Book,Tsuji Kunio

今日もKindleで以下の二冊を読みました。本当に便利です。Kindleといっても、iPhoneのKindleアプリです。本当はKindle Paperwhiteを使いたいのですが、会社に持ち込めないので。

言葉の箱 小説を書くということ (中公文庫)
中央公論新社 (2012-12-19)
売り上げランキング: 9,412

この本は、辻邦生の小説の作り方が平易に書いてある本です。小説をかかない人間にとっても、物事を感動するにはどうしたらいいのか、ということがよくわかる本だと思います。
辻邦生は、夕暮れの美しい日にはマンションの屋上にあがって夕暮れを眺めていたようですが、マンションの住人からは変人扱いをされていたそうです。そういう日々の生活の中で感じる美しさというものを味わうことができるかどうか、というのが大事で、辻邦生の小説はそういう生きる上で大事なことを教えてくれる本なのだと思います。

「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)
中央公論新社 (2012-12-19)
売り上げランキング: 41,333

昨日紹介した「「たえず書く人と暮らして」辻邦生と暮らして」でも、辻邦生の小説の制作風景をかいま見ることができます。あんなに美しい小説群の裏側には、血のにじむような努力と、天才のひらめきが隠されているということを改めてかじることができます。
二冊ともKindleで購入可能です。スマホをお持ちの方はKindleアプリでもご覧になれますよ。是非。
その2はしばらく先かもしれませんが、多分書きます。
ではグーテナハト。

Book,Tsuji Kunio

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近所の畑を夕暮れ時に撮りました。おそらくはじゃがいもの花。ボケ味がいまいちかも。どうも望遠レンズが故障しているらしく、いまいち巧く取れていません。この後どうしよう。修理すると高いし。

「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)
中央公論新社 (2012-12-19)
売り上げランキング: 38,690

Kindleで辻邦生の奥様である辻佐保子のエッセイを買いました。このエッセイは、辻邦生全集の月報をまとめたものです。辻作品の解題としては、傍らにいた方ですので幾つもの種明かしが詰まっていて、とても興味深いのです。あのシーンは本当にあったことなのか、といった驚きのようなものを感じるとともに、小説家辻邦生の創造力と想像力がいかにすさまじいものであるか、ということをよく理解できます。

究極的な美をめざ創造が、いかにして最終的な魂の救済をもたらすかという重い倫理的な課題、エステティカとエティカの相克に、辻邦生はたえず挑戦し続ける。

91ページ
学生の頃、現在東大名誉教授でいらっしゃるY先生の授業に出たことが会って、その時に新カント学派の真善美について話をしたら「いま、そんな真善美なんてのを信じているの!!」と驚き笑われた記憶があります。
「美が世界を支える」という辻邦生のテーゼは、真善美という古代ギリシアからの価値を、体得したものなのだと思います。それが、このエステティカ=美学とエティカ=倫理学の問題なのでしょう。エステティカが失われ、エティカが失われたら、その次に来るのはアレテイア=真実が失われるということでしょうか。
意外にも、「ある晩年」や「小説への序章」で描かれるギリシア賛美は、その後姿を変えていくようです。その辺りの変遷についての示唆が書かれていたのもこの本を読んだ収穫でした。(といっても二回目のはずですが、前回は気づかなかったのです)
やはり、辻邦生は私にとって大切な方です。今日も読んでいてボロボロ落涙しました。年をとったということもあるんでしょうけれど、素直に賛成できるから落涙するだろうなあ、と思います。
ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

嵯峨野明月記 (中公文庫)
辻 邦生
中央公論社
売り上げランキング: 191,883

辻邦生作品の最高峰の一つとも言える「嵯峨野明月記」を手にとっています。最近、仕事で、演繹法的手法をとって巧く行かず、帰納法的手法をとってなんとか進みだしたという経験をしました。
私のこの演繹法的手法を取りたがるという傾向は、どうもこの作品に影響されているように思います。
この「嵯峨野明月記」の中に狩野光徳という画家が登場します。光徳は世の中のものを全て描かなければならないという強迫観念ともいえる欲求を持ちながら若くして病に倒れることになります。
ですが、世界はそうした形で認識することはできないのです。
この辺りの世界認識の方法論については「小説への序章」においても語られていたはずです。世界そのものと一体化するという、西田幾多郎の純粋経験とでも言えるような文学的境地においてのみ世界認識に到達できる、という道筋でした。
これは、辻邦生の3つの原初体験の一つである、ポン・デ・ザールの直観と通じるはずです。辻邦生がパリ留学中にポン・デ・ザールでセーヌを眺めていたときに、このセーヌやパリ自体が自分のものである、という直観を得た、というものです。あのとき、世界と辻は合一していたわけで、そうした原初において相通じるところから、世界認識が開かれていく、そうした直観だったはずです。
ただ、それは芸術的文学的なものであり、実践的なものに適用することは難しいわけで、まあ、少し遠回りをしてしまいました。
昨今ジャズばかり。本当は週末に《死の都》へ行く予定なのですが、仕事で行けないかもしれません。残念無念。
では久々のグーテナハト。

