ABQ、ベルク「抒情組曲
昨日の続きです。抒情組曲をさらに繰り返し聞いています。
アルバン・ベルクは、シェーンベルク、ウェーベルンと並ぶ新ウィーン学派三巨頭の一人ですね。若い頃にはマーラーやシュトラウスに傾倒しましたが、作風は無調から十二音技法、そして十二音技法と調性音楽の融合へと進んだ作曲家で、オペラで言うと「ヴォツェック」や「ルル」を作曲した方。ブーレーズは「ヴォツェックはオペラそのものの総括であり、おそらくヴォツェックをもって、このジャンルの歴史が最終的に幕を閉じたのである」と語っています。
個人的には、かつてBSで放送されたグラインドボーン音楽祭で演奏された「ルル」に衝撃を受けたのがベルクを聴き始めた始まりです。あの映像はDVD化されていますが、「ルル」についてはまた今度。
ベルクはなくなる10年前から、ハンナ・フックス・ロベッティンという夫ある女性と激しい恋に落ちていたのですが、この抒情組曲はハンナへの愛情が表現されているのだそうです。譜面上にアルバン・ベルクのA・B音とハンナフックスののH・F音が表されているのだそうです。人間の愛憎の問題は何時の時代にもあるもの。興味は尽きませんね。
抒情組曲自体は弦楽四重奏のための作品で6つの楽章を持っています。弦楽合奏版もありますが、第二、第三、第四楽章のみが編曲されているだけです。
実は、私はこの曲を聴いて、素晴らしいと思うのですが、それを言語化する道が見つからずに困っているという状態です。先日も「クラヲタへの100の質問」のなかでも少し書きましたが、一体「音楽が分る」というのがどういう状態のことを指すべきなのかといことを考えずにはいられません。
おそらくはレヴェルがあって、音大の楽理科を出たような方の「分る」と、一般愛好家の方が「分る」というのでは量的な差異があると言うことなのだと思うのですが、それが倫理の問題に発展していって、楽理科の方の「分る」があるべき「分る」であって、私のような駆け出しの音楽愛好家が「分る」というのは許されないのではないか、という怖れがでてくるのです。 まあ、考え過ぎなのかも知れません。
駆け出し音楽愛好家は、そのレヴェルで全力を尽くして、あわよくばレヴェルをあげていけるように日々努力を惜しまず、というところが落ち着く結論なのだとは思います。譜面読んだり本を読んだりして日々謙虚に勉強をします。
ディスカッション
rudolf2006さん、いつも示唆に富んだコメント頂きありがとうございます。
そうですね。常に「分らない」と言うことを自覚することが大事なのですね。「無知の知」とでも言いましょうか。そうした「分らない」ことを自覚しつつ、漸次的に近付いていくことと、個人的なオリジナルな考えをどれだけ出していけるか、ということなのですね。なんとなく気持の整理がついてきました。いつも勉強になるコメントありがとうございます。
Shushiさま こんにちは
「分かる」ということは、「わからない」ということを経由して生まれるのではないかと、私は思っています。
「分からない」ということを自覚しておられる、Shushiさんは、そのことが良くお分かりなんだと思います。
私たちは、私たちなりの気持ち、考えを記述していけば良いのではないでしょうか? 実際にはプロの方々も、同じなのではないかな、と思ったりもしています。
ミ(`w´彡)