Giacomo Puccini

それにしても今年は不思議な一年でした。コロナという世界的な問題もありましたし、個人的にもたくさんの新しい体験をしました。最終的にはさらに前へと進む感じもありますが、まだまだ不思議なことが続く予感もします。とにかくたくさんのことが動いた一年でした。

書きたいことは山ほどあるのですが、なにか、なかなか書けません。時間がないということもあるのでしょうけれど、なにか書くと言うことの環境が整っていない感覚もあり、少しずつ再整備を始めました。手書きもいまひとつなじまず、エディタを選んだり、フォントを選んだりして、ようやく、なんとなくこれかな、というツールを探し当てて、といってもこれまでも使っていたツールを再整備したということでもあるのですが、ようやく落ち着きつつあるということになりそうです。

今日はこちら。カラヤンの振る「蝶々夫人」。

最近、インターネットラジオOttavaをよく聴きます。クラシックばかり流れるラジオですが、そこでながれた「蝶々夫人」がそこはかとなく良かったのですね。12月22日がプッチーニの誕生日ということで、おそらくはそこに合わせた選曲。
「蝶々夫人」は何度か実演で聴いていますが、亡き若杉さんが10年以上前に振った演奏が忘れられないです。あのときは第一幕は泣きっぱなしだったなあ、など。

https://www.nntt.jac.go.jp/opera/10000057_2_opera.html

14年前のブログ記事が出てきました。書き方が若い……。

https://museum.projectmnh.com/2007/03/31205000_7858.php

そうか、ジュゼッペ・ジャコミーニさんがテノールだったのか。あの強烈なテノールに、若杉さんのたおやかな指揮が絡み合って、それはもう美の極致という世界だったなあ、という記憶。その記憶がラジオから流れる「蝶々夫人」を聴いて思い出したのでした。あのころもまた不思議な経験をたくさんした時代。一回り、と言う言葉もありますが、12年から15年にかけて人は同じ体験をするのかもしれないなあ、等と思ったり。願わくば回帰しながら上昇する螺旋のようにありたいと思います。

そうそう。このカラヤン盤は、パバロッティとフレーニが登場する名盤。良いものを聴くと元気がでますね。

慌ただしい年の瀬ですが、どうか皆様もお身体にお気をつけてお過ごしください。
おやすみなさい。グーテナハトです。

Astronomy

数百年ぶり、ということもあり、今日は在宅勤務中の休憩を利用して、手持ちカメラでさっと撮影したところ、素人ながらに面白い写真がとれました。キチンとしたセッティングをする間もなく撮ったので、??という感じですが、記念なので載せておきます。

土星が、輪を持つように長細く見えるのは本当に驚きでした。天文・写真ビギナーにしては楽しめたなあ、と思います。木星の左上にかすかに見える白い影はガニメデらしく、また右下の白い影はイオのようで、ガリレオ・ガリレイも似たような感慨を得たのかしら、などと思ったり。

天文学的にも重要なイベントですが、聞くところによれば占星術の世界でも20年に一度の変動らしく結構騒がれているようですね。

この視差角で接近したのは、400年ぶりだそうですが、当時は太陽と近すぎて観測できず、観測出来たものとしては800年ぶりだそうで、すごい時代のすごい現象の目撃者になったなあ、と思います。

周期12年の木星と周期29.5年の土星が、地球から見ると、順行と逆行を繰り返しながら波打つように次の邂逅点に向かうのは、なにか世界や人生の揺らめきを想起させるものです。人生は波であり円環であるとすれば、なにかそれは星の動きと似ているものだ、と思いました。

Johannes Brahms

コロナ患者が増えたと言うこともあり、またまた在宅勤務が増えてしまう今日この頃。4、5月は緊急事態宣言がでていたこともあり、近所のジムも閉館していて泳ぐことも出来ずただただひたすら家に居ましたが、ここのところはジムも開いていますので、昼間は自宅で仕事し、夜は泳いで、という生活を続けるよう心がけています。運動しないと病みますから……。

