Classical,Gerardo Finzi


昨日のNHK-FMの「きらクラ」。やはり、ラジオはいいです。最近知ったいい曲はほとんどがNHK-FMです。スクリャービンのピアノ協奏曲もこの番組で知りましたが、今回知ったのはジェラルド・フィンジ。イギリスの作曲家で、1901年に生まれ1956年に亡くなりました。今年没後60年。ヴォーン・ウィリアムズよりふた回り、ベルクよりひと回り下の世代です。
昨日はオンエアされたのは、《牧歌(エクローグ)》という作品。Wikipediaによれば、初期のピアノ協奏曲の断片をもとに作成されたもののようです。

Centenary Collection

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なんというか、エンニオ・モリコーネの《ニュー・シネマ・パラダイス》のような雰囲気を持った作品で、懐かしさと優しさに包まれる曲です。

聴いていると、なにか悲しみさえ覚えてしまうぐらいです。なぜなら世の中とはまったく違うものなので、その存在が幻想であるということがわかってしまうので。願わくば、こういう世界が現実であればいいのに、と思うのですが、それは能わないことがわかっていますので、悲しみを覚えるわけです。
最期、調性は短調で暗くなるのですが、本当の最後はピアノの長調の和音で静かに終わり本当に良かったです。これが短調で終わってしまうのはあまりに悲しすぎますので。
ジェラルド・フィンジという方の人生も劇的で映画になりそう。ホルスト、ヴォーン・ウィリアムズ、ボールトとの親交を結び、田舎でリンゴを育てる園芸家でもあった。余命10年を告げられ、自作の初演をラジオで聴いた翌日に生涯を終える。なんという人生なのかと思います。映画のシーンが勝手に現れてきます。ヴォーン・ウィリアムズとか出てくるんだろうなあ。きっと、フィンジの楽曲がふんだんに使われた映画になるはず。

こういったボックスも発売されるようです。今年アニバーサリーだからでしょうか。

A Finzi Anthology
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Gerald Finzi
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幸運な巡り会いに感謝しつつ、おやすみなさい。

 

 

Tsuji Kunio

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昨日、何とか予定を立てて、もう一度辻邦生ミニ展示を観に、目白の学習院大学史料館へ。前回は23日の講演会のなかだったのでずいぶん混み合っていたのですが、昨日はゆっくり見ることができました。

今回も「春の戴冠」のメモをずいぶんと眺めいりました。メモを取るのも忘れてしまった感じ。ただ、自己を棄てるということに美がある、といったことが書いてあったような気がします。誤解される表現かもしれませんが、生死を超越したその先にある価値のようなのかも、と思います。

今日も「春の戴冠」の最後の部分を読んでみたのですが、謎は深まるばかりです。

もっともそういう感覚が、最近よくわかるようななってきたので、少しずつ辻文学が理解できるようになりつつあるのかも、と思ったりしています。

文学は人生論ではありませんが、辻文学は語られる哲学であるはずで、おそらくは哲学の主題は人生である以上、辻文学を読んで自らの人生を考えるということも許されるのではないか、と思いました。

今日は取り急ぎ。おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner,Miscellaneous

週末は実家にて短い夏休みでした。すべてを止めてみたのですが、まあ、やっぱりオフは必要なのかも、とあらためて。

これからの計画表を作ろうとしたのですが、それもやめて、夜は早く眠り、早めに起きてみたりしました。夏の日差しを避けて、夕方、涼しくなってから散歩をして、蝉の鳴き声が、クマゼミのそれからツクツクボウシのそれに変わりつつあるのを知り、酷暑の中に秋の気配を感じたり。散歩の途中で驟雨に襲われ雨宿りする場のない畑道で行き場を失ったり。
今日は仕事場で溜まった仕事を片付けながら、いろいろ悟ってしまい、まあ、なんとなく大きな流れに中にあるから流れのなかでベストを尽くそうと思ったり、あるいは、世界は悲しみの中にあるがゆえにそれを肯定することから始まるのだ、と思ったり。

今日はこちら。

ブルックナー:交響曲第7番「テ・デウム」
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チェリビダッケのブル7。ブルックナーの交響曲の中でもっとも優雅な美しさを持っていると個人的には思います。チェリビダッケの指揮は、今聴くと、昔のような重さをあまり感じず、むしろのびやかなはばたきのようなものを感じます。

