2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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昨日紹介した朝日新聞の長木さんの評ですが、やはり波紋を広げている模様。音楽批評は難しいです。

今回のオペラのリブレットは、作曲の香月さんと演出の岩田さんが作り上げたものです。私がある種の衝撃を受けた「もう沢山でございます」といった部分は原作にはないはずで、そうしたオペラ化にあたっての、原テキストの取り上げ方などは、もっと評価してもいいのかなあ、などと思います。

それから、音楽的要素だけで、同時代をえぐれるのでしょうか。音楽社会学の議論ですかね、これは。私の中期的なテーマです。

あとは、オペラにおける音楽の占める位置についても考えさせられます。オペラは紛れもなく音楽の一ジャンルとされていて、音楽が主役なわけです。ですが、私自身がオペラを観ている時にどこに注意を向けているか反省してみると、どうも劇のほうを向いているようです。

それは、音楽を軽視しているのではなく、音楽に支えられているということではないか、とおもいます。音楽は重要だが、音楽が目立ってはいけない、という禅問答のような状況。

このことは、ペーター・シュナイダーが新国立劇場で振った《ばらの騎士》についてあとから考えた時に気づいたことです。

 

香月さん、29日の公演にもいらしていました。休憩中は、サインに気さくに応じておられました。私もいただけばよかったと少し後悔しています。

それから、カーテンコールにも登場され、警官役の加茂下稔さんに敬礼したり、蟹五郎役の大久保さんの前でカニのポーズをされたり、なんだかひょうきんなお人柄を感じました。

 

今日は夜勤ですので、夜更かし&寝坊です。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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本日の朝日新聞夕刊に長木誠司さんによる《夜叉ケ池》の批評がでていましたね。

結構いろいろ書いてあって、うーん、という感じ。音楽学者の長木さんですので、かなうわけはないのですが……。

どんなことをおっしゃっているか、というと、

  • ドビュッシーかラベルどまりの120年ほど前の仏オペラ風スタイルを、べったり貼りつけた音楽で彩られる。
  • 同時代への深い読みがそこに提示されていない。

といったところがポイントでしょうか。

「同時代的ではない」、という点が一番気になります。同時代という言葉は、アクチュアルという言葉であり、現代的、現実的、という言葉に置き換えることができるでしょう。もう少し引用してみると。

日本の現代オペラが外へ発信していけないのは、旋律が親しみにくいからというような単純な理由ではない。同時代への深い読みがそこに提示されていないからだ。

とあることから、音楽的に現代への「洞察」が必要とあります。

ここでいう同時代性というものが、音楽に向けられているとしたら、私が感じた「あ、これはドビュッシーだ」と、思ったというところなのでしょう。オリジナリティの問題?

ただ、そもそも音楽的な部分で、現代的な洞察というものができるのでしょうか、という疑問があります。

私が音楽的最先端を知らないから、あるいは音楽的側面で「現代への洞察」というものが何なのかを理解できていないからなのかもしれませんが、音楽面で、ある程度公衆へ開かれたものを作るとなると、こうならざるをえない、と思ってしまいます。

もしかすると、ベルク《ヴォツェック》やツィンマーマン《軍人たち》といった(当時の)先端オペラと同程度あるいはそれ以上を長木さんは想定しておられるということでしょうか。私が文脈を読めていないのでしょうけれど。

※※※

さて、一連の記事の中で、このオペラに、震災に関連した現代の状況を読み取ったとかきましたが、それは、演出の仕事だったのかもしれません。音楽とリブレットだけではこの読みは難しいはずで、最後に破壊された釣鐘がその姿を顕にする場面での直感でしたので、画像を伴ったものであるはずです。

もしかすると、私はこのオペラをこう見ていたのかもしれません。

「このオペラは何十年も前に作曲されたもので、それを改めて今日のような演出で観ている。今回の演出は2011年3月以降の日本にとってアクチュアルなものである」

つまり、演出の作品解釈を味わっているだけに過ぎず、音楽は世界初演というより、すでに発表済みの音楽として聞いていただけではなかったか、と。そう考えることが、長木さんの意図なのかもしれない、と思いました。

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今日から2013年も後半です。今年の夏は涼しいですね。猛暑に備えて、安物エアコンを自室に取り付けたのですが、活躍の機会がほとんどありません。せっかく買ったのに。