在宅勤務の楽しみは、音楽を聴きながら仕事が出来ることですが、今日、久々にCD聴いてみて驚きました。この10年ほどは、iPodかAppleMusicで音楽を聴きことしかなかったわけです。音楽を聴けるのは通勤時間のみでしたから。なので、CDは多くあれども、結局のところは、AACなりMP3なりに取り込んだものを聴いていただけで、CD自体を聴くことはなかったのです。

で、在宅勤務になったと言うことで、久々にCDを聴いてみると、いやあ、この音の良さは何だろう、と。なんというか、低音から高音に至るまで、その緻密で拡がりのある繊細な音の感じというものがたまらなく心地よくて、ああ、昔はこういう音をきいていたんだなあ、ということを改めて思い出した感じです。

良い音を聞くというのは、なにか幸福感につながることでもありました。絶対的な良い音というものはありませんが、自分の中で、昨日よりも今日の音の方がよい、と感じるだけで、それはもうひとえに幸福であると言うことになるのです。

今日聞いたのはこちら。ヴァントのブラームス。いやあ、本当にドイツらしい、拡がりのあるブラームス。以外とテンポが速いところもあって、キリッと締まったブラームスだったと思います。明日も在宅勤務なので、また聴こうと思います。

それにしても、ブラームスいいなあ。最近、シューマン、ブラームスあたりの中期ロマンはをよく聴いていて、その系統でヘルマン・ゲッツなんかも聴いて良い気分になっています。やっぱり19世紀ロマン主義はまだ息づいているなあ。なにか、こう、フランス革命後で個人というものが確立するなかで、ヒューマニズム的というかフリーメイソン的な博愛精神のうねりを感じるのです。これは、一つの普遍的な価値で、それが正しいかどうかと言うことを超えて、厳然とここにあるものだな、と思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms,Music

これは、もう、私の直感でしかないので、どうしようもないのですが、最近は、「善き音楽」を聴くことの必要性を痛切に感じています。

音楽という芸術に、倫理的な「善」という言葉を当てはめること自体、なにか偏狭な感覚を持ったと思います。

自分が善いと思う音楽を聴くことによって、自分も善い方向へ向かうだろうし、もしかすると、それにつられて世界も善い方向に向かうのではないか、という感覚をもつのです。「善き音楽」はこれまでも善きものとして扱われていたのであろうから、これからもきっと善きものであり続けるのではないか、という感覚です。

これからは、時の許す限り、善き音楽を聴こうと思います。 この音粒ひとつひとつが花となり実となり 宙へと舞い昇りを満たすのような、そんな感じです。

ということで、今日はこちら。アバドのブラームス。憂愁が流麗に描かれことこそロマン主義的と思いました。私はアバドが振るドイツ音楽が本当に大好きなのです。純粋ドイツのロジカルな構築美ではなく、なにか遊びや緩みがあって、なおその遊びや緩み自体が美と愉悦の源泉になっているのです。これは、アバドのベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ワーグナーを聴いていつも感じることです(マーラーはまたちょっとちがうんですよね……)。

このロマン主義的、という感覚ですが、ロマン主義とは理性偏重、知性主義、啓蒙主義からの反動で、直截的感情が分析的知識より重きを置かれたというもの。となると、「善き音楽」という私の直感もロマン主義的です。

世界は波のように揺れ動きます。中世、ルネサンス、啓蒙主義、ロマン主義…。それは個人の考えにおいても同様だなあ、と。

そんなことを思いながら、12月の年の瀬を迎えようとする11月最後の週末の夜を過ごしています。どうかみなさまもお身体にはお気をつけください。

Miscellaneous

先だって、少し離れた山麓に泊まる機会を得ました。夜中の2時頃、ふと目をさまし窓の外をみると、文字通り満天の星空が。あれ、こんなに星を見たのは、久しぶりだ、という感覚でした。

早速カメラを取り出して、あれやこれや工夫をして、写真をとると、オリオン座がくっきりと。左に見える一等星はおそらくはシリウス。右上の赤っぽい星はアルデバランかな。

アプリを使っていろいろと星を探して、本当に懐かしいひとときでした。ぎょしゃ座のカペラ、こいぬ座のプロキオン…。双子座の双子星も見えたし。

北天を見上げると、あれ、北斗七星ってこんなにおおきかったっけ、と。おそらく40年ぶりの北斗七星のような気がします。

少しぶれた写真ですし、写真だけで、その大きさを実感することはできないですが、ああ、こんなに大きいのか!と驚きしかありませんでした。

で、しばらく星空を眺めていると、シリウスが点滅しているわけです。これが、いわゆる星の瞬きで、空気の揺らぎがその原因であるということはわかっているにせよ、実際に見てみると、本当に感動的なわけです。

