Concert,Richard Strauss

昨日は満を持してNHKホールへ向かいました。N響定期公演、アンドレ・プレヴィン指揮で、ヴォルフガング・リームとリヒャルト・シュトラウスの作品を。すばらしいひとときで、私は我を忘れ続けました。

まずは、ヴォルフガング・リームの「厳粛な歌」。ベルクの「ヴォツェック」や「ルル」を思い出した私は単純でしょうか。ティンパニの打点がどうにも似ていまして。NHKホールの微妙なリヴァーヴ感とあいまってです。今から思えば、アバドの「ルル組曲」を感じていたみたい。ともあれ、奏者の配置も面白くて、弦楽器が右前方、木管楽器群が左前方に向かい合って並んでいました。意外と旋律的でしたが、プロの方はあのテンポ取りでどうやったらあんなにきちんと演奏できるのでしょうか。。私も昔似たようなことをやった記憶がありましたが、相当辛かったですので。 それにしても、イングリッシュホルンのあの方、本当にいい音だすなあ。

さて、二曲目はシュトラウスのオペラ「カプリッチョ」終幕の場面。私は、この曲の演奏をお目当てにチケットをとりました。しかも伯爵夫人マドレーヌは、フェリシティ・ロットとくればなおさら。

月光の音楽が始まりますと、とろけるような甘いホルンのソロから。多少瑕はあったかもしれないのですが、私はもうここでこみ上げてくるものを押さえられなかったです。涙が溢れ、嗚咽に似たものが上へ下へと行きかうのに必至にこらえる感じ。隣に座っていたカミさんに気づかれたのでしょうか? 

ロットの歌いだし、オケがずいぶんとなっていましたので、バランス的に少し声が小さく感じましたが、その後お互いに調整してかなりいいバランスになりました。そして、あのソネットの部分!

Kein andres, das mir so im herzen loht,
Nein schoene, nichs auf diser ganzen Erde,
Kein andres, das ich so wie dich begehrte,
Und Kaem’ von Venus mir ein Angebot.

わが心を 燃え立たせるものなど麗しき人よ
この世にまたとあろうかそなたほど 
恋い焦がれるものは他になしたとえ 
美の神ヴィーナスがきたるとも……

もう何百回(言いすぎですか? でも100回は聴いたと思います)と聴いたカプリッチョ終幕の部分。ヤノヴィッツ、フレミング、シュヴァルツコップ、キリ・テ・カナワ、シントウ……。今日もやっぱり完全に陥落してしまい、涙が頬を伝っていって止まらない。私はこの一瞬のためにも、日々仕事をしている、といっても過言ではありません。

フェリシティ・ロットの歌は、恋焦がれる伯爵夫人というより、慈愛を注ぐ母性的存在であるかのように感じました。これは、もちろん、私がクライバーの「ばらの騎士」でフェリシティ・ロットがマルシャリンを歌い、オクタヴィアンへとゾフィーに注ぐ慈しみの歌を知っているからでしょうか。あるいはロットの今の心情を反映しているのでしょうか。

実は、私はこの曲を2006年の秋にドレスデンのゼンパー・オーパーでペーター・シュナイダーの指揮で聴くという今から思えば信じられないような幸運に恵まれました。ですが、あの時、私はここまでカプリッチョを理解できていたのか? 答えはNeinです。 あの時はサヴァリッシュ盤で予習をするだけでして、しかもモノラル音源でした。そして、旅行の寸前にクラシックロイヤルシートで放送された「カプリッチョ」。ウルフ・シルマー指揮で、伯爵夫人はルネ・フレミングで、クレロンがアンネ・ゾフィー・フォン・オッターという大僥倖。日本語訳が手に入らなかったので、このオペラを観ながら字幕を全部テキストに起こしました。それを持ってドレスデンに乗り込んだのでした。

あの時、やはり月光の音楽で静謐な美しさに心を打たれましたが、ここまでではなかった。でも、シュナイダーの指揮のうねりとか、演出の美しさ、つまり、白を基調とした舞台の背景が群青色に染め上げられて月光が淡く照らし出す光のイメージが生み出すあまりにあまりに濃縮された美意識、そういったものが複雑に織り込まれていき、このオペラの最終部への理解が深まった気がしています。まあ、ここでいう理解とは何か、という問題はあるのですが。

