第9回 執政官アンジェロッティとローマ共和国の終焉
秋晴れの日曜日ですが、すっかり寒くなりましたが、近所のレストランでラズベリーアイスクリームを食べました。近所にもおいしい店があってうれしい限りです。
歴史背景が長引いてしまいました。今日でローマ共和国の終焉の回。文献がドイツ語しかなく、難儀しました。決定稿は後日出そうと思います。
次は、トスカに出てくる「王妃」あるいは「女王」とは誰か、という話を書く予定です。その後、カヴァラドッシやトスカの来歴を書く予定。トスカは若い頃は修道院に入っていたそうですよ。
ではどうぞ。
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土台の緩い建物は少しの揺れで崩れ落ちる。
1799年6月17日から19日にかけてのトレビアの戦いで、ロシア軍のスヴォーロフ将軍がマクドナルド将軍[i]率いるフランス軍を撃破した。
これによりナポリを占領していたフランス軍はナポリからイタリア北部へと撤退する。ナポリ軍は1799年9月30日にそのままローマを占領し、ローマ共和国の旗を降ろすことになったのだ。(画像がローマ共和国の旗)
これに伴い、ローマ共和国の指導層は反体制となり、収監されていくことになる。
では、「トスカ」の劇中で政治犯として登場するアンジェロッティはどのような身分だったのだろうか。
ローマ共和国は名目上5人の「コンスル」つまり執政官によって統治されていた。もちろん実際にはこのうちの一人がアンジェロッティだった、という設定である。
「コンスル」という言葉は、元々は古代ローマにおける官位の名称で、共和制の最高位に当たるもので、元首という意味合いを持つ。ナポレオンがブリューメル18日クーデターで第一統領となるが、この官位名も「コンスル」であった。
アンジェロッティは、フランスの傀儡政権とはいえ、ローマ共和国内で高い地位にあったのだ。アンジェロッティの略歴についてはまた触れることにしよう。
さて、ローマのその後である。1800年7月3日にローマ教皇ピウス七世がローマに戻る。それで歴史は終わらない。
マレンゴの戦いで勝利したナポレオンは、再びイタリアを席巻し、イタリアは再びナポレオンの勢力下に入る。ピウス七世はナポレオンと一時期和解するが、関係が悪化した1806年には再びナポレオンにその多くを占領されてしまう。教皇領が完全に復活するのは1814年のウィーン会議においてであった。
つづく
次回は「トスカはマリー・アントワネットの姉にすがろうとした」です。
[i] マクドナルド将軍とは、後の元帥ジャック=エティエンヌ=ジョゼフ=アレクサンドル・マクドナルドである。かれは、スコットランドからの亡命者の息子であるため、このような姓なのである。
※ 新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。
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