東京では、こんな星空を眺めることはできませんので、本当に感動しかないです。いつもこういう星空を眺めておられる方には、あまり驚きはないのかもしれませんが、夜空を見上げる暇もなく、また見上げたとしてもネオンや街灯、自動車の灯火で照らされる東京の空には、こんな星は見られないわけで、感動的なのです。

古代の人々は、この星空をみて、さすがに様々なことを思うだろうなあ、と考えます。あのオリオン座の三つ星が、偶然であったとしても、均等に三つ並んでいるのをみると、そこに意味を見いだそうとするのは、想像をむねとする人類にとっては、必然です。本当に、月並みで古くさい感想ですが、この星空が数千年にわたって、人類の頭上に変わらず輝いていることの奇跡的な意味を感じずにはいられませんでした。

で、どこへ行ったのか? は、またこの場でご報告したいと思います。

今日はこのあたりで。おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

ブログ、という言葉が最初に登場したのは、私の記憶では2003年頃だったはず。当時は、Web日記なんていうのがあって、WeblogとWeb日記は同じか違うか、みたいな論争があった記憶があります。

私も、HTMLで記事を書いて、せっせとFTPでアップロードするということをやっていて、なんだか不便と思っていましたが、Weblogの本を立ち読みして、これだ!と思った記憶があります。当時は、一人一人がメディアを持つのだ!というコンセプトが打ち出されていて、ああ、これで市民一人一人が自分の意見を公開することができて、ジャーナリストでなくても、情報発信が簡便にできるようになるのだ!という、期待のようなものがありました。

それは、なにか、フランス革命レベルの革命的なことのように思えたものです。

実際には、そんなことはなくて、あまたのブログが乱立し、ブログという言葉が、いつしか流行語となり、消えていったわけです。その後、TwitterやFacebookが出てきたのはご存じの通り。

そんな今日でも、ブログを続けるのは、奇特なことのように思えますし、あるいは、はてなブログやAmebaを使わないのも、さらに奇特なことです。

翻ってみると、どうも、商用ブログの著作権に抵抗を覚えたのだ、と。書いた文章が、商用ブログ側に著作権があるという情報を得まして、私の書いた文章は私のものだ、という至極真っ当な感覚から、自分の文章は自分で面倒を見ることにして、時前でブログシステムを立てたのだ、ということだと思います。

2003年からはMovableTypeを使い、一時期FC2を試しつつも、再度Movabletypeに戻り、WordPressに引っ越してきたわけです。

もともとはMovableType仕様で、記事のURLの付け方もMovableTypeにならったもので、それをパーマリンクとして使ってたのです。

ところが、先日、WordPressの仕様が変わったようで、タイムスタンプだけをもとしたパーマリンクは無効となり、その影響でコメント欄が表示されない、という事象がおきていることがわかりました。コメントをいつもくださっている方からの連絡でした。

このところなかなか文章を書く間もなかったので、最近コメントないなあ、などと思っていたり、コメントくださる方も、Facebook経由でくださったりしていて、なんでブログのコメントがつかないのかな、と思っていたんですが、システム障害だったわけで、申し訳なく思います。。

昨日から対応策を調べ始め、ようやく片付けました。デザインのアップデートが必要で、配布されているデザインを適用して、かつてのデザインに近づけていますが、全く同じとはなりません。時間のあるときに見やすくなるようにカスタマイズしないと。

スマホやタブレットからは少し見やすくなるかもしれないなど、改善されることもありますので、また是非お越しいただければと思います。

予告ですが、先だって辻邦生先生ゆかりの場所に行って参りました。その報告を書こうと思っています。

それでは、みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Wolfgang Amadeus Mozart

