「新国立劇場2009/2010シーズンを振り返る」は、参考資料読んだりしないと、というところで、まとまった時間が取れる週末でないとかけないことが分かりました。ちょっとお待ちを。
変わりに、今日起きた突然の変化を。
昼休み、廊下を歩いていたときのこと。
いきなり、マーラーの「復活」の第一楽章のフレーズが頭の中に浮かんできたのでした。これには驚いた。軍楽隊の演奏のように、僕が歩くそばから、耳元で「復活」第一楽章を誰かが聴かせてくれている。そんな感じ。
これは、突然のことで、本当に驚きました。なぜ、今マーラーなのか?
実を言うと、マーラーはこの2年ほどほとんど聞いておりません。二人のリヒャルトにくびったけでしたので。つまり、ワーグナーとリヒャルト・シュトラウス。
でも、クラシックを聴きはじめて数年経ったころ、マーラーに開眼したのがこの「復活」でした。小澤征爾が「復活」を振った映像に感涙して、ラジオでバーンスタインの「復活」をエアチェックし、さらに感涙。
けれども、この長大な交響曲をカセットテープに録音するのはきわめて難しかったのです。片面60分が限度の時代でした。どうしてもひっくり返さなければならなかったので、マーラーの交響曲をエアチェックするのはきわめて難しかったです。オートリバースなんていう機能もありましたが、テープ冒頭の非磁部分の音切れも気になりましたし。
その頃から高校の半ばまではマーラーばかり。でも、決まった演奏ばっかりでしたが。ショルティの「復活」、マズアの「悲劇的」、ショルティの「一千人の交響曲」、メータの「巨人」など。高校時代はお金なくて、CDなんて買えなかったし、昼ご飯代を削って、アルトサックスを買うので一杯一杯でしたから。
で、今日改めて、バーンスタインのマーラー「復活」を聴いてみるのですが、これも、先だって「トリスタンとイゾルデ」の回で書いたようにバーンスタイン的テンポ取り。絞れるところまで絞りきろうという、執念のリタルダンド。低速ギアの極致とでも言いましょうか。でもチェリビダッケ的な遅さじゃないんですよね。ギアチェンジは頻繁にしますので。
私が聴いている音源は、DVDでして、1973年にロンドン交響楽団を振った演奏。録音はこちらも中低音が充実した感じです。
なんだか、最近、ちと夜型傾向。朝の早起きはなくなりつつあります。その方が体調がいいということみたいですけれど。明日も思いっきり働きましょう。本も読みましょう。あ、「沈まぬ太陽」第四巻も読み終わりました。明日は辻邦生を読もうと画策中。辻邦生も私の中で復活させないと。プルーストもですが。あー、時間足りない。でも充実化宣言。
バーンスタインの「復活」!
週末のほうが忙しいのではないか?──「ワーグナー」作曲家◎人と作品シリーズ
平日は、黙々と働き、休日も黙々とタスクをこなす。休む間もなく。まあ、身から出た錆ですので仕方がありません。何はともあれ音楽があることと、こうして何かを書くプラットフォームが存在するだけでもありがたいと思います。
2009年/2010年シーズンも無事に終わりました。しばらくオペラ観劇はお休みですが、7月の予定をざっくりと。
ちょっと、書かねばならない文書がありますので、それを月内に終わらせる。そのためには、毎週5枚のレポートを書かねば間に合わない。それから、会社のeラーニングをやること。これも一週間に3レッスン終わらせないと、100レッスン終わらず、受講料が天引きされてしまう。7月は忙しい。暑いし。
7月末はバイロイトですね。
“http://www.bayreuther-festspiele.de/":http://www.bayreuther-festspiele.de/
「リング」は、昨年に引き続きティーレマンが振ります。「パルジファル」もガッティが再び。「トリスタン」はお休みのようです。今年はシュナイダーが出ないのが残念。こちらもウェブラジオでエアチェックする予定。昨年は「リング」も「パルジファル」も録音失敗していますので、今年こそはなんとか成功させねばなりません。なかなか難しいのですが、がんばりましょう。
今、音楽之友社「作曲家・人と作品シリーズ ワーグナー」を読んでいますが、うーむ、面白い。新潮文庫版のワーグナーの伝記を数年前に読みましたが、この本のほうが充実している気がします。
それは、とりもなおさず、私のワーグナー視聴量が増えたからにほかなりません。この本の特徴はワーグナーの死で終わらないところ。ワーグナー死後、現代に至るまでのバイロイト音楽祭の状況を簡潔にまとめているので、ワーグナー演奏の通史的理解を得るには実に都合のよい本で、お勧めです。
ただ、私のワーグナー歴はまだまだ浅い。読むべき本もたくさんある。聞くべき音源も無限大に存在する。一生のうちに全部読んだり聞いたりできないかもしれませんが。
っつうか、辻邦生も読みたい。でも、今は「沈まぬ太陽」の第四巻を広げてしまったので、ちょっとお預け。辻邦生の本は常に携帯することにしましょう。折に触れて読み返すと、元気が出ること間違いありません。
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」も!
