Tsuji Kunio

この遠く嶮しい岩山の上に端然と立つアクロポリスの姿であったのが、そしてそれが、与えられた自然の意志に抗し、人間の領域を切りひらき、「人間」をして「人間」とせしめた人間の意志を表しているのが、僕には痛いように分かったのだった。(中略)それは人間を人間の根源の存在にまで連れもどす。あまりに強烈な自然に対して、それは人間を不毛にすると叫ぶことが許されないのを、これほど明瞭に語るものはない。それはまさしく運命に抗い運命にうちかつ姿そのものだ。

辻邦生「パリの手記Ⅳ岬そして啓示」11ページ

「パリの手記」として出版されている当時の日記の該当部分がこちらです。1959年8月24日の日付で、アテネのアカデミア街にて書かれたものとされています。

この記載が、おそらくは辻邦生パルテノン体験に関する最初の認識・記述に当たる部分と考えてよいと思います。西欧的な自然理解である、混沌とした自然のなかに人間の意思としてのパルテノンを打ちたて秩序づけた、という認識と思います。

この日記の冒頭において、ギリシアの自然の厳しさを驚きとともに、アラビアの砂漠と比べながら「荒涼とした姿」と表現しています。日本はもちろん、フランスやイタリアと比べても、その荒涼とした自然は辻邦生を驚かせたようで、8月の暑熱のなかに不毛の大地が横たわっているようだったのでしょう。その中に、白いアクロポリスが燦然とあるいは敢然と立ち上がっている姿を見て、「人間を不毛にすると叫ぶことを許さない」とか、「運命に抗い運命にうちかつ」と表現するのでしょう。

なにか、この表現を読んで、ユダヤ教あるいはキリスト教的父なる神の峻厳とした姿を思い浮かべたのですが、やはり辻邦生も「これは「男」の作品であることをある共感を持って思わない訳には行かなかった」と書いていて、また「アラビアの砂漠が生んだのは、地中海のもう一つの文化」と書いていることから、砂漠から生まれたユダヤ教、キリスト教を意識した秩序の象徴として、パルテノン神殿を認識しているように考えます。

そして、今読み返してみるとここには、パルテノンの「美」についての言及があまりないことに気がつきます。わずかに「美しく、均整のある、典雅な」「その廃墟の丘の石柱は美しい彫りのかげをきざんで」「自然らしい優雅さ」という表現が記載されているだけで、一環して人間を支える秩序のシンボルとしての側面が強調されているように思いますし、よくよく読むと「パルテノン」という言葉は綴られることがなく、すべて「アクロポリス」という言葉において述べられるだけです。

なにか、一神教的父なる神としてのパルテノン=アクロポリスを感じます。「人間」をして「人間」とせしめた、とはまるで、神が自らの姿に似せて人間を創ったという言葉とも通じるものです。それは西欧文明を基礎づけるものとして、ヘブライズムとヘレニズムがあげられますが、その二つをも統べるものである化のようにパルテノンが位置づけられているように思え、それは曼荼羅のように、人間あるいは世界を根底で支える汎的な秩序を具現化したものとも思います。

ともかく、辻邦生の世界認識を得た激しい興奮とともに書かれた文章は、なにか荒削りな力強さを感じ、ミケランジェロの未完のピエタのような存在感を感じるものです。

つづく

Tsuji Kunio

パルテノン神殿

辻邦生の文学は、西欧的な光が差し込む日本の旧い街並みを思い起こさせるものです。それはなにか長崎の街が持つ、アンビバレントな感覚にも似ていますが、実のところ、それは単に、世界の中に日本がある、という単純な事実を想起させるだけのものです。

この世界の中に日本がある、という感覚において、「世界」とは、中国であったり、インドであったり、あるいはヨーロッパであったりするわけですが、この400年あまりにおいて西欧が世界を席巻していた状況下においては、あるいは明治維新以降から終戦に至る状況においては「世界」とはすなわち西欧を示すことがになるわけで、日本と世界=西欧の対立関係あるいは協調関係を考えることが一つの精神的な軛であったのではと思うのです。

辻邦生も、終戦後、戦時中の快くない思い出に接する中で、西欧文明へと向かうわけで、それはパリへの留学に向かい、パリで徹底的に西欧を考えることになるわけです。ですが、それはパリにとどまるものではありません。パリ留学時代の日記を再構成した「パリの手記」を読むと、ヨーロッパ各地へ辻邦生が旅行し、そこで多くの経験・体験を積んで、西欧文明を血と肉に取り込んでいった過程がわかるのです。