数年前に撮った秋らしい写真。どこだったか…。

秋が深まり、日が短くなりました。日没がもっとも早まるのは11月末です。この前まで19時ごろまで明るかったはずなのに、なんて。

時間が経つのが早い、という感覚を通り過ぎて、時間の前後もなくなり、時間がひとつに重なっているような気がします。量子コンピュータの重ね合わせのような感覚。

こんな迷妄のときに聴くのは、決まってジェフリー・テイトのモーツァルト。

特に、32番と35番が思い出深く、何度となく聴いています。この清澄な感覚は格別。

かつてEMIボックスで買って、iPodに入れて聞いていました。最近はAppleMusicで。

何か辛口の白ワインを飲む感覚のモーツァルト。草原でピクニックをするときに、飲む白ワインのような。太陽の光を浴びながら、飲む白ワインは格別だろうな、と想像します。一度もやったことがありませんが、多分、そういう爽やかな愉楽を感じるモーツァルトだと思います。

安息の日々は安息の先取りから。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

今日の東京地方の予報は曇天でしたが、実際には、豊かな日差しが降り注ぐ良い一日でした。少し自転車で遠出をする用事があったのですが、近所の農地の中を自転車で走るのはずいぶんと気持ちが良いものでした。波打つように拡がる農地を横目にみて、日差しを浴びながら、冷たくなった風を頬に感じるのは、なにか日々の芥を洗い流すような気分になりました。

空は完全に秋空。うろこ雲に満ちています。東京地方の日没は16時40分。冬至まであと一ヶ月と少し。秋も深まり冬へ突入しますが、その先の春と夏の何かしらの予兆をなんとか感じようとしている、そんな感じです。

この2020年という年は、世界が大きく変わる年でしたが、2020年が終わりに近づくにつれて、なにか先行きのようなものが見えてきた気がします。個人的にも、なんだか、長いあいだトンネルの中を歩いていたような気がしますが、ギアが入り始め、歯車が正回転を始めた、そんな感じがします。できることは、せっせと本を読んで音楽を聴いて文章を書くことのはずです。あまりできていませんでしたが、また始めないと……。

Gustav Mahler

文化の日は晴れの特異日だったはずですが、東京地方は曇り空で、寂しい文化の日でした。もはや文化の日という新鮮味も感じられない茫漠とした感覚にさいなまれていましたが、こんな時には音楽を聴かないと、と思い、思いついたのがこちら。

マーラー交響曲第10番嬰ヘ長調クック版第三稿。

10年ほど前、マーラーの死に至る道程にとても興味を持ち、体調を崩してニューヨークからウィーンに帰り着きそこで息を引き取るというストーリーが映画のように思えたことがありました。

雨の降りしきるニューヨーク港に馬車でやっとの事でたどり着き、傘もさせずに、雨に打ちぬれながらタラップにようやくたどり着き、助けを借りながらようやくとタラップを昇る姿が目に浮かんだものです。

マーラーの最後の演奏会は、カーネギーホールでニューヨークフィルを振っているのですが、その演目ははブゾーニの「悲劇的子守歌」。母親の棺によりそう男の子守歌、ですからね……。

マーラーは51歳で亡くなっていますから、まあそろそろその気持ちもわかってくる時分になった気がしています。勝手な想像ですけれど。

ともかく、最近、世界の見え方がこれまでとは劇的に変わります。相転移ともいえる状態。ベルグソン的に言うと創造的進化。今が妥当なのか、遅すぎるのか、早すぎるのか。やれやれ。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

いつのまにか11月。

なんだか、1ヶ月ほど書けない状況でした。何かしらの調子が崩れたのだと思います。そのあいだも淡々と仕事していましたが、書くという活動は難しかったのです。書くことが、生活に結びついていない以上、致し方ありません。

そして、なにか、精神的には、冷凍睡眠の状態だったような気がします。ただただ、目の前を流れ去る景色を見ているだけ、のような、そんな感じの一ヶ月だった気がします。

まあすべては波です。波とは円運動が進行したものですから、これも太陽なのか月なのか、何かの天体の動きと関係があるのかもしれないです。

2020年も余すところあと2ヶ月。みなさまもどうかお身体にお気をつけてお過ごしください。