Johannes Brahms,Running

それにしても良い天気の午前中と、夕立のような雷雨に見舞われた午後、という東京地方の今日という日は、夏が大好きな身に取っては、素晴らしい一日だったように思います。

先日からはじめたランニングは、やっと10回目。足が痛くなり、心拍数が上がりっぱなしだったということもあり、土曜日にガラガラの(本当です。。)スポーツ用品店にランニングシューズを買いに行きまして、まあいつまで続くか分からないから安いシューズを買おうか、とセール品を物色していたところ、店員さんに声をかけれ、試し履きしてみたのですが、なんだかキツい感じで、じゃあこれは?と出されたナイキのシューズ(嫌な予感。。。)を履いてみると、これが本当にフィットして、まるで空気を履いているような感じしかなく(やばい。。)、これおいくらです?と聴くと、やはり予算オーバー。「やれましたね、、、」と言うと、店員さんは「すみません。。」と。ただ、歳もとったので、身体を労らないといかん、と勝手に納得し、やむなく(?)購入。

今日、そのナイキのシューズを履いて走ってみると、定量的に改善していて、心拍数の上がり方が本当に違うのです。これまでは130まで上がってしまい、ペースをセーブしながらだらだら走っていた感じですが、今日は120を上回るぐらいで推移していて、数字として変化がでていました。まあ予算オーバーながらも、心臓への負担を減らして走れるのであればそれに越したことはありません。明日以降も検証してみないと。

走りながら聴いたのは、こちら。レヴァインのブラームス。これまで聴く機会がなかったのですが、AppleMusicに進められたので聴いてみましたが、ドラマティックにまとめられているというのがファーストインプレッションです。もう少し繰り返し聴いてみないと。。ちなみに、このミュシャ的なジャケットが素敵です。

村上春樹は洋楽を聴きながら走るようですが、最近の実績で言うとクラシックで、ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスで走っています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Edward William Elgar

緊急事態宣言が延長となり、またまた水泳が遠ざかってしまいそうです。

もちろん、こんな呑気なことしか書かないのも意味があることなのでお察しください。

さしあたり一週間が終わり、さまざまなことを整えながら過ごしております。

こういうときに音楽があるのは本当に助かります。

今日聴きたいなあ、と心から思ったのはこちら。エルガーの交響曲第2番です。

日本では、ドイツ系音楽中心に受容が進んだこともあり、イギリス音楽はいくばくか違った路線感を醸し出しているわけで、ドイツ系のきっちりした形式張った音楽ばかりきいていると、この曲の旋律感や構成感になにか違和感とは言わないまでも新鮮味を感じまして、それは初めて聴いたときもそうですし、繰り返し聞いたあとであっても、やはり小学校の授業で取り上げられるようなドイツ系音楽とは違う感じに酔うような気がいたします。ミュンヘンに行ったときに「イギリス風庭園」なる庭園が公園にありまして、たしかそれは形式のない自然の感じを残した庭園だったと記憶していますが、大陸的なシンメトリーではなく、もう少し自然で複雑な(複雑系的な)音楽形式を持っているのでは、と思います。

私は、いつもこの曲はシノポリの演奏で聴くのですが、今日はサー・コリン・ディヴィスの指揮で。少し話がずれるかもしれないですが、私はドイツ系音楽をイタリア系指揮者が振る演奏が大変好きです。もしかするとシノポリが指揮するエルガーも同じくイタリア系指揮者によるものなので好んでいたのではないか、と思います。形式張った感じではなく、形式のなかで歌わせる感覚がイタリア系指揮者には少なからずあるような気がします。サー・コリン・ディヴィスの指揮は、イギリス人であるというバイアスにとらわれていますので、安易に「イギリス的な指揮」などと書いてしまいそうですが、昔聴いた記憶ではずいぶんと角張った指揮だなあ、と思った記憶があります。つまりあまり良い印象は持たなかったというkとことです。しかしながら、いま改めてもう一度聴いてみると、そんなことはあまり思えず、幾分かドラマチックな情感のこもった演奏である、という印象です。そういえば、昔聴いたサー・コリン・ディヴィスが振った魔笛もやはり激しい演奏だったなあ、と言う記憶が(テノールがペーター・シュライアーで、情感激しい歌だったから、ということかもしれないですが)。

さまざまな苦悩が溢れる世の中ではありますが、せめて音楽を聴くことで、何かが善くなるのかもしれない、というテーゼを措定してさらにそれを信じたい、そんな気分です。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Anton Bruckner

