最近、ようやくEWIを吹く時間を作れるようになりました。どうも僕の吹き方はあまりよくないみたい。つまり、普通にサックスを吹いているのと似たアンブシェアで吹いている感じ。だから、口の周りの筋肉がかなり痛くなります。現役だった頃は、何時間でも吹けていられたのに。まあ、昔は欠かさず毎日吹いていましたからね。随分ともったいない感じ。あんなに頑張ったのに残っているものはわずかばかり。
ともかく練習曲は初期T-SQUAREに限ります。メロディアスで、覚え易く、楽曲もそんなに難しいことはやっていない。だが、これを生バンドでやるのは至難の技なのですよ。さて、きょうもしばし吹いてアンブシェアを鍛えましょうか。
で、15年ぶりに聴いたT-SQUAREの「New-s」というアルバム。伊東たけしが抜けて、本田雅人が入った第一作で、最初のMegrithという曲が超テクニカルで、かなり驚いたのを覚えています。まだ知識希薄で、伊東たけしが吹いているのか、と思っていたのでなおさら強烈。
しかし、すごいですねえ、本田雅人氏。ただ、意外なことにソプラノサックスの音に弱点があったと言うことには気づきませんでした。
さあ、今日も練習しましょう
懐メロその1 T-SQUARE NEW-S
わたくしにとっての新国立劇場2009年/2010年シーズンを振り返る
今日は、新国立劇場の2009年/2010年シーズンを振り返ると題して。
オテロ
このステージの印象と言えば、イアーゴを歌ったルチオ・ガッロの素晴らしさが中心に鳴ってしまいます。。水が張られたベネツィアをイメージした舞台セットに照明が当たって、揺らめく水紋のきらめきに舞台が包まれていて、うっとり。デズデーモナのタマール・イヴェーリは、代役とはいえ、実にレベルの高い歌唱を聴かせてくれました。
魔笛
モーツァルトオペラを苦手とするわたくしにとって、「魔笛」はある種の挑戦でした。予習で聴いたデイヴィス盤でシュライアーの歌うタミーノに心打たれたことの方が印象深いほどです。しかし、フリーメイソン的、秘儀的である種突飛なストーリーは、やはり実演に接しなければ分からなかったのは事実です。やはり、一回見ただけじゃダメですね。ザラストロの松位浩氏が良い味を出しておられました。本当に日本人離れしたバスです。
ヴォツェック
これは凄かった! アンドレアス・クリーゲンブルクの鬼才たるゆえん。一部には水音に対する不満もあったようですが、舞台上を水で満たして、その上でパフォーマンスが進行するという実にエキサイティングな演出に興奮しっぱなしでした。ベルクの夢幻的音楽とあいまって、演出が織りなす非人間的である種のグロテスクさをも表出する舞台空間は、もう何も言うことがないほど素晴らしかったのです。ヴォツェックのトーマス・ヨハネス・マイヤーはもう完全にヴォツェックになりきっていて、歌もさることながら表情から演技まで大活躍。あとは、マリーを歌ったウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネンの素晴らしさ。私はあのマリーの子守歌のところでもうジーンと来てしまいました。NHKで二回ほど放映されたのでごらんになった方も多いと思います。
トスカ
このトスカは凄かった! トスカ役のイアーノ・タマーの美しさは、私の中で勝手にマリア・カラスに置き換わっていたぐらい。音楽の絢爛さとかシリアスさもさることながら、舞台演出の見事さのほうが印象的。実はこのプロダクションは数年前に見ているのですが、左バルコニー席だったので、第一幕の最後のテ・デウムの場面をちゃんと見られなかったのです。でも、今回は二階の正面に近い席ということもあって、テ・デウムの場面をきちんと見ることが出来て感涙。グランド・オペラ的な沸騰感を十全に満喫しました。それにしてもタマーのうまさ。スカルピアの殺害場面はものすごい緊張感と完成度。歌にも疵は感じなかったし、演技力や表現力が素晴らしかったのです。
ジークフリート
いよいよトウキョー・リングも後半戦。まずは、ジークフリート。クリスティアン・フランツの甘みのあるヘルデン・テノールぶりに、なんだか心が清らかになる気分。で、最後のブリュンヒルデの覚醒では、イレーネ・テオリンが登場し、すべてをかっさらっていく素晴らしさ。このあたりから、もう頭の中は指環でいっぱい。
神々の黄昏