昨日の演奏のプレヴィンの指揮もすばらしかったです。テンポは少し抑え目に感じましたが、徐々に迫る高揚感への円弧のラインがすばらしかったはずです。「はず」とは何事か、といいますと、正直申し上げて、私はある意味我を忘れておりましたので、反省的な聴き方をあまり出来なかったようだからです。 たしか、月光の音楽はプレヴィンも録音しているはず。いまその演奏を聴いているのですが、これもすばらしい。うねりと高揚感。 ちなみに、隣に座っておられた方は、眠っておられた様子。入り口に待機している係員の女性もやっぱり眠っておられたようです。ある種、それは宝の山を前にしてその価値をわからないという状態。でも、あの方々を責めることはできません。それは、ある種私のかつての姿と同じだからです。

徐々に終幕へと導かれていく音楽。答えのでない問題。それがあるから人生である。フラマンもオリヴィエもきっと伯爵夫人マドレーヌにふられる気がするのは私だけでしょうか。

曲が終わると万雷の拍手で、何度も何度もロットとプレヴィンが舞台に呼び出される。さすがに80歳のプレヴィンは歩くのも少々つらそうですが、あそこまで大きな作品を形作ることができるなんて。

そして、休憩を挟んで次は家庭交響曲。こちらは明日書くことにいたします。

Richard Strauss

Twitterにも書きましたが、これから渋谷へ。プレヴィンをききます。オペラではありませんが、双眼鏡も配備。シュトラウス漬けの時間になる予定です。
ちなみに、このエントリは携帯から投稿しています。BGMはもちろんプレヴィンの家庭交響曲。この2週間は家庭交響曲ばかり聴いていまして、忙しいながらも癒されていました。これだけ聴けばスコアを読めなくても曲を 覚えますね。
しかし、シュトラウスの「誇大妄想」的に創作センスはすごいです。日常生活を芸術に昇華させる驚異的牽引力。オペラ「インテルメッツォ」や交響詩「英雄の生涯」などもそうですが。
しかし、もうちょっとシュトラウスを勉強しないとなあ。頑張らないと。
それではまたのちほど。

Philharmony,Richard Strauss

やることが多くて、逆にわくわくする感じ。そういう感じで、なんとかくらいついていかないといけないですね。山登りと一緒です。辛くても登り続ければいつかは頂上にたどり着きますので。途中に山小屋もあれば渓流や滝もありましょう。頂上からの景色はきっとすばらしいはず。

さて、カラヤン盤「家庭交響曲」を聴きました。EMIの録音で、少々録音が古く思えます。1973年録音なのですけれど。やっぱりカラヤンらしい流麗さとか、ポルタメントとか楽しめました。最終部の圧倒的な盛り上がりへの牽引力はすばらしいです。テンポを少し緩めながらも、制御を失わずに、飛び続ける大型旅客機的な感じ。カラヤンもパイロットでしたので(あまり巧くなかったようですが)、そうした感覚があるのかも知れません。

そしてカラヤン盤を聴くとなにか安心感を感じるのです。私が最初にクラシックを聞き始めたのは、カラヤンづくしでしたので、カラヤンを聞くと安心しきってしまうのかもしれません。あるいは、カラヤンほどの大家であれば、その後の演奏に大きな影響を及ぼしているでしょうし。

ただ、マゼール盤の個性的な演奏を聴いた直後ですと、なにかオーソドックスな演奏だと感じてしまうのは、贅沢でしょうか。

これで、家庭交響曲は、ケンペ盤、プレヴィン盤、マゼール盤、カラヤン盤で予習しました。今週末の日曜日はNHKホールでプレヴィン指揮のN響で家庭交響曲を聴きます。もう少し予習をしたいですし、ここに書かなければならないこともありますので、土曜日にがんばろうと思います。

Philharmony,Richard Strauss

昨夜は、大学時代からの先輩を自宅にお招きして食事会でした。 いろいろご苦労されながらも教壇に立っておられる学者でいらして、私なんて大学時代からお世話になりっぱなしです。まあ、私も頑張らないと、と思います。

さて、今日もマゼールのシュトラウスを聴くシリーズの第三回目です。今日は「ツァラトゥストラはかく語りき」。この曲、私が最初に心弾かれた曲らしい。私の記憶にはありませんが、2歳だが3歳の頃、この曲をかけてくれ、と両親にねだっていたそうです。誰の指揮だったんでしょうね。古いLPはもう残っていないでしょうから、探すこともあたわないでしょうけれど。

マゼールの指揮は、やっぱり堂堂としたものです。テンポはそうそう早くはない。もちろんギアは動かしますけれど。やっぱりうねる官能性のようなものが垣間見えますし、わき上がる高揚感も。本当に分厚くて大きい。カラヤンの流麗な感じに比べると、本当に巨躯をのっしりと動かしながら歩いている感じ。真面目一徹とも思えます。良い意味で不器用な感じ。つまり自分の意志を隅々まで浸透させようとしている。そう言う意味では、すこし癖のある演奏とも言えましょうか。八方美人的演奏じゃない、ということです。