吉田秀和先生「オペラ・ノート」で、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」が絶賛されていました。幸い、私もバーンスタイン盤の音源を持っていましたので、昨日の帰宅時間より聞き始めたのですが、さすがバーンスタインです。
二日かけて全曲聴きましたが、一幕聞いただけで本当に心が揺り動かされてしまいました。
バーンスタイン的な、きわめて慎重に事を運び、しかも最大限スケールやダイナミクスを導入するという、壮大気宇な演奏です。
ペーター・シュナイダーの演奏は、透き通った膜の向こう側に構築美が立ち現れるという演奏でしたが、バーンスタインの場合、ほとんど主観とか客観とか分かれない、純粋経験的境地、というぐらい心技一体の演奏に思えます。
情感たっぷりなんですが、だからといってベッタリとした甘っちょろいものではなく、深く広がる情感の池に徐々に身がゆっくりと浸っていくようなイメージです。
一般的にはバーンスタインのテンポどりは遅いほうだと思いますが、そういう意味でもこの録音はバーンスタイン的です。
あとは、録音がいいんですよ。中低音域に軸足のある、たっぷりとした音でして、聞いたとたんに没入度120%というぐらい、ほかのことが気にならなくなるぐらい。押しが強い音というわけではなく、ぐいぐいと引き込まれていく音です。
演奏はバイエルン放送交響楽団、トリスタンはペーター・ホフマン、イゾルデはヒルデガルド・ベーレンス。べーレンス、巧いです。絶妙なピッチコントロールと安定した声質。ペーター・ホフマンはちょっとべーレンスに圧倒され気味かも。
やっぱり、ヴァーグナーを聞くと、安心します。安心できる場所にとどまることは、保守をイメージさせますが、私の場合、安心できる場所だが知らない場所ですので、どんどんそこを掘り下げていくことが必要かと考えています。
2010年6月に読んだ本
6月に読んだ本、まとめたところ、8冊読めていました。先月と異なり、ストーリーものをたくさん読めましたので、個人的には満足。7月はもっと読みたいですねえ。
最大のおすすめは、ローラ・リン・ドラモンドの「あなたに不利な証拠として」でしょう。ハヤカワ・ミステリに収録ですが、文学的価値も極めて高い名著だと思います。おそらく駒月雅子さんの日本語訳も原作とあいまってすばらしいのだと思います。結構勇気が湧く本です。
吉田秀和氏の「オペラ・ノート」も印象的。後で書きますが、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」を再聴するきっかけを作ってくれました。
なにげに「沈まぬ太陽」も前五冊中三冊読み終わっていますが、いろいろ複雑な心境。残り二冊も楽しみ。
プルーストの思い出──吉田秀和「オペラノート」 その2
いよいよ7月です。今年も後半。前半に積み重ねたものを発露させたいと思っています。本も読んだし、オペラをはじめ音楽も浴びるように聴きましたし。
吉田秀和の「オペラ・ノート」を引き続き読んでいます。二重引用で申し訳ないのですが、吉田先生は、プルーストの「花咲く乙女たちのかげに」のなかからこんなエピソードを紹介しています。主人公の「私」は文学者になりたいのだが、父親は外交官になることを望んでいる。だが、父親はこういって、主人公の志望を認める。
「あの子ももう子供じゃない。今まで自分の好みを知ってきたし、人生で何が自分を幸福にするかも分かっている。それは今後とも変るまい」
それに対して、主人公の「私」はこういう疑念を持つ。
「実は人生はもう始まっていたのであり、これからくるものもこれまでと大して変らないのではないか」
人生は、どこからか始まるわけではなく、昨日やり、今日やっていることの中にあり、それが人生そのものなのである、という認識。。
