Opera

相変わらず「アイーダ」を聴いています。アイーダの空気が、ローマ人の物語の雰囲気に実によく合うのです。そういうこともあって、ヴェルディへの道が徐々に開けてきた感じがします。

昔は、なにか無理して咀嚼しようと努めていた感がありますが、最近はすっと曲の世界に入り込むことができている感覚です。先だっては「期待していた演奏とは違う」などと偉そうなことを書いてしまいましたが、もちろん悪いところもあるのですが、それ以上に良いところが分ってきましたので、心底楽しめるようになってきています。やっぱり、演奏や作品が理解できなくても、聞き込んでいけば楽しめるようになるものですね。

ともかく、ヴェルディって、こういう風に楽しむんだ、という感じが自分の中に形成されていくのが分って、とても嬉しいです。重厚な合唱、情熱的な独唱、華やかなオーケストレーション、ドラマティックな旋律。これはもうご馳走です。 

  • 作曲==ジュゼッペ・ヴェルディ
  • 指揮者==ヘルベルト・フォン・カラヤン
  • 管弦楽==ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 合唱==ウィーン楽友協会合唱団
  • アイーダ==ソプラノ==レナータ・テバルディ
  • ラダメス==テノール==カルロ・ベルゴンツィ
  • アムネリス==メゾ・ソプラノ==ジュリエッタ・シミオナート
  • アモナスロ==バリトン==コーネル・マクニール
  • ランフィス==バス==アルノルト・ヴァン・ミル

Japanese Literature

「ローマ人の物語7 悪名高き皇帝達」読了しました。取り上げられた4人の皇帝、すなわち、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロについて、全員が全員「悪政」を敷いたわけではない、というのが塩野さんの見解だったのではないか、と思います。

ティベリウスは、帝国の統治を盤石なものとするべく、軍団を配置し、有能な指揮官達を派遣し、財政の健全化に努めた。けれども、晩年はカプリ島に隠棲しながら帝国を統治したということで、ありもしない噂を立てられてしまったり、財政健全化のために、大盤振る舞いをすることもなかったので、評判は芳しくなかったということなのだと思います。

カリグラは、一刀両断。だめですね。ティベリウスと一緒に暮らしていたので帝王学は学んでいたはずですが、大盤振る舞いをしたのは良いけれど、派手なことばかりするようになって、財政を悪化させてしまう。エジプトからオベリスクを運ばせたり、巨大な船を作ったり……。だから暗殺される。

クラウディウスは、地道な統治で帝国は安定したけれど、皇帝としての迫力に欠けていた感があって、諸手を挙げて支持されたわけではなかったのです。私としてはクラウディウスにはがんばってほしかったのですが、最後に娶った妻がいけなかった。小アグリッピーナという名前ですが、彼女がクラウディウスを毒殺したとされています。その理由は、クラウディウスの実子を差し置いて、連れ子のネロを早々に皇帝に即位させたかったから。早々に、というのは、ネロが若いうちには、小アグリッピーナ自身が権力を握りたかったから。烈女というか、悪女というか……。

ネロは、必ずしも頭の悪い男ではなかったですし、統治期前半は、セネカなど優秀なブレーンがいましたので、当初はそうそう酷い統治ではなかったのですが、母親や妻を殺し、セネカを殺し(自死に追いやる)、有能な指揮官達をだまし討ちにすることで、人心は離れて言ったのですね。キリスト教の信者を虐殺したのも、評判を落とした原因の一つ。ローマ大火の犯人としてキリスト者達を死刑にした点については、当時も評判が悪かったし、後世のキリスト教側から書かれた史書においても当然厳しい評価が下される。まあ、後半はやっていることがほとんどバカ皇帝ですから仕方がない。いくら皇帝でも、うまくもない歌を歌いにギリシアまで巡業するなんて馬鹿げています。というわけで、ネロ帝は属州で起きた叛乱に追い詰められて自死となります。

というわけで読了ですが、少々読むのに時間がかかりました。次は8巻「危機と克服」です。なんとか9巻「賢帝の世紀」まで今月半ばまでに到達できれば、と思っています。

 

