Anton Bruckner

昨日からブルックナーへの関心が急激に高まりまして、もう二十年は手に取っていなかったであろうブルックナーの伝記を取り出しました。1988年の初版本で昭和の本ということになります。古本屋で買った形跡もないので、おそらくは新刊書店で買ったんだと思います。
早速以下のような箇所を読んで、ブルックナーのインプロバイザーとしての力量を思い出したのでした。

ブルックナーは聞き手が試し弾きかと訝るような単純な音型で始め、次第に高揚感を増して巨大な頂点で終えた。聴衆はオルガンという楽器の本当の威力をこの時初めて知ったに違いなかった。熱狂的な喝采のため、後に控えた演奏者はもはや出番を喪ってしまった。

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この年のドイツ帝国成立を祝って開かれた八月二十一日の演奏会では、特に求められてドイツ愛国歌『ラインの守り』に基づく即興を行った。熱狂した聴衆は、終演後ブルックナーを肩にかつきあげて場内を練り歩いた。

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ブルックナーは、1871年にロンドンに演奏旅行をしていますが、そのときの模様が描かれていました。こうしたエピソードも解釈された歴史です。事実と解釈は違う可能性はあるでしょうけれど、ともかく、純朴なブルックナーが聴衆の喝采を受けるシーンを想像するだけで、なにか昂揚を覚えます。

今でいえばだれなんですかね。クイーンかだれかが熱狂の中で演奏するという状況でしょうか。私はそういったコンサートにはあまり行かないので映像や伝聞からでしかわかりませんが。

ただ、一つ目の引用「単純な音型」をもとに楽曲を即興で組み立て、巨大な頂点で迎える、というのは何かよく分かる気がします。ジャズのミュージシャンが、実に愛らしいディズニーのテーマをもとに、あざやかにそして激しく昂揚するインプロバイズを見せることがあります。私も、数分間の自分の持ち場をストーリー感を持って組み立てることを試みたことがあり、聴く側としても、演奏する側としても、その感動や面白さはよく分かります。ブルックナーは交響曲作家ですが、その作品群を踏まえて、どんな即興だったのだろうか想像するのも愉しいものです。

今日の東京は雨の一日。明日からは天気が回復するとのこと。楽しみです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

 

今日は皆既月食。本来なら真っ赤な月が見えるはずでしたが、残念ながら東京地方からは見ることができませんでした。とはいえ、きっと天上ではなにかしらの素晴らしいことが起きているのでしょう。

私も、今日はひとついいことがありました。AppleMusicからレコメンドされたカラヤンが振るブルックナー交響曲全集に巡り会ったことです。たしか、カラヤンの最後の録音はブルックナーだったはず。調べると、やはり交響曲第7番でした、カラヤンとブルックナーの組み合わせはあまりピンと来るものがありませんでしたが、今回あらためて聴いてみると、特に緩徐楽章の歌い方が素晴らしく、ゆったりとした速度で恍惚とした表情を浮かべながら巡航する感じは、あまりにも甘美です。

そんなことを思っていると、さきほどから、急に無性に第6番のアダージョが聴きたくなり、今聴いていますが、いやあこれは本当に素晴らしく、磁器のようなきめこまかさは、ずっと側に置いておきたくなるようです。この楽章、今日聴いたはずもないのに、なぜか頭に流れてきて、あ、聴かないと、と思ったのでした。未来の記憶をあらかじめ見ていたように思います。

さて、皆既月食は見られませんでしたが、きっとなにかいいことが起きるでしょう。

ということで、今日は少し早めに。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

今日は、素晴らしい天気の一日。在宅勤務でしたが、見計らって、太陽の高いうちにさっと散歩にいって来ました。吹き渡る風も暖かく、シャツだけでじかに自然の息吹に触れられて、この気候は、日本における一つのイデアールな気候なんだろうなあ、と思いました。トラクターが動いていたりするのをみると、なんだかミレーの絵を思い出したりして。まだ日は高いですが。在宅勤務ものこりわずかな感じですが、この季節感を味わえたのは一生の経験になるな、と思います。

今日もアバドのブラームスばかり聞いていた一日でした。これまであまり意識しなかった「悲劇的序曲」を聴きました。ブラームスの交響曲にカップリングされがちな曲は、「悲劇的序曲」、「大学祝典序曲」「ハイドンの主題による変奏曲」などが挙げられますが、このあたりを愉しむところまではま至っておらず、まだまだ勉強不足だなあ、と思います。どうもブラームスというと、重厚な交響曲群にその価値を求めてしまいがちですが、まあ、これだけで交響曲の一つの楽章に、あるいは小さな交響曲あるいは、交響詩に値する楽曲なんだろうなあ、と思います。

さて、明日は皆既月食だそうです。私が住む東京地方は、晴れると言うことで、見ることができるのでは、とされています。なかなかないことですので、近所に見に行ってみようかなあ、と思っています。明日晴れますように!