ちなみに、題名はこちらのパロディです。内容を思い出しただけで涼しい。。

長い冬休み (アーサー・ランサム全集 (4))
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それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハト。

Johannes Brahms

先日、クライバーのブラームスを聴いたと書きました。颯爽としている、と書きましたが、そうではないブラームスも聴いてみたくなり、そういう意味では、誰だろう、フルトヴェングラーかクレンペラーか、みたいな想像をしたのですが、ふと思いたってチェリビダッケのブラームスを。

ミュンヘンフィルではなく、もう少し若い頃のシュトットガルト放送管時代のもの。これ発売された時は嬉々として買ったのですが、いまはAppleMusic で聴けてしまいます。

今日はブラ4を。それにしても陰影の濃い演奏。テンポが異様に遅いというイメージを持たれがちですが、この演奏はそんなことはありません。また、結構あっさりとした表現もあって驚きます。

Conducts Brahms-Sym 1-4
Conducts Brahms-Sym 1-4

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それにしても、暑い毎日。こんな日にスーツを着て外出するのは辛いです…。ますます暑くなっているというのに。

今年からはクールビズは9月までらしく、10月からはネクタイが必要だそうです。裏の事情があるよのではないか、と思ったり。とにかく、今年は残暑がないことを願うばかりです。

それではおやすみなさい。

Johannes Brahms

昨日は近場に出張。パターンが違うと本も音楽も読めませんでした。しかも蒸し風呂のような天気。

今朝は、遠雷の音で目覚めました。どうやら東京南部や神奈川で随分雷がひどかったとのこと。交通機関も乱れたようで大変だった方もいらっしゃると思います。

今日は、いつものように仕事場に向かいましたので、久々に音楽をじっくり。クライバーのふるブラームス交響曲第4番。なぜかブラームスが聴きたくなり。。

Brahms: Symphonie No. 4 / Carlos Kleiber, Wiener Philharmoniker
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なんだか、クライバーのブラームス4番は、本当に颯爽としています。私のデフォルト音源はショルティだったのですが、そちらもやはり颯爽としているのですが、クライバーもやはり颯爽としています。それはそれで素晴らしいブラームス。確かに、夏に聴くには良いのかも。

ですが、もしかすると、秋や冬になるともっとどんよりとした黒々としたブラームスを聴きたくなるのかもしれない、などと思ったりもしました。

明日も暑い日が続きそうです。夏バテしないように気をつけながら過ごしたいと思いますが、皆様もどうかお気をつけてお過ごしください。

それでは、おやすみなさい。

Miscellaneous

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梅雨が明けて、夏が本番ですね。青い空。その向こうに積乱雲と夕立が見えます。日差しは強く本当に素晴らしい天気。

これで暑くなければ最高なのですが、うだるような暑さの1日でした。今日は、はやめに起きてきになる仕事をぐいぐいとやりました。

明日から8月で、いよいよ夏も本番ですね。私はすでに夏風邪を体験しました。みなさまも体調にはお気をつけください。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

 

 

 

Tsuji Kunio

西行花伝 (新潮文庫)
西行花伝 (新潮文庫)

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嵯峨野明月記 (中公文庫)
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昨日、「浮舟」について書きましたので、それに関連したことを。

私は、某大学の国文科を受けました。一次試験は通りまして、面接を受けたのですが、まあそこで落とされましてた。面接に際して、試験官に「大学に入ったら、辻邦生の研究をしたい」といったところ、試験官に「最近は、日本のものを書いているようですね」言われたのです。確かに、当時、ちょうど「西行花伝」が連載中でした。ですが、わたしはまだ「西行花伝」に到達しておらず、「そうですね、『嵯峨野明月記』とか、『江戸切絵図貼交屏風』とかですね」と答えたはずで、それが理由かどうかはしりませんが、二次試験で落とされたというわけでした。

まあ、辻邦生の研究室をしたいのなら、フランス文学か哲学をとったほうが良いと思いますし、実際通った哲学科で触れた西欧的な教養や西田哲学のほうが辻文学の理解の助けになっていると思います。