みんな凄かった。でもイレーネ・テオリンが一番凄かった。それしか記憶を再構成できないぐらいです。あのパワフルな声量には舌を巻いてしまいます。テオリンのちょっと強めのビブラートは、ロケット・ブースターのようなもの。もう圧倒的なパフォーマンスで、私はもうふらふら。で、そのあとバックステージツアーに当選して、初めて新国立劇場の舞台裏に参りました。私の人生観が変わった一日。
愛の妙薬
私の2010年前半はワーグナー漬け。新国で「ジークフリート」と「神々の黄昏」を見て、4月9日は上野でシルマーが振った「パルジファル」を聴いたのですから。それに4月に入って、新年度となり、仕事がえらく忙しくなったのです。それでで、かなり体調は悪かったのですが、何とか行った「愛の妙薬」は、ワーグナー的な真剣さとは取って代わって、軽妙なオペラで、かなり勝手が違いました。当初は凄く違和感を覚えたほどです。このたぐいの楽しいオペラは、昨年見た「チェネレントラ」以来でしたので。でもとても楽しめたし、いろいろ面白い解釈可能性を思いついて、個人的には満足です。主役のふたりは素晴らしくとくにプリマのタチアナ・リスニックは巧いし美しいし、言うことなし。それから、狂言回し的なキーマンであるドゥルカマーラを歌ったブルーノ・デ・シモーネも! 彼のような方がいらっしゃるからこそ、オペラの伝統が受け継がれていくのですから。
影のない女
このシーズンで、リングと同じように期待していた「影のない女」リヒャルト・シュトラウスとホフマンスタールが作り出した幽玄と現実の混交。しかしながら、どうしたことか。やはり演出にあと一歩何かが足りなかった。でも、歌唱陣、特に、皇后、バラクの妻、乳母の三女声陣は素晴らしかった。バラクの妻を歌ったステファニー・フリーデを聴くのは三回目だったけれど、今回が一番よかった気がします。パワーと安定。皇后のエミリー・マギーだって凄かった。この方はリリックですこし冷たさの混じった瑞々しい声。乳母のジェーン・ヘンシェルは、2002年のパリで聴いた(?)「影のない女」でも乳母役を歌っていたから、7年半ぶりの再会。
カルメン
カルメンは、ドレスデンで見たことがあるぐらいでお恥ずかしい限り。しかし、カルメン役のキルスティン・シャベスは生まれときからカルメンであっただろうアメリカ人。奔放なカルメンのペルソナを巧く演じていて感動。ジョン・ヴェーグナーが元気がなかったのが気になったぐらい。あとは、ミカエラを歌った浜田理恵さんの素晴らしさ。2008年のトゥーランドットに続いての登場。ミカエラもリュウも似た境遇ですね。ああ、浜田さんが歌う「ペレアストメリザンド」を聴いておきたかった。。。。
鹿鳴館
池辺晋一郎氏の最新作オペラの世界初演。三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」のオペラ化で、故若杉弘芸術監督のアイディアで始まったという作品。若杉さんが亡くなって、池辺さんは途方に暮れたそうですが、このオペラの完成こそが若杉さんの望んだことだ、ということで、今年の春に完成したとのこと。音楽的には、様々な要素が絡まり合うユニークな作品。厳密に、なになに的な、というような形容は出来ないです。でも、池辺晋一郎氏が多作家であり、映画音楽やドラマ音楽を手がけていることから分かるように、標題音楽的な料理がなされた作品であることがよく分かる、良い作品でした。鵜山さんの演出もよかった。鹿鳴館時代の背伸びをしている日本人のけなげさとか滑稽さが巧く表現されていました。
総括
どうしても、このシーズンは、「ジークフリート」と「神々の黄昏」にその中心が置かれてしまうのは否めないです。あんなに感動して、あんなにインスパイアされた経験はありません。私の2月と3月はワーグナー一色だったと思います。期待していた「影のない女」は十全なできとは言えませんでしたが、音楽的には立派で素晴らしかったんですから。
あと、今年痛切に感じたのは、オペラトークがあれば、必ず行くべきだ、ということ。私は、音楽を聴くには予習が必要だと思っていますので、パフォーマンス前には集中して聞き込みをしますが、演出家や指揮者の方が肉声で語るオペラの魅力や演出の狙いなどを聴くと、よりいっそう作品への理解が深まります。次のシーズンもアンテナを張って、がんばっていきます。
