1日遅れですが、15日が勝手にオペラの日、ということで、オペラの話題を。昨年の夏以降、何度となく聞いたシュトラウス最後のオペラ「カプリッチョ」のことから。
カプリッチョにみる音楽の優位性
一体、伯爵夫人マドレーヌは、詩人のオリヴィエが好きなのか、作曲家のフラマンが好きなのか? 二人に求愛されて伯爵夫人は困っている。なかなか決められない。ここでは、伯爵夫人はオペラのメタファになっているのだが、伯爵夫人は、「詩と音楽はわけられないわ」と言ってはいるけれど、実は作曲家フラマンの方が好みなんじゃないかな、と。
オリヴィエには結構冷たかったけれど、フラマンには、明日の11時にお返事するわ、と具体的な日時まで指定してしまう。終幕部でも、オリヴィエが翌日の11時に来るという伝言を執事から聞くと、きっとフラマンはがっかりするわ、とフラマンに気を遣ってみたりしている。シュトラウス自身、作曲家としてはもちろん、文学への高い才能を持っている。インテルメッツォはシュトラウスがリブレットを書いているぐらいだし、ホフマンスタールと堂々と張り合っていることからもよく分る。でも、やっぱりシュトラウスは作曲家なのだ。オペラにおいて、詩と音楽のどちらが優位かと言えば、本音では音楽と言いたいはずなのだ。音楽の優位性を信じていたからこそ、ホフマンスタールとの打ち合わせではまず音楽ありき、という立場で書かれている。だから、フラマンに肩入れをしてもおかしくない。
カプリッチョのリブレットとメタ化
さて、シュトラウスとの綿密な検討をしながら、カプリッチョのリブレットを書いたのはクレメンス・クラウスで、彼も言わずと知れた名指揮者なのであり、結局は音楽家の書いたリブレットなのである。だからといってリブレットの価値が貶められるというわけではない。ギリシア古典を下敷きにした優雅なリブレットはそれだけで価値があるし、物語としてもおもしろいし、オペラを論じる登場人物達への皮肉に満ちた台詞を召使い達に語らせたり、と自己嘲笑的な部分を容れていたりと、なかなか凝った作りなのである。
プロンプターのトープ氏(トープとはモグラという意味)の登場で、オペラ自身の裏側を表側にひっくり返すようなこともやっていて、それを巧く解釈して大いなる成功を収めているのが、ウルフ・シルマーの振ったパリの好演である。
- R.シュトラウス 歌劇《カプリッチョ》 パリ・オペラ座 2004年
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ロバート・カーセンの演出によるこの映像はトープ氏が舞台の下から登場するところから、オペラがメタオペラ(ここではオペラαとしよう)に変わる。その予兆は、伯爵の提案、つまり、この伯爵夫人の誕生日への贈り物としてのオペラ(ここではオペラβとしよう)を考えるプロセス自体をオペラ化(オペラβ化)しよう、という提案においてあらわれている。
月光の音楽の部分は、メタオペラ(オペラα)の対象としてのオペラ(オペラβ)に変貌していて、ボックス席には、伯爵、伯爵夫人、フラマン、オリヴィエ、ラ・ローシュが座って、自分たちが「作った」オペラ(オペラβ)を鑑賞している。それもカプリッチョという題名で、作曲がフラマン、台本がオリヴィエ、演出がラ・ローシュと書かれたスコアの表紙が映し出される。今まで見ていたオペラαが、オペラβを作るためのプロセスであることを印象づける。そして、決まらなかったオペラβの結末は、オペラβに二重に登場する伯爵夫人のモノローグ(オペラαの伯爵夫人は、ボックス席から、オペラβにおいて自分自身が歌うモノローグを聞くことになる)によって、やはり結末は決まらないと告げられるのだ。そうやって結局見ている者を無限の余韻の中に浸らせる。
詩が先か? 音楽が先か?
実際、オペラにおいて詩(すなわちリブレット)と音楽のどちらが優位なのかは分らない。おそらく台本作者は自分が優位だと信じるだろうし、作曲家はそうではないというだろう。
だが、考えてみると、ダ・ポンテはモーツァルトのオペラの台本を書いた作家として語られるわけだし、ジャコーザやイリッカがどんなに美しい物語を書こうとも、まず最初に出てくるのはプッチーニの名前である。ホフマンスタールは、台本作家である以前に文豪だから、世界文学全集に登場しているのであって、オペラ作家としてではない。マクベス、オテロは、シェークスピア劇をオペラ化したわけで、まず先に偉業としてのシェークスピア劇を前提にしている。だが、ファルスタッフで語られるのは、シェークスピアの名前ではなくヴェルディの名前が先。ワーグナーは自分できわめて文学的なリブレットを書いたけれど、偉大な作曲家として名前が残っているわけで、偉大な文学者として名を残しているわけではない(だからといって、文学的才能がなかったというわけではないのだが)。
音楽が先?
結局は、オペラにおいては「外面的」、「経験的」に音楽の方が優位なのではないか、と考えるに至る。それは僕のオペラの聴き方にも現れている。邪道かも知れないが、僕はまずは音楽を覚えるために、何度も何度もリブレットを見ないでオペラを聞き続ける。音楽を覚えた頃にリブレットをみたり、実際に見に行ったりして、台詞と音楽の対応を楽しむという感じ。いや、それどころか、音楽とあらすじだけで楽しんでいることもある(あまり褒められた話ではないのですが)。
オペラは楽しい
ともかく、オペラは楽しい。聞くだけでも楽しいのだから、観るのはもっと楽しい。初めてオペラを観たときのことを思い出す。新国立劇場で観た「セヴィリアの理髪師」の古い演出だったのだが、幕があいた途端にそこにオペラ空間が立上がったことに度肝をぬかれたのだ。それはもちろん演劇空間であっても歌舞伎空間であっても良いのだけれど、ともかくそこにリアル世界とフィクション世界の結節点があることが分ったのだ。リアル世界がどんなに汚れていて濁っていようとも、辻邦生師がおっしゃるように、芸術は現実の悪を乗り切るためにあるのだ、という言葉を信じたくなる。そんな瞬間だった。
笑いもあればシリアスな別れもある。そしてなにより音楽を聞く楽しさ。歌手の声色に酔い、繊細で重厚で流麗な多面的なオーケストラを聞く喜び。オペラを聴き始めてまだ数年そこそこなのだが、それでもここまで楽しめるようになったのだからこの点については本当に幸せなことだな、と感謝するしかない。まだまだ勉強することはたくさんあるし、もっともっと聞き込んでかんがえないといけないのだけれど、頑張ろうという気持にさせてくれるオペラは凄い。オペラに関わる古今東西の方々、本当にありがとうございます。