Tsuji Kunio

昨日の個人的な直感を経てから、なにか辻先生が書いていることの理解が変わった気がしています。今までは、頭でわかっていたつもりでしたが、すべてが一瞬にして変わり、新たな理解に到達してしまった感があります。

似たような経験をしたのは、1994年晩冬のこと。親戚の結婚式に向かう上越新幹線の中で、西田幾多郎「善の研究」が語る純粋経験の主客未分を体験的に把握したことがありました。あのときの感覚を思い起こしています。使い方を間違っていないのであれば、ベルグソンのエラン・ヴィタールのような跳躍でした。

今朝も「言葉の箱」をKindleで読んでいたのですが以下の言葉がなにか痛いほど刺さってきました。

人間として存在していることが言葉としている存在していること

辻邦生「言葉の箱」No.210/1537 Kindle

私は、これまでは人間足るべきものは、言葉によってその存在証明をするのだ、という意味合いと捉えていました。昔見たフランス映画で、小学生たちに「話さないことは存在しないこと」ということを教えているシーンがでてきたのを覚えています。西欧では、話さないことがすなわち人間として存在しないことだ、とうことを知ったのですが、そういうことを述べているのではないか、と考えたのです。

しかし、この「人間として存在している」と「言葉として存在している」が同義であると言っているということは、ひっくり返すこともできるわけです。A=Bであれば、B=Aともいえます。

「言葉として存在していることが人間として存在していること」

そうすると、言葉がまずあって、その後人間が存在していると言うことになりますが、それは言葉が人間を形成するという作用を暗示するわけです。

はじめにロゴスあり、という聖書の言葉があり、、言葉が人間を作るというのは、前後逆であるように見えて、実は言葉の強大な力を表現しているものなのだと捉えました。よく言われる「言霊」ということなのでしょう。

西欧においては、人間が起点となり、人間が世界を形成します。しかし、どうも日本(あるいは東洋?)においては、人間が世界を形成するのではなく、世界があって人間があるように思うのです。それは単純な経験論ではありません。言葉による世界が、人間を形成するという意味であり、それはなにか西田幾多郎の主客未分とも似ているように感じます。そこに主客=人間と言葉の依存関係や優劣性はないのです。

これは哲学の学問的議論ではなく、あくまで随想ですので、議論するものではなく、直感を文章かしようとしているものです。しかし、昨日の直感以来、「言葉の箱」の文章のすべてがこれまでと違う意味を持ち始めてしまい、驚き困惑しています。それは私の解釈だけであって、辻先生がそうした思いで書いておられたのかはよくわかりません。しかしながらそれが解釈であったとしても、その状況をどこかに書き留め表現しなければならないという衝迫に駆られているようです。

ほかの箇所でもいろいろと気づきがあったのですが、今日はこのあたりで。みなさまもどうかよい夜を。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

21年は長く短い

今日は、辻邦生先生のご命日。園生忌です。21年前になります。

今年の思いは、「21年は長く短い」です。

歳を重ねるにつれ、10年前の記憶が産まれ、15年前の記憶が産まれ、20年前の記憶が産まれます。そうしたあらたな記憶が産まれることに、当初は驚くのですが、そうした驚きもいつしかなくなり、21年前の記憶が鮮明であることにも驚かなくなります。21年前の記憶と1年前の記憶に質的差異は全くないのですから。そういう意味では、辻先生の記憶もなにかまざまざと迫ってくるものがあります。

21年前辻先生と文学についてお話しするのが夢でしたが、その夢は潰えた、という思いを抱いた、という記憶もありますが、もしかするとそれも、後解釈で付け加えられた別の記憶であるかもしれず、もはやなにが正しく真実であるのかはわかりません。

今日、この新聞記事にある「美」と「言葉の力」というテーゼが、ストンと腹落ちするのを感じました。それは、少し前から少しずつ腹落ちに向けて考えていたことなのですが、本当に偶然に、この辻先生のご命日に腹落ちしたのでした。腹落ちした瞬間は、今日が7月29日であることと関連付けていなかったのですが、夕方になって、今日という日付のことを改めて思い出し、文字通り声を上げて驚いたのでした。

「美」と「言葉の力」

それにしても、いままでこの「美」と「言葉の力」を理解していた気がしていたのに、全く理解していなかったのでした。そのことも驚きますが、今日というこのタイミングで腹落ちしたのも運命的です。

きっと「美」にも、なにかしらの実践的な意味があるのだろうなあ、ということで、それは「食べ物もなにもない焼け跡で、文学が何の役に立つのか」ということの答えになるものではないか、とも思うわけです。しかし、「腹落ち」という非論理的な営為を言語化することは難しい仕事なので、これ以上語ることはできず、おそらくはこの先何年もかけて言語化していかないと、と考えています。