この記事、もう少しリファインして、ウェブページに衣替えするつもりです。リンクはったりする予定。それは追々やっていこう。まずはエントリーが大事。
次は、2010年2011年シーズンに期待すること、を書いてみたいと思いますが、おそらくは週末になる見込み。
さて、そろりとバイロイトの録音準備に入らないと。ウェブラジオのまとめをしないとイカンですね。
掌中の水族館
熱帯魚を買うのが夢ですが、実現できそうにない夢です。そもそも、水槽を置いてはならない部屋に住んでいますし、よしんば水槽をおけたとしても、世話をする自信がない。っつうか、時間ないし。。
で、会社の後輩に教えてもらったFish Farmを。これは素晴らしいiPhoneアプリです。
元は、iPhone用のアプリですので、iPadで画面いっぱいに広げると、少々がたつきますが、それでも美しい。毎晩えさを与えたり、卵を産んでもらって、子供を育てて、大人になったら売って、お金を儲けて、また買って、という熱帯魚ブリーダーの気分を味わえます。
私はまだレベル7ですが、後輩はレベル43なんだそうです。マジですか。。。
綺麗なお魚は現金で買わないといけませんので、純然たるフリーアプリではありませんが、現金を使わなくても楽しめます。
かさついた心にはぴったりの一品。お勧めです。
シルマーの「カプリッチョ」とその発音──幸福な夏の午後
また遡行更新。すまぬ。
今日は素晴らしい一日。感謝せねば。
午前中、都心で用事を済ませたのですが、そのとき今年初の蝉の鳴き声を聞きました。すっかり夏。季節の巡りははやいはやい。
それから、カミさんと待ち合わせて、近郊の友人夫妻宅を訪問しました。彼は大学の友人で、私の尊敬すべきPCの師匠。
実を言うと、彼には抜かされたんです。私が初めてPCを買ったのは、おそらくは1995年だったはず。まだWindows3.1の時代。PCショップの店員になめられてはイカン、ということで、猛勉強(?)して、秋葉原で購入しました。
そのあと、彼もPCを買うと言うことで、一緒に秋葉原について行きました。そのときは、私が彼にアドバイスする立場だったのですが、すぐに逆転されてしまう。彼のテクニカルぶりは凄くて、いまやFLASHの権威になっておられます。当時から、私のライヴに来てくれて、デジカメで写真をとって、FLASHのコンテンツを作って見せてくれたりしたものです。
私も彼も就職したんですけれど、私は不幸にもレガシーシステムの面倒を見ることになってしまったのですが、彼は今も昔も最先端を走っている。私も守りに入っていてはおられん、とまた、昨日と同じことを考えてしまいます。
とにもかくにも、奥様のおいしい手料理と楽しい会話であっという間の幸福な土曜日の午後を過ごしました。本当にありがとう。
帰宅しようと、都心のターミナル駅で乗り換えようとしたら、電車が止まっていたのですが、おかげで、駅ビルのお店でセールに行けたし。よかったよかった。
今日は、シルマーの「カプリッチョ」ばかり聴いていた感じ。キリ・テ・カナワの伯爵夫人は柔らかい。そしてシルマーの振る「月光の音楽」はゆったりとたゆたう感じ。前にも書いたかもしれませんが、この録音でのドイツ語の発音が古風な感じです。Operは、今風な発音だと「オーパー」ですが、このアルバムでは「オーペル」と発音しています。ベーム盤のヤノヴィツは「オーパー」と発音しているのですけれど。やっぱり、これは、19世紀的な発音を意識して意図的に「オーペル」と発音しているんだろう、と。
Rickertという哲学者がいますが、昔の岩波文庫や、西田幾多郎の著作では「リッケルト」と表記されるんですが、最近の読み方だと「リッカート」でしょうから。しかし、若い私はリッケルトとリュッケルトを混ぜてしまっていて、助手の先生に怒られました。
今年の秋から春にかけて、「月光の音楽」を聴いただけでボロボロ泣いていたんですが、最近は涙が出てこない。別に嫌いになったからというわけじゃない。たぶん、心がかさついているだけ。今年度に入ってから、私を取り巻く環境が大きく変わったからだと思う。この変化はおそらくは、あまり良いたぐいの変化じゃないんだと思いますが、まあ、いろいろありますから。良い風に変わったこともあるんですから。
辻邦生「ある告別」
ちょっと遡行更新
うーん、また感動している。
