Richard Wagner

今日も聴いているニーベルングの指環。「神々の黄昏」まで到達しました。丹念に訳文と照らしながら聴くと言うことはせず、いろいろなことをやりながら、お風呂の中にも持ち込んだりして聴いていますが、それにしてもすごいパワーだなあ、と感じます。
ちょうど、辻邦生の文章を探していたときに、「美神との饗宴の森で」を開いたところ、本当にたまたま辻邦生がニーベルングの指環について語っている小論に行き当たりました。「ワルキューレの陶酔」という小論です。
こういう一節がありました。

こうしてワーグナーは結末の「死と救済のモティーフ」をより強く響かすために、物語を発端へ、さらにその起源と遡らせて、ついに『ラインの黄金』から作曲を始めることになったのだ。(中略)トーマス・マンはこうした創作方法を劇よりも叙事詩に近いものと見ている。事実、彼の長編「ブッデンブローク家の人々』の構想の仕方と『指輪』のそれは奇妙によく似ている。

「ワルキューレの陶酔」 「美神との饗宴の森」174ページ 

今日、なぜ「美神との饗宴の森」を手に取ったかというと、辻邦生の言葉で「真の客観は主観を突き詰めた先にある」といった趣旨があったことを思い出し、その言葉を読んだのがちょうど昨年の夏頃で、メモをとっておらず、さて、どこに書いてあったかな、本を探していたから、です。

知られているように、ワーグナーは、元々は「神々の黄昏」をジークフリートの死をクライマックスに据えて構想し、その前史を作る形で、「ジークフリート」、「ワルキューレ」、「ラインの黄金」と構想を進めていったのです。この話を読んで、私は「小説への序章」の最終場面で語られていたことを思い出したのでした、つまり、物語主体とは、未来までも過去に属せしめる主体であり、あらゆる未来に先駆けて未来である主体である、という文脈です。経時的に語られていくストーリーではなく、論理関係が形作られるプロットとしての物語であり、論理関係とは、論理においては一瞬で波及するものであるがゆえに、未来と過去が共存する物語総体となりうる。「空間的にも時間的にも窮極的な「終り」を包み込む物語主体が、相互主観性を根拠づける意味の実態」となる、と。辻邦生全集第15巻 162ページ近辺の議論です。

さらに、この引用部部をよむと、なにかニーベルングの指環のことを語っているように思えてきます。

小説こそは「嘆き」の徹底からうまれてくる時間の窮極的な「反転」によって現前する「祝祭としての時間」である。小説は読者にかかる時間のもつ積極的な効果通し「物語的形態」という全一的な同体感を与える装置によって時代の達成した、眼に見えない本質の生を生活させるところに、より本源的な役割をもつ。

辻邦生全集第15巻 164ページ

このあたりの、主観と客観、過去と未来、言葉と存在、といった二元的要素を、普通の感覚とは逆転させるというテーマが、辻邦生の思想の多くにあるように思います。昨日の引用もやはりそうです。パルテノン体験にも、こうしたテーマが隠れています。

あけましておめでとうございます

この反転の構図を整理しながら、それをどうやって物事と結びつけるかが、今年のテーマだなあ、と思います。
時間切れですね。。今日はこのあたりで。よい週末の夜をお過ごしください。
おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Wagner

今日は満月だったようです。サクッと撮ってみました。年の終わりの満月という感じです。満月は不思議な感じです。

仕事の疲労感も残りつつ、年末の掃除をしながら、ハイティンクのリングを聞き始めました。やっと3つめのワルキューレまで。並べてみました(笑)。

あらすじなどは10年ほどまえにやはり新国立劇場で聞いたときにずいぶん勉強しました。その頃の記憶をもとに、音楽を楽しむと言うスタイル。ワーグナーもブラームスもやはりロマン派の音楽家であり、フランス革命後の反動の中で生きた芸術家で、なにかしらの理想に向けて音楽を書き続けてきたことに疑いはないわけですが、その理想への向かい方は違うんだろうな、ということを、ふと思ったりしました。

10年前に市の区立劇場の「神々の黄昏」を聞いた後に、特に参考文献をあたるまでもなく、つらつらと思ったこと考えたことをブログに書いていたのですが、まあ考えていることは、100年前にはすでに他の方が考えているわけで、そうした汎的な思考に寄り添えたということは素晴らしかったな、と思いました。

リングの解釈はいろいろあるのでしょうけれど、私の中では、以下11年ほど前に書いた記事が一つの結論だったと思います。「ゴスフォードパーク」という映画の記憶が、リングの構造にとてもよく似ているなあ、ということを書いた者でした。