147ページ近辺から引用。ここが一番グッと来ました。いつとは言いませんが、私もこういう思いにとらわれ、名状しがたい悲しみにうち沈んだことがありましたので。私の場合、さらに人生のむなしさまでをも感じてしまった。その先は、もしかしたら俳諧の世界か、禅の世界にでも進んだほうがよかったのかもしれませんが、幸い(?)にも、社会に身をとどめて、サラリーパーソンをやっておりますが。
しかし、吉田さんはプルーストもちゃんと読んでいるんですよ。私はおはずかしながら、「ソドムとゴモラ」で止まっていて、早く再開しないといけないんですが、吉田先生は鈴木道彦の新訳全集の月報に解説も書いておられましたから。たしか「ゲルマントの方へ」だったと思いますが。
プルーストも読まんといかんのですが、何を血迷ったか、単行本版で全冊そろえてしまいまして、その後文庫版が出ていることに気づき、落ち込んだ記憶がありました。でも、単行本版の装丁の美しさは絶品ですからね。
6,7年前に集中的に読んでいたみたい。以下が、当時の記録。さすがに時間が経ちすぎている。私はここに宣言する。プルーストをもう一度再開します。プルーストを読まずに死ねるか! と。
“http://shuk.s6.coreserver.jp/MS/proust/":http://shuk.s6.coreserver.jp/MS/proust/
でも読みたい本はたくさんあるんだよなあ。会社サボって図書館にこもりたい稚拙な欲求。もう時間はない。
ちょっと話題がそれました。
この「オペラ・ノート」では、吉田先生が実際にオペラに言っていらしたレポートは面白いですが、CDを批評する段になるとちょっと筆が鈍るように思える。でも、それは吉田先生の筆が鈍ったのではなく、ビジュアルな要素に対しての言及が少なくなっているから。つまり、私はオペラにおいては、音楽的な部分に勝るとも劣らず演出面などのビジュアルな要素に大きな関心を抱いている、ということ。
それから、私自身の反省点として、モーツァルトやヴェルディ以前のイタリアオペラの聞き込みが足らないということ。でも、ちょっと肌が合わない感じなのですよ。やっぱり、ヴァーグナー、シュトラウス、プッチーニを聞くと、気が落ち着くし、懐かしい我が家に帰ってきた気分になります。
あ、新国のこけら落とし公演「建TAKERU」の批評は強烈でした。あそこまで書いちゃうんだけれど、吉田先生が書くのなら仕方ない。真実は常に残酷です。
記念日──吉田秀和「オペラノート」
今日は、とある記念日でしたので、仕事をハイスピードで終えて、家族で近所の街のレストランで食事を。なかなか良い気分で食事ができました。幸い私の自宅近辺では大雨に見舞われることもなく、ぬれずに帰宅できました。
最近の通勤時間はなかなか楽しくて、今週に入ってから「沈まぬ太陽」御巣鷹篇をあっという間に読み終えて、吉田秀和氏の「オペラ・ノート」を。
さすが、吉田秀和先生。本当に天才的ですね。中原中也と友達だったとか、桐朋学園を設立したとか、文化勲章をもらっているとか、伝説的な事績に触れるごとに、この方を超える音楽批評をできる方はそうそういらっしゃらないのではないかという思いを新たにします。
この本、まだ半分ほど読んだところです。冒頭に「利口な女狐の物語」を取り上げるという変化球に圧倒されて、それから私の大好きな「ばらの騎士」の考察、それから、ワーグナーのリングを取り上げる。バイロイトにおけるパトリス・シェローの演出を様々な角度から考察していらして面白いです。「ラインの黄金」で巨人が登場するところ、リアリズム的に本当に大きな巨人が出現して、思わず笑ってしまったとか。ヴィーラント・ワーグナーの新バイロイト様式に慣れた目には、シェローのある種リアルな演出が突飛に思えたというところでしょうか。
シェローの映像は、私も持っていますが、リングともなると惰弱な精神力では観ることは能いません。ちゃんと劇場にいって、5時間みっちり缶詰にされないとなかなか観ることができないというところ。これを、トーマス・マンは幸福な孤独と言っていたはずですが、私も同感です。
どうやら、前半が終わったようですが、得点は入っていないようです。これから眠るか、起きているか、ちと迷う。