昨日からブルックナーへの関心が急激に高まりまして、もう二十年は手に取っていなかったであろうブルックナーの伝記を取り出しました。1988年の初版本で昭和の本ということになります。古本屋で買った形跡もないので、おそらくは新刊書店で買ったんだと思います。
早速以下のような箇所を読んで、ブルックナーのインプロバイザーとしての力量を思い出したのでした。

ブルックナーは聞き手が試し弾きかと訝るような単純な音型で始め、次第に高揚感を増して巨大な頂点で終えた。聴衆はオルガンという楽器の本当の威力をこの時初めて知ったに違いなかった。熱狂的な喝采のため、後に控えた演奏者はもはや出番を喪ってしまった。

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この年のドイツ帝国成立を祝って開かれた八月二十一日の演奏会では、特に求められてドイツ愛国歌『ラインの守り』に基づく即興を行った。熱狂した聴衆は、終演後ブルックナーを肩にかつきあげて場内を練り歩いた。

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ブルックナーは、1871年にロンドンに演奏旅行をしていますが、そのときの模様が描かれていました。こうしたエピソードも解釈された歴史です。事実と解釈は違う可能性はあるでしょうけれど、ともかく、純朴なブルックナーが聴衆の喝采を受けるシーンを想像するだけで、なにか昂揚を覚えます。

今でいえばだれなんですかね。クイーンかだれかが熱狂の中で演奏するという状況でしょうか。私はそういったコンサートにはあまり行かないので映像や伝聞からでしかわかりませんが。

ただ、一つ目の引用「単純な音型」をもとに楽曲を即興で組み立て、巨大な頂点で迎える、というのは何かよく分かる気がします。ジャズのミュージシャンが、実に愛らしいディズニーのテーマをもとに、あざやかにそして激しく昂揚するインプロバイズを見せることがあります。私も、数分間の自分の持ち場をストーリー感を持って組み立てることを試みたことがあり、聴く側としても、演奏する側としても、その感動や面白さはよく分かります。ブルックナーは交響曲作家ですが、その作品群を踏まえて、どんな即興だったのだろうか想像するのも愉しいものです。

今日の東京は雨の一日。明日からは天気が回復するとのこと。楽しみです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

 

今日は皆既月食。本来なら真っ赤な月が見えるはずでしたが、残念ながら東京地方からは見ることができませんでした。とはいえ、きっと天上ではなにかしらの素晴らしいことが起きているのでしょう。

私も、今日はひとついいことがありました。AppleMusicからレコメンドされたカラヤンが振るブルックナー交響曲全集に巡り会ったことです。たしか、カラヤンの最後の録音はブルックナーだったはず。調べると、やはり交響曲第7番でした、カラヤンとブルックナーの組み合わせはあまりピンと来るものがありませんでしたが、今回あらためて聴いてみると、特に緩徐楽章の歌い方が素晴らしく、ゆったりとした速度で恍惚とした表情を浮かべながら巡航する感じは、あまりにも甘美です。

そんなことを思っていると、さきほどから、急に無性に第6番のアダージョが聴きたくなり、今聴いていますが、いやあこれは本当に素晴らしく、磁器のようなきめこまかさは、ずっと側に置いておきたくなるようです。この楽章、今日聴いたはずもないのに、なぜか頭に流れてきて、あ、聴かないと、と思ったのでした。未来の記憶をあらかじめ見ていたように思います。

さて、皆既月食は見られませんでしたが、きっとなにかいいことが起きるでしょう。

ということで、今日は少し早めに。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

今日は、素晴らしい天気の一日。在宅勤務でしたが、見計らって、太陽の高いうちにさっと散歩にいって来ました。吹き渡る風も暖かく、シャツだけでじかに自然の息吹に触れられて、この気候は、日本における一つのイデアールな気候なんだろうなあ、と思いました。トラクターが動いていたりするのをみると、なんだかミレーの絵を思い出したりして。まだ日は高いですが。在宅勤務ものこりわずかな感じですが、この季節感を味わえたのは一生の経験になるな、と思います。

今日もアバドのブラームスばかり聞いていた一日でした。これまであまり意識しなかった「悲劇的序曲」を聴きました。ブラームスの交響曲にカップリングされがちな曲は、「悲劇的序曲」、「大学祝典序曲」「ハイドンの主題による変奏曲」などが挙げられますが、このあたりを愉しむところまではま至っておらず、まだまだ勉強不足だなあ、と思います。どうもブラームスというと、重厚な交響曲群にその価値を求めてしまいがちですが、まあ、これだけで交響曲の一つの楽章に、あるいは小さな交響曲あるいは、交響詩に値する楽曲なんだろうなあ、と思います。

さて、明日は皆既月食だそうです。私が住む東京地方は、晴れると言うことで、見ることができるのでは、とされています。なかなかないことですので、近所に見に行ってみようかなあ、と思っています。明日晴れますように!