その中でも特筆すべき経験が、ギリシアへの旅ということがいえましょう。経済的な不安を抱えながらも、イタリア半島を経由して、船で地中海を東進しペロポネソス半島へと上陸して、ギリシアの地を踏んだ先にあったのが、パルテノン神殿だったのです。

このパルテノン神殿に感じた「啓示」が、辻邦生作品を支えた三つの「啓示」の一つにあたります。

辻邦生の三つの啓示とは以下の3つであり、辻邦生の小説論である「小説への序章」において語られているように、辻文学を基礎付け、執筆の原動力となった重要な体験です。

  • パルテノン体験
  • 一輪の薔薇はすべての薔薇
  • ポン・デ・ザール体験

その中でも多くの作品群の中で何度も語られ、特に印象的なものが「パルテノン体験」なのです。このパルテノン体験は、おそらくは、芸術を基礎づける直感的な体験として得られたものであるはずです。

このパルテノン体験について、2018年11月に、Facebook辻邦生グループ「永遠の初夏に立ちて」のオフ会で、いくらかまとめた内容を発表しました。しかしながら、当時は私が持ち込んだインフラがうまく整わず、また私の準備状況も至らず、うまく発表できなかったという思いがあります。

あらためて、この場で、辻邦生のパルテノン体験にまつわるいくつかテキストを取り上げて、その意味とその指し示すところの変遷を考えたいと思いました。

つづく

Tsuji Kunio

先日、当ページの「Kindleで今読む辻邦生」ページを更新しました。右上のメニューバーからアクセスできます。

いつのまにか、「嵯峨野明月記」や「時の扉」までKindleで読むことができるようになっています。特に「時の扉」はうれしいですね。毎日新聞に連載された小説ですので、誰にでも親しめる小説です。もう十年以上読んでいませんのでこのあたりで再読してみようかな、などと思います。

Kindleについては、様々な意見があるのは承知していますが、辻先生が亡くなって20年を超えてもなお、こうしてKindleにラインナップの充実がみられるのはうれしいものです。

私はほとんどの辻先生の作品群を持ってはいますが、重さを気にせずどこにでも持ち歩けたり、電気を消して眠る前に暗くした部屋で読むことができるという電子書籍はそれはそれで一つの利点です。

辻作品はもちろん、おくさまの辻佐保子さんの著作もKindleになっているのはうれしい限りです。

私も、電車の中や、会社の休憩時間に、スマホに入れたKindleで、辻作品を読むことが多いです。そうしたときに、なにかしらの発見を得ることも実に多いです。

私としては、そんな辻邦生Kindle群のベスト作品はこちら。「夏の海の色」です。

「ある生涯の七つの場所」の作品群の一角で、最高傑作短編の一つである表題作「夏の海の色」が納められています。

これからも、いつでもどこでもおもいたったときにすぐに辻文学に親しむことのできる電子書籍における辻作品リリースに期待したいです。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

Arnold Schönberg,Tsuji Kunio

夜の時間ができました。こんなことは本当にまれなことです。AppleMusicを開き最初に目に入ったのがジャニーヌ・ヤンセンのアルバムに収められたシェーンベルク「浄められた夜」。

Arnold Schoenberg la 1948.jpg

シェーンベルク最初期。作品番号は4番。おそらくはシェーンベルクの楽曲の中でも知名度が高い部類に入るでしょう。私もこの曲を20年ほど前に一生懸命聴いた記憶があります。

