Tsuji Kunio

先日、哲学科の先輩と話した時のこと。いわゆる倫理というものも、実は相対的なものであり、たとえば、西欧における倫理観と中国やイスラムといった別の文化圏における倫理は違うのではないか。というような話をしました。ですが、先輩は、それは倫理の問題ではなくイデオロギーの問題であり、すり替えてはならない、ということをおっしゃいました。

そのことを最近はずいぶんと考えています。

辻邦生先生の「遥かなる旅への追想」のなかに、バルテノン体験について書かれている場面があります。そのなかで、まさに辻文学のテーゼが書かれています。

遥かなる旅への追想
遥かなる旅への追想

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辻 邦生
新潮社
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私は、ギリシアの神殿がそこにあるということのなかに、私達の人間が人間であろうとすること、つまり自然放置の状態のままでなく、よりよい状態に人間を導いいていくことが、人間にとって本質的なことなのだ、と思わせる根拠があるに違いないと思えてきたのです。

辻邦生「遙かなる旅への追想」139ページ

だが、これは西欧偏重ではないか、という疑問を思わざるをえないのです。歴史の終わった現代においてなお、ギリシア、ヘレニズムのを典拠とする意味があるのか、という問いです。

ですが、それはやはり、現代の世界の基本思潮となる、フランス革命以来の基本的人権というものが、ひとつの拠り所になるのだ、という気がしています。

パリに行った理由の一つは、我々が考えている自由・正義・愛といった言葉は、日本で考えると、いかにも「観念」にすぎないものに見える。しかしヨーロッパ的風土のなかではぐくまれ、それを我々が継承しているとすれば、本場に行って考えたなら、それは決して単なる「観念」というものではないのではないか。

辻邦生「遙かなる旅への追想」138ページ

うーむ。現代の価値相対主義的時代において、この価値観をどこまで保持できるのか。当初書いた「イデオロギー」の違いだけで解決できるのか。

さしあたりこの問題と、iPhone6を買うべきか否かを考えながら、今日は休もうと思います。

それではおやすみなさい。