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms,Miscellaneous

先日発売になったApple TV 4Kを導入してみました。

目的としては、居間で音楽を気兼ねなく聴くということと、Macの画面を居間のテレビでシームレスに映したい、というのが目的ですが、1日使った感じでは良い感じです。とにかくiPhoneを使わずにAppleMusicを使えるのは気楽です。

とはいえ、こういうレビューのような記事は、往々にして最初の印象となりがちです。一定の期間使わないとその善し悪しは分からないはずで、Apple TVもやはりそうなんだろうな、と思います。

現在のライフスタイルは、映画を見る時間を作っておらず、代わりに読書時間を増やしているので、映画のような動画をみることもあまりないでしょうし、ゲームもいまはまだしない感じ。

とはいえ、なにかテレビがApple製品と繋がるというのは、また囲い込まれてしまった、というヤラレてしまった感はありながらも、シームレスにものごとを進めると言う観点では、生活の質があがるのでは、と言う期待を持っています。

数ヶ月後に感想を書こうと思ったときに、どんな感想をかくことになるのか……。きっと良い感想ではないか、と期待しています。

さて、今日もやはり、ブラームスを聴いて過ごした感じです。アバドのブラームス大一番。何度も何度も、浮かされたようにこの半年間聞き続けている感じ。第一楽章冒頭のテンポ感を聴くのが主目的になっていますね。。ラトルの演奏も聴いてみましたが、テンポ感が一番フィットするのがこのアバド盤です。少し遅いテンポ感で広大な空間を想起させるもので、これ以上遅くなっていくと空間がガラガラと崩れてしまうところ、ちょうど良いバランスで崩壊寸前の美しさを現前させている、と思います。

明日の東京地方は久々に晴れるとのこと。雨も趣深いですが、やはり太陽の光が恋しいですね。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

ブラームスの4番を聴く日々。今日は有名なクライバーによるものを聴いています。最近は第二楽章に心を惹かれます。自然を描いている感覚もあれば、途中で重厚なフーガが登場して、驚く場面もあります。第一楽章も荘重と壮麗も心に染み入ります。真善美という古い倫理美学規範があり、昔哲学科の先生に大笑いされたことがありますが(まだそんなこと信じてるの?!と)、なにかそういう不利?規範がブラームスに生きているのではないか、と考えてしまいます。

本当にこのところブラームス漬け。

今朝もジュリーニのドイツレイクエムを聴いたり。ロスレスになるともっといい音で聴けるようになるだ、と思うと今から楽しみで仕方がありません。

さて、とにかく、仕事が佳境な一日でした。あまりにワクワクしすぎて、会議が終わったあと、発熱してしまうという。演技力が試されます。先週末は休日仕事でしたので、休みなく?働いている感もあり、身体制御が巧くいっていないのかもしれないです。プールで冷却したいところですが、緊急事態宣言でプールは休止中です。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Peter Ilyich Tchaikovsk

東京地方は雲の垂れ込めた湿気の多い一日でした。梅雨入り間近なのでしょうけれど、まだ梅雨には入っていない模様。

ですが、潤いのある涼しい風が部屋の中を吹き抜けるのはそんなに悪い物ではありません。なにか一年ぶりに会う懐かしい友のような感じです。こうした一年ぶりに季節を巡るということは、懐かしい友人達と会うと言うようなものともいえます。それも命ある限り必ず会うことのできる友人達です。

私も一般的には中年期で、コロナ感染者の年齢区分で言うと「若い人」になるようですが、友人達と会う回数も意識できる数になりつつあるのでは、と言う思いもあります。

今日は、カラヤンの古い映像を見まして、なかなか感慨深いものがありました。

カラヤン×バーンスタイン よみがえる伝説の名演奏

ドイツで冷凍保存されていた巨匠たちの名演、35ミリネガフィルムを8Kの高精細映像と立体音響でリマスター。新しい映像コンテンツに生まれ変わりました。その魅力をハイビジョン映像でお届けします。▽ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/交響曲第6番「悲愴」~チャイコフスキー▽レナード・バーンスタイン指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/交響曲第5番~マーラー