辻邦生「ある告別」を「辻邦生全短篇2」にて読みました。2回読んだかな。
それで、過去記事を検索してみると、2年半ほど前に「ある告別」を読んで、同じようなことを考えているようです。ちょっと違う。この2年で私も変容したということでしょうか。
“https://museum.projectmnh.com/2008/02/11181405.php":https://museum.projectmnh.com/2008/02/11181405.php
あのときは、「若さ」と「美」を大括りしているようですが、いまはそうは思えない。全く別の原理だという直観。あのとき以上に「若さ」との訣別を意識しているのかもしれない。
2年半前の記事から引用。全体の分け方は適切のように思えます。
# パリからブリンディジ港まで:エジプト人と出会いと死の領域についての考察
# ギリシアの青い海:コルフ島のこと、若い女の子達との出会い、若さを見るときに感じる甘い苦痛、憧れ、羨望
# 現代ギリシアと、パルテノン体験
# デルフォイ、円形劇場での朗読、二人のギリシア人娘との出会い:ギリシアの美少女達の映像。
# デルフォイからミケーナイへ:光の被膜、アガメムノン、甘美な眠り
# アテネへもどり、リュカベットスから早暁のパルテノンを望む
# アクロポリスの日没
今回は、2番目のユニットと7番目のユニットを取り出して考えてみます。
若さの喪失直観
2番目のユニット「ギリシアの青い海」で語られること。
船上で、若い女の子二人と出会った瞬間に、若さの喪失を直観するわけです。
私が、最寄り駅に帰り着いたとき、近所の大学生の群団とよくすれ違うのですが、そのときの気分に似ています。まだ辛酸を知らず、屈託のない笑顔を浮かべる彼らの姿は、間違いなく以前の私の姿なのですが、決定的な断絶があると思わざるを得ません。
私は、実をいうと、少なからず狼狽した。それは、見てはならぬものを見た瞬間の気持ちに似ていた。なぜなら、それはまさしく自分がすでに若さから見棄てられたという実感から生まれていたからだった。こんな思いに襲われたことは一度だってなかったのである。(中略)もう自分は若くないのだという感じよりは、この孤独に取り残された感じの方が強く私にきた。それはいかにも若さから転落したみじめな没落を思わせた。
辻邦生全短篇2巻:78ページ
以前にも書いたかもしれませんが、私が若さを喪ったのはワイマールでドイツの若者に出会ったときです。決定的な瞬間でした。リヒャルト・シュトラウスが指揮者を務めたワイマールの劇場前広場で、ちょっとした若者達との苦い邂逅をしたのでした。
とはいえ、いまでは、齢を重ねるということは、悪いことばかりではないと思います。歳をとったから分かることもたくさんあります。おそらく歳をとらなければ「ばらの騎士」も「影のない女」も「カプリッチョ」も理解できなかったはず。
アクロポリスでの日没
最後のユニット。
主人公の語り手は、アクロポリスから日没を眺めるのですが、そこにやはり若者の一団がいて、夕焼けを眺めていて、バラ色に輝いているのです。ですが、いつしか太陽は沈むと、あたりは徐々に闇へと近づいていくのですが、若者たちの一団は放心したようにじっと動かないまま。その瞬間、若者たちが若さを失うということを直観するのです。
その瞬間、私が感じた感情を憐憫と名づけることにいくらか私は躊躇する。にもかかわらずそれはきわめて憐憫の情に似かよった感情だった。(中略)その瞬間、彼らが夕闇に沈んで、昼の役をおえたのみも気づかぬのと同じく、自分たちの「若さ」の役をいずれ終わらなければならないのに気づかずにいるのが、私には痛ましくてはならなかったのだ。(中略)どうして人はかくもみずみずしく健康で美しいものから離れなければならないのか。
辻邦生全短篇2巻92ページ
ですが、若さからの訣別こそ重要であると言うことが語られます。それは、主人公の語り手が、年老いた女が厚化粧をして、若々しい服装をしているのを見て、若さのイミテーションというおぞましさを覚えたことを思い出したからです。そして、次の直観。