新国立劇場:池辺晋一郎「鹿鳴館」
今日は本当に湿っぽい一日でした。もう夏です。昨年の今頃は屋久島に行っていたなあ、なんて。
早速、本日見てきた池辺先生の「鹿鳴館」のことを。
中劇場といういつもより小降りの箱で、凄く一体感のあるパフォーマンスでした。
男の論理と女の論理
この作品、影山伯爵と伯爵夫人朝子の対立軸が一つのポイントとなっていると思います。すべて憎悪が政治を動かすのである、という極めて現実主義的権力主義的影山と、我が子を守ろうとする朝子が知らず知らずのうちに対決しているという構図。最後はもちろん朝子は敗れ去ります。影山には何らの傷もつかない。朝子は、影山と別れて、影山の政敵である清原の元へ向かうことを示唆しますが、劇の最終部の銃声で、清原の死が暗示されています。男の論理の完全勝利。
だが、どうにもこれには釈然としないのです。本当に影山は完全勝利を得たのか? やはり朝子を失ったことは疵ではないのか? 影山は、朝子と清原に関係があったことを知って、嫉妬があると吐露しますが、影山が感情らしいところを出したのはあの場面だけ。あとは、淡々と政敵を追い詰め、さらには嫉妬を覚えた清原や久雄を始末するという結末。勝利はしたけれど、おそらくはむなしさも覚えていているのではないか、とも思えます。どうしようとも朝子との関係修復は無理でしょうから。
けれども、男の論理ではそんなことはどうでもいいのかもしれません。けれど、なぜか悔しさを覚える。朝子の敗戦が気の毒に思えるからなのか。
演奏について
歌手の方々で言うと、影山夫妻を歌ったお二方が大変素晴らしかったです。ソプラノの腰越満美さんの朝子は、実に気品溢れる演技で、歌の方もピッチの狂いも感じられず、特に伸びやかな高音域は素晴らしかったです。そうか、イタリアに留学された方でしたか。この方、実は「ばらの騎士」の元帥夫人とか、「カプリッチョ」の伯爵夫人を歌えるフレミングタイプのソプラノの方ではないか、と思いました。
影山伯爵の与那城敬さんも素晴らしかった。落ち着き払った演技で、巧かったですし、歌唱も善かった。
で、思ったのですが、やはり、日本語の歌詞を日本人が歌われると実にしっくり来るのですよ。ごくたまに感じる物足りなさなんて微塵もない。やっぱり日本語の歌詞は日本人のためにあるのだなあ、と。なんだか偏狭なナショナリスト的言動ですが、正直な感想です。ドイツ人のネイティブスピーカーがドイツ語を歌う日本人を聴いてどう感じているのか、ちょっと分かった気がします。
音楽は、もうなんというか、いろいろな要素がミクスチャされたもの。調性はめまぐるしく変わりますし、鹿鳴館の舞踏シーンのシニカルな音楽は、鵜山仁さんの、これまたシニックな演出と相まって、鹿鳴館時代の日本の一生懸命さを皮肉っぽく表現していました。
今の日本のオペラも、鹿鳴館時代と同じなのかもしれない。そうした批判意識があるのでは、とも深読みしてしまいました。
それから、飛田をセリフなしにしたのは第正解。怪しさ満点で、政治の裏でなされているダーティーな仕事を示唆していて効果的でした。飛猿みたい。
まとめ
実に刺激的な一日。三島の文学と、池辺さんの音楽に、鵜山さんの演出が混ざり合って一つの大きな価値が生み出された瞬間に立ち会えたという幸福な一日でした。
カーテンコールの最後、舞台奥に故若杉弘さんの写真が映し出されました。カーテンコールを受けていた演奏者や池辺さんも後ろを振り返って、若杉さんの遺影に拍手を送りました。
これで、若杉さんが企画した2009年/2010年シーズンは終了です。明日はちょっと今シーズンを振り返ってみたいと思います。
明日の「鹿鳴館」、準備OK──三島由紀夫「鹿鳴館」
三島の戯曲「鹿鳴館」を読み終えました。明日の池辺晋一郎「鹿鳴館」にちゃんと間に合いました。
さすが三島です。織り成す人間関係の複雑さをきちんと理解させ、なおも二重三重にもロジックを絡み合わせるあたりは本当に素晴らしい。解釈多様性を持ち、謎を謎のまま飾り付けるやり方も見事。
