Johannes Brahms

先日、コンサートでブラームスの交響曲第1番を聞いたのですが、聴きながら何か、複雑な気分がありました。

ドイツ・ロマン派の真骨頂というべき音楽で、ビルドゥングス・ロマンのような、成長の物語で、まるで、ヘッセのような世界。これも、当時も本当に信じられていて、それが音楽で表現されたのがこの曲ではないか、と思ってしまったのです。

ブラームスの本心はわかりませんが、曲自体を聴くと、本当に純粋で理想へと向かういわゆる人間の成長の物語が聴こえてしまい、ブラームスの純粋さがよくわかったような気がしたのです。

もちろん、ブラームスが本当にそうかどうかはわかりません。ダブルスビークの可能性がありますから。

それでもなお、クララ・シューマンへの複雑な思いを勝手に想像したりして、なにか感慨深いものがありました。

その後、ワーグナー、マーラー、シュトラウスは、(恐らくは)西欧の自壊の前触れを感じとり、音楽自体の崩壊を予感させる作品を生み出し、ロマン派は終焉した、ということなのかと思います。(西欧の自壊:テキストの崩壊=ニーチェ、ユークリッド幾何学の終焉、主体の終焉=フロイト)

しかし、いまでもブラームスが好まれているのは、どこかに近代がなしえたことへの共感が、少しばかりはいまの日本にもあるから、ということなのかも、と思います。どこかへ進歩していこうとする。司馬遼太郎を読むと、それが、危険な方向に行くこともあるとのことですが、逆に日本人らしく「あいまい」に処理できるといいなあとも思います。これも司馬遼太郎の受け売りです。

今日はこちら。
ハイティンクのブラームス交響曲第1番。ロンドン響の弦の響きが力強く、ハイティンクらしい締まった演奏。

Symphonies 1-4 / Double Concerto

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そういえば、日本人の日本人らしさは、様々な文物を吸収するところ、と、司馬遼太郎が書いていたと思います。仏教と神道を融合したり。そうした融合の知恵、「あいまい」に処理できる能力が、もしかすると今でもブラームスを受容しているということと関係があるのかもしれないと思いました。

今日も仕事関係の用事で一日中外出。また明日から早出で働きます。

ではみなさま、おやすみなさい。

Ludwig van Beethoven

今日は、「はじめてのバーンスタイン」というプレイリストを。AppleMusic のレコメンドに現れましたので、聴いてみました。
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プレイリストの2曲目が《田園》だったのですが、こらはさすがに懐かしいものでした。懐かしさというより、何か過去へと引き戻される感覚でした。

これも以前書いたかもしれませんが、また書きます。
この音源は、私が音楽を聴き始めた80年代半ばに、父が録音していたカセットテープで何度も何度も聴いたものでした。それは、NHK FMの「名曲の楽しみ」をエアチェックしたものでした。カセットテープは、最初の出だしが少しかけたもので、テープのたるみを拾って、音がユラユラと揺れるところから始まっていたはずです。当時の私の理解では、交響曲の楽章というものは、必ず途切れるものだと思っていましたので、なぜ楽章数が足らないのか悩んだりしたものです。
曲が終わると、吉田秀和のアナウンスが入りました。
「いまのは、ま、言うまでもないんですが、ベートーヴェンのパストラール。レナード・バーンスタイン指揮の、ウィーンフィルハーモニー楽団の演奏でした」
という感じでした。たしか、パストラール、と言っていたと思います。その後、バーンスタインらしい「恍惚とした感じ」と、この演奏を表して、「では、まだ時間があるようですので、もう一度最初から聴いてみましょう」という感じで、また第一楽章がオンエアされる、という感じでした。
小学生の私には、この「恍惚」という言葉がよくわからなかったのですが、おそらく、その後の「恍惚」の理解においては、この演奏がひとつの要素を占めていたのだと思います。
それにしても、今日、この演奏を聴いた時、引き戻された感覚というのは、これが、プルーストのいうマドレーヌ体験のようなものではないか、と思いました。演奏の機微のようなもの身体が覚えていて、まったく違和感を感じません。デフォルト音源です。こういう、演奏がフィットするという感覚は、おそらくは《田園》の他の演奏音源を聴いたために、逆に強く意識するようになったものだと思います、恍惚、というのは置いておいて、たおやかで柔らかく、絶妙な起伏を持った演奏だのあらためて思います。あらためてすごい演奏を小さい頃から聴いていたのだなあ、と思いました。もっともらこの音源を聴いていたから、この音源が素晴らしいと思える、ということもあるのだとは思います。この音源によって耳が形成された、ということです。