おそらく大切なことは、もっとも見事な充実をもって、その<<時>>を通り過ぎることだ。<<若さ>>から決定的に、しかも決意を持って、離れることだ。熟した果実がそうであるように、新しい<<時>>に見たされるために、<<若さ>からきっぱりと遠ざかることだ。ただこのように若さをみたし、<<若さ>>から決定的にはなれることができた人だけが、はじめて<<若さ>>を永遠の形象として──すべての人々がそこに来り、そこをすぎてゆく<<若さ>>のイデアとして──造形することができるにちがいない。
辻邦生全短篇2巻93ページ
そして、この<<ただ一回の生>>であることに目覚めた人だけが<<生>>について何かを語る権利を持つ。<生>>がたとえどのように悲惨なものであろうとも、いや、かえってそのゆえに、<<生>>を<<生>>にふさわしいものにすべく、彼らは、努めることができるにちがいない」
辻邦生全短篇2巻94ページ
人生の一回性の重要性とか、生きていると言うことの奇跡的偶然性、あるいは、祝祭性。このかけがえのなさは、生きる喜びの源となるはず。
これは、辻文学をかたどる一つの重要な要素なのですが、改めて思うところは大きい。何やってるんだろう、わたくしは……、みたいな、焦燥。やりたいこと山ほどあるのに、完全に守りに入っている。もっと、攻めないとなあ。
やっぱり、辻邦生氏が、人生の師匠であるという事実。これは20年前から同じ。でも、まだ全部読めていない。入手可能な小説はすべて読んだけれど、論文集などでまだ読めていないものがあるんですよね。
がんばろう。
そして、もうすこし、ちゃんと読み書きできるようにならねば。それが読書ということらしい。
ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」のひみつ
とある、裁判のおかげで、私の仕事は大変なことになってきました。みんな大変なんですけれど。
昨日は、「音楽探偵アマデウス」でラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」が取り上げられていた回を食事しながら見ました。あのあまりに有名な第18変奏の秘密など。
当然なのかもしれませんが、あの18変奏は主題とコード進行は同じであることは気づいていました。ですが、あの旋律が、主題の鏡像形というのには気づかなかった。この鏡像形とか、反行形なんかを耳で聞き取るのは私には至難の業です。なので、楽譜見て類推するしかないんですけれどね。
あと、面白かったのは、この曲の第一変奏は、主題の旋律がないのです。コード進行をオケが刻むだけ。これも面白い。これってとてもジャズ的じゃないですか? 最初にコード進行を提示して、そこに主題を載せ、あとは自由に変奏していくという構造。ジャズっぽいです。ラフマニノフはアメリカにわたりましたので少なからず影響を受けたのか? この曲の作曲は1934年。でインプロヴァイズが重要視されはじめたビバップの時代が1940年代以降ですので、ビバップからの影響は考えにくい。1930年代ビバップ以前のスイングジャズの時代。そこからヒントをえたのかしら。おそらくは楽曲構成はキメキメでしょうけれど、コード進行上でソロを回したりするスタイルだったでしょうから。などなど、妄念が膨らむ。
あと、衝撃的だったのは18変奏の右手と左手が四拍三連状態になっていること。つまり左手で三つたたくと同時に右手は四つでたたくという不安定なもの。和声が極めて不協和音な状態から解決に至るという、和声的には緊張と弛緩の繰り返しによって形作られていますが、まさか拍節にまでそうした仕掛けがなされていたとは。。。
ちなみに、私は三拍四連を叩けません。学生のころ、必死に練習したのですが、きちんと叩けたことはないと思います。それどころか、三連符も大の苦手。二拍三連も必死でした。やはり、音楽には数学的才能が必要です。
監修はもちろん野本先由紀夫生。先生は、本当に嬉しそうに楽曲の説明をしてくださいます。自分の発見した楽曲の秘密をそっと教えてくれるときって、きっと嬉しさでいっぱいなんだろうなあ。自分の考えた解釈って、わが子のように愛おしいものに違いないです。私もああいうことを、この場でやってみたい、と常々思っています。時々、楽譜を書くのもそうした欲求の表れです。
野本先生は東京藝大大学院を卒業してハンブルクに留学したのだそうです。尊敬する方。あ、お姿を実際にお見かけしたこともあります。そして、少々言葉を交わしたこともあります。うふふ。
バーンスタインの「復活」!