 

黄昏れる神々の集う映画

あるいは、カズオ・イシグロの「日の名残り」かとの関係なんかも考えていました。こうなると、リングは、近代史を敷衍するなかで、その行く末を描いた芸術作品ということになるわけで、おそらくは、フランス革命から第一次世界大戦、あるいは第二次世界大戦が終わるまでの人類史(欧州史?)を雄弁にかたる叙事詩なんだろうな、と思います。まあ、もっというと、ワーグナーは19世紀半ばにして、100年後を予見していたということになります。

そうそう、以下の記事を読んで、バックステージツアーに当選して、20時半ごろから22時まで、嬉々としてステージ裏を見せていただいた幸せな思い出を思い出しました。そうか、13時にはいつも新国についていたから、都合9時間もお邪魔してたんすね。。

ギービヒ家の謎──新国立劇場「神々の黄昏(神々のたそがれ)」 その5

その後、オペラ的には、「リング」から「パルジファル」やシュトラウス作品に向かってしまった感もあり、それ以上の展開をしていなかったなあ、とも思います。なにかできることはないかな。まあ、その前に辻先生のパルテノン体験をまとめないと。

 

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Giacomo Puccini

それにしても今年は不思議な一年でした。コロナという世界的な問題もありましたし、個人的にもたくさんの新しい体験をしました。最終的にはさらに前へと進む感じもありますが、まだまだ不思議なことが続く予感もします。とにかくたくさんのことが動いた一年でした。

書きたいことは山ほどあるのですが、なにか、なかなか書けません。時間がないということもあるのでしょうけれど、なにか書くと言うことの環境が整っていない感覚もあり、少しずつ再整備を始めました。手書きもいまひとつなじまず、エディタを選んだり、フォントを選んだりして、ようやく、なんとなくこれかな、というツールを探し当てて、といってもこれまでも使っていたツールを再整備したということでもあるのですが、ようやく落ち着きつつあるということになりそうです。

今日はこちら。カラヤンの振る「蝶々夫人」。

最近、インターネットラジオOttavaをよく聴きます。クラシックばかり流れるラジオですが、そこでながれた「蝶々夫人」がそこはかとなく良かったのですね。12月22日がプッチーニの誕生日ということで、おそらくはそこに合わせた選曲。
「蝶々夫人」は何度か実演で聴いていますが、亡き若杉さんが10年以上前に振った演奏が忘れられないです。あのときは第一幕は泣きっぱなしだったなあ、など。

https://www.nntt.jac.go.jp/opera/10000057_2_opera.html

14年前のブログ記事が出てきました。書き方が若い……。

https://museum.projectmnh.com/2007/03/31205000_7858.php

そうか、ジュゼッペ・ジャコミーニさんがテノールだったのか。あの強烈なテノールに、若杉さんのたおやかな指揮が絡み合って、それはもう美の極致という世界だったなあ、という記憶。その記憶がラジオから流れる「蝶々夫人」を聴いて思い出したのでした。あのころもまた不思議な経験をたくさんした時代。一回り、と言う言葉もありますが、12年から15年にかけて人は同じ体験をするのかもしれないなあ、等と思ったり。願わくば回帰しながら上昇する螺旋のようにありたいと思います。

そうそう。このカラヤン盤は、パバロッティとフレーニが登場する名盤。良いものを聴くと元気がでますね。

慌ただしい年の瀬ですが、どうか皆様もお身体にお気をつけてお過ごしください。
おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

コロナ患者が増えたと言うこともあり、またまた在宅勤務が増えてしまう今日この頃。4、5月は緊急事態宣言がでていたこともあり、近所のジムも閉館していて泳ぐことも出来ずただただひたすら家に居ましたが、ここのところはジムも開いていますので、昼間は自宅で仕事し、夜は泳いで、という生活を続けるよう心がけています。運動しないと病みますから……。

在宅勤務の楽しみは、音楽を聴きながら仕事が出来ることですが、今日、久々にCD聴いてみて驚きました。この10年ほどは、iPodかAppleMusicで音楽を聴きことしかなかったわけです。音楽を聴けるのは通勤時間のみでしたから。なので、CDは多くあれども、結局のところは、AACなりMP3なりに取り込んだものを聴いていただけで、CD自体を聴くことはなかったのです。