Classical

新国立劇場でバレエを見てきました。チャイコフスキーの「白鳥の湖」です。 「白鳥の湖」は組曲版では小さいころから親しんでいたのですが、全曲版を聴くのは初めてでした。あの有名なオーボエの旋律が、悪魔「ロッドバルト」のライト・モティーフだったのですね。

今回の版では、白鳥に変えられたオデットが、最後には呪いが解けてジークフリート王子と結ばれるというハッピーエンドだったのですが、ウィキによれば、原典版ではジークフリートとオデットが呪いが破られないことに絶望して湖に身を投げるという悲劇的な終わり方をしているようです。最終曲で悪魔「ロッドバルト」のライトモティーフが短調から長調に転調していきますので、音楽的にはハッピーエンドでも納得がいったのですが。

これで、チャイコフスキーの三大バレエは全曲制覇(←意味レス(笑))。

  • 2004年「眠りの森の美女」@ミュンヘン州立歌劇場
  • 2007年「くるみ割り人形」@新国立劇場
  • 2008年「白鳥の湖」@新国立劇場

一番感動的だったのは、「眠りの森の美女」でしたでしょうか。虚構の美的世界が、現実界に大きくせり出してくるのに衝撃を受けました。音楽的には「くるみ~」が一番好きですね。上演もクリスマスのころで、祝祭的ムードですし。「白鳥の湖」は、組曲版を聴き倒していたころから少し苦手めではありました。組曲版は、カラヤンとベルリンフィルの演奏をグラモフォンのカセットテープで、聞いていたものです。なつかしいですねえ。もう何十年も前のことです。

実は中劇場では、同じ時間に若杉弘さんが「ペレアスとメリザンド」を振っておられたのですが、都合でそちらは断念。新国立劇場の大劇場(=オペラパレスですか)は5月10日の「軍人たち」以来でした。劇場に入った途端に思い出したのが「軍人たち」強烈な印象で、あそこにジャズコンボがいて、スピーカーが随所に設置されていて、なんて感じでした。

Japanese Literature

「ローマ人の物語7 悪名高き皇帝たち」ですが、皇帝クラウディウスの死までたどり着きました。

クラウディウスは、吃音癖などで、そもそもは皇帝になるべき人とはみなされていませんでした。ですので、歴史学者として生きてきたのですね。ところが、カリグラ帝による治世の乱れから、近衛軍団はカリグラ帝を誅殺し、クラウディウスを擁立する。50歳になってからの皇帝ですが、これがまたそんなに悪政というわけではなく、帝国は安定するし、ブリタニア(グレートブリテン島⇒イギリス)の征服も手がける。公共工事もしっかりやっていて、水道を作ったり港湾を整備したり。だのに、やはり生まれながらのカリスマというものがなかったのでしょうか、がんばるクラウディウスをせせら笑うような雰囲気もあったらしいです。

クラウディウスは(解放)奴隷を秘書官にあてて、官僚組織の走りのようなものを構築して、政策の実行を図っていくわけですが、これがかえって元老院との関係がギクシャクする原因になったようです。江戸幕府で言えば側用人政治とでもいいましょうか。それから、女性や家庭に対しては無頓着だったようで、最後に結婚した小アグリッピーナにしてやられて、どうやら毒殺されたらしいのです。気の毒な話。小アグリッピーナには連れ子がいたのですが、この子があのネロ帝というわけです。というわけで、私もネロ帝の治世の物語へと駒を進めています。

やっぱり、共和政時代のローマの上昇志向を読んでいるときのような痛快さはないですが、リーダシップとは何か、人間の性(さが)とは何か、など興味深いテーマがたくさん。人を信じても信じなくてもいけない。世界は汚濁に満ちた背理の世界なのです。マーラー的混濁の世界。だからこそ、抗うためには強い力が必要。剛健な身体と健全な精神。皇帝(あるいはリーダー)こそがその背理の世界を理想へとかえる意志が必要だと思うのですが、そういう意味では、カエサルもオクタヴィアヌスもすごいですね。普通にはなかなか難しいことです。だからこそ、辻邦生氏が「嵯峨野明月紀」でおっしゃられている「背理の世界を笑い飛ばす」ぐらいでないとなかなか生きていけないですね。