そういうわけで、国文学には縁がなかった?ので、おそらくは「西行花伝」は難しい部分があるのです。あの幽玄な和歌の世界は、さすがに私のリテラシにはないもので、ほんとうに理解できているのか、と思うことがあります。「西行花伝」に現れる西田哲学的な要素は理解ができるのですが。まあ、確かに、古文は苦手科目でした(文法の暗記ばかりだったのと、先生と馬が合わなかったから?)。だから国文科の試験に落ちたとも言えます。

辻文学のすごいところは、西欧的な要素に加えて、日本的要素が多分にあるところだと思います。「嵯峨野明月記」に現れる豊かな語彙は、おそらくは、「背教者ユリアヌス」や「春の戴冠」とは異なる古文的な語彙群で形成されています。また「風越峠にて」のなかに現れる万葉集の解釈は本当に素晴らしく、古文の教科書を超えた小説家の想像力が花開いたものだ、と高校生ながらに感動したものです。

数ヶ月前から「西行花伝」を、もう一度読もうとしながら、なかなか進むことができないのは、時間が取れないということもありつつ、わたしのリテラシの問題も、あるのかもと思うのですが、私も齢を重ねましたので、そろそろ国文学の機微がわかるようになり始めているかもしれず、あきらめずに読まないと、と思います。

そういえば、辻邦生のエッセイの中に、日本の古文書を読むのに苦労する、といったこととが書いてあった記憶がよみがえりました。活字化されているのは問題ないが、草書の古文書は難しい、といった内容だったでしょうか。

今日もいろいろと書きましたが、やはり、読む方も頑張らないと、と思いを新たにいたしました。

Tsuji Kunio

辻邦生のご命日である7月29日が今年も参りました。

あれから17年ですか。毎年どんどん遠くへ来ているような気がします。

17年前の新聞の切り抜きも、随分と古くなりました。

写真 1 - 2016-07-29

今日は学習院では「遠い園生」の朗読会があったようです。平日ですので、さすがに今日は参れませんでした。

今年の学習院大学史料館の展示で、嵯峨本の「うきふね」が展示されていました。嵯峨本は、もちろん「嵯峨野明月記」に登場しますし、「浮舟(うきふね)」は、もちろん「西行花伝」の次に描かれる予定だった小説で、源実朝が主人公の小説です。

この辺り、詳しくは辻佐保子さんの「辻邦生のために」に経緯が書かれていますし、「微光の道」冒頭の「地の霊 土地の霊」にも記載があります。特に「辻邦生のために」に書かれたドキュメンタリーのような内容は、手に汗を握るものです。先ほど改めて読み直してみて、何か気が遠くなる思いでした。

もし「浮舟」が書かれたら、ということを、先日の展示を見ながら思っていました。

17年も経ちましたが、きっと永遠になっているのだと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。

Tsuji Kunio

「春の戴冠」のひとつのモチーフが「永遠の桜草」でした。桜草という美の「原型」をどうやって永遠に保持するのかという問題と理解しています。あるいは、それは、イデアールな美のようなもの、美そのもののようなもの、絶対的な美のような超越的な観念があって、それが、例えば桜草において分有されていて、という文脈で捉えています。私のいささか単純な理解なのかもしれません。
そうした、イデアールな何かを目指すことが神的なものへと繋がる道で、「暗い窖」という言葉で示されるような虚無への墜落に対抗するものだ、ということだと思っています。

先日、この「春の戴冠」の終局の場面を読んでいた時に、この「原型」という言葉が、逆の意味で使われている、ということに気づき、背筋が凍る思いでした、それは、やはりサヴォナローラの騒ぎが起こったのちに、サンドロが語る言葉の中にあります。

原型の繰返しじゃないだろうか。いかにも次々と出来事が起り、その都度 、びっくりするようなことばかりだけれど、もっとよく考えると、ただ同じ原型が、別の意匠をまとって現われるにすぎないんだ。ぼくらはそうした幾つかの出来事の原型を持っていて、それがぐるぐる廻転して現われるのを見ているんだ。

まるで、桜草が、イデアールな美を分有しているように、サヴォナローラをめぐる騒ぎも、やはり「原型」の繰り返しの一つに過ぎないということ。つまり、結局は、同じことが繰り返されるということ。逆に言えば、何も変わらないということ。先日も書いたように、「嵯峨野明月記」で、本阿弥光悦が加賀に赴いて、冬の日本海の波濤を見て、世の中の動きというものはこの波のように繰り返し繰り返し打ち付けるものだ、と悟るシーンがあったと記憶しています。あの諦念と同じものを感じます。