おわりに

ところで、一昨日から巻頭言をホフマンスタール「ばらの騎士」から「春の戴冠」に変えました。世の中は腹が立つこともあるのでしょうけれど、それ以前に充足していることのほうが大切です。

今日はこのあたりにしておきます。コロナ以降、私も少しずつエンジンがかかってきました。これまでより頻度をあげて書こうと思っていますので、お時間のあるときに是非おこしください。

おやすみなさい。

Miscellaneous

 週末の朝はNHK-FMを聞きながら食事をとります。テレビのニュースは暗鬱ですので、せめて食事時は音楽を聴きながら過ごしたいというもの。

とはいえ、CDを聞くだけだと、なにか外界への拡がりに欠ける、という思いもあり、なるべくラジオを聞いて、外界とつながり新しい「もの」に触れないと、という考えです。

 ということで、今日は「名演奏家ライブラリー」を聴きました。今日は、ウィリアム・ウォルトン。英国の作曲家ですが、自身の指揮による演奏がオンエアされていました。

Sir William Turner Walton.jpg


Bassano Ltd – https://www.npg.org.uk/collections/search/portrait/mw69488/Sir-William-Turner-Walton?LinkID=mp04688&search=sas&sText=+William+Walton+&role=sit&rNo=8, パブリック・ドメイン, リンクによる

 こればかりは理屈ではありませんが、私は文学でいうと、英米系か独墺系を好むことが多く、音楽もやはり独墺系を聴く機会が多いのですが、英米系の音楽は、幼い頃はエルガーやブリテンを聴くぐらい。その後、ヴォーン=ウィリアムズをよく聴いた気がしていますが、今もそんなに知っているわけではないのです。それでもなお、ウォルトンの曲風には親しみを覚えました。

 ウォルトンの音楽は実に鮮やかで、いい意味でキャッチーで聴くものを引きつけます。あまり集中してラジオを聴けなかったのですが、最後に流れた「行進曲《宝玉と王の杖》」は素晴らしかったのです。

1953年のエリザベス女王の戴冠式のためにウォルトンが作曲した行進曲。エルガーの《威風堂々》に似た趣を持ちながら、堂々として優美で、ただただひたすらにその瞬間瞬間の世界に畏敬と感謝を抱くような曲風。この曲を聴いたら、多くの人が、なにかその恩寵にひざまずくのではないか、と思います。エリザベス女王が当時どんな思いで聴いたのか、などと。

Coronation of Queen Elizabeth II Couronnement de la Reine Elizabeth II.jpg


BiblioArchives / LibraryArchives from Canada – Coronation of Queen Elizabeth II / uronnement de la Reine Elizabeth II Uploaded by oaktree_b, CC 表示 2.0, リンクによる

 この曲、記憶の中にありましたので、おそらくこの30年以内にどこかで聴いたことがあるはずですが、今の今まで忘れていました。奇跡的な邂逅だったなあ、と思います。やはり、ラジオで外の世界とつながると何かしらのシンクロニシティはあるものです。

 オンエアされたのは、作曲家自身の演奏だったのですが、Apple Musicで該当する番がよくわからず、聴いたのが、戴冠式の模様を録音したCD。

戴冠の宣言なども聞けるのですが、南アフリカやパキスタンの君主であるという宣言もありまして、戦後の大英帝国の陰りの中にあってもまだ海外領土を持っていた時代だったのか、となにか感慨深いものがあります。いまから70年前のこと。地続きであることを実感できる年代に思えるのは、年齢のせいなのか、あるいはカラー写真のせいなのか、戦後だからなのか……。

 それにしても、長い梅雨が続いています。いろいろなことが心配ですが、心配ばかりだと、もっと状況が悪くなりそう。そんな折に「行進曲《宝玉と王の杖》」を聴くのも悪くはないなあ、と思いました。

 なかなか安定しない気候で大変ですが、みなさまもどうかお気をつけておすごしください。

 おやすみなさい。

Opera

ひさびさに、プレミアム・シアターを観ました。録画をしていたものをご飯を食べながら…。

「オペラハウスはワンダーランド!~ウィーン国立歌劇場開場150年~」

ビリャソンが案内役となって、150周年を迎えたウィーン国立歌劇場を案内するというもの。昔、ウイーンを訪れて探検したことを思い出したりして。

一人で、小澤征爾の振るフィガロの結婚を見に行った時のことが懐かしいです。アンサンブルのレベルの高さに舌を巻き、あるいは、演奏後、小澤さんが、オケメンバーの殆ど全員と握手して回っていた気遣いにさまざまなことを感じまはた。

