Miscellaneous


いろいろとあった一週間でした。なんというか、いつもと違う時間を過ごしましたので、たくさんの気づきを得ました。個人的な気づきもあれば、社会的な気づきも。あるいは未来に向けた展望も。

しかし、やるべきことはなかなか終わらず。

いつかも書いたかも知れませんが、人生を成し得るには、戦略はもちろん、仔細にわたるタスク管理の技術が必要で、特に、偉い方々のように秘書やかばん持ちを持たない個人には、それを一人でやるための工夫が必要です。それができないと、偉い人との差は広がる一方です。うまくやっているつもりですが、まだまだ工夫の余地はありそう。頑張らないと。

今日も明日も良い天気。冒頭の写真は、先日撮った新宿。冬の東京の晴天を「日本晴れ」と表現しているドラマの台詞を聞きましたが、明日も「日本晴れ」のようです。

つれづれですが、今日はこの辺りで。それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Wagner

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夕暮れ。冬晴れの関東の美しさは奇跡的です。雪に閉ざされる冬ではないのがありがたいです。

最近やめられなくなってしまった、こちら。リオバ・ブラウンとペーター・シュナイダーのアルバム。

よく知られているように、歌詞は、当時不倫関係にあったとされているマティルデ・ヴェーゼンドンクによるもので、そうした不倫関係が《トリスタンとイゾルデ》につながったといいます。この歌曲集は、《トリスタンとイゾルデ》の作曲時期と重なっていることで、曲想が非常に似ています。

「ヴァーグナー大事典」によれば、「夢」「温室にて」の2曲が《トリスタンとイゾルデ》を先取りしているそうです。

ですが、私は第4曲「悩みSchmerzen」が《トリスタンとイゾルデ》の和声の感覚にマッチしていると思いまして、繰り返し聴いてしまいました。どんどん続いていく転調めいた旋律が、人間なのかあるいは世界なのかわかりませんが、永遠の流転を表しているように思うのです。音楽というのは本当に恐ろしいものです。世界と直接繋がり、人間の心に直接アクセスしてきますから。

それから、《パルジファル》のクンドリのパートも入っていて、先日も触れたように、こればかりはもうたまらない美しさと悲しさと優しさと妖しさなんでしょう。クンドリはパルジファルを誘惑する際に、この歌の中でパルジファルの母親の記憶をパルジファルに喚起させようとしますが、その妖しさ。母親を使い男を誘惑するという恐ろしさ。ワーグナーは文学と音楽の両面における天才だったということがよくわかります。

なんだか昨今いろいろと世界認識が変わっているのですが、そうした気分になったのもこのアルバムを聴いたからだと思いました。

今朝は早起きでやっと書けました。今日いちにち良い日でありますように。

SF

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)
クラーク
光文社
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アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」を読みました。光文社から出ている新訳をKindleで。これは、高校か大学の時に読みたかった本。当時はアシモフは読んでいましたが、クラークは今ひとつ読んでなかったかも。いまさら感ありますが、なにか読んだあとにじわりとくるものが。

ネタバレあるかもしれないですが、これは、喜劇なのか悲劇なのか、という問題。「砂の女」を読んだ時も、やはりそう思いました。オーバーマインドと合一した人類は、果たして滅亡したのか、進化したのか。その割り切れなさ。そして、子供が変やつし去って行くと言う設定。死別でもなく、離別でもなく、変容によると分かれ。この哀しみこそが文学なのだ、と強く思います。

そして、これは未来史小説。歴史と物語が同じものであるということを感じさせます。連綿とした未来史のなかで、運命あるいは必然に抗い決然と生きる人間たちの姿は、例えば、辻邦生「春の戴冠」のフィオレンツァの人々や、「天草の雅歌」の長崎の人々のように思いました。必然の歴史の中で、自我と自由を守ろうとし、あるいは取り戻そうとする人たちを書くこともまた文学だとも思います。

それにしても、この名状しがたい読後感。丁度、日経サイエンスで人類の未来についての記事を読んでいただけに、この先1000年、2000年後の人類を思うと、目がくらみます。こうしたことを考えるのも矢張り文学なんだろうなあと思いました。