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms,Miscellaneous

先日発売になったApple TV 4Kを導入してみました。

目的としては、居間で音楽を気兼ねなく聴くということと、Macの画面を居間のテレビでシームレスに映したい、というのが目的ですが、1日使った感じでは良い感じです。とにかくiPhoneを使わずにAppleMusicを使えるのは気楽です。

とはいえ、こういうレビューのような記事は、往々にして最初の印象となりがちです。一定の期間使わないとその善し悪しは分からないはずで、Apple TVもやはりそうなんだろうな、と思います。

現在のライフスタイルは、映画を見る時間を作っておらず、代わりに読書時間を増やしているので、映画のような動画をみることもあまりないでしょうし、ゲームもいまはまだしない感じ。

とはいえ、なにかテレビがApple製品と繋がるというのは、また囲い込まれてしまった、というヤラレてしまった感はありながらも、シームレスにものごとを進めると言う観点では、生活の質があがるのでは、と言う期待を持っています。

数ヶ月後に感想を書こうと思ったときに、どんな感想をかくことになるのか……。きっと良い感想ではないか、と期待しています。

さて、今日もやはり、ブラームスを聴いて過ごした感じです。アバドのブラームス大一番。何度も何度も、浮かされたようにこの半年間聞き続けている感じ。第一楽章冒頭のテンポ感を聴くのが主目的になっていますね。。ラトルの演奏も聴いてみましたが、テンポ感が一番フィットするのがこのアバド盤です。少し遅いテンポ感で広大な空間を想起させるもので、これ以上遅くなっていくと空間がガラガラと崩れてしまうところ、ちょうど良いバランスで崩壊寸前の美しさを現前させている、と思います。

明日の東京地方は久々に晴れるとのこと。雨も趣深いですが、やはり太陽の光が恋しいですね。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

ブラームスの4番を聴く日々。今日は有名なクライバーによるものを聴いています。最近は第二楽章に心を惹かれます。自然を描いている感覚もあれば、途中で重厚なフーガが登場して、驚く場面もあります。第一楽章も荘重と壮麗も心に染み入ります。真善美という古い倫理美学規範があり、昔哲学科の先生に大笑いされたことがありますが(まだそんなこと信じてるの?!と)、なにかそういう不利?規範がブラームスに生きているのではないか、と考えてしまいます。

本当にこのところブラームス漬け。

今朝もジュリーニのドイツレイクエムを聴いたり。ロスレスになるともっといい音で聴けるようになるだ、と思うと今から楽しみで仕方がありません。

さて、とにかく、仕事が佳境な一日でした。あまりにワクワクしすぎて、会議が終わったあと、発熱してしまうという。演技力が試されます。先週末は休日仕事でしたので、休みなく?働いている感もあり、身体制御が巧くいっていないのかもしれないです。プールで冷却したいところですが、緊急事態宣言でプールは休止中です。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Peter Ilyich Tchaikovsk

東京地方は雲の垂れ込めた湿気の多い一日でした。梅雨入り間近なのでしょうけれど、まだ梅雨には入っていない模様。

ですが、潤いのある涼しい風が部屋の中を吹き抜けるのはそんなに悪い物ではありません。なにか一年ぶりに会う懐かしい友のような感じです。こうした一年ぶりに季節を巡るということは、懐かしい友人達と会うと言うようなものともいえます。それも命ある限り必ず会うことのできる友人達です。

私も一般的には中年期で、コロナ感染者の年齢区分で言うと「若い人」になるようですが、友人達と会う回数も意識できる数になりつつあるのでは、と言う思いもあります。

今日は、カラヤンの古い映像を見まして、なかなか感慨深いものがありました。

カラヤン×バーンスタイン よみがえる伝説の名演奏

ドイツで冷凍保存されていた巨匠たちの名演、35ミリネガフィルムを8Kの高精細映像と立体音響でリマスター。新しい映像コンテンツに生まれ変わりました。その魅力をハイビジョン映像でお届けします。▽ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/交響曲第6番「悲愴」~チャイコフスキー▽レナード・バーンスタイン指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/交響曲第5番~マーラー

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」をもちろんベルリンフィルを率いて振りまくるカラヤン。目を閉じて振るさまは、王者か宗教家かという感じです。

そして、映像的に、ああ、これ、ヴィスコンティだ、と思いました。クラシックのコンサート映像でありながらも、耽美的なトーンに彩られていて、古い映画を見ているようにしか思えませんでした。もちろん、それはビデオによる収録ではなく、フィルムによる収録ですので、色合い風合いが映画的であるということもありますが、構図やライティングが上質な映画のそれに匹敵するもので、音楽もさることながら、映像をみて、本当に70年代的美しさだな、ということを感じました。構図の中央にカラヤンがあり、オーケストラや観衆のまっただ中にあって、一心に注目を浴びるカラヤンの圧倒的なカリスマは、あえてもう一度述べると、やはり王者か宗教家だなあ、と思いました。

