先日、大学時代の友人と会った時、私は、これからはネットの時代だから、本もどんどん電子化されていくはずであり、徐々に紙ベースの書籍というものは淘汰されていくのではないか、ということを話しました。それ自体別に珍しくもない言説で、プロである彼にそんなことを力説するのは実際失礼にあったのかもしれないと、後から振り返って反省しました。
私は、iPodが2001年に発表された後の事が頭にあったのでした。iPodまでは、音楽といえばCDでした。ですが、iPodを買ってからは、購入したCDをせっせとPCにインポートして、それをiPodに入れて持ち運ぶ、というスタイルを実践して行ったのだと思います。
その後は、私の感覚では、CD文化は徐々に廃れてきたというふうに思っていて、若い人たちはiTuneなどのストリーミングで音楽を聴くか、ライブで音楽を聴くか、という状況のようです。
ですので、CDというものの形をしている媒体が徐々に意味を失っていった、というのが、iPod発売以降の音楽受容の歴史で、今となっては、iTuneでストリーミングを買う、という行為すら失われ、SpotifyやApple Musicといった定額課金制の音楽サービスが主流になっているのではないか、というのが、私の中での音楽媒体史観です。
その史観を本に持ち込んで考えているのが、先日までの私でした。本もいずれは、デジタル化され、KindleやiBook、あるいはKinoppyといった、電子書籍媒体でやり取りされるようになるだろう、というものでした。
ですが、やはり、それは違うのかも、というのが、この一週間の感想です。
それは、池袋のジュンク堂に行ったからですかね。ジュンク堂は言わずと知れた、大書店で、揃わない本はない、というのが売り文句だったと記憶しています。池袋店が出来たのは20年ほど前でしょうか。当時、図書館にもない本があって、研究している院生だかが、「貸してください」と書店員に頼んだ、というエピソードがあったのを記憶しています。
そのジュンク堂を回ったのですが、いや、これはもう、市営の図書館よりも当然ながら蔵書が充実していて、本当に楽しいのです。図書館の蔵書というのは、得てして古いものが残留しているような状況だったりします。もちろん、ツタヤ図書館のような不適切な蔵書剪定ではないのでしょうけれど、10年も経過した後の蔵書はさすがに何かしらの複雑な思いを抱くことがあります。新刊書が入るスピード感もありません。もちろん、それは公営図書館であるから当然のことではあるのですが、そうは言っても、時代の流れのようなものを感じるには限界はあります。
書店は、当然新刊書を並べますので、そうした時代の流れのようなものをリアルに感じることができますね。ネットでも検索の仕方などでは、そうしたことが可能だとは思いますが、平台に山積みにされた新刊書を見ると、さすがにあの迫力にはかないません。これは、音楽で言えばライブの感覚と似ているのではないか、と思います。
もちろん、ネットの利便性というものは否定できません。iPhoneにKindleを入れて、何冊も本を持ち運んだり、Apple Musicを使って、自分の持っている曲をクラウドに入れて、どこでも聴くことができる、というのは、リアルな書籍、リアルなCDには絶対にできないことでしょう。
ですが、選定となると別なんでしょうね。確かに、Apple Musicでも、プレイリストやアルバムのサジェスチョンで、新たな音楽に会える機会というものはあります。ですが、それは、Apple Music側にその選定の多くを依存してうrわけです。ネットでの検索性や一覧性はまだ不十分で、私はまるで視界の狭いゴーグルをつけて、海を潜っているような錯覚を覚えることがあるほどです。
リアル書店やリアルCDショップは、やはり五感を使って、いろいろな情報を入手できますし、視界は本当に広いです。いろいろな付随情報が視界の中に入ってくると、自ずとそちらに注意が向いて、セレンディピティのようなものを感じられます。時間はかかりますし、書店やCDショップまで足を運ぶという時間もかかりますが、それは、ネットでは得られないものです。
もちろん、音楽においてもタワーレコードやHMVなど、大型のCDショップがあります。そこで、最新の状況などを感じることはできるわけで、何が違うのだ、という話もあります。
書店とCDショップの決定的な違いは、中身が見られるか見られないか、ということに尽きるのではないか、と思います。書店の場合、中身を見て、どのような内容なのかを確認できますが、CDショップではそれはできません。20年ほど前には、試し聞きができるようなマシンが銀座の山野楽器に置いてあった記憶もありますが、当然全曲聞けるわけではなく、一部のみ聞ける、というような状況だったと記憶しています。
書店の場合は、リアルなものに手で触れて、活字を読むことができるというアドバンテージがあります。これは先ほども触れたようにCDショップにはないものです。
セレンディピティのようなものに会えるのは、書店もCDショップも変わらないのかもしれませんが、中身を自由に見てから、購入するかしないかを決められるのは、やはり書店の特権すね。この、中身を自由に見られるか見られないか、という点において、CDと書籍の違いがあります。CDと書籍では、リアウ店舗のアドバンテージが大きく相違するのだと思います。
電子書籍も否定はしませんし、今後も使うと思います。ですが、リアル書店の持つ、五感を使ったセレンディピティの可能性というものを、私の友人は言いたかったのかも、と思います。
もっとも、テクノロジーが進めば、リアル書店とネットの境目はどんどんなくなっていくのかも、とも思います。かつて流行ったSecond Lifeのように、自分がアバターとなって、バーチャルな書店の中に入っていき、バーチャルな書店で電子書籍を買う、というようなことは、あと数年で現実になるのかもしれません。テクノロジーの進歩は、そこにビジネスチャンスあるいは戦いの勝利のきっかけがある場合は、無限に進むものです。
今日も長くなりました。今日はこちらを静かに聞いています。マイケル・ブレッカーの遺作とも言えるアルバムです。悲しみに満ちたアルバムであることには間違いはありません。
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それではまた、おやすみなさい。グーテナハトです。