新国立劇場/ワーグナー「ワルキューレ」

私も行ってまいりましたよ、新国立劇場の「ワルキューレ」。5月12日のマチネ。とはいえ、終わったのは19時半。実に濃密な5時間半でして、最初からのめりこんで時を経つのを忘れました。こんなに濃密にオペラ時間をすごせたのは久しぶりかも。それほど僕にとってすばらしい経験でした。

「ラインの黄金」との時はここまでのめりこめなかったわけです。原因のひとつは体調管理に失敗したということ、もうひとつは、やっぱり僕は「ワルキューレ」と「神々の黄昏」がすきなんですね。「ラインの黄金」の聞き込みが足らないということでしょう。

第一幕、のっけからジークムントのエンドリク・ヴェトリッヒさんの声にやられてしまう。雄雄しくて鋭利な声で少しく逡巡を含んだ表情も併せ持つ声。ジークムントの強さと繊細さにぴったりです。ジークリンデのマルティーナ・セラフィンさん、本当にすばらしくて、私は涙が止まりませんでした。パワーもあるし安定している。それだけですごいのに、哀切さをも持ち合わす表現力。「ばらの騎士」の元帥夫人もレパートリーだとか。うなずけます。 この二人が第一幕で切々と不倫と近親愛という二重のタブーを犯す禁じられた愛へとひた走るのですからたまりません。

これはもう「トリスタンとイゾルデ」よりも数十倍も苦しいですよ。トリスタンとイゾルデのように許されることもなく、死を分かち合うこともできない。ジークムントとジークリンデは繋がっているのに繋がりすぎていて離れている。これはもう物理的障壁に近くて、時間空間を越えようとするぐらい大変なこと。因習の壁、社会の壁、倫理の壁に取り囲まれてぎゅうぎゅうと押しつぶされていく感じ。 そういう意味では、フリッカやグンディングは本当に常識人で、ある意味我々の持つ社会的な部分の映し鏡だったりします。だからこそなおさら、ジークムントとジークリンデの愛情にほだされてしまう。それは我々の持つ反社会的な部分の映し鏡。鏡と鏡の間に挟まれて苦しむのがヴォータンで、実はヴォータンが我々の立場に近いかも。自由でいて不自由という身分は我々の置かれている立場と良く似ている。だから、第二幕のヴォータンの苦悩の場面でも聞いているのが本当に苦しかったです。

フンディングを歌ったクルト・リドルさんは、2007年のドレスデンの「ばらの騎士」でオックス男爵でしたが、あのときよりも強い印象。フンディングの威張り腐る様子が実に巧い。それでいて体制に逆らえない小心さのようなものも感じられました。声も強力で、誰よりも力強かったのではないかと。それから、振り付けが実に似合っていて良かったです。

ブリュンヒルデのユディット・ネーメットさんも強力でした。プログラムのキャスト紹介の写真があまりに冴えてなくて、一瞬ひいたのですが(すいません)、実際に舞台に出てこられた姿はブリュンヒルデの雄雄しい姿を体現しておられて実に安心できたのです。終始安定していましたね。良かったです。

エッティンガーさんの指揮ですが、これもすばらしかったです。リング全体を知悉していてコントロール下に収めています。特に印象的だったのが、リタルダントやゲネラルパウゼを拡大して見せてくれて、あまりの緊張感に震えてしまう感じ。

ちょっと一日じゃ書ききれないです。明日に続くということで。