんだという姿勢を取り返していただきたいと思います。

辻邦生「言葉の箱」新潮文庫 45ページ

言葉の箱―小説を書くということ (中公文庫)
辻 邦生
中央公論新社
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久々に、自宅で風呂に浸かりました。ずいぶん寒くなりましたので、湯温を上げてゆったりと。静かな夜でした。

湯船に浸かりながら本を読むのが楽しみなのですが、この「言葉の箱」の文庫本をパラパラとめくりながらしばし体を休めました。どうせ多忙なので、まとまった時間本を読むことなんて出来やしません。ですので10分の読書を何回もやればいいのである、そう思いました。

で、冒頭の一節。

人間らしいとはなにか、という問題はありますが、それは学術的な問題なのでしょう。文学はテーゼを述べてもよいのかもしれず、そうだとすると、ここで言っている人間らしさ、というものが何なのか、というものは自ずとわかってくるはずです。

そうだとすると、思い浮かぶのは、中世ヨーロッパの手工業者の市民的生活でしょうか。辻邦生作品にもなんどかモティーフが現れていたと思います。仕事をしながらも歌を愛するマイスタージンガーのような人物なのかもしれません。あるいは、同じく「言葉の箱」にでてくる、会社の社長をやりながらも、登山に明け暮れる人物のこととか。

最近、ヒューマニズムだけは、人間である以上原理原則になりうる、ということを考えていたこともあって、この文章が眼に入ってきたようです。

明日も早起きの予定です。みなさまも体調にお気をつけて。おやすみなさい。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

岡本かの子って、凄いです。

仏教人生読本
仏教人生読本

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(2014-06-11)

こちら、著作権切れで無料でKindle版が配布されている岡本かの子の「仏教人生読本」まだ読み始めですが、なかなかわかりやすいです。岡本かの子が苦しんだ末に辿り着いた境地だからと思います。

憂鬱のときは、兎に角笑ってみましょう。笑えなくとも勇気を出して笑ってみましょう。
形に心はついて来ます。笑って、笑って、笑ううちに、笑いについて憂鬱がとけて来ます。一種の生理的作用でもあります。

昔も今も変わらないです。

もっとも、実際には誰が書いたものなのか。。

この仏教人生読本はちくま文庫の全集には入っていないようです。中公文庫で出版されたものが青空文庫に収録されたようです。

岡本かの子は、本当に奔放な人生を送った方です。自分の夫、子どもと、自分の愛人と5人で一緒に暮らしたりと、通常の常識を逸脱した生活のようです。まあなにか通常なのか、という問題は有りますが。そうした苦しみのなかで仏教に傾倒したそうです。

とにかく、文章が緊密で、よく磨かれ光り輝いています。短歌をながく歌っていたからでしょうかね。短い文章を繊細に書くことができるからこそ、長編が緊密になるということでしょうか。前から書いていますが結構好きで、短篇はずいぶん読みました。すでに著作権切れていますので、青空文庫で読めます。ただ、長編は未読。まだ到達していないですね。。

今日の一枚

今日の一枚。今日も聴いてしまったレイフ・ヴォーン=ウィリアムズ。ゆったりと時間を書けて聴きたいですが、そんな時間はあるわけもなく。とにかくイングランドってこういう感じではないか、という真実在がここにあるように思います。もしかするとそういうイングランドは実際にはないのかもしれません。ただ、曲としては現前としています。これはこれで一つのイングランド。実際のイングランドと異なっていてもいいのでしょう。

イギリスと書けないのは、最近のスコットランド独立の話題があったから。でも、イギリスって結局イングランドを日本語読みしただけだから、意味ないですね。。イギリスではなく、ブリティッシュとか、ブリテンとか言うべきなんですかね、などと。

Vaughan Williams: THE COMPLETE SYMPHONIES
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風邪ひきました。急に寒くなって体温調整が全く出来ておりません。。薬飲んで寝ます。みなさまに「体に起きをつけて」と申していましたが、結局私ができておりませんでした。。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

