駅前広場は、同じユーロスターで到着した旅行客であふれかえっている感じ。イタリア語はよく分らないのだが、なんとか市内交通チケット売り場を見つけて、72時間券を購入し、旅行前に穴が開くほど眺めたヴァポレット(ヴェネツィアの水上バス)の路線図の指示通り、51番のヴァポレットが着く黄色い箱形の浮き桟橋の列に並ぶ。
このときから、何かがおかしいな、と感じていたのだった。サングラスをかけた短髪のブロンドの若者が、仲間とおぼしき黒髪の若者と握手をしている。若者の仲間が何人かいるらしく、知り合い同士大声で話をしている感じ。もちろん何を話しているのか分らない。そんなこんなで、51番のヴァポレットに乗ろうとする人々は浮き桟橋に入りきらずに長い列を作っている。
到着時間になったというのに、なかなかヴァポレットが現れず、気をもんでいると、ようやくとオレンジ色の電光掲示に51番を表示させる象牙色のヴァポレットが到着。この時点で、待合い客であふれかえっていて、ヴァポレットに全員乗れるかどうか分らない状態。次の便は20分後だったので、待っても良かったのだけれど(後から思えばだが……)、早くホテルについて落ち着きたかったので、重いスーツケースを引きずりながら満員のヴァポレットに乗り込むことになる。
この時点で、待合い客に圧迫されて、連れとはぐれてしまう。まあ、おそらく乗れただろうと思い、甲板から一段下がった船室に降りてしまう。なんとかスペースを確保する。階段の横に設えられた一人分の座席には、黒いアタッシュケースを持った銀髪の初老のビジネスマンが座っていて、彼と眼が合ったのでニッコリ笑って挨拶。
ヴァポレットはようやく動き出すのだが、何か騒がしい。さっきの若者達が甲板の船室の間を言ったり来たりしている。そうこうしているうちに、船室の後ろの方で、若者達が天井を叩きながらわめき出す。何かの歌を歌っているらしい。これは、サッカーファンなのか? いわゆるフーリガン的な若者達なのではないか、これはちょっと嫌な連中と一緒になってしまった、と思う。さっきのビジネスマンが、手招きして、こっちの方が空いているよ、と彼の座席前に入ってくるように勧めてくれたので、若者達から待避するような格好で、ビジネスマンの座席前に移動。
次の停留所に到着。降りる乗客、乗る乗客でヴァポレットはごった返す。若者達、降りてくれないかな、とおもうのだが、まだ騒いでいる。船室内へと入っていく乗客達は、若者が騒いでいることなど全く知らぬまま。舫綱を解いて、ヴァポレット出発。
ここからだった。騒ぎは大きくなる。麻薬をやっているからなのか、酒に酔っているからなのか、よく分らないが、完全にラリっている若者二人が船客に絡み始めている。そのうち一人は、手から血を流していて、手のひらは血糊でドロドロになっている。その血がどうやら、船客の服を汚したらしい。怒った船客が、甲板にあがって、操舵室の船長になにかを訴えている。
ラリっている若者が、僕の目の前に立つ。眼があったので、ニッコリと笑ってやる。なにか呆けたような目つきをしていて、これは常人じゃないな、と思う。だが、全然恐怖感なし。驚くぐらい冷静だった。若者は、初老のビジネスマンになにやら話しかける。厳しい顔をしていたビジネスマンも、ニッコリと微笑みながら若者を睨んでいる。ものすごく格好がよい。映画の一シーンを観ているような錯覚に陥る。あの落ち着きを払った微笑みは賞賛に値する。一生忘れないと思う。
ヴァポレットは次の停留所に舫をかける。そのまま動かない。起こった船客が船長に捲し立てている。ヴァポレットは動かない。何かが起こったのだ。そのうちに乗客が浮き桟橋に移動しはじめる。ビジネスマンもやはり船を降りていく。これは、なにかがあったな、ということで、スーツケースを担いで一旦、ヴァポレットを下りる。ここで連れと再会。連れはおびえきっている。