今日は午前中はなかなか良い天気でした。というわけで、近所をサイクリングして、良さげなところをいくつか見つけました。
今日は累計で15キロほど走ったようで、随分とヘトヘト。早く寝て疲れを癒さないと。寝ないと疲れは絶対に撮れません。ウナギを食べてもビタミン剤を飲んでもダメだそうですね。当たり前のことですが、当たり前すぎてなかなかできません。
それではみなさまおやすみなさい。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
今日は午前中はなかなか良い天気でした。というわけで、近所をサイクリングして、良さげなところをいくつか見つけました。
今日は累計で15キロほど走ったようで、随分とヘトヘト。早く寝て疲れを癒さないと。寝ないと疲れは絶対に撮れません。ウナギを食べてもビタミン剤を飲んでもダメだそうですね。当たり前のことですが、当たり前すぎてなかなかできません。
それではみなさまおやすみなさい。
久々にiCloudミュージックライブラリの件です。
ティーレマンのパルジファルをCD音源で持っているのですが、iCloudミュージックライブラリにとマッチングさせました。結果は、アップロードではなく、AppleMusicの音源を使うというものです。
で、なぜかクレメンス・クラウスが1953年にバイロイトで振った音源とマッチしているようです。
持っていない音源とマッチしているので、まあ得しているのかもしれませんが、ティーレマンのパルジファルを聴けないというのは、問題です。というか、誤マッチングなので、そもそも問題です。
もうひとつ悩んでいるのは、クライバーの「トリスタンとイゾルデ」がおかしいことかも。このCDは4枚組なのですが、2枚目の音源がなぜか1枚目の音源とマッチしていて、AppleMusicで2枚目を再生すると、なぜか1枚目の音源が再生されてしまいます。これも如何ともしがたい問題。
強制的にiCloudミュージックライブラリに音源をアップロードできればいいのですが、やり方はまだ見つけられません。
まあ、以下のようなディスカッションもあるようで、解決策らしきものも書いてありますが、抜本的なものではなさそうですね。
こうした問題に対処するために、私はiPodClassicの再就役させていたりします。荷物は重くなりますけれど。
また、iTune Matchでは、マッチング技術が違うらしく、「はるかに正確なオーディオフィンガープリント技術」を使って、マッチングをしているとのこと。つまりメタデータではなく、音声自体をマッチさせる音紋解析を使っているようです。
Apple Musicでもこの音紋解析への移行を進めているということで、切り替えが終わるとiCloudのステータスカラムが「Matched」に変わるそうです。そうすると今後は解消していくかもしれません。
AppleMusicで随分と音楽環境が向上しました。もちろん、完璧なソリューションなんてあるわけありませんから、いくばくかの不具合は仕方がはありません。それでもなお、音紋解析という手法に進もうとしていることなど、先に向けての動きがあることが今回分かってよかったです。
さしあたり寒い毎日。なんだか夏が恋しいです。早く来年にならないものか。。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
いや、もう本当に秋本番で、めまいがしそうです。昨日の東京地方は、久々に晴れた休日だったような気がしまして、喜び勇んで20キロもサイクリングをしてしまいました。思いがけず、近所にコスモス畑をあるのを発見し、有頂天でした。
秋桜という名前がついていると聞いたことがありますが、、どうにも日本の花とは思えません。ウィキペディアで調べると、明治20年に日本に渡来したとのこと。秋桜というものさだまさしが初めて使ったようです。正確な和名は、オオハルシャギクですか。なるほど。
一転、今日は、曇り空でしたが、仕事関係で1日お勉強。疲れましたが、今日ですべてが終了ですので、次の課題に向かって頑張らないと。
お勉強にはやはりモーツァルト。