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昨日は東風が強くて、新国立劇場玄関横の水庭が波立っていました。波面が輝きなんとも美しい風情です。
昨日に引き続き《夜叉ケ池》のことを。
もう一度原作を読んでみて、オペラ化において強調されていたことはなんだろう、と思いました。
生贄のくだり。原作では命は取らないとされていますが、オペラにおいてはその部分が曖昧にされていたような。私の聞き落としかもしれませんが、もしそうだとすると切迫感はオペラにあり、原作の方が逡巡感があります。ですが、その後の百合の自殺との整合性はオペラのほうがしっくりきます。
あとは、自殺の場面です。オペラでは、髪を振りほどき、「もう沢山でございます!」と言って自死しますが、原作では、「もう沢山」、とは言わず、「みなさん、私が死にます」といって、死に至ります。
この場面は、オペラですとますます、世の馬鹿馬鹿しさとか、男性原理への辟易なんでしょうね。もう勝手にしてくれ、みたいなニュアンスが強まります。
思うに「世の中のことは全て間違っている」わけで、清濁併せ呑むぐらいでないと生きていけないのが現代ですが、追い込まれれば衝動的に百合のように「実力行使」を迫られることになるのでしょう。あるいは、舞台上の百合が我々の代わりに「実力行使」をしてくれたというべきでしょうか。百合の死を我々観客は自分のこととして受け止め、劇場空間で死に至り、劇場をでて生まれ変わるということなのでしょうか。
どうにも、最近オペラ演出の解釈において、男性原理批判的な解釈に思い至ることが多くなりました。おそらくは、先日ペーター・コンヴィチュニー演出の《マクベス》を観たり、森岡実穂さんの「オペラハウスから世界を見る」を読んだからかも。

この本、とてもおもしろいのです。またあらためて書きますけれど。

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新国立劇場にて、香月修「夜叉ケ池」を観て参りました。
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あらすじなどは、あえて書きませんがいくつか感想を。

音楽のこと

今回のプロダクションが初演となりますので、音楽的な予習はできず。ですが、予習なしでも当然楽しく感動的な2時間半でした。
オケがなり始めた途端に、フランス的な洗練された響きを感じました。登場人物の一人である百合のライトモティーフとおもわれるオーボエの旋律の美しさ、それから子守唄の美しさは素晴らしいものでした。子守唄は忘れられるものではありません。
今回、どうも中劇場の音響が随分デッドに感じられました。響きがない感じで、和音の響きが劇場内の隅々まで浸透仕切れていないように感じました。中劇場で聴くのは5回目ほどでしたが、こうした気付きを得たのは初めてでした。私が変わってきたのだと思います。あるいは、演奏が影響してそうした気付きにつながったのか。今はまだ整理がつきません。

演出について

今回の演出解釈ですが、気づいた点がいくつかあったので書いておきます。
物語のポイントの一つとなる釣鐘や、晃が来ている上着、舞台の両脇にそびえる木の柱には、荒々しい唐草模様が刻まれています。この模様が、私には縄文土器の模様であったり、アイヌ系の衣装の文様に似ていると思えたのです。
縄文時代から綿々と受け継がれている釣鐘であったり上着であったり、と考えると、竜神との契約は2000年以上前までに遡る事のできる契約であったのか、と思わされました。
それだけ長い間の契約であったにもかかわらず、それを破ってしまった人間は、最後には濁流に飲まれて滅びてしまいます。残されたのは真っ暗の茫漠たる巨大な空間だけでした。
このメタファー、どうにも福島を思い出さずに入られなかったのです。特に、最後の最後で、破壊された釣鐘が闇の中から浮かび上がってくるとき、人間の叡智だったはずの機構が破壊されてしまったという事実を思い出さずにいられません。それがどうにもあの破壊された建屋の映像とオーバーラップしてしまうのです。
地震の原因が何かは知りませんし、自然との契約を破ったこともないはず。あるいは自然との契約などしていないはず。ですが、なにか自然に後ろめたさを感じてしまう。だからこんなことを思いついてしまうんでしょうね。時代が時代ですので、そうした読み方もおそらく許されるでしょう。
本日はこの辺りで。
あ、今日、意外な所で素晴らしい絵を観てしまいました。油断なく目配りしないとなあ。
では。

Jazz

今日は久々にジャズを聞きました。というのも、Invitation(ジャコの)の鼻歌を歌っていたら、かみさんに「古畑の曲でしょ?」と勘違いされましたので。以下の原典を聴いて頂きました。

次にこちらをかみさんに紹介。Young & Fineを STEPSで。この曲を飲み屋でみんなで歌ったんだよ、という思い出話とともに。

次に、マイケル・ブレッカー、アーニー・ワッツ、ビル・エヴァンス、スタンリー・タレンタインのサックスの聴き比べを少々辛口トークでかみさんにご紹介。やはり、マイケル・ブレッカーのテクニックはこうして聞き比べると理解が容易です。スタンリー・タレンタインもリズムは外しません。アーニ・ワッツは指回しは速いですが、若干の乱れを感じます。リリカルなんですけれど。ビル・エヴァンスは……。

で、なんと、このサクソフォーン・ワークショップの貴重な映像が。私は初めて見ました。いまから24年前の映像です。当時日テレで放送されたんですね。知りませんでした。

つうか、なんか、サックスの四人の微妙な緊張関係が見て取れて少し新鮮です。スタンリー・タレンタインのソロを止めるアーニー・ワッツ、怖い。ビル・エヴァンスのソロを途中で遮る黒い手はタレンタイン? 早く俺にやらせろ、って言っているのか? などと、詮索してしまいます。ファッションも80年台で、懐かしい限りです。
明日は夜叉ケ池です。