この曲、シュトラウスが32歳の時の曲なのですが、10年後に作曲しているサロメやエレクトラが随所に聞こえてきます。シュトラウスの生真面目な方面ですね。それからばらの騎士に見られる戯けたシニカルな面も聴いてとれますし、なんだかニーチェを揶揄するようにも思える部分も。ともかく、シュトラウスは本当にすてきです。

ちなみに、このCDには「ばらの騎士」組曲も入っていますが、洒脱な感じと言うよりは堂堂とした、という感じの演奏ですよ。こういう「ばらの騎士」もありですね。

Richard Strauss,Symphony

いやはや、ご無沙汰しております。色々ありまして、Twitterしか書けなかったのですが、なんだかやはり何か書いていないと落ち着かないようです。

今週はYellowjacketsばかり。今日になってようやく、マゼールのシュトラウスに戻ってきました。

アルプス交響曲は、マゼールのボックスセットに入っていたものです。マゼールって、こんなに大きな演奏をするのですね。 確かに単純に言えばテンポが緩いということもいえましょうが、緩いだけではなく、やっぱりきちんと制御された緩行性なわけでして、ちゃんとギアは入れ替えてます。カラヤン盤でもハイティンク盤よりも、聞いていく中で大きさに意識が向きます。テヌート感とかフェルマータ感が良く伝わってきますです。

それから、なんというか官能性のようなものも感じますね。弦楽器のうねりに加えられたしなだれかかるような感じ。ばらの騎士的とも思えますが、なぜかマーラーに感じられる女性的なものへの憧憬にも似た感情を感じます。

しかし登り道(トラック3)のところの舞台裏金管群はすごいです。舞台裏の金管の味をはじめて知ったのはマーラーの復活でした。あとはトリスタンの二幕にもありますね。私はこの三つがつながっているような気がしてならないです。 マゼールのボックスセット、少々お高めでしたが、買ってよかったです。マゼールのことも見直すことが出来ましたし。

Classical,Richard Strauss

ロリン・マゼールの演奏を始めて聴いたのは、彼が1980年代後半にマーラーの交響曲第八番を振った演奏をNHK-FMで録音したときでした。オケがどこだったか。クリスタ・ルートヴィヒとか、クルト・リゲルとか、ベルント・ヴァイケルが歌っていたような。少年合唱はテルツ少年合唱団だったかと。

当時の私は中学生でしたが、この演奏を聴いてマーラーの熱狂的信者となり、なかでもこの8番を教典のごとく毎晩毎晩聞き込んでいたのでした。

それで、マゼールは凄い、と思い込んで、同じくマーラーの交響曲第五番を聴いたのですが、これは全く理解できませんでした。曲自体が難しくて、中学生時代の私には理解できなかったのかも。ですが、歳をとってきいたラトル盤では感動しましたので、やっぱり当時の私としてはマゼール盤との相性は良くなかったという感じでしょうか。

それで、昨日、私は禁じられた聖域に入ってしまったのですよ。つまり、新宿のタワレコの9階ゾーンに。物欲を駆り立てる危険なゾーンで、シュトラウスはたんまり、ハイティンクもたんまり、私は気狂いを起こしました。

それで、あれよ、とかごに放り込んだのが、マゼールのシュトラウス管弦楽集的なボックスセットで、4枚で3000円ぐらい。ちと高め。

早速、家庭交響曲を聴きましたが、すげー、こんな解釈ありなんだ、的な驚きの連続でした。家庭交響曲と言えば、私はケンペ盤とプレヴィン盤を聴いただけでしたが、彼らの演奏とは全く違うアプローチ。

twitterにも書いたのですが、まずはテンポが気宇壮大でして、これはもう家庭交響曲ではなく宇宙交響曲である、といえましょうか。Symphonia Domestica がSymphonia Cosmologia的な状況。それで、さらに、これはもうマーラーですよ。マーラーの八番で、マーラーはアルマへの愛をファウスト最終幕を借りて歌い上げたわけですが、マゼール盤では、シュトラウスが、パウリーネへ壮大な宇宙愛を説いて聴かせているように聞こえます。