というわけで、今日も引き続きアイーダを聞き続けています。曲の雰囲気、演奏の雰囲気に徐々につかることができるようになってきました。もう一息です。もう少し聞き込めば光が見えてくる。ヴェルディという城塞都市への扉の向こうから、人間たちの生々しい息遣いが聞こえてくる予感。開門までもう少し。しかし、初めてヴェルディのオペラを見てから6年たちます。ようやく、というところでしょうね。 そういえば、「アイーダ」を歌舞伎化するというニュースを見ました。「愛陀姫」という演目になるようで、アイーダの曲も三味線などで再現するようです。

Opera

ミミ、といっても、耳ですが、どうも調子が悪いです。一年半前に、耳鳴りがするというので、病院に行ったのですが、そのときはいったん収まっていたと思っていたのですが、このところ耳鳴りがどんどん激しくなっています。iPod聞きすぎですかね……。耳の病気は命に関わらないことなので、あまり研究が進んでいないのだ、ということを聞いたことがあります。とある方「も、やっぱり耳なりがひどくて生活するうえで少々困っている、とおっしゃっていたので、私も不安を持っています。音楽が聴けなくなるのはいやですし、日常生活にも支障が出ると困るので、明日は聴力検査をしてもらって一年半前とどの程度聴力が変わっているかを確かめたいと思っています。

きょうもアイーダです。聞いているうちにだんだんわかってきた感覚が出てくるようになりました。昨日のぼやきは、私の未熟さが故。何度も聞き返せば、いいところがわかってくるようになりました。もう、誰の盤かをあかしてもいいと思います。カラヤン盤ですが、1959年の録音ですから、円熟期のカラヤンの指揮っぷりを楽しむことができます。アイーダでもやっぱり迫力あるどっしりとした演奏です。録音が古いので少々S/Nが気になるのと、とある歌手の声質とかピッチが気になる場面があるのが難点。ですので特選というわけにはいきません。 ヴェルディのオペラは、僕にとってとても高い城壁でして、なかなか中に入ることができないのですが、先だって聴きました「リゴレット」とともに、「アイーダ」も聞き込むうちに徐々に、高い城壁の入り口の前にやっと辿り着いたという感じでしょうか。ですがまだ街の中に入ることは許されていないようです。もうすこし聞き込みましょう。

  • 作曲==ジュゼッペ・ヴェルディ
  • 指揮者==ヘルベルト・フォン・カラヤン
  • 管弦楽==ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 合唱==ウィーン楽友協会合唱団
  • アイーダ==ソプラノ==レナータ・テバルディ
  • ラダメス==テノール==カルロ・ベルゴンツィ
  • アムネリス==メゾ・ソプラノ==ジュリエッタ・シミオナート
  • アモナスロ==バリトン==コーネル・マクニール
  • ランフィス==バス==アルノルト・ヴァン・ミル

Japanese Literature

ローマ人の物語もとうとう7巻に到達しました。面白すぎて仕方がないですね。7巻は、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロまでの皇帝の治世が描かれます。

皇帝位というものは、中国の皇帝位や、後世のヨーロッパにおける皇帝位とはことなり、戴冠式などはない。民衆と元老院の承認により、「第一人者(第一市民)」、「ローマ全軍の指揮権(インペラトール:これがエンペラーの語源)」、「護民官特権(元老院決議に拒否権を行使できる)」の三つの権力を手中に収めるわけです。 神権授与説などではなく、まるで民主主義で選ばれる大統領のようなもの。しかしながら、前代皇帝の遺言により指名されたり(ティベリウスまでは)、近衛兵団に皇帝に祭り上げられたり(クラウディウス)するわけですので、現代的な民主主義とは全くかけ離れています。不思議な政体です。