まあ、繰り返しになりますが、AppleMusicのプレイリストはいいですね。思いもよらない曲を聴いて、今日のようなセレンディピティが起こります。

さて、今日は、ギリギリまで働いたのですが、なぜか心が落ち着くのです。ざっと、VBAでデータ処理のスクリプトを書いたところ、思いのほか上手く動いて、気分が良かったのかも。

明日は早出です。起きられるか?

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous,Richard Strauss

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最近、近所を自転車で走っている話は何度か書きました。

今年の冬から、春となり、夏来る、という感じで、同じ場所でも、風景は本当に変わります。

冬枯れの草原が、春になって花が咲き乱れ(本当に咲き乱れるのです)、桜が舞い散り、若葉に満ちるわけですが、最近は、その若葉も色濃くなり、青年の雄々しさを持つようになりました。

それどころか、早咲きのひまわりが、先週はその顔を空へ向けていたのが、今週になると、まるで老年のようにこうべを垂れて、勢いをうしない、人生の晩秋を感じさせたりもします。

あるいは、草原にも立ち枯れた草がすでに目立ち始めました。一方で蝉の鳴き声を聞いたりすると、また新たなサイクルが始まったということも思います。

ともあれ、同じ風景の中に、こうした違いを見出すということは、まるで、同曲異演を楽しむかのような感覚があります。

昨日も書いたように、シュトラウスの最後の四つの歌を、かつては、アンネ・トモワ=シントウで聴いて感激していたのが、昨日はジェシー・ノーマンの声で違う感動を感じる、といったような、そういう楽しみです。

それは、まるで縦糸と横糸を組み合わせるようなものでしょう。

機織りで長く張られた縦糸に横糸を通すと、絢爛な布地が出来上がるかのような。曲をたくさん聴くのが縦糸なら、様々な演奏を楽しむのが横糸。あるいは色々な場所に旅するのが縦糸だとすれば、同じところにとどまって季節の移り変わりを楽しむのが横糸です。

仕事も同じらしく、本来業務と言われる、収益を上げる仕事ばかりやっていてもうまくいかず、周辺事項や視点を変えた仕事も織り込まないといけないようです。

縦糸だけ伸ばしても本質は掴めなさそうです。質料と形相の関係に似ているような気もします。

ただですね、それでもやはり縦糸を伸ばすことに憧れます。理論上は無限に伸びる縦糸ですので。新しい楽曲を聴きたいし、新しい土地にも行きたいですね。それがなくなった時、初めて大人になるということなのかも、と思いました。

今日はこちら。やはりジェシー・ノーマンの(ナクソス島のアリアドネ》。

クルト・マズアの指揮はゆったりとしたもので、ジェシー・ノーマンの深みを十分に引き出しているように思えます。80年代の演奏ですが、冷戦のさなかにアメリカ人のノーマンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と共演するというのは興味深いです。しかし、こう言う演奏の違いがわかるようになって少し嬉しい反面、寂しさも感じることもあります。もっと新しい音楽、つまり縦糸を伸ばすことをやってみたいなあ、と思います。

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Miscellaneous,Richard Strauss

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休日。随分早くに目が覚めたのですが、なにかいい感じの夢で目が覚めて、気分が良かったです。今日、近所の市民センターにいたところ、広場に生い茂る木々から蝉の声が聞こえました。まだ梅雨あけもしておらず、6月もまだすぎませんが、ひたひたと夏が迫っています。ことしも猛暑だそうです。どうやって過ごそうか、という感じです。