私は、シュトラウスには、シニカルな感じとか、ユーモア精神などを感じるわけでして、たとえばツァラトゥストラなんていうのは、壮大なニーチェへの当てつけである、なんていう話しを聴くと、確かにそうかも、と思ってしまうのです。ばらの騎士に埋め込まれた、たくさんの諧謔精神は、ばらの騎士の高雅な世界をもう一方から支えていますし。

で、マゼールの家庭交響曲には、そうしたシニカルなユーモア精神が影を潜め、シリアスな愛情告白というべきものになっているのです。

これはもうBGM的に聴くことを許さない生真面目な演奏になってしまいまして、気が休まるどころか、アドレナリン全開状態でして、疲れて帰宅する通勤電車で、3回目を聴こうと思ったのですが、さすがに聴けませんでした。

私は、ちょっとマゼールを見直しました。アマゾンのレビューでは酷評されているし、ウィーンのシュターツオーパーは2年で追い出され、ベルリンフィルのシェフの座をアバドに奪われたりと、少年時代の神童ぶりにしては不遇な晩年のようなのですが、まあ、私としてはこの演奏で、実に神聖な家庭交響曲を聴くことが出来ましたので大変満足しています。

しかし、アマゾンのレビューは辛辣だな。私は逆に凄い演奏だと思ったのですけれど。

Classical,Philharmony,Richard Strauss

今日はハイティンクについて。ブルックナー7番を聴いたのですが、どうも最近ブルックナーを聞き慣れていないらしく、ハイティンクらしさを今ひとつ掴みきれませんでした。

ところが、シュトラウスの「ツァラトゥストラ」と「ドン・ファン」を聴くと、これがまた素晴らしいハイティンクの棒さばきでして、躍動感と華麗さと高揚感が十全に伝わってくる名演です。こういうハイティンク、大好き。ハイティンクの演奏で私の中でフィットしているのは、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、ショスタコーヴィチ、それからベートーヴェン。実は、マーラーとブルックナーも聴いてみたんですが、ワーグナーやシュトラウスに感じるワクワク感が少し足らないような気がします。これは、ハイティンクが悪いわけではなく、おそらくは今の私にとって、マーラーやブルックナーの音楽を聴く準備が整っていないと言うことだと思うのですが。

しかし、「ツァラ」も「ドン・ファン」も良い曲だよなあ。これが初期シュトラウスにおいてすでに確立されているというのが天才たる所以でしょうか。私はここまでシュトラウスを好きになるとは10年前には少しも思っていませんでした。やっぱりオペラを見始めたことが、シュトラウスに開眼できた理由なのだと思いました。

Opera

 シルバーウィークで、どうもリズムが崩れましたなあ。せっかく会社になれたと思ったら、もう休みで、気合いを入れないと空気が抜けてしまう。

昨日は、午前中は都内にて用事を済ませて、地元にとんぼ返りして、ジムで筋トレとヨガ。このヨガが思いのほか気持ちがよいのですよ。普段けっして取ることのないポーズをとらされるので、自分の筋力のなさとか、体の固さを思い知らされる。そんなに大して動いていないのに、汗だくですよ、マジで。これ、続けたらきっと肩こりとかなおるんだろうなあ、という期待あり。それにしても、端から見たら妖しい集団だろうなあ。ジムの中でなければ、ヨガやるなんていったら、ちょっと怖いですし。

夕方は、地元の英会話でイギリス人とだべる。オテロの話しから、シェークスピアの話に。イギリスでは中学校か高校でシェークスピアを読むらしいのだが、古英語なので難しいらしい。まあ、僕らが源氏物語を読むのと同じような感覚でしょうか。古英語のなかに、hastという言葉があるらしいのですが、これはドイツ語のhabenの活用形と同じ。意味も同じらしい。古英語がドイツ語とほとんど同じだったらしいですし。

今日は気分を盛り上げるために、お気に入りのオペラから気に入った曲を集めてプレイリストを作ってみました。会社で疲れたら昼休みにこれを聴いて心癒す予定。

とりあえず、

  • シュトラウス「ばらの騎士」最終幕をガランチャの歌声で。
  • ドミンゴの「道化師」
  • シュトラウス「カプリッチョ」の「月光の音楽」以降をヤノヴィッツの歌声で。
  • パヴァロッティとフレーニ幼なじみコンビによる「蝶々夫人」第一幕最終部。
  • 同じコンビの「ボエーム」の「私はミミ」。
  • 蝶々夫人のインテルメッツォをカラヤン盤で。
  • マノン・レスコーのインテルメッツォをシノポリ盤で。
  • と来れば、カヴァレリア・ルスティカーナのインテルメッツォをカラヤン盤で。