この曲は、リヒャルト・デーメルの詩にモティーフを得て作曲されたものです。このあたりのエピソードもほとんど忘却の彼方からいまここにたぐり寄せたものです。

Rudolf Dührkoop - Richard Dehmel (HMuF, 1905).jpg
Zwei Menschen gehn durch kahlen, kalten Hain;
der Mond läuft mit, sie schaun hinein.
Der Mond läuft über hohe Eichen;
kein Wölkchen trübt das Himmelslicht,
in das die schwarzen Zacken reichen.
Die Stimme eines Weibes spricht:
Ich trag ein Kind, und nit von Dir,
ich geh in Sünde neben Dir.
Ich hab mich schwer an mir vergangen.
Ich glaubte nicht mehr an ein Glück
und hatte doch ein schwer Verlangen
nach Lebensinhalt, nach Mutterglück
und Pflicht; da hab ich mich erfrecht,
da ließ ich schaudernd mein Geschlecht
von einem fremden Mann umfangen,
und hab mich noch dafür gesegnet.
Nun hat das Leben sich gerächt:
nun bin ich Dir, o Dir, begegnet.
Sie geht mit ungelenkem Schritt.
Sie schaut empor; der Mond läuft mit.
Ihr dunkler Blick ertrinkt in Licht.
Die Stimme eines Mannes spricht:
Das Kind, das Du empfangen hast,
sei Deiner Seele keine Last,
o sieh, wie klar das Weltall schimmert!
Es ist ein Glanz um alles her;
Du treibst mit mir auf kaltem Meer,
doch eine eigne Wärme flimmert
von Dir in mich, von mir in Dich.
Die wird das fremde Kind verklären,
Du wirst es mir, von mir gebären;
Du hast den Glanz in mich gebracht,
Du hast mich selbst zum Kind gemacht.
Er faßt sie um die starken Hüften.
Ihr Atem küßt sich in den Lüften.
Zwei Menschen gehn durch hohe, helle Nacht.

男と女がいて、女が身ごもる子供の父親は、そのかかる男ではない。だが、男は苦悩の先において、女が身ごもる子供を我が子のものとして育てる決意をする、というもの。

これは、なにか聖書であるか、あるいは村上春樹の「騎士団長殺し」のモティーフでもあるかのような。愛情とはこのように、「私(わたくし)」を捨ててすべてを受け入れるものなのか、と。

芸術というものは、文学であろうと音楽であろうと、人間の極地を描くことにより、人間の価値を高め認め育てるものです。このある意味で愛情に関する排他性を乗り越える感覚というのは、無私の愛であり、ある種アガペーに近いものでもありえます。

ロボット三原則のなかには、自分の身を守らなければならない、という条項があるように、人間もやはり自分の身を守る必要がありますが、その先の試練として無私の愛があり、それを乗り越えるという営為が想定されているのではないか、という感覚。

辻邦生の「ある生涯の七つの場所」のなかの感動的な短編を思い出しました。「赤い扇」という短編です。その中の一節。

相手が好きになるとは、相手のみになるのではなくて、自分の好みに相手があうかどうかを定めることじゃありません?
(中略)
もしそうだとしたら、恋愛で一番大事なのは自分です。よく恋のために死ぬなんてことがありますわね。でも、それは、自分の好みを実現している相手に殉じるのですから、結局は自分のために死ぬのと同じです。本当に無私ならば、決して自分の好みなどに引きつけてかんがえるわけはありません

辻邦生『赤い扇』ある生涯の七つの場所より「椎の木のほとり」中公文庫415ページ

普通の恋愛は、おそらくはエロスとよばれ、神の愛はアガペと呼ばれますが、先日、美はアガペーのようだ、ということを書いたりもして、おそらくはこの浄められた夜の男は無私の愛の境地に達し、そうだとすると、それ自体が人間の高貴な秩序にむけたアガペー的で美的な行為ということになるのでしょうか。ここではアガペーという言葉を幾ばくか恣意的に使っているわけですが、それは美的行為が神的意味を有するという相関関係においてわざと使っていることになるでしょう。

さて。この夜は、少しずつ涼しくなっていて、コオロギの声が聞こえ始めました。会社の若い人が「ようやく秋ですね」と話しかけてきて、「もうすぐ春ですね」もフレーズが聞こえてきて、春を待ちわびるのも、秋を待ちわびるのも質的には変わらないのかも、と思いました。シェーンベルクは無調の世界へと旅立ちますが、私たちはどこへ向かうのか。この秋を超え、冬を越え、次の夏へと向かう道程において何が待つのか。そんなことを考えながら、デスクライトに照らされたPCに向かって文章を書いています。これが幸福なのでしょう。

また次も書けますように。みなさまもよい夜を。おやすみなさい。グーテナハトです。

Movie

最近、深夜に帰宅してから映画を観ることが日課になっています。NHKで放映された映画を1.2倍速でクイックに観ています。2日に1本ぐらいのスパンで観るのですが、現世を忘れ、癒やされて、次の日の仕事に向かう原動力になります。

先日観たのが「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」。1992年の作品で、アル/パチーノ主演。