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」をもちろんベルリンフィルを率いて振りまくるカラヤン。目を閉じて振るさまは、王者か宗教家かという感じです。

そして、映像的に、ああ、これ、ヴィスコンティだ、と思いました。クラシックのコンサート映像でありながらも、耽美的なトーンに彩られていて、古い映画を見ているようにしか思えませんでした。もちろん、それはビデオによる収録ではなく、フィルムによる収録ですので、色合い風合いが映画的であるということもありますが、構図やライティングが上質な映画のそれに匹敵するもので、音楽もさることながら、映像をみて、本当に70年代的美しさだな、ということを感じました。構図の中央にカラヤンがあり、オーケストラや観衆のまっただ中にあって、一心に注目を浴びるカラヤンの圧倒的なカリスマは、あえてもう一度述べると、やはり王者か宗教家だなあ、と思いました。

おそらくは、以下リンク先の映像と同一と思われ、相だとすると1973年の映像となります。すでに半世紀前の映像となるわけですが、それであっても、聴きながら涙をおさえることができず、それは美しさ故か、あるいは現世と彼岸の断絶が故なのか、いまはまだよく分かりません。いずれにせよ、こうした映像が地上波で放映されることのありがたさはこのうえないのと思います。

https://www.phileweb.com/news/d-av/202001/31/49635.html

明日はバーンスタインをみてみようかな、と思います。

毎日外向けの文章を書くとうことを自分に課してみようか、とおもい、少なくとも6月末まではそれを続けよう、という感じです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Johannes Brahms

 先日から気になり始めたブラームスの交響曲第4番。初めて聴いたのは、ショルティがシカゴ交響楽団を振った音源で、おそらくは中学か高校の夏だったはずです。

 特に昨日からは第二楽章を聴くのが心地よく感じます。静謐な田園の風景という感じで、冒頭のホルンと木管の掛け合いが、これもまたなにか夜明けの風景で、まだ皆が寝静まっているなかを、ひとりで歩く愉しみ、という感じ。もしかするとそういう日々が訪れるのではないか、そういう愉しみ。季節はやはり夏で、山と海があって、薔薇色の朝日と飴色の夕日が見えるところで、朝と晩に、光を浴びながら散歩をするという日々。おそらくは木々が地面に落とす影を愉しみ、草の匂いを含んだ風につつまれつつ、海岸の方へ降りると、潮風と波音のなかで群青色の波面を第二楽章を聴いてそんなことを思いました。

 音源はいつものアバドが振るベルリンフィル。アバドの指揮は、この場で何度も書いていますが、しなやかな緩急で、まるで佇み感じるそよぐ風に似た温かみがあるものです。近頃はアバドなしには生きていけません。

  さしあたり今日の仕事は終えて、自分を労らないと。労働は労りながらでないと。

 それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

 またまたご無沙汰してしまっています。なんだかたくさんのことがありすぎて我を忘れている感があります。とはいえ、気候も落ち着き、寒暖差はありながらも徐々に夏へと近づいているという嬉しさが湧き上がっているのも感じます。

 秋に生まれたというのに、何故に夏が好きなのか、よく分かりませんが、とにかく、太陽の光を狂ったように浴びたいと言うことにつきます。

 今日の東京地方の日没は18時39分で、半年前よりも2時間も長く太陽が出ていることになります。先日も話しましたが、太陽がでているうちにイタリアの白ワインを飲むのが目下の夢です。

 半年前と言えば、冬の暗い時期に何度も何度も聴いて心の支えにしてきたブラームスの交響曲第一番ですが、日差しを浴びながら散歩しているときに、もしかして今は四番の方が相応しいのではないか、と思いました。それで聴いているのは、アバドが振った交響曲第四番。

 アバドの指揮は、軽くもなく重くもなく、早くもなく遅くもなく、しなやかに空を舞うような演奏で、心にぴったりとフィットしてきます。ドイツ音楽をイタリア人が演奏する、というのは、なにかドイツ人がイタリアに馳せる思いが具現化しているようなものではないか、と思うときがあります。第二楽章の伸びやかな演奏を聴いていると、ゲーテがイタリア旅行をして、長く伸びる夕陽を浴びて、陰翳のある遠い西の空を眺めやるような感覚を覚えました。

 さて、これからもう一仕事です。皆様どうか良い金曜日の夜を。

おやすみなさい。