「新国立劇場2009/2010シーズンを振り返る」は、参考資料読んだりしないと、というところで、まとまった時間が取れる週末でないとかけないことが分かりました。ちょっとお待ちを。
変わりに、今日起きた突然の変化を。
昼休み、廊下を歩いていたときのこと。
いきなり、マーラーの「復活」の第一楽章のフレーズが頭の中に浮かんできたのでした。これには驚いた。軍楽隊の演奏のように、僕が歩くそばから、耳元で「復活」第一楽章を誰かが聴かせてくれている。そんな感じ。
これは、突然のことで、本当に驚きました。なぜ、今マーラーなのか?
実を言うと、マーラーはこの2年ほどほとんど聞いておりません。二人のリヒャルトにくびったけでしたので。つまり、ワーグナーとリヒャルト・シュトラウス。
でも、クラシックを聴きはじめて数年経ったころ、マーラーに開眼したのがこの「復活」でした。小澤征爾が「復活」を振った映像に感涙して、ラジオでバーンスタインの「復活」をエアチェックし、さらに感涙。
けれども、この長大な交響曲をカセットテープに録音するのはきわめて難しかったのです。片面60分が限度の時代でした。どうしてもひっくり返さなければならなかったので、マーラーの交響曲をエアチェックするのはきわめて難しかったです。オートリバースなんていう機能もありましたが、テープ冒頭の非磁部分の音切れも気になりましたし。
その頃から高校の半ばまではマーラーばかり。でも、決まった演奏ばっかりでしたが。ショルティの「復活」、マズアの「悲劇的」、ショルティの「一千人の交響曲」、メータの「巨人」など。高校時代はお金なくて、CDなんて買えなかったし、昼ご飯代を削って、アルトサックスを買うので一杯一杯でしたから。
で、今日改めて、バーンスタインのマーラー「復活」を聴いてみるのですが、これも、先だって「トリスタンとイゾルデ」の回で書いたようにバーンスタイン的テンポ取り。絞れるところまで絞りきろうという、執念のリタルダンド。低速ギアの極致とでも言いましょうか。でもチェリビダッケ的な遅さじゃないんですよね。ギアチェンジは頻繁にしますので。
私が聴いている音源は、DVDでして、1973年にロンドン交響楽団を振った演奏。録音はこちらも中低音が充実した感じです。
なんだか、最近、ちと夜型傾向。朝の早起きはなくなりつつあります。その方が体調がいいということみたいですけれど。明日も思いっきり働きましょう。本も読みましょう。あ、「沈まぬ太陽」第四巻も読み終わりました。明日は辻邦生を読もうと画策中。辻邦生も私の中で復活させないと。プルーストもですが。あー、時間足りない。でも充実化宣言。
週末のほうが忙しいのではないか?──「ワーグナー」作曲家◎人と作品シリーズ
平日は、黙々と働き、休日も黙々とタスクをこなす。休む間もなく。まあ、身から出た錆ですので仕方がありません。何はともあれ音楽があることと、こうして何かを書くプラットフォームが存在するだけでもありがたいと思います。
2009年/2010年シーズンも無事に終わりました。しばらくオペラ観劇はお休みですが、7月の予定をざっくりと。
ちょっと、書かねばならない文書がありますので、それを月内に終わらせる。そのためには、毎週5枚のレポートを書かねば間に合わない。それから、会社のeラーニングをやること。これも一週間に3レッスン終わらせないと、100レッスン終わらず、受講料が天引きされてしまう。7月は忙しい。暑いし。
7月末はバイロイトですね。
“http://www.bayreuther-festspiele.de/":http://www.bayreuther-festspiele.de/
「リング」は、昨年に引き続きティーレマンが振ります。「パルジファル」もガッティが再び。「トリスタン」はお休みのようです。今年はシュナイダーが出ないのが残念。こちらもウェブラジオでエアチェックする予定。昨年は「リング」も「パルジファル」も録音失敗していますので、今年こそはなんとか成功させねばなりません。なかなか難しいのですが、がんばりましょう。
