今日は、「分断を示唆する本」と、「分断がないことを示唆する本」、両方に触れてしまいました。まあすべてをフラットに考えた方が良いのでしょう。ニュースにはさまざまな分断が取りあげられますが、どれも誇張されたものなのかも知れない、そう思います。
分断というのは、例えば、西欧と東洋、隣国と日本、先進国と発展途上国などなど。
確かに、仕事においても、単純に、分断のパースペクティブを取り込むと仕事が進むことがままあります。それが正しいのか誤っているのかは別として。そうしないと、仕事が進まないのも事実で、必要悪と割り切るしかないのですが。
そんなことを思いながら、帰宅の電車で、聴いたのがこちら。アバドの振るモーツァルト。
私は、モーツァルトの交響曲でいうと35番が一番好きなのです。あの冒頭の跳躍がすばらしく感じます。アバドのモーツァルトを聴くと、慣れ親しんだアバドの指揮と、同じくかつてから親しんだ35番の音型に、なにか家に帰ってきたような落ち着きを感じました。違和感を感じることなく、落ち着いた気持ちになれるという意味において。
ところが、冒頭に書いた「分断を示唆する本」のことを思い出したのです。何故、西欧の音楽に慣れ親しみ、家に帰ったような落ち着きを感じるのか。私にしてみれば、普通に思うことですが、西欧への勝手な私淑である、という思いをふと感じたわけです。
おそらくは、欧州に行ったところで、なにかつまはじきにされるだけなんだろう、という思い。これは実際に欧州に行ってみて分かることです。こうした異文化との葛藤を、分断と理解すると、その分断が固定化してしまうのでは、と思うのです。
おそらくは西欧は一枚岩ではありません。日本も一枚岩ではないように。あらゆる分断における、彼岸と此岸は盤石ではありません。両岸をフラットに冷静にみるまなざしが必要であり、あるいはフラットに冷静に見ることは難しい、ということを認識しながら、努力すること。これがあらゆる「分断」において必要なことなのだろう、と考えました。
相変わらず冬場の体調不良が仕事場を席巻しています。インフルエンザ、胃腸炎。どうかみなさまもお気をつけてお過ごしください。
おやすみなさい。グーテナハトです。