本日辻邦生先生の誕生日です。あのお別れの会も15年前の今日ということに成りました。あの日と同じく今日の東京地方は雨模様でした。 

昨日も、「のちの思いに」や「風越峠」をよみながら思いましたが、あの戦中戦後の空気と言うものとの決定的な断絶がそろそろ迫っているのでしょう。

同じ狂気の時代としても、なかなか伝わらないことも多いはず。こうして、時代の記憶は歴史へと姿を変えていくのだと思います。

先日も触れましたが、文学にアクチュアリティを見出すのが良き読み手なわけですが、そうしたものをどうやって普遍化して行くのか。それが課題なのだと思います。

時代は流れますが、人間は変わりません。だからこそ、何千年も命脈を保つ思想というものがあります。思想の享受者である人間は変わらず、欲望を持ち殺戮を繰り返す。それでいてなお、自由と不自由の間を行き来します。現代社会は進んでいるようでいて、実際には回帰しているに過ぎないと思うこともあります。

今日読んだ「のちの思いに」。
のちの思いに

いずれもノンフィクションのように思いますが、実際にはフィクションだそうです。なにか、戦後の新しい時代が到来したというワクワクした感じを感じるのは私だけでしょうか。これは、バブルが崩壊した後に、ITバブルへと至る1995年移行の「世界が変わるのではないか?」という気分に似ているような気がしてなりませんでした。実際にはITは、世界を変えはしましたが、逆に世界を統制する装置として機能しつつあります。

いよいよ秋本番。秋分の日も過ぎ、日は短くなるいっぽうですね。日本は冬の闇の世界へと降りていくわけです。早く冬至が過ぎて、また光の世界へ戻って行きたいものです。

季節の変わり目ですので、みなさまもどうかお身体にはお気をつけて。

それではグーテナハトです。おやすみなさい。

Tsuji Kunio

辻邦生「風越峠」。万葉古歌が散りばめられ、戦中の悲壮さと古代史の悲劇を重ねあわせた作品です。

誤植を発見

私が最初に読んだこちら版。中公文庫の「辻邦生全短篇2」。今日、風呂に浸かりながら再読しましたが、なんと誤植を発見。なんで今まで気づかなかったのか。。

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谷村が語り手に、大津皇子の物語を熱く語るシーン。語り手が「日本書紀には何て書いてあるんだい?」と谷村に問いかけるシーンなんですが、そのあと「彼は熱っぽく話す谷村に調子を合わせて訊ねた」と続きます。この「彼は」は「私は」の誤植のはず、と思いました。

で、全集を当たりましたが、「私は熱っぽく話す谷村に調子を合わせて訊ねた」に訂正されていました。良かったです。

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ちなみに、新潮文庫「見知らぬ町にて」に収められているバージョンはこちら。正しいです。
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ちなみにこの「見知らぬ町にて」が私が初めて買った辻邦生本。多分1991年か1992年に買ってますので、そろそろ四半世紀近くになります。
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語り方の素晴らしさ

確かに少し出来過ぎたストーリーなのかもしれませんが、私はこの本を高校時代によんで、なんだか感動してしました。戦争に赴く学徒と、実らぬ恋という恋愛小説。で実らぬ恋に、殉死さえしてしまう一途さったら、これはもう現代では決してありえない純愛小説で、まあ、若者にはキュンと来ます。

ですが、どうも最近読むとそういう面とは違う面がクローズアップされてくるような気がします。自分が情熱をかけたものを、一度諦めるわけですが、埋み火のように胸の底でくすぶり続けていて、あるときそれが噴出してしまう物語。そういう後日談的な興味深さというものがあります。

この小説は、ストーリというより、物語りかたにその真骨頂があるのかもしれないですね。回想と書簡を縦横無尽につかって、時系列に沿わずに物語を語る、という構造。で、それが本当に自然なのです。語り手の回想という意味では、時系列にそっているのですが。

これ、プルーストなんだ、と思いました。あの、プルーストの「失われた時を求めて」的な語り方なんだなあ、と思います。緊密な語り方で名人芸です。

気になること

で、他にもこの小説で気になることがあります。ネタバレ注意ですが。。

谷村が当時愛した女性である麻生志貴子は、実は自分の妹で、それが分かるシーン。自分の母親とあって、事の顛末、つまり恋人=妹が自ら命をたったことを告げられるんですが(そこの語り方も見事なんですが)、その時にこういうわけです。