私的には、なんとなくお勉強をするときには、モーツァルトやバッハを聴きながら、というのが多い気がします。特に交響曲第32番、第35番など。ジェフリー・テイトの指揮は、すっきりとした味わいで、もう10年以上聞いていますが、聴くたびに新鮮な気分になります。
次の課題、と言ってもたくさんあって、一つ一つがなかなか険しいんですが、これまで険しい道を乗り越えてきた気がしますので、なんとかしましょう。それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。
9月の初め頃、秋の風情が終わる気配を感じる頃、しかし、まだ暑さは厳しいおり、なにか秋が深まる寂しさのようなものを感じていた時、仕事場の年上の方と話をしました。その方は、夏が終わるとホッとされるそうです。夏の厳しさがこたえるから、とのこと。おっしゃる通り。私も夏の暑さはやはり辛いです。ですが、なにか名残惜しさのようなものを感じました。今年は特に夏を楽しんだような記憶があるので。もちろん、盛夏のそれではなく初夏のそれを楽しんだのですけれど。日差しが照りつける無人の野球グラウンド見て、なにか懐かしさを感じたり。
あるいは、大地に立ち尽くす老ひまわりの姿を見たり。
夏は生命の横溢の極致であり、さらには来るべき休みの季節への導入でもあります。生命の横溢を謳歌する季節が終わり、休息への備えを思う気持ちは、先輩と私とでは少し違うのが知れません。それは想像することはできても、体験するとまた違う味わいなのだと思います。それは、この数年で、味わいの違いを覚えはじめたから気づいたことなのかもしれません。
一ヶ月前のそうした出来事を思い起こしながら、いつの間にか10月も折り返しを目前にしています。肌寒い日が続き、あるいは過ごしやすい夜長の季節が訪れました。それはそれでまた愉しみ。そういう季節になりそうです。
今年も残りあとあと2ヶ月と半分です。やりたいこと、やるべきことは少しずつ進んでいますが、まだまだ不十分ですので、最後の追い込みにむけて追い込まないと。
それではないみなさまも良い秋の夜長をお楽しみください。
確かに本をたくさん読んでいる気はします。そうは言っても、仕事に関する本がいきおい増えてしまいます。ただ、時折、辻邦生やSFなどを読むのですが、そうした時に、仕事に関する本とは違う決定的なものを感じることが多いです。
仕事に関する本は、理詰めで書かれていますので、理解する、というのがゴールになるのでしょう。確かに、整然とした論理を辿れば、何かしらの有用な知識を理解することができて、それを生活に活用することができます。おかげで、たくさんの恩恵を得ることができ、読書のありがたみを感じます。
ところが、辻邦生などの文学や、あるいはSF小説などを読むと、仕事に関する本とは違う理解の感覚を得ることができます。仕事に関する本は頭で理解する、というのであれば、文学は腹で理解する、ということなんだと思います。
私はどうやらこれを20年前の学生時代に飲み会で同級生にそうした話をした記憶があります。哲学的文章で絶対的真理を論証することはできない。だが、同じ体験をさせることを文学はできるのではないか、ということです。その体験ということは、もちろん主観的なものです。ですが、文書において表現された体験を読み手が味わう、ということは、とりもなおさず、そこに何かしらのことを読み手に伝えることができて、それは頭で考えるということに加えて、(仮想的とも言えるかもしれませんが)体験として伝えることができる可能性がある、ということ。体験を伝えられる、というのが文学の強みで、論説のような文章とは違う点だ、ということを、何か感じるのです。
そもそも、古代から、口述される神話のようなものが世界観を作っていたという事実があります。これは辻邦生の「小説への序章」の冒頭部分で書かれていることです。もしかすると、今でもやはり物語が世界を動かしていると言える場面があるのかも、と思います。あるいは、物語は、世界、歴史を変えることのできる力さえ持っていると言えます。真実と異なる物語が作られ、それが歴史的事実となってしまうことさえある、恐ろしいものです。「ペンは剣よりも強し」という使い慣れた言葉がありますが、そうした怖さを思い知らされることすらあります。