で、在宅勤務になったと言うことで、久々にCDを聴いてみると、いやあ、この音の良さは何だろう、と。なんというか、低音から高音に至るまで、その緻密で拡がりのある繊細な音の感じというものがたまらなく心地よくて、ああ、昔はこういう音をきいていたんだなあ、ということを改めて思い出した感じです。

良い音を聞くというのは、なにか幸福感につながることでもありました。絶対的な良い音というものはありませんが、自分の中で、昨日よりも今日の音の方がよい、と感じるだけで、それはもうひとえに幸福であると言うことになるのです。

今日聞いたのはこちら。ヴァントのブラームス。いやあ、本当にドイツらしい、拡がりのあるブラームス。以外とテンポが速いところもあって、キリッと締まったブラームスだったと思います。明日も在宅勤務なので、また聴こうと思います。

それにしても、ブラームスいいなあ。最近、シューマン、ブラームスあたりの中期ロマンはをよく聴いていて、その系統でヘルマン・ゲッツなんかも聴いて良い気分になっています。やっぱり19世紀ロマン主義はまだ息づいているなあ。なにか、こう、フランス革命後で個人というものが確立するなかで、ヒューマニズム的というかフリーメイソン的な博愛精神のうねりを感じるのです。これは、一つの普遍的な価値で、それが正しいかどうかと言うことを超えて、厳然とここにあるものだな、と思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms,Music

これは、もう、私の直感でしかないので、どうしようもないのですが、最近は、「善き音楽」を聴くことの必要性を痛切に感じています。

音楽という芸術に、倫理的な「善」という言葉を当てはめること自体、なにか偏狭な感覚を持ったと思います。

自分が善いと思う音楽を聴くことによって、自分も善い方向へ向かうだろうし、もしかすると、それにつられて世界も善い方向に向かうのではないか、という感覚をもつのです。「善き音楽」はこれまでも善きものとして扱われていたのであろうから、これからもきっと善きものであり続けるのではないか、という感覚です。

これからは、時の許す限り、善き音楽を聴こうと思います。 この音粒ひとつひとつが花となり実となり 宙へと舞い昇りを満たすのような、そんな感じです。

ということで、今日はこちら。アバドのブラームス。憂愁が流麗に描かれことこそロマン主義的と思いました。私はアバドが振るドイツ音楽が本当に大好きなのです。純粋ドイツのロジカルな構築美ではなく、なにか遊びや緩みがあって、なおその遊びや緩み自体が美と愉悦の源泉になっているのです。これは、アバドのベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ワーグナーを聴いていつも感じることです(マーラーはまたちょっとちがうんですよね……)。

このロマン主義的、という感覚ですが、ロマン主義とは理性偏重、知性主義、啓蒙主義からの反動で、直截的感情が分析的知識より重きを置かれたというもの。となると、「善き音楽」という私の直感もロマン主義的です。

世界は波のように揺れ動きます。中世、ルネサンス、啓蒙主義、ロマン主義…。それは個人の考えにおいても同様だなあ、と。

そんなことを思いながら、12月の年の瀬を迎えようとする11月最後の週末の夜を過ごしています。どうかみなさまもお身体にはお気をつけください。

Wolfgang Amadeus Mozart

数年前に撮った秋らしい写真。どこだったか…。

秋が深まり、日が短くなりました。日没がもっとも早まるのは11月末です。この前まで19時ごろまで明るかったはずなのに、なんて。

時間が経つのが早い、という感覚を通り過ぎて、時間の前後もなくなり、時間がひとつに重なっているような気がします。量子コンピュータの重ね合わせのような感覚。

こんな迷妄のときに聴くのは、決まってジェフリー・テイトのモーツァルト。

特に、32番と35番が思い出深く、何度となく聴いています。この清澄な感覚は格別。

かつてEMIボックスで買って、iPodに入れて聞いていました。最近はAppleMusicで。

何か辛口の白ワインを飲む感覚のモーツァルト。草原でピクニックをするときに、飲む白ワインのような。太陽の光を浴びながら、飲む白ワインは格別だろうな、と想像します。一度もやったことがありませんが、多分、そういう爽やかな愉楽を感じるモーツァルトだと思います。

安息の日々は安息の先取りから。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

文化の日は晴れの特異日だったはずですが、東京地方は曇り空で、寂しい文化の日でした。もはや文化の日という新鮮味も感じられない茫漠とした感覚にさいなまれていましたが、こんな時には音楽を聴かないと、と思い、思いついたのがこちら。

マーラー交響曲第10番嬰ヘ長調クック版第三稿。

10年ほど前、マーラーの死に至る道程にとても興味を持ち、体調を崩してニューヨークからウィーンに帰り着きそこで息を引き取るというストーリーが映画のように思えたことがありました。