それから、休憩中のホワイエに、軍人が軍服を来て遊弋していたのが、なんだか100年前のウィーンにいるように思えたものです。日本では制服姿の自衛官を見ることは大変稀ですが、あちらでは、普通に兵士が旅客列車に乗っていたりします。歴史の違いです。

当時とったと思われる写真。リング通りに座るオペラ座。20年ほど前の写真。

オペラがはけたあとの人の波。

そして、マーラーの胸像。ロダンの手によるもの。時代を超えた価値。

まあ、また行くことになるでしょうけれど、懐かしいです。

というわけで、またオペラを聴く生活に戻れるかも、と思い、こちらを。ハイティンクのリングからワルキューレ。クリアな演奏が見事。

ということで、いろいろなものを少しずつ戻しながら、時代を先に進まないと…。

Miscellaneous

先だっての土曜日の夜。

翌日の日曜日の天気予報は曇と雨でした。最近、太陽を見ていないのもあり、晴れてほしいな、と思いまして、家族に「明日は晴れるよ。天気予報は曇りだけど」といって、眠りにつきました。

で、6時頃、早起きをして散歩をしたのですが、そのときはまだ曇り。帰宅して疲れていたので二度寝してしまいまして(すみません)、幾分か寝坊気味で起きあがると、家族が「あれ、晴れてるよ」と。

窓を開けると、本当に晴れていて、びっくりしました。久々の太陽の光。そして大好きな夏が来た、と本当にうれしくてうれしくて。

で、予定を変えて、近所の公園へ。久々の公園もやはり太陽の光を浴びて、輝いていました。輝き燦めく緑の木々が眩しくて、素晴らしい一日。こんなこともありますので、まあいろいろあっても、生というものはものは素晴らしい、ということですね。「今、この瞬間の美しさに打ち込む」、ということを辻邦生は言っていると思いますが、この歳になってようやくその「打ち込む」という言葉の意味がわかった気がします。

あ、「今、この瞬間の美しさに打ち込む」という言葉の出典は不明です。どこかにそのような記載があったはず……。

辻文学は救いだなあ、と思いました。

それではみなさま、おやすみなさい。

Gustav Mahler

まあ、たまには飲むのも許されるでしょうか。世界を笑い飛ばしたいことも多々あります。ウィークデーはひたすら働き、明日も深刻な1日になりそうなので、まあ少しの間脱力しても罰は当たりますまい。

ということで、大地の歌。

最近、マーラーを聴くと落ち着くようになってしまいました。何か、世界の混濁をそのまま表しているような気がします。今日もメータやラトルのマーラーを渉猟していたんですが、ワイン飲み始めたのと「大地の歌」を聴くのが同時になってしまい、なんだか運命的だなあ、などと思いながら。

やれやれ、アルコール飲みながら、第5曲「春に酔える男」を聴くのもなかなかオツなものです。

もう 歌えなくなったら
今一度 眠りに堕ちよう
春が一体 なんだというのだ
このまま 酔わせてくれ

人生とはこういうものです。乾杯。

それでは、みなさま、グーテナハトです。

Gustav Mahler

やれやれ、1週間が終わりました。いろんな意味で終わったという感覚も。

仕事のあとの静かな時間は、マーラーの9番をラトルの指揮で。ベルリンフィルを振った比較的新しい盤。AppleMusicでありがたく。

ラトルの、振幅のある、ある種生々しい躍動が、聴くほうの心の振幅に共鳴して、心臓の周りを音楽の膜にぴったりも覆われている感覚。

第一楽章の後半に、トロンボーンとフルートの二重奏(多分)があるのですが、あの部分、本当に恐ろしい。「復活」を思わせるメロディをフルートが吹いたあとに、悪魔的な執拗さでフルートを追いかけ、揶揄し、遮るトロンボーン。天使を追い回す悪魔ではないか。そんな感覚を覚えるのです。復活を妨げようとする悪魔。それに負けずに、天使は空を舞う、というような。

何かしら悪魔的な要素は、どこにでもあって、戦い続け、そうやって第一楽章最後に到る静謐は、戦いの疲れを癒す牧歌的風景であるかのような気がします。アルカディアの風景。

しかし、そこにはパンがいるのですが、そのパンこそが、キリスト教にあっては悪魔の原型ともなるという相対性があるわけですが。悪魔か天使か。それは価値観と解釈でしかないのでしょうけれど。

ともかく、このマーラーの9番に織り込まれた静謐は、砂漠に染み込む水のように心に入り込んできます。それだけは現時点では唯一の真理です。

というわけで、もう一度聞き直しながら、今日の夜更を楽しもうと思います。

みなさまも良い週末の夜をお楽しみください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Jazz

土曜日の朝は、NHK-FMで「世界の快適音楽セレクション」を聴くことが多いです。この番組で知った良い音楽は数知れませんし、自分の知っている音楽がオンエアされるのも嬉しい瞬間です。