そんな初夏に聴いたのはこちら。すこし季節にはあいませんが、ジェシー・ノーマンの歌うリヒャルト・シュトラウスの歌曲集です。

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昨日聴いた「はじめてのジェシー・ノーマン」というプレイリストには入っていた「Morgen」という歌曲が入ったアルバムで、1983年にクルト・マズアがライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と一緒に録音したもののようです。「四つの最後の歌」がメインディッシュですね。33年前のアルバム。あの頃はまだ東ドイツがあってホーネッカーがいました。

メゾ・ソプラノような深みで歌われると、「四つの最後の歌」なども、重心がひくくなり、随分と落ち着いた味わいになります。たしかに、人生の晩秋の諦観とした静かな気分を想像させるに事欠くことはありません。この演奏を聞きながら、太陽の光を浴びながら死に至る場面などを想像してしまいます。この曲を聴いて急に後ろに引っ張られるように頭から血流が失われていく感覚。それはまるでヴィスコンティの「ヴェニスに死す」から、毒気のようなものをぬいた、常識的で大人な場面。マーラーの「アダージェット」よりも安らぎにみちている気もします。そのように人生を閉じれるように生きれるといいのですが。もちろん自分の努力だけでそれはなし得るものではないですね。世界や国、社会、あるいは自然や災害がどうなるかで簡単にどうとでもなるものです。昨日の常識は明日の非常識。そういう世界で、安らぎを得るのは、ただひたすら、偶然的なものに対する願いと祈りと感謝でしかないのかも、と思います。人生謙虚に全力で、というところですかね。

ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Strauss

仕事場から港が見えます。晴海埠頭が。かなり遠くではありますが。大型客船が泊まっていたり、南極観測船しらせが泊まっていたりしたこともありました。

今日は、私の勝手な想像では気象庁か水産庁の調査船が泊まっているように見えました。あまり大きくない船でしたが、きっと日本近海か、外洋か乗り出していく船です。内航船ではありません。

ふと思ったのは、勝手ながらも、その船の船長が感じる自由のようなもの。補給さえきちんとできれば、世界中のどこへでも理論上いくことができるという自由。これは、本当にすごいことではないか、と。

これ、MacなりPCなりでツールが揃い、なんでも作れる状況になるような感覚と似ているなあ、と。無限の可能性を得たと感じるあの瞬間と同じ。きっと東京の晴海埠頭からサンフランシスコでも、サンディエゴでも、あるいはナポリでもアルハンゲリスクでも、ケープタウンでもどこでも行けるわけですから。

ただ、現実はそうはいかないです。船もやはり船主の意向次第。ツールが揃っても、すぐに何かができるわけではなく、時間や技術の壁に当たるわけです。

ただ、それでもなお、埠頭に接岸し、船橋から外洋を見やったときに感じるだろう自由と束縛の感覚は、酢いいものでありながらも、酔いしれるものもあるのかもしれず、酔いが醒めるのをわかっていながらなおも酔うということなんだと思います。とことん酔って、その先に何か誰も手にしたことのないものがあると信じたいものです。往々にして、酔いが覚めて良い夢だったということになりかねませんから。

今日はこちら。

Strauss: Orchestral Works
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シュトラウスの若き日の作品から「ツァラトゥストラはかく語りき」を。この絢爛でありながら皮肉に満ちた音楽は、ダブルスピークのような解釈多様性を持っている気がします。私は、物事全てを字義通り捉えることができません。全てが逆の意味を含み得ることがわかっているからです。そうであっても、意味が正の意味を持つか負の意味を持つのかはフィフティフィフティです。この曲を聴いて、それが本当か嘘かはさておき、少なくとも半分は極度に美しいのだから、それだけでいいのではないでしょうか。

私が若くて若くて、つまりまだ2歳だか3歳だった頃、この曲が大好きだったとのこと。当時はまだ無限の可能性があって、世界に乗り出す可能性もありました。理論的には。つまり、大洋へと出帆する船と同じだったというわけです。

今はどうか。願わくば、大洋を乗り越えている船のように生きているといいたいものですが、はたしてどうか。大洋しか知らなければ、それが太陽かどうかはわからない。あるいは、大洋でないと思っても、それが大洋かどうかもわからない。そんなところでしょうか。