夫婦の愛憎、親子の愛憎、社会階層間の憎悪、様々な対立軸が提示していくやりかた。文学の一つの大きな使命は、対立軸を鮮明に浮き上がらせるというものがあるでしょうから。
男らしい影山男爵は、男性のシンボルに他ならない。朝子の描き方が随分冷徹で、三島は影山に花を持たせているように思えます。最後の部分で、誰かが殺されるという暗示が示されていて、それが朝子が拠り所にする人物であることを想像しますが、真実は誰にもわかりますまい。
これを明日オペラで見ることができるのは幸せ。感謝しないと。どんな刺激的な体験が待っているんだろう? 詳細は明日の新国立劇場で明らかになるはず。
ローリー・リン・ドラモンド『あなたに不利な証拠として』
今朝は四時半に目を覚ましました。あわててテレビをつけるのだが、メガネをかけていないので、点数がよく見えません。目を瞬いてとっくりとみると、あれれ、勝っているじゃないですか! 後半始まったばかり。まだわからないけれど、2点差。すごいなあ。
というわけで、少し早めの朝食をとりながら、日本の勝利を鑑賞しました。次はパラグアイですか。がんばって欲しい。
あなたに不利な証拠としてを読もう
で、先日から読んでいる「あなたに不利な証拠として」のことを。この本は、都心で売っているBig Issueの書評で紹介されていたもの。うちの奥さんが読んでみたら、と薦めてくれたので、早速入手してみたんですが、いやあ、すごいですわ。ここまでの強靭な粘りを持った小説家に出会ったのは久しぶりです。
著者横顔
著者はローリー・リン・ドラモンド。名前だけでは、一瞬、男性か女性かわからない。ローリーとくれば、ローリーですからね。でもミドルネームのリンは女性の名前であることに気づく。だが、この方の経歴がすごい。女性でありながら制服警官として5年間勤務し、30歳で交通事故にあって辞職し、ルイジアナ州立大学で英語の学士号とクリエイティブ・ライティングの修士号を取得した。現在は大学で教鞭をとりながら親筆活動を続けている。
構成と内容
この本、キャサリン、リズ、モナ、キャシー、サラという5人の女性をめぐるオムニバス形式の中短編。やっぱり、女性作家はすごい。ひれ伏すのみ。
たとえば、執拗なまでの完璧な描写を無限大に繰り出してくるし、難しいはずの「匂い」の描写を数ページにわたって粘り強く、執拗といってもいいかもしれないけれど、とにかく気迫に満ちた描写力に心を強く打たれました。
描かれているのは、女性警官たちをめぐる勤務の日常なのですが、われわれサラリーマンのように定型化された仕事などはなく、常に死と隣り合わせの世界。警察官の死亡率は交通事故が一番高いという意外な事実も。
緊迫感のある犯人との対峙シーンも読み応え抜群で、これは現役警官か、現役警官をきちんと取材した人でないとかけないだろう、と思わされてしまう。
一番心に残るのは冒頭のキャサリンだと思う。優秀な警官で、伝説の女性で、そして最後はやっぱり……。心打たれるものがある。
心の和む描写、そして開かれた謎
描写が凄い、と書きましたが、特に、ところどころに織り込まれる自然描写が美しくて、ラヴリー。私はアメリカに行ったことがないのですが、映画で見るアメリカの中流階級の住む住宅街の風情なんかが直接伝わってくる。たとえば、枯葉が風に吹かれて乾いた音を立てているシーンとか、葉の色が黄色になった広葉樹が重い枝を街路にたれていたり、リスが時折現れたり、とか。描写力は絶品で、これはもうなかなかまねできないと思う。かなり鍛練を積んだんだろうなあ。
それから、事態についての説明はあまりなされない。原因究明も。それは以前も言ったように謎のまま温存してある。だから、読者は、開かれた物語世界の真ん中に放り出されて、どこに行くのも自由。それを許す包容力がこの本にはあるのです。
緻密な描写、説明をしない奥ゆかしさ。
そうかあ、ここまで書かねばならんのかあ、とかなり勇気付けられた感じ。
だから本読みはやめられません。
女性作家万歳!