先週末(6月6日)にオンエアされたマイケル・フランクス「淑女の想い」、気怠くアンニュイなナンバーで、溶けてしまいそうな気持ちを抱きましたが、サクソフォーンのソロを聴いてのけぞりました。これは、マイケル・ブレッカーのサクソフォーンに間違いない、と。

当然その通りでした。1977年のアルバム「スリーピング・ジプシー」に収録されている「淑女の想い The lady wants to know」はマイケル・ブレッカーのメロウなソロが聴けるという素晴らしさ。2曲目I Really hope It’s Youや4曲目B’wana-He No Homeでもガッツリとマイケルのソロを堪能できるという美味しさ。あの1978年のライブ録音であるHeavy Metal Be-Bop時代のマイケルの音で、メロウなナンバーのソロを聞けるという不思議な体験です。

このアルバムを知らなかったこと自体、マイケル・ブレッカー好きとしては、怠慢以外の何者でもなく、お恥ずかしいことこの上ないのですが、本当に素晴らしいアルバム。かつては、「CDがなかなか見つからなくて、聴いてないんですよねー」なんてことが言えましたが、AppleMusic時代にあってはその言い訳は通用しません。

マイケル・ブレッカーだけではなく、2曲目In the Eye of the Stormや、 5曲目Don’t Be Blueではデヴィッド・サンボーンの素晴らしいプレイも聴けてしまうという恐ろしいアルバム。同じアルト吹きとして、サンボーンのフレージングに聞き入ってしまいます。またサックスが吹きたい、と思いました。いつのことになるやら…。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

今日はラトルの指揮で聴くマーラーの「復活」。

マーラー「復活」を聴くシリーズになってきていますが、こう言ったテーマを作って書くのは、忙しい中にあっては、テーマを決める苦労がなくなり、ありがたいです。
(昔、ブラームスの交響曲第2番を聴くシリーズをやりましたが、あの時も楽しかったです)

ラトルのテンポ感がたまらなく素晴らしく、随分と楽しんでいます。ラトルはマーラー指揮者として若い頃から有名だったとのことで、大昔に買った音楽之友社のムックでも大きく取り上げられていました。バーミンガム市交響楽団の指揮者だった頃。

当時はあまりラトルを聴く機会はありませんでしたが、AppleMusicを使うようになってからは、心置きなくたくさんの音源を聴けるようになり、ラトルの演奏も随分聞いた記憶があります。

音源を聴きながら目を瞑ると、ラトルが恍惚とした表情を浮かべながら、タクトを静かに操る様子が見えてきたりします。

音楽を聴いて、こうしたことを書いたり想像したりできるというのはとても幸せなことだなあ、と改めて思います。


やれやれ、それにしても、随分と書くことから遠ざかっていたので、キーボードを打つ手もなんだかぎこちなく、困ったものです。尊敬する辻邦生は「ピアニストが毎日弾くように」、文章を毎日書いていたのだそうですが、あやかれないものですね。

会社では文章を書きますが、会社の文章とここに書く文章は全く違います。正直いうと、会社で書く文章は昔から違和感を感じていて、大嫌いで、嫌々苦労しながら書いています。

だからと言って、ここに書く文章がうまいかと言われると、今はよくわからないです。戻していかないと……。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

今日の「復活」はアバドです。

好きな指揮者と聞かれると、何人かの名前が浮かびます。

チェリビダッケ、クライバー、ラトル、シュナイダー、そしてアバド。

同曲異演を味わうことができるようになったのは、私は少し他の方より遅かったかもしれず、確か社会人になってCDを少しは帰るようになってからだったと記憶ししています。

指揮者の好みはこの同曲異演を味わうことができるようにならないと感じることはできないはずです。

学生の頃は、同曲異演なんて贅沢だと思っていましたが、ある時、清水の舞台から飛び降りる思い出、同曲異演のCDを買ったことがあり、それがアバドのブルックナーだったと記憶しています。

それ以来、何かアバドの演奏には親しみつづて、アバドが好きな指揮者になったなあ、という思いがあります。触れると消えてしまうような繊細さと優美さ、というのが私がアバドに感じる思いです。この演奏もやはりそうした優美さを感じました。特に第二楽章。西欧の柔らかい光という感じ。

こんな、過去の記憶を振り返るのも何かな、と思いながらも、昨日からブログのテーマは「復活」になっています。これは何か私のリハビリのようでもありますので、少し気が引けますが…。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。