小説で語るということ
最近「春の戴冠」を読んで改めて思ったのですが、辻文学は語り手が、物語を語るという構造がよくあるなあ、ということ。「春の戴冠」はフィレンツェの盛りを回想する老人。「安土往還期」は織田信長を間近に見るイタリアの船乗り。「西行花伝」は師匠の西行を慕う弟子、「夏の砦」は冬子と知り合った男。他に何があったか。まだあるはず。
この「語り手が語る」、という構造は、物語世界へのリアリティを増すものです。物語を真実と信じる語り手が語ることで、物語に真実性が付加された形で、読み手に物語が伝わってきます。自分が見たものより、人がそうだと言ったことの方が信用されやすいです。語り手が真剣に語ることを読み手はどんどん信じていく、という構造です。
高校生の頃、この構造は夢幻能に似ている、と思ったことがありました。夢幻能は、シテが語る物語を、ワキが聞くわけで、ワキはシテの物語を真実と信じて聞いているわけで、ワキが信じる様子を観客が見てリアリティを感じる、という構造だったはずです。うろ覚えだったので、少し調べましたが、多分あっているかと。
小説は、おそらくは識覚に訴えることのない概念的な表現方法ですので、読み手を没入させるためのテクニックが必要なはずで、その一つが語り手の介在なんだろうなあ、と、高校生の頃に思ったのでした。
いろいろなパースペクティブのタイプが小説にはありますが、この語り手の存在は、いわゆる原初の口伝で物語が伝えられた、太古の物語の形式なんだろうなあ、と思います。そういえば、「小説への序章」で、そう言った口伝物語の話が出てきたなあ、ということも思い出しました。
そんなことを思いつつ、いよいよ1月も終わりますね。1月は先日も少し触れましたが、新しいことをいろいろやりました。2月は2月で、これまた思った以上にいろいろありそうです。まあ、新しい事は楽しい事。今まで通りの事は(個人的には)新鮮味がありませんので、新しい事にどんどん踏み出そうと思います。
それではみなさま、おやすみなさい。
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