雨の降りしきるニューヨーク港に馬車でやっとの事でたどり着き、傘もさせずに、雨に打ちぬれながらタラップにようやくたどり着き、助けを借りながらようやくとタラップを昇る姿が目に浮かんだものです。

マーラーの最後の演奏会は、カーネギーホールでニューヨークフィルを振っているのですが、その演目ははブゾーニの「悲劇的子守歌」。母親の棺によりそう男の子守歌、ですからね……。

マーラーは51歳で亡くなっていますから、まあそろそろその気持ちもわかってくる時分になった気がしています。勝手な想像ですけれど。

ともかく、最近、世界の見え方がこれまでとは劇的に変わります。相転移ともいえる状態。ベルグソン的に言うと創造的進化。今が妥当なのか、遅すぎるのか、早すぎるのか。やれやれ。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

今日は久々にリモート勤務。これまでとは違うワークスタイルにはなかなか慣れませんが、実のところ、かつてから憧れていたワークスタイルだったことに気がつき、またひとつ願いが叶ったんだなあ、と思いながら過ごしました。

自宅で仕事する最大のメリットは音楽を聴けるということ。今日はティーレマンのブラームスを合間に聞きながら、仕事をしました。

アーティキュレーションに斬新さを感じたりしながらも、安心しながら拡がりのあるサウンドを楽しんだ感じがします。とにかく音楽を聴いている瞬間は幸福でしかありません。

最近思うことは、どうも音楽を聴くとき、あるいは泳いでいるとき、あるいは文章を書いているときの幸福感が人生ないしは世界を支えているのではないか、という直感があります。こうやって人生と世界を支えることで、人生も世界も少しずつ良くなっていくのではないか、と思います。それは錯覚だとしても害のない良い錯覚なのでしょうから、現世を忘れ、ただただ今に打ち込むためには、そうした幸福感が必要なのだと思います。

いまこの瞬間、この刹那に集中すればするほど、どうやら人生がうまくいくのではないか、という直感を得ている気がします。この瞬間に永遠が宿っているような、気もするのです。なんだか、禅のような話ですし、若い頃哲学科にいたころは、全く共感できなかった議論で、教授からはそういう「体験」を戒められていた記憶もあり(勝手な記憶ですが)、封印してきたような感覚もありますが、実のところ、かつて読んだ西田幾多郎やリッケルトの哲学本に書かれていたことを今まさに体験しているのではないか、とも思います。感慨深いです。

とにかく、四つの交響曲を聴き通した感想として、ブラームスは幸福です。厳粛な第一番、典雅な第二番、悲愴な第三番、神聖な第四番。そんなことを考えられて、よかったなあ、と思います。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

Peter Ilyich Tchaikovsk,Symphony

たまには音楽のことを。

ペトレンコがベルリンフィルを振ったチャイコフスキーの悲愴。

最近、音楽と向き合う機会があまりなく、どちらかというと、心を癒やすために音楽を聴いていた感もあり、アグレッシブに目的意識をもって聴けていなかったなあ、という思いがありました。

といいながら、週末あたりから、何か体系的に音楽を聴きたいという思いもあり、音楽学者の広瀬大介さんが作ったプレイリスト「若いうちに聴きたいクラシック100曲」を聴いていたのです。これがずいぶんと面白くて、選曲もさることながら、演奏家のチョイスも今風で、実に心地よかったのです。

その中の一曲がペトレンコの悲愴で、ああ、なんだかこういう新鮮で清々しい悲愴を聴くことのできる幸せをかみしめたのでした。

今日はこのあたりで短く。おやすみなさい。グーテナハトです。

Arnold Schönberg,Tsuji Kunio

夜の時間ができました。こんなことは本当にまれなことです。AppleMusicを開き最初に目に入ったのがジャニーヌ・ヤンセンのアルバムに収められたシェーンベルク「浄められた夜」。

Arnold Schoenberg la 1948.jpg

シェーンベルク最初期。作品番号は4番。おそらくはシェーンベルクの楽曲の中でも知名度が高い部類に入るでしょう。私もこの曲を20年ほど前に一生懸命聴いた記憶があります。

