本日の朝日新聞夕刊に長木誠司さんによる《夜叉ケ池》の批評がでていましたね。
結構いろいろ書いてあって、うーん、という感じ。音楽学者の長木さんですので、かなうわけはないのですが……。
どんなことをおっしゃっているか、というと、
- ドビュッシーかラベルどまりの120年ほど前の仏オペラ風スタイルを、べったり貼りつけた音楽で彩られる。
- 同時代への深い読みがそこに提示されていない。
といったところがポイントでしょうか。
「同時代的ではない」、という点が一番気になります。同時代という言葉は、アクチュアルという言葉であり、現代的、現実的、という言葉に置き換えることができるでしょう。もう少し引用してみると。
日本の現代オペラが外へ発信していけないのは、旋律が親しみにくいからというような単純な理由ではない。同時代への深い読みがそこに提示されていないからだ。
とあることから、音楽的に現代への「洞察」が必要とあります。
ここでいう同時代性というものが、音楽に向けられているとしたら、私が感じた「あ、これはドビュッシーだ」と、思ったというところなのでしょう。オリジナリティの問題?
ただ、そもそも音楽的な部分で、現代的な洞察というものができるのでしょうか、という疑問があります。
私が音楽的最先端を知らないから、あるいは音楽的側面で「現代への洞察」というものが何なのかを理解できていないからなのかもしれませんが、音楽面で、ある程度公衆へ開かれたものを作るとなると、こうならざるをえない、と思ってしまいます。
もしかすると、ベルク《ヴォツェック》やツィンマーマン《軍人たち》といった(当時の)先端オペラと同程度あるいはそれ以上を長木さんは想定しておられるということでしょうか。私が文脈を読めていないのでしょうけれど。
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さて、一連の記事の中で、このオペラに、震災に関連した現代の状況を読み取ったとかきましたが、それは、演出の仕事だったのかもしれません。音楽とリブレットだけではこの読みは難しいはずで、最後に破壊された釣鐘がその姿を顕にする場面での直感でしたので、画像を伴ったものであるはずです。
もしかすると、私はこのオペラをこう見ていたのかもしれません。
「このオペラは何十年も前に作曲されたもので、それを改めて今日のような演出で観ている。今回の演出は2011年3月以降の日本にとってアクチュアルなものである」
つまり、演出の作品解釈を味わっているだけに過ぎず、音楽は世界初演というより、すでに発表済みの音楽として聞いていただけではなかったか、と。そう考えることが、長木さんの意図なのかもしれない、と思いました。
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今日から2013年も後半です。今年の夏は涼しいですね。猛暑に備えて、安物エアコンを自室に取り付けたのですが、活躍の機会がほとんどありません。せっかく買ったのに。