おそらくは、以下リンク先の映像と同一と思われ、相だとすると1973年の映像となります。すでに半世紀前の映像となるわけですが、それであっても、聴きながら涙をおさえることができず、それは美しさ故か、あるいは現世と彼岸の断絶が故なのか、いまはまだよく分かりません。いずれにせよ、こうした映像が地上波で放映されることのありがたさはこのうえないのと思います。

https://www.phileweb.com/news/d-av/202001/31/49635.html

明日はバーンスタインをみてみようかな、と思います。

毎日外向けの文章を書くとうことを自分に課してみようか、とおもい、少なくとも6月末まではそれを続けよう、という感じです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Johannes Brahms

 先日から気になり始めたブラームスの交響曲第4番。初めて聴いたのは、ショルティがシカゴ交響楽団を振った音源で、おそらくは中学か高校の夏だったはずです。

 特に昨日からは第二楽章を聴くのが心地よく感じます。静謐な田園の風景という感じで、冒頭のホルンと木管の掛け合いが、これもまたなにか夜明けの風景で、まだ皆が寝静まっているなかを、ひとりで歩く愉しみ、という感じ。もしかするとそういう日々が訪れるのではないか、そういう愉しみ。季節はやはり夏で、山と海があって、薔薇色の朝日と飴色の夕日が見えるところで、朝と晩に、光を浴びながら散歩をするという日々。おそらくは木々が地面に落とす影を愉しみ、草の匂いを含んだ風につつまれつつ、海岸の方へ降りると、潮風と波音のなかで群青色の波面を第二楽章を聴いてそんなことを思いました。

 音源はいつものアバドが振るベルリンフィル。アバドの指揮は、この場で何度も書いていますが、しなやかな緩急で、まるで佇み感じるそよぐ風に似た温かみがあるものです。近頃はアバドなしには生きていけません。

  さしあたり今日の仕事は終えて、自分を労らないと。労働は労りながらでないと。

 それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

 またまたご無沙汰してしまっています。なんだかたくさんのことがありすぎて我を忘れている感があります。とはいえ、気候も落ち着き、寒暖差はありながらも徐々に夏へと近づいているという嬉しさが湧き上がっているのも感じます。

 秋に生まれたというのに、何故に夏が好きなのか、よく分かりませんが、とにかく、太陽の光を狂ったように浴びたいと言うことにつきます。

 今日の東京地方の日没は18時39分で、半年前よりも2時間も長く太陽が出ていることになります。先日も話しましたが、太陽がでているうちにイタリアの白ワインを飲むのが目下の夢です。

 半年前と言えば、冬の暗い時期に何度も何度も聴いて心の支えにしてきたブラームスの交響曲第一番ですが、日差しを浴びながら散歩しているときに、もしかして今は四番の方が相応しいのではないか、と思いました。それで聴いているのは、アバドが振った交響曲第四番。

 アバドの指揮は、軽くもなく重くもなく、早くもなく遅くもなく、しなやかに空を舞うような演奏で、心にぴったりとフィットしてきます。ドイツ音楽をイタリア人が演奏する、というのは、なにかドイツ人がイタリアに馳せる思いが具現化しているようなものではないか、と思うときがあります。第二楽章の伸びやかな演奏を聴いていると、ゲーテがイタリア旅行をして、長く伸びる夕陽を浴びて、陰翳のある遠い西の空を眺めやるような感覚を覚えました。

 さて、これからもう一仕事です。皆様どうか良い金曜日の夜を。

おやすみなさい。

 

Richard Wagner

今日も聴いているニーベルングの指環。「神々の黄昏」まで到達しました。丹念に訳文と照らしながら聴くと言うことはせず、いろいろなことをやりながら、お風呂の中にも持ち込んだりして聴いていますが、それにしてもすごいパワーだなあ、と感じます。
ちょうど、辻邦生の文章を探していたときに、「美神との饗宴の森で」を開いたところ、本当にたまたま辻邦生がニーベルングの指環について語っている小論に行き当たりました。「ワルキューレの陶酔」という小論です。
こういう一節がありました。

こうしてワーグナーは結末の「死と救済のモティーフ」をより強く響かすために、物語を発端へ、さらにその起源と遡らせて、ついに『ラインの黄金』から作曲を始めることになったのだ。(中略)トーマス・マンはこうした創作方法を劇よりも叙事詩に近いものと見ている。事実、彼の長編「ブッデンブローク家の人々』の構想の仕方と『指輪』のそれは奇妙によく似ている。

