今回も、随分と楽しい時間を過ごせました。NHK交響楽団の首席オーボエ奏者である茂木大輔さんが1997年に出版した「オーケストラ空間・空想旅行」です。
茂木さんはミュンヘンに留学しておられたのですが、留学から卒業して欧州のオケで活躍するに至るまでのエピソードが綴られています。
興味深い欧州オケ事情から、東ドイツの音楽状況など、場所と時代を超えて、知的好奇心を刺激するものです。
あとは、抱腹絶倒なエピソード。
アメリカに演奏旅行に行った際に、茂木さんと、現在ベルリン・フィルでオーボエを吹いているアルブレヒト・マイヤーがおかした失敗が面白すぎるのです。電車とバスに乗り遅れて、夜中のボストンをうろつく場面や、ニューヨークで集団詐欺にしてやられる話など。あのクールで知的な印象のアルブレヒト・マイヤーが騙されちゃったのか、なんていう感慨に浸れます。
あとはレーゲンスブルクのお城で催された貴族のパーティーのエピソードも。晩餐会のBGMの演奏で法外なギャラを貰ったであるとか、ロック・バンドも呼ばれていたのだけれど、それがミック・ジャガーだったとか、信じられないようなエピソードなども。
本当に楽しい一冊でした。
明日はみなとみらいへ出撃です。
抱腹絶倒なヨーロッパ──茂木大輔「オーケストラ空間・空想旅行」
今日の辻邦生──世の中は背理である!
すべてが、背理なのだ。この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく、正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生まれるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。(中略)だが、この世の背理に気づいた者は、その背理を受けいれるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。だが、それは嘲笑でも、憫笑でもない。それは哄笑なのだ。
「嵯峨野明月記」は、今や私にとっては生きる指針にほかならないかも。
この引用、もう何回もやってます。
「この世は背理である、ただ、笑い飛ばすしかない」
この「この世は背理である」というテーマこそ、「風神雷神図屏風」を描いたとされる俵屋宗達が「嵯峨野明月記」のなかで、喝破するテーゼです。
すべての誤謬に怒りを表すのではなく、笑い飛ばせ、というもの。戦闘的オプティミズムとでもいいましょうか。
「ツァラトゥストラ」を読んでいて、この場面を思い出しました。まあ、当たり前なんですが。
それ以来、私は怒っているとき常に笑っています。なーんちゃって。
この「背理である」という言葉、数年前に流行った「起きていることはすべて正しい
」と同じことを指しているのでは、とも考えています。
嵯峨野明月記、実は辻美学の一つの頂点なのではないか、と思います。辻邦生の小説論である「小説への序章」とも内容がかなりかぶっています。「小説への序章」の中でディケンズ的表現とされているものが、「嵯峨野明月記」の中で使われていることもよくわかります。
今日で一週間終わり。月曜日休みだったから、短い一週間でした。週末は読書と書物とコンサート。ああ、勉強もしないと。
《短信》つれづれ
本日会社懇親会。現在帰投中です。
《短信》です。
若い人が、覚悟を決めてコミットしているのをみて、落涙の思い。こういう感触は今の仕事につかなければ感じないことですね。
このところワーグナーに集中。バレンボイムの《トリスタンとイゾルデ》を聞いています。ニュアンスの出し方が絶妙。こつちも感涙。
禁酒(家)継続と、エーリヒ・クライバーのばらの騎士
今日は短信で。
禁酒ですが、まだ続いています。ただし、曲がりなりにも給与所得者なので、付き合い的なものはありますので、家での禁酒ということになりました。それでも、私にとっては画期的です。
本日で12日目です。
アルコールの代わりに炭酸水を飲むことにしたのですが、炭酸水はノンカロリーですし、炭酸が胃で膨れますので食事量を減らすこともできます。
ですが、体重は減りません。おかしな話。
アルコールとれない代わりに、食事量が増えているのかもしれないですね。