結局、自由かどうかは、わからないということ。あらゆるものはどうとでも取れる。そういうことなんでしょう。

ではみなさま、よい週末を。グーテナハトです、

Miscellaneous,Richard Strauss

うーん、書いた文章が全部消えてしまった。

気を取り直して。思い出しながら書きます。

昨日はシュトラウス。シュトラウスの大人の知恵が好きです。《エレクトラ》で前衛をあきらめ、《ばらの騎士》でモーツァルトに回帰する大人の知恵。

作品の登場人物も大人ばかり。若い恋人をあきらめる《ばらの騎士》元帥夫人、二人の求婚者のどちらを選ぶか結論を出さない《カプリッチョ》の伯爵夫人マドレーヌ。

音楽的にも、美しいながらも不協和音や変拍子に溢れています。綺麗なんだけど、肩透かしのようにその旋律はどこかに過ぎ去ってしまったり。

結局世の中を変えるのはそういう大人の知恵なんだろうなあ、と。

辻邦生のテーマは「性急な改革の失敗」です。結局、若さで押し切ることは、行き詰まるだけです。時間がかかっても、じわりと改革をする知恵が勝つのかもしれません。

きっと今も、目立たないようにひっそりと、あるいはまったく別物に姿を変えてわからないように何かの改革が動いているのかも、と思います。その改革がよいことでありますように、と願います。

ですので、世の中は直球勝負では勝てません。変化球や、ときに四球を与えながら買っていくものなのかも。がゆえに、身の回りでもいろいろなことが起きますね。

はしごをはずされる感覚、というのもその一つですまあ、慣れていますので、普通に対処できてはいますが、少しばかりの寂しさは避けようはないですね。

先日読んだ本に、本来人間は種の保存のために助け合うことに快感を覚える本能を持つ、といったようなことが書いてありましたが、その逆もあるわけで、そうだとすると、それに寂しさを覚えるのも理性外の本能のようなもんなのでしょうか。

で、今日は、「ダナエの愛」を。絢爛で巨大な音楽。昨年、二期会の公演に出かけましたが、本当に楽しく充実したしたものでした。オペラは素晴らしいものですが、気づくとこの一年見に行けていないです。また行ける日が来るといいなあ、と思います。

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ではおやすみなさい。グーテナハトです。

Ralph Vaughan Williams

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先日近所を走り回っている時に撮った写真です。なんだかイギリスっぽいなあ、と。

というわけで、「初めてのハイティンク」というプレイリストを通して、ハイティンクがヴォーン・ウィリアムズの交響曲全集に行き当たりました。

Symphonies Nos 1-9 (Clam)

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ハイティンクらしいしまった演奏で、さすがだなあ、と思います。引き締まった密度の高い演奏はハイティンクらしいなあ、と思います。

ヴォーン=ウィリアムズは、南極交響曲を幼い頃に聞いていましたが、2番、3番、5番のような静かで静謐な交響曲の方が好みになりました。人生のおいしいところは静謐です。

さて、「自分自身の生き様に、達成可能な状態がなくなった時、それを人は「老いた」という」、なんてことを考えました。もっと鮮烈な表現だと、「夢がなくなった時人は老いる」、なんですが、そこまで言うこともないのですが、なんてことを思いながら。ただ、前向きさは保持しないと。

では今日は短めでおやすみなさい。

Wolfgang Amadeus Mozart

うーん、なんだか音楽に驚きがないあな、なんて。そもそも、音楽に驚きを求めてはいけないのかもしれませんが、たとえば、初めて《トゥーランドット》の冒頭の金管の炸裂を聞いてのけぞった、というような驚きは、なかなか難しくなりますね。

そうすると、なにか違う方向へと進んでしまうわけで、今はなんだか、枯淡の境地をめがけているような気がしてなりません。今日も、tuneinを聞いていて流れてきたモーツァルトのソナチネつまりピアンソナタ16番が聞こえてきて、ソナタ形式の良さみたいなものを感じて、うーむ、と唸ってしまったりしまいました。演奏者は誰なのか。

で、AppleMusicでグールドのこの曲を聴いたら、繰り返しを全くはしょって別の曲になってしまっているという驚き。。ほとんどハードロックのような演奏です。

リヒテルを聞いてみると、なんと慈愛に満ちた演奏なのか、という感じ。こちらの方が好みかも。

モーツァルト:ピアノ&ソナタ第4番&第8番&第15番
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この曲の展開部で短調になるあたりの感じが昔から好きでした。

