はじめに
ブルドーザーのガンバ、を読みました。35年ぐらい忘れていましたが、思い出しました。ストーリーもやはり覚えていたのですご、読み直して不覚にも涙ぐんでしまうという…。
鶴見 正夫
偕成社
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ネタバレ
古参のブルドーザーガンバは、役立たずとして倉庫に眠っていたが、団地の造成のために、駆り出される。頑張るのだが、報われない。造成が終わるが、若いブルドーザーは帰るのだが、ガンバは後始末を命じられる。若いもんが帰れて、なんで俺が、とつぶやくガンバ。運転手のかわださんに裏切られ、そのまま団地の脇に打ち捨てられるガンバ。挙げ句の果て、山が造成でなくなったのを知らずに訪れたハイカーに自然を壊したと糾弾される。錆びて朽ち果てたガンバだったが、とある土砂降りの夜、土砂崩れに行く手を阻まれた救急車の運転手にガンバは見つけられる。救急車には少年が載っていた。まだ油が残っている。ガンバは、救急車の行く手を遮る土砂を最後の力を振り絞って取り除き道を作った。だが、ガンバは路肩からころがりおちる。すまん、時間がないと救急車は走り去った。後日、快復した少年がガンバに礼を言うのだが、ガンバの耳には届かなかった。ガンバの周りにはヒナ菊が咲き乱れていた。
プロットをかきだしましたが、絵本なので、これでは語ったことにはなりません。あくまで私のパースペクティブです。
感想など
まあ、これ読んで、なにかこう、組織人の悲哀を感じるのですね。あるいは、「わたしは貝になりたい」という映画を思い出したり。組織のなかですり潰される個人みたいな。結局のところは、組織から放り出され、自然破壊を糾弾されても助けなど微塵もない。一人背負わなければならないという悲哀。
最後の救急車を助ける場面が泣かせるわけですが、あれがある故に、まだ救いがあるわけです。あのまま朽ち果てれば、なにも還元できていないのですから。それでも最後、少年の命を救ったということで、ガンバは報われた、と捉えることができるのです。ただ、それも、読者の身勝手なのかも、とも思わされます。ガンバがそう思ったかは誰にもわからないからです。
また、さすがに、運転手さんのかわださんに見捨てられたのは痛いです。ものとしておきざりにふるわけですが、それと似たことをわれわれが人に対してやっていることもあるのでは、と思わされます。裏切られたのはガンバですが、かわださんもやはり組織人であり、生きなければなりませんから、ガンバを裏切るしかなかったのです。さすがに、かわださんがガンバを一生養うことはできませんから。
まあ、これを読んで心を傷めるのは、組織人ではないのかも。こんなこと気にしていたら、組織は動かせず、負けていくだけ。まあ、今の世の中では、そうなるわけですが。それは、競争や戦いの論理、ということ。競争や戦いに倫理はありませんから。西欧ではそうした倫理の欠如を埋めるために、慈善事業があるわけですし、日本ではおそらく敵をも悼み祀るということにつながるのかも、なんてことも思いました。昨日の話ではないですが、どうであろうと人間は善と悪の両面があるということなんでしょう。
ネットを読んでいると、この本の素晴らしい考察を書いておられるブログ記事がありました。その中で、努力が報われることがない、ということに対する指摘がありました。頑張ってもこうなってしまうのか、みたいな。
http://ehonkuruma.blog59.fc2.com/blog-entry-405.html
どこでもやはり努力すればどうこうなる、というわけではないのが世界というものですが、若いうちからこういうことを思うと確かに閉塞感がありますね。世界には悲惨が満ちていて、どうしようもないこともあります。ですが、おそらくは世界の憎悪と暴力を作り出しているのでしょうから、なおさらなんとかしないといけない、ともおみます。希望を失った人間は、恐ろしいのです。
まあ、このガンバという名前は、頑張るという意味にであるわけで、これも大いなるシニックであるかのような思います。頑張っても最後はこれか、見たいな。でも、逆に頑張ったから最後少年を助けられたとも。ただ、これもなんだかなあと。恐ろしい。
今日は、東京の雪の中なんとか仕事場にたどり着こうと、いつもよりだいぶ早く家を出ました。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。