『あなたがたのことを、あの子も知ったんです』と。

この「あなたがた」を「あの子」が知ったというのがどういうことなのか。

「あの子」は志貴子です。で「あなたがた」とは? 谷村と志貴子のことですかね。志貴子が、谷村と志貴子の関係、つまり異父兄妹であるということをしったということを「あなたがたのこと、あの子も知ったんです」と表現しているということになります。「谷村の志貴子が兄妹であることを、志貴子も知ったんです」ということです。

この表現は、個人的には違和感があります。なにか主語のずれが感じられるんです。「あなたがた」と「あの子
」には、志貴子が含まれますので、ちょっと気になるのです。

この部分は、「私たちのこと、あの子も知ったんです」の誤植ではないか、という気もしていたんですが、全集でもそのままでした。なにか緊密な構造体の中に一つだけ隠された暗号のようなもののように思えます。私のセンスの問題かもしれないですが……。

ただ、よく考えてみると、これでもいいのかもしれないのです。ただ、母親の感情として、谷村も志貴子に対する強い遠慮のようなものがあって、そういう言葉になったのかもしれない。そう思いました。

参考

風越峠については、こちらも。昔、地名について調べていました。

「風越峠にて」の土地の名 一考

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

2002年に訪れたデカルト街37番地。辻邦生が住んだ部屋です。

IMG 3428

建物を見上げる。いまはプレートが付いているはずですが、当時はありませんでした。

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通りの様子。隣の中華料理店の建物には、ヘミングウェイが住んでいた部屋があります。

IMG 3431

自宅にあるこちらを読んでいまして写真を載せることにしました。

たえず書く人

Tsuji Kunio

はじめに

曇り空の一日。

どうやら最近働き過ぎのようですので、休息日としましたが、キーボードを叩くのが辛く(肩こりで)、ひいひいいいながら一日過ごしました。痛み止めを飲んで、長風呂につかって、という感じ。夜になって少し落ち着きました。辛いのはキーボードもそうですが、ペンを持つのも辛いですし、本を持つのも辛いということです。なんだか、ちょっとどうにかなりませんかね、と思います。

モンマルトル日記

ですが、一日家で過ごしたおかげで、いろいろと読みなおすことが出来ました。限られてはいますが、今日読んだのがこちら。
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辻邦生歴史小説集成第十二巻に収められた「モンマルトル日記」のなかから、おそらくは有名な部分。1968年11月30日のところ。

このところ、ずっと自分が死んで、いなくなることを考える。信じられぬようなことだが、それは必ずくる。そのときになってあわてず、自分の生をいきることだ。今まで自分の好きなように、思いのまま、力いっぱいの仕事をしてきた。これからも同じように全力を尽くして、人間と、芸術について考えぬくことだ。真に考えぬき、真実に生きたことだけが人間をうち、人間をうったものだけが人間の遺産となる。自分の仕事を完全に成熟させるための距離と、自由をつねにもつこと。

辻先生が43歳の時の言葉ですね。ちょうど「嵯峨野明月記」を書きつつ、「背教者ユリアヌス」の構想が始まる頃のことです。この後「背教者ユリアヌス」が書かれ、「春の戴冠」が書かれ、「ある生涯の七つの場所」が書かれ、「西行花伝」が書かれるわけです。

なんというか、言葉が見当たらないです。まあ、これは誰もが思わなければならないことであり、かつ誰もが思いたくないことで、私もそんなことは思わないです。いつもは。

ですが、昨今はこういうことが心に響くようになりました。人の一生を様々なかたちで見ようとしているからなのだと思います。

今日の一枚。

レヴァインの《パルジファル》。来月開幕の新国立劇場の《パルジファル》もリハが始まっている頃と思います。私もチケットを取りましたが、所用のため行けるかどうかわかりませんが、とにかく聴かないと、ということで。

私は第一幕のアンフォルタスのモノローグが大好きです。あれほど人間らしい慟哭はないのではないか、と思います。このアルバムではジェームス・モリスが歌っています。すこし英雄的なアンフォルタス。

Parsifal
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Deutsche Grammophon (1994-08-16)
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※パルジファルでググっていたら、あまりに面白い記事がたくさん出るので止まりません。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。