Japanese Literature,Tsuji Kunio

すべてが、背理なのだ。この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく、正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生まれるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。(中略)だが、この世の背理に気づいた者は、その背理を受けいれるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。だが、それは嘲笑でも、憫笑でもない。それは哄笑なのだ。

「嵯峨野明月記」は、今や私にとっては生きる指針にほかならないかも。
この引用、もう何回もやってます。
「この世は背理である、ただ、笑い飛ばすしかない」
この「この世は背理である」というテーマこそ、「風神雷神図屏風」を描いたとされる俵屋宗達が「嵯峨野明月記」のなかで、喝破するテーゼです。
すべての誤謬に怒りを表すのではなく、笑い飛ばせ、というもの。戦闘的オプティミズムとでもいいましょうか。
「ツァラトゥストラ」を読んでいて、この場面を思い出しました。まあ、当たり前なんですが。
それ以来、私は怒っているとき常に笑っています。なーんちゃって。
この「背理である」という言葉、数年前に流行った「起きていることはすべて正しい
」と同じことを指しているのでは、とも考えています。
嵯峨野明月記、実は辻美学の一つの頂点なのではないか、と思います。辻邦生の小説論である「小説への序章」とも内容がかなりかぶっています。「小説への序章」の中でディケンズ的表現とされているものが、「嵯峨野明月記」の中で使われていることもよくわかります。
今日で一週間終わり。月曜日休みだったから、短い一週間でした。週末は読書と書物とコンサート。ああ、勉強もしないと。