一週間終わり。来春はまた別の種類の仕事を一週間。不安は多い。今、帰宅中ですが、家でとりあえずワインを飲みたい気分。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Classical

今日もペーター・シュナイダー。

昨日紹介した音源を繰り返し聴いてしまいました。

ペーター・シュナイダーといえば、もう本当に懐かしい思い出がたくさんある指揮者です。2007年に見た新国立劇場《ばらの騎士》は、私にとって最大のオペラ体験でした。ずっと泣いていたのです。感動して感動して。

そういえば、ドレスデンで見た《カプリッチョ》を振っていたのもやはりペーター・シュナイダー。その頃はまだシュトラウスのオペラを分かったとは言えない状況ではありました。それから、東京フィルを振った《ばらの騎士》組曲の思い出も。新国立劇場で《ローエングリン》もみましたし、インターネットラジオで聞いたバイロイトの《トリスタンとイゾルデ》もやはりペーター・シュナイダー。

しかし、さすがの私もそろそろ記憶が変容してきたようです。今はなにか華々しい記憶ではなく、なにか落ち着いた熟成した記憶へと変化しているような気がします。以降、二回、合計で3回同じプロダクションを見ているということもあるでしょうし。
ただ、圧倒的な祝祭感は、2007年のプロダクションに勝るものは無いなあ、とおもいます。恐らくは、記録映像などを見ても同じ気分を持つのことはないでしょうし、あるいは、同じ気分を持てないという恐れがありますので、記録映像を見ることもないでしょう。こうして、あの記憶は、おそらくは少しずつ変質しながら、わたしのなかに留まり続けていることになりそうです。記憶が愛おしく思える今日このごろ。人生とは記憶ではないか、とも思います。

人生こそ記憶。あるいは記憶こそ人生。それはまるで、歴史こそ実在、と言い換えられるような状況でもあります。

では、おやすみなさい。グーテナハト。

Richard Wagner

Photo

うーむ、なんだか色々ありすぎる毎日で、息をつく暇もありません。毎日書きたいこのブログも、なんだか1種間以上休んでしまいました。でも、今日はこちらを聴いて癒されました。

リオバ・ブラウンの歌うワーグナ。指揮はペーター・シュナイダー。この二人のワーグナーは本当に素晴らしいです。憂愁とタイトルに書きましたが、筆舌に尽くしがたいものがあります。何か、古くて品のある日本家屋が雨にうち濡れているような感じとでもいいましょうか。おそらくはそこには着物の女性がいて、外を見やっているような、そういう感じ。特に、《パルジファル》のクンドリが歌う例の歌は、パルジファルを誘惑する場面でありながらも、そこに品格があるような、そういう世界でした。本当のことがない世界において、ごまかしがきかないこういう世界ばかりだけが真実だなあ、と思いました。

12月に入って冬本番です。みなさまお身体にはお気をつけください。

それではおやすみなさい。

Ludwig van Beethoven,Miscellaneous

Photo

今日の東京の日の入りの時間は、16時28分とのことで、とうとう16時半より前に日が沈む季節になりました。おそらくこれ以上遅くなることはなく、次は、日の出の時間がどんどん遅くなります。冬至に向けてあと30分は遅くなります。あともう1ヶ月で冬至ですが、それからどんどん夏へと向かうことになります。この辺りの感覚は、AppleWatchの日の出日の入り時間を見るようになってからきにするようになりました。こうしたITのツールで自然を感じるというのもまた良いものです。

それで、今日も、仕事場の窓の外は、冬晴れの中、光に満ち溢れていました。海も見えるのですが、太陽の光を反射して金色に輝いていて、ヴィスコンティの「ヴェニスに死す」を思い出してしまいました。最後の場面、タッジオ少年が光の中に溶け込んでいる風景。ただ、あの映画はさすがに難しかった気も。

それから、徐々に日が沈むにつれて、ビルが夕日を反射してオレンジ色に光り輝いているのを見たり、水平線の向こうが、鈍色とモーヴのグラデーションに染めあがっていたり。冬の澄んだ空気は、どのような光であっても、風景を絵画のように仕立て上げる力を持っているように思いました。