Tsuji Kunio

昨日とりあげた「樹の声海の声」の主人公の名前は咲耶といいますが、「夏の海の色」に登場する女性の名前も咲耶でした。今気づきました。なんで気づかなかったのか。
「夏の海の色」は、100の短篇からなる「ある生涯の7つの場所」シリーズに収められている短篇です。夏の城下町で過ごす主人公と、夫と別れ、子にも先立たれた若い女との交流が描かれています。その若い女の名前が咲耶です。
セミが鳴きしきる、日の当たる夏の城下町は、私にとって夏の原風景のようなものになりました。そんな城下町に実際に行ったことはありませんが、この本の印象が強すぎて、イメージが出来上がってしまっています。
ちなみに、この「夏の海の色」に登場する海辺の街は、私の想像では湯河原だと思います。辻邦生は戦争当時湯河原に疎開しています。この物語に、いかのような箇所があります。


そうした夜、寝床から這い出して窓から外を覗くと、月が暗い海上に上っていて、並が銀色に輝き、本堂の裏手の松林の影が、黒く月光のなかに浮び上がるのが見えた。

私は、湯河原でこの風景と同じ風景を観たことがあるのです。白く輝く月光が黒黒とした太平洋上に燦と輝き、大洋のうねりが月の光を揺らめくように映し出していました。
きっと同じ場所で観たに違いない、そう思ってしまうのでした。
あすで仕事は終わり。でも週末も仕事があります。

Tsuji Kunio

弘さんの友達は、みんな有名になっている。志賀も田村も有島も木下も武者も……。いまじゃ彼らのことを誰一人知らない人はいない。弘さんだって生きていれば、必ずいい仕事をした人だ。たった十年、十一年──その歳月の差が、これだけの違いをつくるんだな

樹の声海の声3 239ページ
いや、本当にそうです。どれだけ生きてどれだけ続けたかが大事です。執念で生き延びることが最も大事。
辻邦生が、江藤淳の自殺を厳しく批判したというエピソードが佐保子夫人の回想に出てきます。生への飽くなき欲求は辻文学の特徴の一つです。死への憧憬といたテーマはほとんど出て来ません。
ただ、不思議なことに、短編においてはかならず「死」が出てくるように感じたことがあります。当初はそれが辻文学の特徴かと思っていました。ですが、今から思えば「死」が裏返しになって「生」の重要性を裏打ちしているのだ、と思うのです。
「ランデルスにて」で死んだ女性、「ある秋の朝」で死へと疾走する脱獄囚、「夜」で交通事故にあってなお恋人のもとへ歩こうとしたアンナ、などなど。。
まずは生きること。生きて成し遂げることなんでしょうね。
「樹の声海の声」は、大学受験のために東京に来た時に、神保町の三省堂で全巻一気買いをして、受験終了後読みふけりました。もう20年ほど前にもなります。あの頃の読書体験は本当に宝物です。
樹の声 海の声 (3 第2部 上) (朝日文庫)

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この写真も、先日の旅行にて。窓からとっさに撮りました。本当はもっと違う構図にしたかったのですが、おじゃま虫が登場して、思ったようにはならず。この構図の方が(言葉は変ですが)、人生を表すのかも。
本来写真は説明してはいけないはずで、フォトコンなどで題名をつけるのも、いかがなものか、と思います。そういう意味では私はブラームス=ハンスリック派的ですね。
違う見方もあるんでしょうけれど。

Tsuji Kunio

 
起こりもしないことを思いわずらわぬこと。何か起こったら、その時それにぶつかればいい。結果を思わぬこと──それが行動のこつだ。

 
雲の宴
確か、樹の声海の声の主人公朔耶の母親も似たようなことを言っていましたね。さしあたり、まだ良くわからないことについては、最善のシナリオを考えておけばいい。思い悩むのは、事が起きてから、といった感じだったと思います。
なかなかその境地にまでは達せませんし、さすがに最悪のシナリオを考えないとビジネスが成り立ちませんが、そうあれれば幸せだと思います。
明日は出張。

Opera

METライブ・ビューイングのアンコール上演がこの夏開催されるようです。ワーグナーとヴェルディの作品を中心に8月10日から9月27日までの一ヶ月半です。
ただ、上映されるのは、東銀座の東劇のみです。
http://met-live.blogspot.jp/2013/05/met-2013.html#more
http://www.shochiku.co.jp/met/opera_pdf/ancore2013.pdf
上演スケジュールは以下のとおり。上述のPDFからキャプチャしました。圧巻です。
2013 06 23 19 25 のイメージ
1演目3000円で、長時間ものは4500円から。休みの日に入り浸るといいかも。
個人的には、今年の4月「パルジファル」を観たかったのですが、仕事などでどうしても都合がつかなくて断念しましたので、今回のアンコールを活用しようと思っています。
あとは、「ドン・カルロ」や「トロイアの人々」など、日本では見られない演目をチェックですね。
東劇は会社から遠くないので、夜の演目なら、定時に上がれば間に合います。なんとかやりくりしてなんとかチャレンジしたいものです。