さて、今朝は「マノン・レスコー」をテバルディとデル・モナコのバージョンで聞いたんですが、デ・グリューを歌うモナコが格好良すぎて、なんだか、勇敢なるデ・グリューになっていました。ドミンゴのように甘さを加えると、まだ青い未熟な青年的な微妙な甘え具合が出るんですけれど、オテロやカラフを歌わせたトランペットの声で、デ・グリューというのはちょっとモナコにしてみれば役が足りないのかもしれません。このマッチョな男らしい歌には、凱旋帰還するオテロの姿思い浮かんでしまう。なーんて、えらそうなことを言ってますが、「マノン・レスコー」は本当に素敵なオペラ。
テバルディもすごくいいですよ。伸びがあってピッチの微妙な傷も気にならない。特に高音域の伸びは絶品です。ああ、これをお昼休みに聞ける幸せ。 iPodラヴ。
あ、もうひとつちょっと由々しき思い出。私が「マノン・レスコー」をはじめてみたのは実はBS2で10年以上前に放送されたグラインドボーン音楽祭の映像でした。たしか、なぜかジョン・エリオット・ガーディナーが指揮をしていたはず。
しかしながら、この音源だけは理解することができなかったです。やはり、VHSビデオで録画したものだったので、音質も画質もきわめて悪い状態で音楽の美しさを掬い取ることができませんでした。
あとは、これは今だから言える想像ですが、古楽派のガーディナーがプッチーニを振るという違和感のなせる事象なのではなかった、とも。演出はグラハム・ヴィックで、彼の演出である同じくグラインドボーンの「ルル」がすばらしかっただけに、ちょっと残念な思いもしました。
あのときに、環境が整っていれば、今はもっとオペラを聞けていたはず。私はこの「マノン・レスコー」の映像をみて、オペラを一度あきらめたんですから。代わりにブラームスの室内楽の世界やブルックナーの敬虔で激しい交響曲群を惑溺するようになったんです。
やはり、出会いというものは重要です。早くても遅くても巧くいかない。まあ、そういう糸の通し違いが人生を面白くしているんですけれどね。なるべくならそういうことがないように生きていこうとするのも正しいあり方ですけれど。
でも、仕事に関してだけは、糸の通し違いは決して起こしちゃいけません。それが最近見てきたいろいろな出来事から導いた結論です。
マッチョなデ・グリューを聴こう──マノン・レスコーな思い出 その2