今日はこちら。バーンスタインの第九。

ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 バーンスタイン(レナード) ジョーンズ(ギネス) シュヴァルツ(ハンナ) コロ(ルネ) モル(クルト) ウィーン国立歌劇場合唱団
ユニバーサル ミュージック クラシック (2008-09-03)
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別に、年が押し迫っているから、とかそういう理由ではなく、マーラーの9番かと思いAppleMusicで再生したら、実は第九でした、という感じ。ですが、聞くとやはりバーンスタインらしい恍惚とした素晴らしいベートーヴェンで、2回ほど聞いてしまいました。明日も少し聞いてしまいそう。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

Photo

今日も徒然なエントリーになってしまいますが、また本が読めない病にかかっている気がします。

ちょうど半年前のエントリー。ここにかかれている状況がまた訪れました。

本を読むとは。

何かに追われて、本を読む時間をとることができない、という病です。いや、読む時間はあるのです。ただ、そうした時間は他の諸事雑事に消えていってしまうという状況。

Kindleで本を選ぶと、必要な時間が表示されてしまうのですが、いきなり「6時間」と表示されると、正直言って躊躇してしまいます。かつては、スマホもなく、電車に乗っている時間がすなわち読書だけできる時間だったので、躊躇することなく読書できたのに、今はスマホができてしまったが故に、溢れているタスクを電車の中でやろうとしてしまう、ということなんでしょうかね。

いよいよ、スマホをやめてガラケーに戻す、というアイディアがよぎってしまうぐらい。そういえば、数ヶ月前に読んだ某コンサルタント会社の人の記事に、あえてガラケーを使う、というのがあったなあ、などと。

いずれにせよ、この問題は、どこまでいっても精神的な問題ですので、いつものように、良い解釈を考えて、いい解決策を見つけないと、と思います。つまり、自分が読書をしても良い、と納得するための建てつけを考えないと、ということです。もしかすると、続きのあるテーマになるのかも。

写真は、今日の夕暮れのもの。明日の東京地方はどうやら雪になるようです。いつもより1時間早く家を出るべく、今日はそろそろ寝ることにします。おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Miscellaneous

毎朝、6時に起きる生活。そのために、5時50分と55分に目覚ましがなるようにしています。が、5時半ごろには目が覚めてしまいます。

今日もやはり、5時半ごろから目が覚め始め、6時に向けて起きようとしたところで長めの地震でした。テレビをつけると津波警報ということで、本当に東北の方々の不安に共感しながら身支度をして仕事場へ。向かいながら、NHKのストリーミングを見ました。なにか、この瞬間をきちんと共有しなければ、という感覚があったのでした。福島第二原発の冷却ポンプが停止したというニュースに肝を冷やし、宮城にも津波警報が発令された瞬間、アナウンサーがいっそう緊張して、避難を呼びかけるのを聴きました。とにかく、同時代の出来事として、同じ時間に同じ感覚を持っていたかったということがあります。

また、真実というものは時間が経てば覆い隠されていくものですから、その瞬間瞬間に現れると思われる統制されない真実のようなものを見据えたい、という思いもあったと思います。東日本大震災の時にテレビに映し出された、田畑を侵食する黒い津波や、何十台もの車が流される映像は、今やテレビで放映されることはありませんし、1999年の同時多発テロで放送された高層ビルにボーイングが吸い込まれ爆発するシーンなども、もはや普通には見ることはできないのですから。真実というものは徐々に隠され、その意味を失っていくものなのだ、と思うので、せめて、その時に見ておかなければ、という思いがあったのだと思います。

怪我をされた方が何名もいらっしゃったり、朝早く寒い中避難されている方もいたりと、本当に大変な出来事だと思いながら、いつどこに来るかわからない地震の恐ろしさを感じていました。しかし、日本に住む以上は、全員が負わなければならない宿命ですし、日本という土地につながったものとして、ただただその恐れは受け入れておかなければならない、ということも思いました。これはもう、日本人が自然崇拝をしてきた理由がまさにこうした地震や火山といった災害があるがこそ、ということなのだと改めて思いました。自分たち人間の努力では限界のある出来事があるからこそ、何か自然に宿る神的なものに祈るしかない、ということが、日本人的な感覚なのだ、という気持ちになっています。