しかし、最近気づいたんですが、やっぱり女性作家さんの小説が好きかもしれない。まあ、いろいろ芸風はあるでしょうけれど。私が感銘を受けた女性作家といえば。。。
* 塩野七生
* 永井路子
* 篠田 節子
* 岡本かの子
* リンドグレーン
* アニタ・ブルックナー
* 澤田ふじ子
* ジュンパ・ラヒリ
加えて、辻邦生師の作品は女性的甘美さや緻密さを湛えているし、マルセル・プルーストだって、いろんな意味で女性的なものをもっていますので。そういうくくりでは辻邦生師もプルーストも女性的だといえるのでは、と勝手に思い込んでいます。
マッチョなデ・グリューを聴こう──マノン・レスコーな思い出 その2
さて、今朝は「マノン・レスコー」をテバルディとデル・モナコのバージョンで聞いたんですが、デ・グリューを歌うモナコが格好良すぎて、なんだか、勇敢なるデ・グリューになっていました。ドミンゴのように甘さを加えると、まだ青い未熟な青年的な微妙な甘え具合が出るんですけれど、オテロやカラフを歌わせたトランペットの声で、デ・グリューというのはちょっとモナコにしてみれば役が足りないのかもしれません。このマッチョな男らしい歌には、凱旋帰還するオテロの姿思い浮かんでしまう。なーんて、えらそうなことを言ってますが、「マノン・レスコー」は本当に素敵なオペラ。
テバルディもすごくいいですよ。伸びがあってピッチの微妙な傷も気にならない。特に高音域の伸びは絶品です。ああ、これをお昼休みに聞ける幸せ。 iPodラヴ。
あ、もうひとつちょっと由々しき思い出。私が「マノン・レスコー」をはじめてみたのは実はBS2で10年以上前に放送されたグラインドボーン音楽祭の映像でした。たしか、なぜかジョン・エリオット・ガーディナーが指揮をしていたはず。
しかしながら、この音源だけは理解することができなかったです。やはり、VHSビデオで録画したものだったので、音質も画質もきわめて悪い状態で音楽の美しさを掬い取ることができませんでした。
あとは、これは今だから言える想像ですが、古楽派のガーディナーがプッチーニを振るという違和感のなせる事象なのではなかった、とも。演出はグラハム・ヴィックで、彼の演出である同じくグラインドボーンの「ルル」がすばらしかっただけに、ちょっと残念な思いもしました。
あのときに、環境が整っていれば、今はもっとオペラを聞けていたはず。私はこの「マノン・レスコー」の映像をみて、オペラを一度あきらめたんですから。代わりにブラームスの室内楽の世界やブルックナーの敬虔で激しい交響曲群を惑溺するようになったんです。
やはり、出会いというものは重要です。早くても遅くても巧くいかない。まあ、そういう糸の通し違いが人生を面白くしているんですけれどね。なるべくならそういうことがないように生きていこうとするのも正しいあり方ですけれど。
でも、仕事に関してだけは、糸の通し違いは決して起こしちゃいけません。それが最近見てきたいろいろな出来事から導いた結論です。