今日もエーリヒ・クライバーの《ばらの騎士》第二幕を聴いています。最後のウィナーワルツのところ、今日聴くと、やパリ古風な感じでヴァイオリンがポルタメントを使っているのがわかります。こんなかんじで往時のウィーンフィルは歌ってたのかあ、と納得しました。あるいは、戦後までこういう感じだったのか、と改めて面白さを感じます。
あと2日でやすみです。
ジャクリーヌ・デュ・プレのシューマンチェロ協奏曲
仕事また始まり。なんかこう砂をかむ思い。
今日は珍しく音源紹介です。
完全にバイアスかかった見方なのはわかっていますが、どうもデュ・プレを聴くとこの映画を思い出してしまいます。10年前に観たので、かなり記憶が薄くなっていますが。
「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ(1998)」です。
デュ・プレの姉はヒラリーという名のフルート奏者なんですが、ジャクリーヌほどの激しいセンスを持ち合わせているわけではありません。田舎で音楽を教える静謐な暮らしを送ります。ですが、ジャクリーヌは違います。もちろんダンナのバレンボイムもしかり。二人はアーティストなので、かなりぶっ飛んでいる。で、ぶっ飛んで行き着く先が。。。というお話だったと記憶しています。ジャクリーヌの病的でもろくあやうい精神状況をエミリー・ワトソンが演じていました。
この1963年の録音ですが、ジャクリーヌ・デュ・プレが18歳ごろの演奏です。高校生が弾いているということですね。でも、その後病気でチェロを引けなくなってしまうというアクシデント。1973年に引退してしまいます。
天才もラクじゃないです。余程の楽天家でなければ、みんな同じかな、などと。
デュ・プレのチェロは、ディストーション、つまり、エレキギターを歪ませるエフェクターですが、そのディストーションがかかったような激しく荒々しい音です。その鋭い激しさは音源を聴いてこれですから、実演ですと計り知れないものがあったのでしょう。エルガーのチェロ協奏曲も有名ですが、こちらもそれに劣らず激しさに満ちています。
ここで、「悲しみ」とか書いてしまうと改善に、映画のイメージに影響されている事になりますね。反省。
明日はエルガー?
少し遅いですが、7月と8月のプレミアムシアター
すっかり夏本番で、今日は海の日ということですが、朝から晩まで本を読んで音楽を聞いてプログラム作って過ごしました。インドア生活でしたが、頭の中身は19世紀から20世紀前半のドイツでした。目からウロコが落ちることばかり。
で、インドアだけでは体を壊すので、散歩がてら写真を取りに行きました。近所のひまわり。ちょうどいい塩梅にミツバチが飛んできました。
少し遅いですが、7月のプレミアムシアター。本当は6月後半にアップする予定でしたが、なかなかNHKのウェブにアップされなかったので、見過ごしてしまいました。すいません。
ではどうぞ。
7月22日(21日深夜)
ベルリン・フィル ワルトビューネ・コンサート
- バイオリン協奏曲 ホ短調 作品64 (メンデルスゾーン)
- 交響曲 第9番 ニ短調 作品125 「合唱つき」 (ベートーベン)
※ ラトル指揮 ベルリン・フィルです。
ウィーン・フィル シェーンブルン夏の夜のコンサート2013
)
※ロリン・マゼール指揮 ウイーンフィルです。
7月29日(28日深夜)
ポリーニ&ティーレマンによるブラームスのピアノ協奏曲 第2番&交響曲 第2番
- 喜劇序曲 作品38 (ブゾーニ)
- ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83 (ブラームス)
- 交響曲 第2番 ニ長調 作品73 (ブラームス)
ポリーニ&ティーレマン指揮 ドレスデン国立管弦楽団演奏会
- 悲劇的序曲 作品81 (ブラームス)
- ロマンチックな組曲 作品125 (レーガー)
- ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 作品15 (ブラームス)
8月19日(18日深夜)
グラインドボーン音楽祭2013 歌劇『イポリットとアリシー』
歌劇「イポリットとアリシー」(ラモー)
※ ウィリアム・クリスティーです!
