音楽嗜好総体のようなもの
以前にも書きましたが、音楽の嗜好というものは、人それぞれで、決して一致することはないです。
音楽の嗜好の全体を、音楽志向総体、という言葉で表してみます。それは、まるで人を包む大きな球体のようなものです。
たまに、音楽嗜好総体の一部が、他の人の総体と触れ合う時に、そこはかとない歓びを感じるのですが、お互いに話せば話すほど、その触れ合った箇所が互いの総体の中で、ほんのわずかなところだったということに気づき、落胆のような、寂しさのような、複雑な気分を味わうものです。
時に、同じ演奏家や、同じ作曲家がお互いに好みである、ということが分かったとしても、ほかの演奏家や作曲家について話が回らないとか、あるいは、その作曲家の別の作品を互いに知らなかったり、様々な音源を聴いたか聞かないかは、絶対に一致しないのです。
完全に一致する音楽嗜好総体というものは、ありえない理想です。もちろん、論理的にはありえますが、奇跡です。例えば、チンパンジーがデタラメにタイプライターを叩いて聖書を丸ごと打ち出す、というぐらいの奇跡です。
時に、その落胆の中に、相手の音楽嗜好総体の豊かさや大きさへの羨望や、あるいは自分の音楽嗜好総体の小ささへの劣等感や、音楽嗜好総体を膨らますことをおこたった罪悪感に苛まれることがあるのです。
しかし、相手の音楽嗜好総体の全貌を知ることはできません。それは、他者に分かることはないのです。球の全貌を同時に見ることができないように。あるいは、球の中身まで見ることができないように。
かつては、相手の音楽嗜好相対の大きさにおののいたり、自分の音楽嗜好総体が小さいのではないか、と思うことがありましたが、それは幻影のような気がします。常に、相手というものは大きく見えるものです。
などということを、学生のころから知っていればよかったのですが、そうもいきませんでした。
なーんてことを考えながら、仕事場からの帰宅電車を過ごしました。
つれづれのようなエントリー。
今日の東京地方は暑さも一服。法廷深夜時間前までめいいっぱい残業して、なぜか達成感のようなものを感じながら。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
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