まあ、確かに心が洗われたり、驚きがあったりはしますが、あの《トゥーランドット》のように身を灼かれるようなものとは違います。いろいろと考えや気分が変わるときなのかもしれないなあ、と思います。

さて、最近、昼食後にどっと疲れがでるようになり、何か病気? とおもったのですが、いろいろ調べてみると炭水化物がいまいちなのでは、みたいな情報があり、朝食、昼食に炭水化物を抜いて見ました。結果として、思い疲れのようなものは無くなりましてやっぱりね、という感じなんですが、代わりに足が動かなくなるという状況でした。短期的なエネルギーが足らないのでしょう。いろいろと試してみないと。。

ではみなさまも良い週末をお過ごしください。おやすみなさい。

 

Miscellaneous,Wolfgang Amadeus Mozart

それにしても、最近いろいろと定まることが定まり、決めることも決め、やることも少しずつ始まり、という感じです。問題は、時間がないのと腰を痛めて動きにくい、ということ。まったく。。昔はあんなに重い荷物を持ってもビクともしなかったのに、最近は立っているだけでも辛いという状況だったりして。

そういう面では、若いうちに動き始めるアドバンテージというのはあるよなあ、とも思ったりします。私も腰を壊す前にもう少しいろいろできればとよかったなあ、と思います。

でも、若いときはうまく動けないことも多いです。頭の良い人、要領の良い人はさっさとやっちゃうんだろうと思いますが、なまじっか悩んだりすると、若いときによくいるとんがっている人になってしまいます。

今でもたまにとんがっている人に会うことがありますが、羨ましいと思いながらも、あれやると辛いんだよなあ、と思ったりもいます。とんがると結局損しますので、別のやり方でやらないといけないんだけど、そうした知恵がないといけないわけです。

もっとも、とんがって損するという環境自体がダメなのかもしれませんけれどね。。なんてことも思います。

今日はこちら。

String Quartets
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1773の作品ととされるモーツァルトの弦楽四重奏曲第13番。この曲だけはどうしても気になってしまいます。短調ということもあると思いますし、昨日も触れたように最終楽章のフーガは本当に立派です。作曲したのは17歳ですか。きっととんがっていた頃なんだろうなあ。どうも映画の印象が強いです。本当にいい曲ですね。でも、きっと今でも、これぐらいの才能を持っている人はたくさんいるんだろうなあ。モーツァルトの時代は世界に出られる人は一握りでしたが、今はトンがっている人は、誰もが世界に出られる時代なのかも。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

 

 

 

Wolfgang Amadeus Mozart

今日は帰宅してから、仕事場の方とビデオチャットやSlackなどを使っていろいろ相談。グローバルなワークスタイルは、どんどんすすんでいるというのに、それをつかえず、それでよしとしている世界もあるんだなあ、とあらためて。

今日もモーツァルトの弦楽四重奏曲を聞き続ける感じです。何も考えにで聞くと、BGMになってしまいますが、結構堅牢な曲などがあって、驚きます。

今日はこちら。というか、モーツァルトの弦楽四重奏は面白いですね! はまりそうです。。

Mozart String Quartets

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例えば、第13番の最終楽章は本当に立派なフーガですね。なんだか、バッハを聴いているかと思ってしまいます。「音楽の捧げ物」を思い起こさせる、構築美とその中に含まれるなにか心を刺す痛みのようなものを感じる音楽です。美しいものにはおそらくは触れてはいけない毒のようなものがあって、というよくある寓話のようなものを思い出してしまう音楽でした。
たぶんですが、この弦楽四重奏曲第13番はあまり聴いた記憶がないのです。
今日はハーゲン弦楽四重奏団。アマデウス弦楽四重奏団と対比的な硬質な演奏ですね。こういう聴き比べができるのもApple Musicのおかげです。

明日からまた3連休です。その後、また1日仕事場に行き、また2連休です。まだまだ家でやることはたくさんありますので頑張ります。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。