8月26日(25日深夜)
バイロイト音楽祭2013 歌劇『さまよえるオランダ人』
※ 今年はオランダ人。ティーレマン指揮です。
バイロイトは当然として、グラインドボーンのラモーも楽しみです。実は、私、ラモーが好きなんですよね。マゼールとウィーンフィルのコンビのワーグナー・ヴェルディガラも面白そうです。というか、観る時間いつなんだ。。
編集後記
オペラログをつけているのですが、随分と多くなりました。初めてオペラを観たのが2002年ですので、10年以上観ているようです。が、まだまだわからないことだらけです。奥深すぎます。
夏なんで、バイロイトやプロムスがあります。METライブ・ビューイングのアンコール上映もあります。頼まれている仕事もあるし、試験もあるし。どこまで追随できるかなあ。でも楽しいので忙しくてもぜんぜん大丈夫です。
現代オペラ演出の源流をみた──新国立劇場地域招聘公演《三文オペラ》
今日は、新国立劇場地域招聘公演「三文オペラ」を聴いてきました。というより、観てきました、というべきでしょうか。
私が予習していたのはこの盤でしたが、当然CDなので、音楽中心にまとめられていますが、今日は完全版ということで、劇もきちんと観ることが出来ました。
それにしても《三文オペラ》は本当に毒に満ち溢れた作品です。いろいろ考えてしまいました。それもそのはず。以下に述べる通り、それを目指しているのがこの《三文オペラ》なのですから。
ブレヒトと現代のオペラ
今朝、とある雑誌を思い出しました。1998年に事実上廃刊されてしまった音楽之友社の「音楽芸術です。廃刊直前の1998年10月号の特集が『ブレヒト/ヴァイル─現代社会を照射する』でした。
当時、私はこの雑誌の記事について、自分のウェブサイトに記事を載せた記憶があります。
現代の政治社会的テーマを取り上げる舞台劇
「ブレヒトが今日を照射するもの」という岩渕達治さんの論文が乗っているのですが、その冒頭部分にこのような記載があります。
それはブレヒトの演劇の方向自体が基本的に現代の政治的社会的なテーマを討論する場と考えたことから来るのであろう。ブレヒト/ヴァイルの共同作業も極言すればオペラにそのような機能を持ち込もうとした試みということができる。(中略)現代的な読み込みによるオペラ演出が登場したのは戦後のことであり、そういう新傾向の原点は二〇年代にあったのではないかと思われる。
先だって出版された森岡実穂さんの「オペラハウスから世界を見る」において、劇場が「直接に世界の現実とつながり、実際の事件から思想的な大きな流れまで、さまざまな事象がそこに反映されていく場所」とされているように、オペラは現代を考える場所でもあるのです。その源流が、ブレヒト/ヴァイルにある、ということになります。
ナッハデンケン=熟考
また、ブレヒト演劇におけるナッハデンケンNachdenken=熟考という言葉も、昨今、私が思っているオペラの観方によくフィットします。これは、劇を見た後になって内容を熟考するという意味です。これはブレヒト演劇の特徴で、作品の中に違和感を残して、劇が終わった後も、観客がその内容がきになって仕方がない、という状況にするものです。
たとえば、《三文オペラ》も、あまりにも唐突に女王の恩赦がくだり、終身貴族に列せられ、年金が支払われる、という、突拍子もないハッピーエンドです。それ自体が、ご都合主義的台本への批判になっていて、観客は、なんでこうなるのか、と頭を捻らなければならない、ということになります。
観客を挑発するために、観客の大半が属している社会階級を批判してみたり、余韻を残して考えさせたり、といった仕掛けが、《三文オペラ》にも満ち溢れていて、観客はいちいち引っかかって、幕の後も、何かしら考えずにはいられなくなります。
しかし、これは、今では当たり前となっていることではないでしょうか。《夜叉ケ池》を観ても、《ナブッコ》を観ても、あるいは、《コジ・ファン・トゥッテ》を観ても、《マクベス》を観ても、幕の後何かを考えずに入られません。このウェブログ自体がそうした場でもあるので。
この、劇の後にあれやこれやと考える、という行為の源流もやはりブレヒトのオペラにあったということだと言えそうです。
編集後記
というか、今朝、この「音楽芸術」を本棚から取り出した時に、驚きましたよ。実は後半にびわ湖ホールについての若杉さんのインタビューが載っているのです。シンクロニシティ。
明日もすこし続けないと。では。
東京芸術劇場のサウンド──読売日響《アメリカン・プログラム》
ジメジメした一日ですが、今年導入したエアコンのお陰で自室で仕事ができて嬉しいかぎり。スタバに行かなくても済んでいます。
はじめに
今日も、朝からiTunesに入った《シンフォニック・ダンス》を聴いたり、全曲盤《ウェスト・サイド・ストーリー》を聴いたり。
右側のリンク、ホセ・カレーラスとキリ・テ・カナワのバージョンは、オリジナル編成です。エレキギターがカッコイイ。サウンドもキレがあります。
今日も、昨日の読売日響の《アメリカン・プログラム》の記憶を、さらにたどってみます。
《シンフォニック・ダンス》