この曲は、リヒャルト・デーメルの詩にモティーフを得て作曲されたものです。このあたりのエピソードもほとんど忘却の彼方からいまここにたぐり寄せたものです。

Rudolf Dührkoop - Richard Dehmel (HMuF, 1905).jpg
Zwei Menschen gehn durch kahlen, kalten Hain;
der Mond läuft mit, sie schaun hinein.
Der Mond läuft über hohe Eichen;
kein Wölkchen trübt das Himmelslicht,
in das die schwarzen Zacken reichen.
Die Stimme eines Weibes spricht:
Ich trag ein Kind, und nit von Dir,
ich geh in Sünde neben Dir.
Ich hab mich schwer an mir vergangen.
Ich glaubte nicht mehr an ein Glück
und hatte doch ein schwer Verlangen
nach Lebensinhalt, nach Mutterglück
und Pflicht; da hab ich mich erfrecht,
da ließ ich schaudernd mein Geschlecht
von einem fremden Mann umfangen,
und hab mich noch dafür gesegnet.
Nun hat das Leben sich gerächt:
nun bin ich Dir, o Dir, begegnet.
Sie geht mit ungelenkem Schritt.
Sie schaut empor; der Mond läuft mit.
Ihr dunkler Blick ertrinkt in Licht.
Die Stimme eines Mannes spricht:
Das Kind, das Du empfangen hast,
sei Deiner Seele keine Last,
o sieh, wie klar das Weltall schimmert!
Es ist ein Glanz um alles her;
Du treibst mit mir auf kaltem Meer,
doch eine eigne Wärme flimmert
von Dir in mich, von mir in Dich.
Die wird das fremde Kind verklären,
Du wirst es mir, von mir gebären;
Du hast den Glanz in mich gebracht,
Du hast mich selbst zum Kind gemacht.
Er faßt sie um die starken Hüften.
Ihr Atem küßt sich in den Lüften.
Zwei Menschen gehn durch hohe, helle Nacht.

男と女がいて、女が身ごもる子供の父親は、そのかかる男ではない。だが、男は苦悩の先において、女が身ごもる子供を我が子のものとして育てる決意をする、というもの。

これは、なにか聖書であるか、あるいは村上春樹の「騎士団長殺し」のモティーフでもあるかのような。愛情とはこのように、「私(わたくし)」を捨ててすべてを受け入れるものなのか、と。

芸術というものは、文学であろうと音楽であろうと、人間の極地を描くことにより、人間の価値を高め認め育てるものです。このある意味で愛情に関する排他性を乗り越える感覚というのは、無私の愛であり、ある種アガペーに近いものでもありえます。

ロボット三原則のなかには、自分の身を守らなければならない、という条項があるように、人間もやはり自分の身を守る必要がありますが、その先の試練として無私の愛があり、それを乗り越えるという営為が想定されているのではないか、という感覚。

辻邦生の「ある生涯の七つの場所」のなかの感動的な短編を思い出しました。「赤い扇」という短編です。その中の一節。

相手が好きになるとは、相手のみになるのではなくて、自分の好みに相手があうかどうかを定めることじゃありません?
(中略)
もしそうだとしたら、恋愛で一番大事なのは自分です。よく恋のために死ぬなんてことがありますわね。でも、それは、自分の好みを実現している相手に殉じるのですから、結局は自分のために死ぬのと同じです。本当に無私ならば、決して自分の好みなどに引きつけてかんがえるわけはありません

辻邦生『赤い扇』ある生涯の七つの場所より「椎の木のほとり」中公文庫415ページ

普通の恋愛は、おそらくはエロスとよばれ、神の愛はアガペと呼ばれますが、先日、美はアガペーのようだ、ということを書いたりもして、おそらくはこの浄められた夜の男は無私の愛の境地に達し、そうだとすると、それ自体が人間の高貴な秩序にむけたアガペー的で美的な行為ということになるのでしょうか。ここではアガペーという言葉を幾ばくか恣意的に使っているわけですが、それは美的行為が神的意味を有するという相関関係においてわざと使っていることになるでしょう。

さて。この夜は、少しずつ涼しくなっていて、コオロギの声が聞こえ始めました。会社の若い人が「ようやく秋ですね」と話しかけてきて、「もうすぐ春ですね」もフレーズが聞こえてきて、春を待ちわびるのも、秋を待ちわびるのも質的には変わらないのかも、と思いました。シェーンベルクは無調の世界へと旅立ちますが、私たちはどこへ向かうのか。この秋を超え、冬を越え、次の夏へと向かう道程において何が待つのか。そんなことを考えながら、デスクライトに照らされたPCに向かって文章を書いています。これが幸福なのでしょう。

また次も書けますように。みなさまもよい夜を。おやすみなさい。グーテナハトです。