世界は物語からできている。
この命題は、おそらくは、文学や小説を形作る一つの根本的な物語あるいは詩への信頼なんだと思います。
先日、少し触れた「言葉の箱」に書かれていたのも、この信頼だったと思います。
ちなみにこちらが私が持っている「小説への序章」。この本ばかりは難儀でしたが、繰り返し読んで少しは分かり始めたのかも、と思います。
最近、なかなか書く時間がないのは仕事お時間もさることながら、少しばかりの大仕事があったため。そろそろまた元のペースに戻していこうと思っています。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
今朝は、昨晩からいくばくかの大仕事がありまして、徹夜明け。おかげで5時の朝焼けを見ることができました。あざやかな色で、驚きました。仕事柄、徹夜には慣れていましたが、最近、所属が変わって徹夜勤務もめっきり減りましたので、昔より辛い感じ。歳というのもあるのか…。
10月になって秋本格と言いながら、日中は随分と日差しが強い1日でした。これから秋の良い季節にどんどんなっていきそうで楽しみです。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
それは単なる、おぼろげな、誤謬に満ちた一老学徒の記憶を紡ぎ出していった世界に過ぎない。しかしそれが書きとめられ、絶えず描かれた形で呼び戻されるということは、未来永劫に闇の中に沈む存在に較べると、なんと確かな存在感を持つのだろう。私が夜更け何にもかかわらず、思わず回想の中にのめり込んで行き、筆を執らずにいられなかったのは、この回想録こそが、虚無の闇に浮かぶ光の島のように思われたからである。この世の空無感が強くなればなるほど、回想録は、伝説に出てくる花咲く浮島のように、虚無の闇の中にくっきりと漂い始めるのである…。
辻邦生「春の戴冠」新潮社、1996年、761ページ
今日は本当に良い天気でした。1ヶ月ぶりぐらいに感じます。ですが、家で黙々と掃除などをしていました。ふとした拍子に本棚から1996年に出た「春の戴冠」を取り出し、おそらくは10年ほど前に読んだ時につけた付箋に手をかけたら、こちらの文章が出てきました。
これを読んで思い出したのが、私が芸術というものを私なりに初めて理解したと思えたときのことでした。理解したと思えたときのことでした。いつかも書いたかもしれませんが、書いてみます。
こちらは、イタリアルネサンス後期の画家ヴェロネーゼの「カナの結婚」という作品です。この作品をいつぞや、ルーヴル美術館で見る機会がありました。この巨大な絵画を眼前にして、真実在という言葉が出てきたのでした。おそらく、西田幾多郎の文脈における真実在という言葉だったと思います。
もちろん、それは正しく西田哲学のタームとしての真実在という言葉に当てはまるものであったかどうかはわかりません。ただ、その時の真実在という言葉には、何か肉感的な生々しい、手に触れることのできるような温かみさえ持つような感覚だったと思います。
この「カナの結婚」の中に描かれている数多の人の姿は、当然のことながらヴェロネーゼの手による創作であるわけです。ですが、それは創作という人間の頭の中でなされたものを超えて、本当にこういう風景があった、という真実味を帯びていたと思うのです。本当に、こういう宴が、こういう場所で開かれていて、楽器を弾く人もいれば、ワインを注ぐ人もいれば、品定めをする人もいれば、ということが、ありありとした真実味を帯びて感じられたのです。それまでは、おそらくは、絵画というものは、何か作られたもの、と、いう感覚を持っていたのですが、この時からそれが変わりました。芸術作品にある真実味というものは、現実世界とは全く関係なく、真実としてそこにある、ということが直感的にわかった、ということなのだと思います。
これは、もう、語れば語るほど、書けば書くほど、そうした意味合いから離れていくのだと思います。ですが、書くとしたらそういうことです。