苦学生チャーリーは、友人たちが学校で犯した悪戯を目撃していたが、校長にその友人たちの名前を白状するか悩んでいた。その週末、退役将校スレードをアルバイトで面倒をみることになった。スレードはかつては大統領の側近を務めるほどの軍人だったが、過ちを犯し視力を失い退役し人生を悲観し気難しい男になっていた。スレッドはチャーリーを連れてニューヨークへ赴き、ある計画を遂行しようとしていた。チャーリーは、週明けの懲罰委員会で、友人たちの名を告白するか苦悩していた……。

最初はあまり期待することなく見始めましたが、中盤に挟まれたすさまじい場面に衝撃を受けましたのです。スレードが、人を待つ若い女性ドナを誘ってタンゴを踊るシーン。夜中でしたが、いや、夜中だったからなのかもしれませんが、観た途端に「これが美だ」という直感とともに、涙が溢れ出し、その涙に困惑しながらも、そのうちに涙に身を任せて、ただただスレードとドナが踊るタンゴを観るだけになってしまったのです。

視力を失った退役将校を演じるアル・パチーノは、瞳を全く動かすことはなく、ドナを演じるガブリエル・アンウォーも、当初戸惑いながら踊り始めますが、そのうちにタンゴに没入していく感じ。カフェで突然踊り出す二人の様子を、カフェの客たちもスタッフたちも徐々に意識し始め、最後にはカフェにいる全員が彼らの踊りに引きつけられていく。一滴のインクが水の中で拡がっていき、最後にその場が美で満たされるいく感覚。さらに「ポル・ウナ・カペサ」という曲の持つ柔和と鮮烈のコントラスト。

なぜ、これが美だ、となったのか。

インクが拡がるように、物語世界のなかで、タンゴという美的なものが空間を支配していくプロセスを見たから、でしょうか。

視力を失ったスレードとドナがタンゴを通して心を通じていく様をみたからでしょうか。

「ポル・ウナ・カペサ」の鮮烈なサビのフレーズに心をつかまれたからでしょうか。

要素要素は思いつきますが、総体的なマテリアルが美を感じさせた、ということなのでしょう。こればかりは、頭でわかって書いてもなにか空疎なものに入れ替わってしまいます。

先日から、何度何度も観て、観るたびに涙がでていましたが、20回ほどみてようやく落ち着きました。分析的に見始めたことで、当初見たときの感動が失われていったのだとおもいますが、なにか寂しくおもいました。

この映画、最後の懲罰委員会のシーンも実に感動的で、おすすめです。まだまだ世界にはたくさんの美しいものがあります。

そういえば、金曜日の夜みた消防車のナンバーが1992でした。そのときは、辻邦生「ある生涯の七つの場所」を読んだ年がちょうど1992年だったな、と思ったのですが、実はこの映画が公開された年でした。1992年は思い出深い年です。

それでは、みなさま、よい土曜日の夜を。おやすみなさい。

Tsuji Kunio

「作品が湛えている美に触れることは、その後の生き方を決定的に変えてしまう。美とは本来そういうものだし、またそういう形で美に触れなければ、真に作品を見たとは言い難い」

辻邦生の言葉。

美とは、本当にそういうものです。私も、何度かそういう経験をしました。ゆえに生き方が変わりつつあるように思います。

美のもつ秩序Orderこそが、世界を拡散から守り、一つの体系へと統べているのではないか。

それは、西田幾多郎の言う統一力のようなものではないか、と思います。

意識を離れて世界ありという考より見れば、万物は個々独立に存在するものということができるかも知らぬが、意識現象が唯一の実在であるという考より見れば、宇宙万象の根柢には唯一の統一力あり、万物は同一の実在の発現したものといわねばならぬ。

西田幾多郎「善の研究」より

バラバラな意識や考えも、説明できないなにかで繋がっています。間主観性とか、集合意識とか、言語ゲームとか、そういう言葉で語られるのかも知れませんが、『美」が持つ目的を超えた合理性に世界に秩序を齎す秘密があるのでは、と思うのです。美とは、それ自体に目的や機能はなく、ある意味無償の価値でありそれはアガペーにも通じるものがあります。辻邦生が『春の戴冠」で美に神的なものを見ようとしたのも肯けます。

そうした美のもつ秘密を解き明かしたい、という思いに、このところ囚われています。美がもたらす秩序を見て、なにがどうしてこうなるのだろう、という不思議を感じるのです。

そんなことを考えながら、今日は帰宅しています。コロナで少なくなったひと握りの乗客を乗せて夜の通勤列車は進みます。

みなさまも良い夜を。

おやすみなさい。グーテナハトです。