読んでいても、「皇帝ティベリウス」とか、「皇帝カリグラ」という表現に出会うのですが、オリエント的、中国的な皇帝とは字は同じでも内面はまったく違いますので、かなり違和感を覚えてしまうのでした。皇帝といっても多義的ですので。

ただいえることは、一民族の長は王であるが、民族を超えた長は皇帝なのである、というところ。だから、カエサルはローマ人の王にはならなかったのです。神聖ローマ帝国や、フランス第一帝政、オーストリア=ハンガリー連立帝国など、西洋の皇帝位にはこの定義が当てはまりますね。

そんなわけで、今日はカリグラ帝の暗殺のところまで読みました。一緒にアイーダを聴いていたのですが、期待した演奏ではなくて少しがっかり。本当はこの盤のことを書こうと思ったのですが、ちょっと遠慮することにしました。というわけで、アイーダについては別の盤を探そうかな、と思っています。どなたか、おすすめ盤があれば教えていただきたいと思います。

それにしても、昨日の夢の話ではありませんが、オペラは難しいです。

 

European Literature

今朝は変な夢を。サクソフォーンをクリーニングして(管の中はかなり汚れていた)、新しいマウスピースを付けて吹いてみると、いままでのやわらかい音から、エッジのきつい金属的な音に変わってしまい、うーん、とうなっている夢。
 
夢で言うと、よく見る怖い夢が、シュトラウスのオペラに今すぐ出演して歌え、といわれる夢。もちろん歌詞も旋律もまったくわからない状態で、ポンと舞台に出されて、ああ、どうしよう! と思っているうちに、目が覚めるというもの。
 
夢判断的にはどうなんでしょう?
 

昨日から、気分転換に読んだ、イアン・ピアーズ氏の「ラファエロ真贋事件」。面白かったです。少々情報が整理されていないところはあったにせ よ、未知のラファエロの作品が明らかになるという刺激的な内容に、一気に引き込まれてしまいました。ローマの小さな教区教会に掲げられている絵に、ラファ エロの絵が塗りこまれているという設定。ラファエロの絵なんて、もう絶対に売りに出ないですから、これがもし本当なら大騒ぎになるわけです。案の定、絵は オークションにかけられるわけですが、落札したのは……、という感じです。

この手のミステリーに良くあるように、二重三重に出来事がひっくり返っていくのが痛快で一気に読み終わってしまいました。もし人生をやり直せるのなら、美術史家になりたかったなあ、という夢を、またもや見てしまうのでした。

Gustav Mahler

また一週間が始まりました。週末は不本意ながら休息となってしまいましたので、ブログもかけずに終わってしまいました。週末は週末で仕事ははかどらず、少々苦しい思いをしましたが、新しい週は何とか充実したものにしていきたいものです。

週末のことを書きますと、いろいろと乱れ聞いていました。カーライル・フロイド「スザンナ」、モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」、内田光子さんとザンテルリンクのピアノ協奏曲「皇帝」などなど。

気を取り直しまして、今日は、先日に引き続きバーンスタインのマーラーを聞いております。

第三楽章はウィナーワルツなわけですが、ホルン協奏曲と思うぐらいホルンが活躍しますね。音いいです。 第四楽章はテンポを動かすことでダイナミズムを得ています。ためるところはかなりためていますが失速することもなく、哀切とした感じが色濃くのってきています。またある場所では、さらりと身をかわすように旋律を続けざまに展開させていく場面もあります。いずれにせよよく統御された演奏です。あまりに有名すぎる楽章ですが、バーンスタインの演奏は実に雄弁です。

第五楽章も同じ色合い。フィナーレの疾走感も格別です。 全体にいえることですが、バーンスタインがテンポを動かすことで、音楽の躍動感を救い上げています。ただ、遅いの一点張りではなく、テンポを上げるところでは、ちょっと速過ぎるのではないか、と思う寸前までいくのですが、テンポを下げるところではぎりぎりのラインまで落としています。先日も書きましたが、テンポを落とすと、解像度が増して、響きがくっきりと浮かび上がってきます。