それで、この辻邦生「春の戴冠」に書かれていることも、やはりそういうことなのだ、と思うのです。回想録、つまりこの「春の戴冠」に描かれていることに他ならないのですが、それが現実という虚無の世界からはなれて、「確かな存在感」を持ち「闇に浮かぶ光の島」となるほどの存在になるということです。現実を超え現実と離れて、描かれたことが「真実在」となる、ということ。これは美術作品もそうですが、文学作品もやはり真実在として、そこにありありとした真実味を帯びて現前している、ということなのだと思うわけです。
そこで思い出したのが同じく辻邦生「言葉の箱」。
言葉によって世界を作り、その箱の中にあらゆる世界を積み込めるんだという信念
82ページ
フィクションの架空の出来事、場所、人物は、実際に小説の中以外にありえない、つまり、現実のどうかに探しに行ってもありえない。
77ページ
辻邦生の授業で語られたことを聞いたことがあります。辻邦生が言っていたことは、小説の舞台に読者が行ったが、そこは小説の世界とは違っていて、読者は驚いていた、という趣旨のことだったと記憶してます。それをさも笑い話であるかのように話しておられたのでした。
つまり、小説世界と現実世界の断絶について話をされていたわけです。断絶というよりも、小説世界が現実世界をさらに超えたものとして浮島のように光り輝き現存している、という感覚なのかもしれません。確かに、作品のイメージとして、小説の舞台に行くのはおもしろいことなのかもしれませんが、それは作品とは断絶している、ということを言っていたのだと理解しています。
「春の戴冠」の語り手であるフェデリゴは、ある意味辻邦生の分身であり、フェデリゴが書く回想録というものは「春の戴冠」のテクストそのものであると言ってもいいわけですが、その「春の戴冠」は、実際のフィレンツェやボッティチェルリとも離れた、一つの真実在として、それそのものが大きな価値として光り輝く浮島のようにこの世界の上に存在している、ということで、それがゆえに、フェデリゴ=辻邦生は、メディチ別邸での宴をこと細かく描写し、それはもちろん実際にあったものではないのですが、それでもフェデリゴ=辻邦生が真実在として言葉によって世界を作り出し、それを読者は真実在としてありありと生々しく感じている、ということなのでしょう。
辻邦生「言葉の箱」では、小説に大切なものは、「詩」、「根本概念」、「言葉」である、と書かれています。
小説を書く場合、(中略)世界を超えてしまうか、世界を拒否しているかで、何もない無の世界にいる。そして、言葉によって新しい世界を、新しい人物を作っていくわけです。この感覚がないと、強い作品は生まれません。
162ページ
まさに、先に言葉があって、そこから新しい世界を作るという、素朴な意味での、認識の対象と主体の逆転のような事態が起きています。西田幾多郎の哲学で純粋経験という概念があって、最初に主体も客体もない、経験そのものがあって、そこから世界が立ち現れる、というような趣旨なのですが、それに近いものを感じるという意味では、最初に出てきた西田哲学用語の「真実在」というもあながち間違ったものでもないのでは、と思います。
今日は長々としたものになってしまいました。最近、なかなか書く時間が取れませんでした。ですが、やっと9月末でひとつ山を越えました。次の山も半月後にあって、山ばかりなんですが、どうしたものでしょうか。もう少しタスクは選んだようが良いかも、と思ったりもしております。
それではみなさま、おやすみなさい。
先日、とある機会があり、全寮制の男子校(高校)の側を通りました。寮の前のグラウンドで、サッカーに興じる生徒たちと、それを寮生たちが2階から身を乗り出して眺めていて、声援を送っていました。一階にはその様子を眺める女性教師がいて、という感じ。なんだか、旧制高校みたい。といっても旧制高校をみたことはありませんけれど。
旧制高校の特別な空気のようなものは、辻邦生の小説(特に「風越峠にて」など)で、その雰囲気がよくわかります。そういう空気はきっともう無いと思っていましたが、意外にもあるのかも、などと。
一昨日の秋分の日に、NHKで放送されている「らららクラシック」の再放送を見ました。エリック・サティの回で、ジャズミュージシャンの菊地成孔さんが出てました。成孔さんは、実は大学時代のサークルにゆかりがあって、一度だけお会いする機会があってセッションしたことがあります。成孔さんのサックスが壊れたのだが、レコーディングに使わなければならず、当時私がとある方からお借りしていたカイルスベルスのテナーを使われる、ということで取りにいらした時でした。今はもう遠い方ですけれど。