Tsuji Kunio

9月24日は辻邦生の誕生日でした。1925年生まれですので、ご存命であれば88歳です。
お気づきお通り、邦生という名前は、誕生日からとられたものです。ですので、忘れようがありませんね。
現実は、辻邦生の世界とどんどんかけ離れていきます。フランスへ留学した1950年代から60年代にかけてと、現代世界の違いと言ったら、筆舌に尽くしがたいものがあるでしょう。
現代は、理想が失われた時代、と私は思っています。あるいは、理想を外に出せない、あるいは理想は必ずしも有用ではない時代、とでもいいましょうか。
それが正しいこととも思えませんが、現代は、重要なのは真理ではなく功利である、とも思います。そうした引き裂かれる時代にあって、一度立ち止まり、振り返って足元を見るのに、辻邦生の著作ほど相応しいものはないでしょう。
天上界から眺めているであろう辻邦生の魂は、いまごろ、こんな世の中をどのような感想をもってながめているのでしょうか。
なんだか随分遠くに来てしまったように思います。私達は。
では、グーテナハト。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

すべてが、背理なのだ。この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく、正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生まれるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。(中略)だが、この世の背理に気づいた者は、その背理を受けいれるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。だが、それは嘲笑でも、憫笑でもない。それは哄笑なのだ。

「嵯峨野明月記」は、今や私にとっては生きる指針にほかならないかも。
この引用、もう何回もやってます。
「この世は背理である、ただ、笑い飛ばすしかない」
この「この世は背理である」というテーマこそ、「風神雷神図屏風」を描いたとされる俵屋宗達が「嵯峨野明月記」のなかで、喝破するテーゼです。
すべての誤謬に怒りを表すのではなく、笑い飛ばせ、というもの。戦闘的オプティミズムとでもいいましょうか。
「ツァラトゥストラ」を読んでいて、この場面を思い出しました。まあ、当たり前なんですが。
それ以来、私は怒っているとき常に笑っています。なーんちゃって。
この「背理である」という言葉、数年前に流行った「起きていることはすべて正しい
」と同じことを指しているのでは、とも考えています。
嵯峨野明月記、実は辻美学の一つの頂点なのではないか、と思います。辻邦生の小説論である「小説への序章」とも内容がかなりかぶっています。「小説への序章」の中でディケンズ的表現とされているものが、「嵯峨野明月記」の中で使われていることもよくわかります。
今日で一週間終わり。月曜日休みだったから、短い一週間でした。週末は読書と書物とコンサート。ああ、勉強もしないと。

Tsuji Kunio

昨日とりあげた「樹の声海の声」の主人公の名前は咲耶といいますが、「夏の海の色」に登場する女性の名前も咲耶でした。今気づきました。なんで気づかなかったのか。
「夏の海の色」は、100の短篇からなる「ある生涯の7つの場所」シリーズに収められている短篇です。夏の城下町で過ごす主人公と、夫と別れ、子にも先立たれた若い女との交流が描かれています。その若い女の名前が咲耶です。
セミが鳴きしきる、日の当たる夏の城下町は、私にとって夏の原風景のようなものになりました。そんな城下町に実際に行ったことはありませんが、この本の印象が強すぎて、イメージが出来上がってしまっています。
ちなみに、この「夏の海の色」に登場する海辺の街は、私の想像では湯河原だと思います。辻邦生は戦争当時湯河原に疎開しています。この物語に、いかのような箇所があります。


そうした夜、寝床から這い出して窓から外を覗くと、月が暗い海上に上っていて、並が銀色に輝き、本堂の裏手の松林の影が、黒く月光のなかに浮び上がるのが見えた。

私は、湯河原でこの風景と同じ風景を観たことがあるのです。白く輝く月光が黒黒とした太平洋上に燦と輝き、大洋のうねりが月の光を揺らめくように映し出していました。
きっと同じ場所で観たに違いない、そう思ってしまうのでした。
あすで仕事は終わり。でも週末も仕事があります。

Tsuji Kunio

弘さんの友達は、みんな有名になっている。志賀も田村も有島も木下も武者も……。いまじゃ彼らのことを誰一人知らない人はいない。弘さんだって生きていれば、必ずいい仕事をした人だ。たった十年、十一年──その歳月の差が、これだけの違いをつくるんだな