そんな今日はこちら。ブレンデルが弾くバッハのイタリア協奏曲。バッハの世界はおそらく世界はもっと確固たるものなんだと思います。そういう均整が素晴らしいです。ドイツではあまり地震がないそうです。こういう曲はそういう土地にこそ生まれたものなんでしょうかね。

Italian Concerto

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それでは皆様、ありがとうございます。おやすみなさい。

Jazz

Photo

今日は、沿線のとある場所へ。紅葉が見事。これもまた絢爛です。心も洗われた感じ。ですが、ちと重労働で、ヘトヘトになって帰宅。その後、再び買い物で重労働でヘトヘトに。。

今日はこちら。

Man of Many Colors

Man of Many Colors

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Walt weiskopf Quartet Walt Weiskopf Brad Mehldau John Patitucci Clarence Penn
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大学時代は、ジャズのサクソフォーンを吹いていました。ジャズは大好きなのですが、最近思うにホームグラウンドはやはりクラシックだったんだろうなあ、と思います。

ジャズミュージシャンは、知っているようであまり知らなくて、社会人になってから、ジェリー・ベルゴンツィを知ったりしてお恥ずかしい限りなのですが、このウォルト・ワイスコフも、初めて聞きました。この土曜日のNHK-FMの「世界の快適音楽セレクション」で取り上げられていたのです。

いやあ、こういうバリバリしたサクソフォーンの音は本当に大好きでして、一人好きなサクソフォニストが増えました。ベースはジョン・パティトゥッチ、ピアノはブラッド・メルドー。うーん、いいサウンドだ。秋吉敏子のビックバンドにいた方のようで、これまでも聴いたことはあったかもしれません。バラードも素敵でして、なんだか心が休まりました。

ジャズは、朝に聞いたり、疲れて帰宅する通勤電車ではなかなか聞けないですね。週末の夜更けに一人で聞くのが一番いいかなあ、と思います。

明日からまたウィークデー。でも水曜日は勤労感謝の日。嬉しい日ですが、その日に勤労される方もいるわけで、なんともかんとも。。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

最近、悲しいことがありました。もしかすると、何かしらのことがあれば、回避できたのかもしれない、という、悲しい出来事でした。それも、なにか勝手な想像なのかも知れず、詳しい事情もわからず、わかっているのはただ結果だけなのですが。また、なにかしらのことがあれば避けられた、というのも勝手な想像で、あるいは自己満足とでも言える解釈なのかもしれない、とも思います。ただ、振り返ってみたときな、やれることがあったのでは、という思いが残っているだけで、その可能性も、実際にはできなかったのだから、結局は不可能だったということに過ぎないということも分かっているのですけれど。

世界は、無限の偶然から成り立っていて、まるで一キロ先の針の穴に糸を通すとか、砂浜から一粒の小石を見つけるような偶然が、あたかも運命であるかのような必然性を帯びて見えてしまう、という状況なのだと思います。J.P.ホーガンの「プロテウス・オペレーション」を30年ほど前に読みました。あれはパラレルワールドを描いたものでしたが、「原子が一つ動くか動かないかだけで、世界は分岐し、パラレルワールドが生じる」という内容が書かれていたと記憶しています。パラレルワールドがあるかないかはともかく、原子が一つ動く動かないというレベルの積み重ねが世界を作っている、ということになるのでしょう。

プロテウス・オペレーション (ハヤカワ文庫SF)
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なので、悲しい出来事も、うれしい出来事も、そこに因果があるかなように見えますが、本当にわずかな偶然が重なったもの、と思いました。繰り返しになりますが、それを偶然と見るかあるいは必然と見るかは、我々にはコントロールできないという意味において、偶然とも言えるし、必然とも言える、ということになるのだと思います。

今日はこちら。エルガーのチェロ協奏曲。

Elgar: Cello Concerto/Dvorak/Respighi
Sol Gabetta
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