「ワルキューレの陶酔」 「美神との饗宴の森」174ページ 

今日、なぜ「美神との饗宴の森」を手に取ったかというと、辻邦生の言葉で「真の客観は主観を突き詰めた先にある」といった趣旨があったことを思い出し、その言葉を読んだのがちょうど昨年の夏頃で、メモをとっておらず、さて、どこに書いてあったかな、本を探していたから、です。

知られているように、ワーグナーは、元々は「神々の黄昏」をジークフリートの死をクライマックスに据えて構想し、その前史を作る形で、「ジークフリート」、「ワルキューレ」、「ラインの黄金」と構想を進めていったのです。この話を読んで、私は「小説への序章」の最終場面で語られていたことを思い出したのでした、つまり、物語主体とは、未来までも過去に属せしめる主体であり、あらゆる未来に先駆けて未来である主体である、という文脈です。経時的に語られていくストーリーではなく、論理関係が形作られるプロットとしての物語であり、論理関係とは、論理においては一瞬で波及するものであるがゆえに、未来と過去が共存する物語総体となりうる。「空間的にも時間的にも窮極的な「終り」を包み込む物語主体が、相互主観性を根拠づける意味の実態」となる、と。辻邦生全集第15巻 162ページ近辺の議論です。

さらに、この引用部部をよむと、なにかニーベルングの指環のことを語っているように思えてきます。

小説こそは「嘆き」の徹底からうまれてくる時間の窮極的な「反転」によって現前する「祝祭としての時間」である。小説は読者にかかる時間のもつ積極的な効果通し「物語的形態」という全一的な同体感を与える装置によって時代の達成した、眼に見えない本質の生を生活させるところに、より本源的な役割をもつ。

辻邦生全集第15巻 164ページ

このあたりの、主観と客観、過去と未来、言葉と存在、といった二元的要素を、普通の感覚とは逆転させるというテーマが、辻邦生の思想の多くにあるように思います。昨日の引用もやはりそうです。パルテノン体験にも、こうしたテーマが隠れています。

あけましておめでとうございます

この反転の構図を整理しながら、それをどうやって物事と結びつけるかが、今年のテーマだなあ、と思います。
時間切れですね。。今日はこのあたりで。よい週末の夜をお過ごしください。
おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Wagner

今日は満月だったようです。サクッと撮ってみました。年の終わりの満月という感じです。満月は不思議な感じです。

仕事の疲労感も残りつつ、年末の掃除をしながら、ハイティンクのリングを聞き始めました。やっと3つめのワルキューレまで。並べてみました(笑)。

あらすじなどは10年ほどまえにやはり新国立劇場で聞いたときにずいぶん勉強しました。その頃の記憶をもとに、音楽を楽しむと言うスタイル。ワーグナーもブラームスもやはりロマン派の音楽家であり、フランス革命後の反動の中で生きた芸術家で、なにかしらの理想に向けて音楽を書き続けてきたことに疑いはないわけですが、その理想への向かい方は違うんだろうな、ということを、ふと思ったりしました。

10年前に市の区立劇場の「神々の黄昏」を聞いた後に、特に参考文献をあたるまでもなく、つらつらと思ったこと考えたことをブログに書いていたのですが、まあ考えていることは、100年前にはすでに他の方が考えているわけで、そうした汎的な思考に寄り添えたということは素晴らしかったな、と思いました。

リングの解釈はいろいろあるのでしょうけれど、私の中では、以下11年ほど前に書いた記事が一つの結論だったと思います。「ゴスフォードパーク」という映画の記憶が、リングの構造にとてもよく似ているなあ、ということを書いた者でした。

 

黄昏れる神々の集う映画

あるいは、カズオ・イシグロの「日の名残り」かとの関係なんかも考えていました。こうなると、リングは、近代史を敷衍するなかで、その行く末を描いた芸術作品ということになるわけで、おそらくは、フランス革命から第一次世界大戦、あるいは第二次世界大戦が終わるまでの人類史(欧州史?)を雄弁にかたる叙事詩なんだろうな、と思います。まあ、もっというと、ワーグナーは19世紀半ばにして、100年後を予見していたということになります。

そうそう、以下の記事を読んで、バックステージツアーに当選して、20時半ごろから22時まで、嬉々としてステージ裏を見せていただいた幸せな思い出を思い出しました。そうか、13時にはいつも新国についていたから、都合9時間もお邪魔してたんすね。。

ギービヒ家の謎──新国立劇場「神々の黄昏(神々のたそがれ)」 その5

その後、オペラ的には、「リング」から「パルジファル」やシュトラウス作品に向かってしまった感もあり、それ以上の展開をしていなかったなあ、とも思います。なにかできることはないかな。まあ、その前に辻先生のパルテノン体験をまとめないと。

 

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。