樹の声海の声3 239ページ
いや、本当にそうです。どれだけ生きてどれだけ続けたかが大事です。執念で生き延びることが最も大事。
辻邦生が、江藤淳の自殺を厳しく批判したというエピソードが佐保子夫人の回想に出てきます。生への飽くなき欲求は辻文学の特徴の一つです。死への憧憬といたテーマはほとんど出て来ません。
ただ、不思議なことに、短編においてはかならず「死」が出てくるように感じたことがあります。当初はそれが辻文学の特徴かと思っていました。ですが、今から思えば「死」が裏返しになって「生」の重要性を裏打ちしているのだ、と思うのです。
「ランデルスにて」で死んだ女性、「ある秋の朝」で死へと疾走する脱獄囚、「夜」で交通事故にあってなお恋人のもとへ歩こうとしたアンナ、などなど。。
まずは生きること。生きて成し遂げることなんでしょうね。
「樹の声海の声」は、大学受験のために東京に来た時に、神保町の三省堂で全巻一気買いをして、受験終了後読みふけりました。もう20年ほど前にもなります。あの頃の読書体験は本当に宝物です。
樹の声 海の声 (3 第2部 上) (朝日文庫)

Tsuji Kunio

 
起こりもしないことを思いわずらわぬこと。何か起こったら、その時それにぶつかればいい。結果を思わぬこと──それが行動のこつだ。

 
雲の宴
確か、樹の声海の声の主人公朔耶の母親も似たようなことを言っていましたね。さしあたり、まだ良くわからないことについては、最善のシナリオを考えておけばいい。思い悩むのは、事が起きてから、といった感じだったと思います。
なかなかその境地にまでは達せませんし、さすがに最悪のシナリオを考えないとビジネスが成り立ちませんが、そうあれれば幸せだと思います。
明日は出張。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

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辻邦生「光の大地」を読んだのは、発売されてすぐだったと思いますので、おそらく15年ほど前のことだと思います。
タヒチやアフリカを舞台にしたエキゾチックな物語で、ヨーロッパの香りたかい辻邦生作品の中にあっては異色の作品といえるかもしれません。物語の語り口も親しみやすく、おそらくは新聞小説ということもあり、想定する読者層が違うからだと考えています。
ですが、通底するテーマは辻邦生作品ならではです。生きることの喜び、しかしながら、その喜びを追求しようとするときに性急な改革を求めると必ず失敗するという冷厳な事実。これが私が思う辻邦生作品群の一つのテーマです。
この作品においても、クラブ・アンテルというリゾートをトリガーとして、宗教団体による「性急な改革」が描かれています。もちろんそれは失敗に終わります
このクラブ・アンテルというリゾート企業ですが、おそらくは、クラブ・メッドを下敷きにしているはずです。アンテルは、フランス語で「中」という意味で、クラブ・メッドのメッドは地中海の意味です。アンテルは地中海の「中」をとったのではないか、と想像しています。
私は、辻ご夫妻がタヒチにいらっしゃった時の写真をどこかで見ているのですが、どこだったのか探し出せていません。それをみるとすこしヒントがみえるかも。
先日行ってきたのは、沖縄にあるクラブ・メッドでした。辻作品の中のように、スタッフが活き活きと働いていましたが、現実と小説が違うこともあるようです。
滞在中は楽しい毎日で、帰宅してから社会復帰するのが非常に大変でした。
冒頭の写真は夜明けの海岸から撮ったものです。先日読んだ本によれば「プロの写真家は失敗写真を絶対人に見せることはない」とありました。何百枚と取りましたが、あと数枚しか出せません。。
さて、この「光の大地」ですが、構成が不思議なのです。主人公のあぐりが宗教団体の被害にあって、そこから恢復する場面が他の作品と違うのです。通常の辻作品の「恢復」の場面はもっとみじかく、エピローグほどしかないのですが、「光の大地」の恢復の場面はエピローグよりももっと長いですが、場面としては短いのですね。本当はもっと長い小説だったのではないか、などと思う時もあります。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

 

<楽しさ>のないまま、ただ時間を効果的に使うというのは、いかにも多くを生きたように見えながら、生きることから切りはなされ、無縁な仕事を集積させるにすぎない。いかにすべてを<楽しみ>のなかに取り戻すか──それが<今>に生きる鍵であるに違いない。

辻邦生の言葉です。「風塵の街から」から。

効率は大事ですが、それは楽しみのためにあるべきことなのですね。

ここでいう楽しみとは、おそらくは生きる悦び、と言った意味で、単なる娯楽とは違う意味合いと思います。

効率的に楽しみのために仕事をするのはOKだと思います。仕事でもこうあるべき。実現できるように頑張ります。

 

写真は辻邦生ゆかりの学習院大学の風景です。

明日は雨の中試験を受ける予定。