今週の老ギタリストとの対話

はじめに

バークレー出身の老ギタリストとの対話。彼との会話は4回目です。まるで、彼の話にいつも出てくるスパイラル、サイクリック、という言葉のように、同じような話題を繰り返しながらも、そこに変奏が加わり新たな意味が立ち現れる、という感じになっています。

今日はありがちな対話調で書いてみます。よくある対話形式のパロディです。真似きれてないですが。。

ジェリー・ベルゴンズィ(バーガンジィ)

G:

一ヶ月ぶりの授業だね。ジェリー・ベルゴンズィを聞いた?

私:

もちろんです。彼のフレージングには驚きや意外性があります。

G:

そうそう、unpredictableだね。ベルゴンズィは、偉大なミュージシャンには珍しく偉大な教師だ。エリック・アレキザンダーと同じくね。これは稀有なことなんだよ。

※:ジェリー・バーガンジィーとも発音するみたいですが、彼がベルゴンズィと発音しているように聞こえますので、これでいきます。

音楽は瞑想

私:

あなたは、ショパンやバッハを、ジャズ・ミュージシャンでもあり、ヨギでもある、とおっしゃいます。ヨギとは、ヨガをする者のことです。ショパンやバッハが瞑想というのはどういうことでしょう? 彼らが瞑想しているなんて話は聞いたことないですし…。

G:

そうじゃない(笑)。彼らにとっての瞑想Meditationとは、音楽なんだよ。アインシュタインについては考えることが瞑想Meditationだし、画家にとっては描くことが瞑想Meditationなんだ。もちろん、ヨガだって瞑想Meditationだがね。

そもそも、Museという言葉があるだろう。ギリシア神話に出てくる9人の女神のことだ。諸学芸の神々で、ミューズとかムーサなどという。作曲家はミューズの助けを得て作曲をする。画家も科学者も同じだ。そうしたミューズとの交感が瞑想Meditationなんだ。

私:

なるほど! あなたのおっしゃる瞑想Meditationとは、そういうことなのですね。超越する何かにコネクトする、とあなたはおっしゃっていましたが、それらを総じて瞑想Meditationと表現しているのですね。それは私には哲学的な認識の前の「直感」に思えます。

全てはつながっている

G:

そう。全てはつながっているんだ。たとえば、君は本当はずっと音楽を聴いたり楽器を吹いたりしたいだろう。だが、現実はそうは行かない。働いて食べて行かなければならないのだ。だがね、そうした働くという行為も、実は瞑想Meditationにつながるものだ。たとえば、働くことで、意志力、忍耐、克己、持続といった徳性を鍛えるんだ。そして考え努力する。それが来世Next Lifeでの開花につながる。

君が今開花できないのはこれまでのカルマによるものだ。人生は繰り返す。首飾りのようなものなのだ。今この人生において自らを鍛えることで、来世Next Lifeで、例えば音楽家として開花することだってできるんだよ。

最後に

G: 今日の話は、Food for thoughtだ。考え続けるんだ。

私:わかりました。ありがとうございます。

編集後記

彼の話は、仏教思想に裏打ちされたスケールです。信じるか信じないかはともかく、人が一生を終えるまで努力し続けることに意味を見出すことができる思想です。私は、西田幾多郎の哲学を思い出しながら聞いていました。

イギリス人の彼から日本人の私がそうした仏教思想のレクチャーを受けることが不思議というか奇妙というか、そういう気分になりました。おそらく、70年台のアメリカで暮らしたことがあるので、ヒッピー文化の影響を受けているのでしょう。

もちろんこうした考えに盲従しないまでも、モティベーションを高める考えとしてこうした考えに肯うのは合理的だと思います。そのまま信じるという誘惑にも駆られますが、合理主義者としてはなにか引っかかりを覚えるのも事実ですので。

また、音楽を聞くことが瞑想なのだ、というテーゼは、私の瞑想感を変えました。私は坐禅やヨガが瞑想だと思っていたのですが、それは浅はかな考え方でした。

確かに、音楽に集中している時、矛盾するようですが、音楽とは関係のない思いがどんどん膨らむことがあります。音楽を聴くという目的からは外れたことですので、これまでは集中できていない証拠だとネガティブにとらえていました。ですが、実は音楽によって、超越世界と交感することによって生み出された考えなのであり、それはそれでポジティブに捉えてもいいのではないか、と考えました。

次回は来週です。