ヒュー・ウルフのテンポは、私には中庸から少し遅め、という感覚でした。テンポを大袈裟に動かすことなく、インテンポに徹した演奏だったかと。これは、おそらくはジャズの文脈で捉えるとするなら妥当なものかと思います。 《シンフォニック・ダンス》のMamboのところで、弦にスイングを要求するところ、身体全体を使って
Mamboのところは、オケメンバーが"Mambo!!"と叫ぶんですが、ビオラの最前列のお二人が、身を乗り出して録音用マイクに向かって顔を真赤にして楽しそうに叫んでいたのも印象的。音楽やって楽しい、という感覚が伝わってきて胸が熱くなりました。
《ニュー・イングランドの3つの場所》
アイヴスの《ニュー・イングランドの3つの場所》は実に興味深いです。一曲目"The St. Gaudens in Boston Common"は静謐な音楽。武満の《弦楽のためのレクイエム》を思い出しながら聴きました。
二曲目の Putnum’s Campは、マーチング・バンドの音楽が、少しずつ改鋳されて、無調とポリリズムへと変容していくのが鮮やかで面白いです。さすがに読響メンバーも演奏が終わると汗を拭っていました。難しい曲です。
三曲目は"The Housatonic at Stockbridge"、最初はララバイ。フォスターか黒人霊歌のような旋律なのですが、これも徐々に形が崩れていき、無調とポリリズムという不安の高揚へと至ります。なんだろう、このペシミズムは。。
この曲、"American Tapestry"というアルバムで聞くことができます。
東京芸術劇場のサウンド
音響の評判が良くなかった印象の東京芸術劇場ですが、確かに少し不満はあるものの、総じて音響を楽しめました。
私が座っていた前列正面の音響が今ひとつなのは知っていましたが、これがどうして、今回のプログラムだとすごくハマります。繊細な弦楽器のニュアンスを聞き取れますし、遠くの方から金管群がリバーヴを伴って押し寄せてきます。ホールのリバーヴ感は少し効きすぎに思えましたが、元来リヴァーヴ感が好きなので問題ないです。ただ、リヴァーヴが高音域に偏って聞こえるのが気になる方がいるかもしれません。
個人的には、病みつきになりそうなサウンドです。
おまけ
昨日の《シンフォニック・ダンス》聴いて、無性に楽器が吹きたくなったので、家でこっそりサックスを吹きました。久々すぎるのですが、指は覚えているものです。多分、ですが、指を動かすこと、くわえて旋律を考えて即座に繰り出すこと、譜面を読むこと、を続ければ、脳が活性化する、はず。。
終わりに
明日は、初台で《三文オペラ》です。どんな舞台なのか、楽しみです。
失神寸前──読売日響《アメリカン・プログラム》
私の上司はメリハリのある勤務を実践しておられるので、私も真似をしようとしましたが、どうも馴れないことはするものではないようです。無理やり仕事終えて後ろ髪を引かれる思いで会社を出て池袋に向かいました。
私は、さる方の影響で、オケを最前列で聴くという悦楽に目覚めましたが、今回もやっぱり最前列。音に包まれて日頃の芥を流れ落としました。
読売日響 第2回読響メトロポリタン・シリーズ
- バーンスタイン:キャンディード序曲
- アイヴズ:ニュー・イングランドの3つの場所
- ガーシュイン:パリのアメリカ人
- バーンスタイン:シンフォニック・ダンス
指揮:ヒュー・ウルフ/読売日本交響楽団
2013年7月12日 19時 東京芸術劇場
アイヴスの曲は未聴でしたが、そのほかはいずれも見に染みこむぐらい聞いている曲なので、本当に楽しかったですよ。
特に後半のシンフォニック・ダンス。
実演は、20年ぐらいまえに、佐渡裕指揮のシエナ・ウインド・オーケストラで聴いたことありましたが、オケ版は初めてかもしれません。
っつうか、プロローグの最後のところ、ドラムがホイッスルを吹いた瞬間、頭に血が上りました。頭がすーっと、後ろにひっぱられるような感じ。これ、失神する瞬間なんだな、と思いました。よく、コンサートで失神するという話を聞きますが、そんなわけないだろ、と思ってましたが、どうやらそういうこともあるみたい。
明日に続きます。
BOSEクワイエットコンフォートイアパッド交換しました。
禁酒6日目。ますます疲れがひどくなります。やはり、アルコールがないと生きていけない体になってしまったのでしょうか。アルコールないのに、眠気がひどくて。。。単純に忙しいだけなのか。。
さて、私の愛用するBoseクワイエットコンフォート15ですが、イヤパッドが壊れました。大体2年から3年でダメになってしまいます。
まったく。だらしのないフォルム。
こちらが新品です。
実は、こういう技を使ってこの新品を手に入れました。2006年ごろ、クワイエットコンフォート2を購入しました。ですが、ヘッドフォン内の部品が外れてしまい、BOSEショップに持って行ったところ、追加料金で最新型のクワイエットコンフォート15に機種交換できることがわかりました。
で、このときの機種交換のときに、イヤパッドを外して持って帰ったのです(お店の人了承済みです)。交換でやって来た新しいクワイエットコンフォート15には新品ですのでもちろんイヤパッドがついています。というわけで、ストックをゲットしたのです。このイヤパッド、購入するとたしか6千円ぐらいするとう代物なので、随分助かりました。
というわけで、明日からはこちらで予習に勤しみます。
明日は赤坂に出張るか?? 仕事次第。