みたいな、少々日和見てきなプレイリストができあがりました。これ、今も聴いているんですが、いいっすねえ。

そうそう、昨日、ハイティンクのシュトラウス、ブルックナー、マーラーを入手しました。ハイティンク・マイブームですので、明日からが楽しみです。

Opera

 1日遅れのエントリーになりましたが、昨日は、新国にて「オテロ」を観てきました。

いやあ、ルチオ・ガッロさんは、凄いですわ。この方は、2007年の「西部の娘」で新国に初登場し、その後2008年のドン・ジョヴァンニで再登場。そして今回のオテロでは、イアーゴ役。この方、まずは声が素晴らしくて、ぬらりと光るつややかなバリトンなのです。ピッチが安定しているのは当然として、さらに声量がある。なにより、悪役としての確固たる存在感でして、イアーゴ役としては申し分ない世界クラスです。東京でこうした方のパフォーマンスを観ることができるとは、本当に良い時代だと思いました。私はこの方のスカルピアを聴いてみたいです。

オテロ役のステファン・グールド氏も、ドラマチックで正確無比な歌でした。声量がもう少し欲しいかなあ、と言う気がいたしましたが、そんなに大きな問題ではないかと。デスデーモナは、たしかノルマ・ファンティーニが当初予定されていたキャストでしたが、タマール・イヴェーリさんに交代。この方、若いと思うのですが、全く問題を感じさせません。若々しく明るい美しい声。デズデーモナのイメージにぴったり。

演出的には、舞台設定がキプロスであるにもかかわらず、ヴェネツィアの風景が基底にある感じ。運河あり、太鼓橋あり。しばし郷愁を感じました。運河には水が張ってありまして、キャストが浅い運河に足を踏み入れる場面も。それから、水面に光を当てることで、舞台全体に水面の反射するゆらめきが現れて、これがまた美しい。良かったです。

私は、イアーゴが酒を飲みながら独唱する1幕のところで、ルチオ・ガッロさんの素晴らしいパフォーマンスに涙が止まらなかったですよ。別段泣くような悲しい場面ではないのですが。あの瞬間、私にとっては大きな美的な理念が立ち現れていたように思います。こうした瞬間を味わえるのもオペラならではかと。カタルシスとも言えましょうが。

次のオペラは11月の「魔笛」。10月には、N響定期でプレヴィンの家庭交響曲と、カプリッチョ終幕を聴く予定。

Miscellaneous

http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/09/18/4.html

 

今年の富士山登山者は29万人とのこと。8合目以上なので、頂上到達はもう少し少ないかもしれません。

それにしても、富士山のことをいろいろ思い出しました。

エライキツイ山ですが、五合目までは交通機関が整備されていることもあって、私のような普段あまり山に登らない方々もチャレンジできるわけです。チャレンジできるのはいいのですが、あまりに軽装で登っておられる方には驚いてしまいます。ほとんど手ぶらで登っている方、急に雨が降ったら、低体温症で死ぬ危険がありますし、エネルギー不足で動けなくなったらどうされるのでしょう、などと心配することしきりでした。

それから、もういたるところで、人がゴロゴロ転がっていてぜいぜい息をしている。おそらくはオーバーペースとか、気圧低下にやられているんでしょうけれど。さらに、頂上でも、やっぱり人がゴロゴロ転がっている。霧の中寒風吹きすさぶなか歩いていくと、霧の向こうに、赤や青の登山ウェアが累々。。。一般人にとっては本当に過酷な山です。

それからもう一つ。意外にマナーが悪い登山客が多い。ペットボトルなんかが結構捨ててある。ですが、すれ違った方の見解に依れば、まあ日本人があそこまで酷いことをすることはなかろう、などとおっしゃる。そうかなあ、と思ったのですが、もう一つのエピソードを思い出して、さもありなむ、と思いました。

三島駅から富士宮口へ向かうバス乗り場でのこと。私は列の一番前に経っていました。列は道路に平行して伸びていたのですが、バスが到着した途端驚くべき事態が。

バスの扉が開くと、並び列が一気にバスの方へ平行移動した!!

まじっすか。。。

最初に並んでいた私も慌てて乗り込もうとしたのですが、すでに出遅れていて、危なく座れなくなるところでした。バスは2時間の行程でして、立ったままでそのまま登山は厳しいっすよ。

で、本当に残念なんですが、8割ぐらいが外国の方で、まあ、日本のマナーのようなものをご存じなかったんでしょうね。あるいは、日本人も率先して平行移動したのかもしれませんが。

1をみて10を知ったと思うなかれ、と言う言葉を胸に刻み込みましょう。