聞きごたえのある演奏なのですが、かなり考えて聞かなければなりませんし、軽く聞き流すことを許さない演奏ですので、疲れたときに一息入れたい、なんて場合にはちょっと遠慮しておいたほうがいいでしょう。もっとも、マーラーで一息入れる、ということ自体が難しいわけですけれど。

季節は周りましたね。夏至を過ぎたわけです。これからは昼の時間が少なくなっていきます。すこし残念な気分。

Gustav Mahler

 今週から読み始めたブルノ・ワルターの「マーラー 人と芸術」を読んだから、ということもあって、昨日、今日とマーラーを聞いています。昨日は交響曲第4番を聞いたのですが、4番の中でトランペットが、交響曲第5番冒頭のファンファーレを吹いているのに気づいて、ああ、5番を聞かなければ、と思い、バーンスタイン盤を聞いている次第。

まずは第一楽章から。冒頭のファンファーレ、フレーズ自体の速度の遅さより、休符をためてテンポを遅くしているのがわかります。全体に荘重な空気に支配されていて、テンポの遅さからくるまどろっこしさを感じることはありません。きちんと統御されているのがわかります。

バーンスタインのテンポの取り方に注目し始めたのは最近になってからで、特にワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」やブラームスの交響曲などを聞いて大いに刺激を受けたのですが、この曲でもやはりたっぷりとした器の大きさを感じて、いいなあ、と思います。 テンポが遅くなると、音楽が拡大鏡で覗いたように思えることもあります。ティンパニーがパッセージをたたいたり、鼓笛隊の沈鬱なスネアドラムが聞こえたり。交響曲第10番の第1楽章、あるいはベルクの「ルル組曲」のような、トーンクラスター的な響きが聞こえたり。いろいろな意味でとても刺激的です。 第二楽章の冒頭はテンポが上がりますね。波打つように弦のうねりが迫ってきて、金管が吠えまくりますが、チェロの葬送行進曲風の旋律はかなりゆったり。テンポの変化が雄弁な楽章です。

上述のワルターの著書の中で、「音楽は地中海の明るい海なのではなく、なみうつ大洋のような暗さを持つのだ」、といったことが書かれているのですが、マーラーの曲はまさにそれに当てはまりますね。音楽に関わらず、世界認識も変えられてしまうかも、とまで思ってしまいました。そういう意味では実にショッキングな一文でした。

しかし、マーラーの曲は集中力を非常に要します。特にバーンスタインはゆっくりと重みのある演奏なのでなおさら。マーラーの五番だって、これまで何度聞いたか分らないのですが、分らないことが多すぎます。だからといって聴き過ぎると疲れてしまう。疲れるぐらいの曲のほうが歯ごたえがあって、分ったときのうれしさは格別なのだと思いますが、まだそこまで辿り着いていないです。 第三楽章以降は次回へ続く、ということで。

  • 作曲==グスタフ・マーラー
  • 指揮者==レナード・バーンスタイン
  • 管弦楽==ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

Classical

今日は目の回るような忙しさでした。 食事の時間も10分強あったかなかったか。こういうときこそ、きれいな音楽を聴いて元気を付けたいものです。

というわけで、私的にストレス解消の音楽となっている、プッチーニ「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」を、パヴァロッティ盤とドミンゴ盤で聞き比べて見ました。

パヴァロッティは力で押して、ドミンゴは優しさで圧倒する。「北風と太陽」のイメージ。もっともパヴァロッティ盤は、ハイドパークのライブ版であるのに対して、ドミンゴ盤は、カラヤン指揮のスタジオ録音全曲版ですので、方法論は違うでしょうね。パヴァロッティは、伴奏よりも相当走ったテンポでぐいぐいオケを引っ張っている。オケが必死に追随している様子がわかります。ライブならではの臨場感。ドミンゴ盤はもちろんそういうことはありません。完成された美という感じ。

ふう。ストレス解消になりました。