番組の中で、サティは、モンマルトルで音楽を書いて、みたいな話のつながりで、成孔さんは「自然のなかでは落ち着かない。歌舞伎町のような街中でないとだめ」という趣旨のことをおっしゃっていました。逆に、自然の中でないとだめな方もいるわけで、番組では、「人間の芸術と自然の芸術のふた通りがある」という話になりました。
以前にも聴いたことのあるようなコンセプトだったりしますが、辻邦生はどうだったのだろう、と思ったり。たぶん両方だったのだろう、と。
辻文学は、自然描写も凄まじいですが、人間を見入る力も凄まじいです。
私にとって忘れられない自然描写は、おそらくは、「背教者ユリアヌス」の冒頭、霧の中から城さいが現れるシーンでしょう。それから、人間を見る目、という意味でいうと、「ある生涯の7つの場所」に出てくる女性たちが忘れられず、エマニュエル、朝代、咲耶と言った女性たちは、時代設定は古いですが、何か新しい時代を自由に生きる人間の姿を感じさせ(女性の姿ではなく、人間の姿、です)、忘れることはできないです。それから、雨の都会が好き、というフレーズを何度となく読んだ記憶があります。確か、「言葉の箱」だったかと記憶しています。
ですが、もう1つ。辻邦生の場合、「本の芸術」、というのもあるな、と思いました。以前にも書いた気がしますが、菅野昭正さんが、週刊朝日百科で、辻文学を「本の小説、小説の本」と称していたはずです。
https://museum.projectmnh.com/2016/03/21225416.php
歴史小説とは、歴史という「本」からインスパイアされるものである以上、辻文学は「本の芸術」という側面もあるのではないか、ということだと理解しています。歴史だけではなく、多くの哲学書を読まれていて、それらを活かしたというのも、やはりまた「本の芸術」といえるのではないか、と思います。
こうして、辻文学は、「人の芸術」でもあり「自然の芸術」でもあり、「本の芸術」でもある、なんてことを勝手に思いついてしまったというわけです。
自分のことに翻ってみると、芸術家ではないにしても、個人的にはやはり自然が好きなんだろう、と思います。街の喧騒も嫌いでありませんが、静かな山奥でひっそりと過ごすことにも憧れます。育った場所や、親の記憶、自分の記憶などがそうした志向を形成しているのだと思いました。
あとは、やはり本も。昔読んだ子供向けの西欧小説の記憶も。「若草物語」「家なき子」「パール街の少年たち」「ゆうかんな船長」「ロビンソン・クルーソー」「海底二万海里」「十五少年漂流記」などの記憶は薄れることなく、あのような世界に立ち返りたいという欲求は抑えがたいものがあります。辻邦生の小説、特に西欧を舞台にした小説に共感するのも、こうした記憶があるからではないか、と考えています。
今日、9月24日は辻邦生の誕生日です。1925年生まれということですので、91年目ということになります。
それではみなさま、良い1日を。
昨日少し触れましたが、今、吉田健一の「金沢」を読んでいます。
きっかけは、辻邦生のエッセイに登場したから。吉田健一と辻邦生の交流がかかれているのですが、辻邦生が吉田健一論を書きたいと思ったが、そこまで至っていない、という趣旨のことが書いてあり、読んで見ることにしました。辻邦生以外の日本文学については不勉強なわたくしは、名前は存じていましたが、作品を読むのは初めてでした。
で、読み始めると、この息の長い文章のリズムが、本当に素敵で、長い文章のリズム感、あるいは波のようなうねりに身体が乗ると、とても心地が良いのです。ある意味辻邦生の文体にも似ている、と強く思いました。
これを手にとってみて、あ、ゴルトベルク変奏曲を、聞かないとと思ったのも、静謐さを感じたから、ということもあるでしょうし、音楽的なリズムのようなものを感じたというのもあるのかも。
秋雨ということで、雨が続いていますが、こういう雨の風情を感じる余裕がもう少しあれば、と残念です。
それでは。