また何か薄暗い諦念のようなものになってしまいますが、様々な歴史は繰り返さざるをえないのだ、ということなのでしょうか。良いものも悪いものも。

歴史は終わったということを感じることがあります。ここでいう「歴史」というのは、ヘーゲル的な、進歩する歴史なわけですが、そうした進歩する歴史が終わるということは、過去への回帰が生じるということなのでしょうか。願わくば螺旋系に上昇する歴史であってほしい、と思います。
今週に入って風邪をひいてしまいました。東京は、この一週間急に寒くなりましたので。ですが、今日、梅雨があけ、夏が戻ってきました。やっと東京も夏ですが、うまく乗り切りたいです。
それではみなさま、おやすみなさい。

Tsuji Kunio

昨日の続きです。

フィレンツェでサヴォナローラが影響力を持ったあとのこと。焚書坑儒のような<虚飾の焼き棄て>で多くの文物が焼かれるような出来事があったのですが、それは、まるで文化大革命の紅衛兵のように若者達主導で行われる設定になっています。少年巡邏隊という組織が、<虚飾の焼き棄て>で焼き棄てるものを集めて回るわけです。

フェデリゴの娘アンナも少年巡邏隊の一員でしたし、最後まで、サヴォナローラのもとに身を寄せて、行動を共にするのですが、サヴォナローラ失脚後、反サヴォナローラ派のサヴォナローラ派弾圧に際して、アンナを弁護しようと、フェデリゴが考えている言葉が以下の言葉です。

この世に人間がいるかぎり、決して実現できないとわかっている正義や愛や単純さを、この子はただただ純粋に受けとり、地上に実現できると信じたのです。この子の気持には一点の疚しいところもありません。この子は忍耐したり、やり過したり、一時的に他のもので代用したりする世間の知恵を知りませんでした。この子は理想に遠まわりをさせることに我慢できず、遮二無二それを地上に実現しようと無理をしたのです。皆さん、この子がそうなったのはまだ子供だったからです。名目だけが通って、実体がしばしば姿を消している人間の世界のことを、あの子はまだ十分知らなかったのです。この子は心の素直な子です。こんな素直な、親思いの、生真面目な子も稀です。この子が悪いのなら、皆さん、人類全体が悪いことになりはしませんか。

辻邦生「春の戴冠」
まあ、若い人というのは、こうした理想に燃えるのが普通です。私もやはりそうした思いを感じていた時期もなくはないので、気持ちはよくわかります。最近世界で起きている様々な出来事も、きっとこうした若さのなせることと関係がなくはないのだと思います。もちろん、世界の歴史、日本の歴史で起こった様々なことも同じです。

私が、こうした若さゆえの理想の諦念を悟ったのは、やはり辻文学からの示唆で、何度か書いているかもしれませんが、「嵯峨野明月記」のなかにあった、俵屋宗達の哄笑のくだりと、本阿弥光悦が権力のうねりを北陸の海岸の波濤に思いを寄せているシーン、の二つから体得したように思います。

そうした大人の知恵は、物事をうまく回すためには必要なことです。ですが、そうした大人の知恵は、無罪とされたサヴォナローラを権力の算術で死に追いやったのではないか。

私は、この暗い諦念のようなものを思うと、辻佐保子さんが書かれた以下の文章思い出してしまうのです。「辻邦生のために」にかかれた、軽井沢の山荘での辻邦生の様子です。

夕方は、すっかり日が暮れるまで、黙ったまま食堂の椅子に西の窓に面して座り、深い瞑想にふけっているようだった。私はその様子を見ていて、どうしても声をかける気持になれなかった。

辻佐保子「辻邦生のために」

生きるための世間の知恵は偉大です。ですが、それだけでは何も変わらず、変わりえない。それでいいのですが、それは寂しくあるいは辛いものだ、ということ。

これは、私の勝手な解釈で、あるいはこれはもはや小説的なフィクションになってしまっているのかもしれませんが、辻邦生の最晩年、山荘の窓から浅間山を眺めながら思っていたことはこういう諦念ではなかったか、と考えてしまうのです。実際のことは私にはわかりませんが、私の中の現時点での辻文学はそうなってしまっています。

この先は明日。