今、音楽之友社「作曲家・人と作品シリーズ ワーグナー」を読んでいますが、うーむ、面白い。新潮文庫版のワーグナーの伝記を数年前に読みましたが、この本のほうが充実している気がします。
それは、とりもなおさず、私のワーグナー視聴量が増えたからにほかなりません。この本の特徴はワーグナーの死で終わらないところ。ワーグナー死後、現代に至るまでのバイロイト音楽祭の状況を簡潔にまとめているので、ワーグナー演奏の通史的理解を得るには実に都合のよい本で、お勧めです。
ただ、私のワーグナー歴はまだまだ浅い。読むべき本もたくさんある。聞くべき音源も無限大に存在する。一生のうちに全部読んだり聞いたりできないかもしれませんが。
っつうか、辻邦生も読みたい。でも、今は「沈まぬ太陽」の第四巻を広げてしまったので、ちょっとお預け。辻邦生の本は常に携帯することにしましょう。折に触れて読み返すと、元気が出ること間違いありません。
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」も!
吉田秀和先生「オペラ・ノート」で、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」が絶賛されていました。幸い、私もバーンスタイン盤の音源を持っていましたので、昨日の帰宅時間より聞き始めたのですが、さすがバーンスタインです。
二日かけて全曲聴きましたが、一幕聞いただけで本当に心が揺り動かされてしまいました。
バーンスタイン的な、きわめて慎重に事を運び、しかも最大限スケールやダイナミクスを導入するという、壮大気宇な演奏です。
ペーター・シュナイダーの演奏は、透き通った膜の向こう側に構築美が立ち現れるという演奏でしたが、バーンスタインの場合、ほとんど主観とか客観とか分かれない、純粋経験的境地、というぐらい心技一体の演奏に思えます。
情感たっぷりなんですが、だからといってベッタリとした甘っちょろいものではなく、深く広がる情感の池に徐々に身がゆっくりと浸っていくようなイメージです。
一般的にはバーンスタインのテンポどりは遅いほうだと思いますが、そういう意味でもこの録音はバーンスタイン的です。
あとは、録音がいいんですよ。中低音域に軸足のある、たっぷりとした音でして、聞いたとたんに没入度120%というぐらい、ほかのことが気にならなくなるぐらい。押しが強い音というわけではなく、ぐいぐいと引き込まれていく音です。
演奏はバイエルン放送交響楽団、トリスタンはペーター・ホフマン、イゾルデはヒルデガルド・ベーレンス。べーレンス、巧いです。絶妙なピッチコントロールと安定した声質。ペーター・ホフマンはちょっとべーレンスに圧倒され気味かも。
やっぱり、ヴァーグナーを聞くと、安心します。安心できる場所にとどまることは、保守をイメージさせますが、私の場合、安心できる場所だが知らない場所ですので、どんどんそこを掘り下げていくことが必要かと考えています。
2010年6月に読んだ本
6月に読んだ本、まとめたところ、8冊読めていました。先月と異なり、ストーリーものをたくさん読めましたので、個人的には満足。7月はもっと読みたいですねえ。
最大のおすすめは、ローラ・リン・ドラモンドの「あなたに不利な証拠として」でしょう。ハヤカワ・ミステリに収録ですが、文学的価値も極めて高い名著だと思います。おそらく駒月雅子さんの日本語訳も原作とあいまってすばらしいのだと思います。結構勇気が湧く本です。
吉田秀和氏の「オペラ・ノート」も印象的。後で書きますが、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」を再聴するきっかけを作ってくれました。
なにげに「沈まぬ太陽」も前五冊中三冊読み終わっていますが、いろいろ複雑な心境。残り二冊も楽しみ。